◎昔の養老牛
 シュワン(標茶町虹別)のアイヌ榛孝太郎エカシ(族長)の話では、養老牛温泉はアイヌの人たちが400年以上前(1600年代)から利用していたとのことです。
 1832( 天保3) 年ころ、松前藩士である今井八九郎が北海道の測量をした地図(東西蝦夷地大河之図)があり、その中に「ケ子カ(今の計根別のあたり)から3里半の場所にパウシベツ温泉がある」と書かれています。
 幕末から明治にかけて5回ほど北海道や樺太を踏査した松浦武四郎は、紀行文の中で1856 (安政3)年9月5日にワッカウイ(清里峠から緑に4キロ下ったあたり)からチライワタラ(標津川とポン俣落川の出会い付近)に向かう途中で昼食をとったカンチウシ川(養老牛のカンジウシ川)あたりでの見聞として「上にカンチウシ岳、その後ろに温泉有り。久摺(クスリ=釧路)のアイヌは総じて是に湯治する」と書いています。(東蝦夷日記)

◎明治時代
 1872(明治4)年に北海道が開拓使管轄下になり、根室出張所の松本十郎判官は7月に根室地方から北見地方へ巡回しています。ケネカを過ぎる途中に温泉への道があり、標津の人たちが入浴に行っていると記しています。
 養老牛温泉の初めての学術的調査が行われたことが確認できるのは、1874(明治7) 年のアメリカ人地質学者ヘント・ライマンの調査記録である「来曼北海道記事」です。ライマンは明治政府が北海道開拓のために設けた開拓使として北海道の地質や鉱床の調査をしました。
 明治7年9月2日朝、チライワタラを出発しワッカオイに着くまでの間でパウシベツ温泉(現在の裏温泉)と標津温泉(現在の表温泉)でそれぞれ温度、成分、泉源数や状態について調べています。
 このライマンの記録で興味深いのは、「浴盤にするために掘った穴が多数ある。アイヌと和人が来て入浴している。浴場のそばに茅屋がある。温泉の近くにイナオ(木の棒を削った御幣)が多数ある。」更に「根室の日本人がここに滞留している。」などと、この地のことを細かく書いています。
 その20年後の1894 (明治27) 年に開拓使の後身といえる北海道廰(現在の北海道庁ではなく内務省の出先機関)が泉質などの調査をしていて、その記録に「シベツ村アイヌが温泉のそばに小舎を営み浴客を待つ」「釧路国シュワン(標茶町虹別)、根室海岸など十数理の地より来浴する者あり。」とあり、このころは虹別シュワンのアイヌだけではなく、周辺のいわゆる和人も来ていたことがわかります。
 明治30年の道庁地理課発行の5万分の1「屈斜路湖」の地図にはパウシベツ川の奥に温泉マークがあり、標津川の奥には「ヨロウシ」の地名があります。

◎大正5年(1916年)~
  和寒村からの移住視察で根室管内を調査していた西村武重はここから15キロほど南西にあるシュワン(標茶町虹別)に住んでいたアイヌの榛孝太郎エカシ(族長)から温泉がすぐそこにあると聞きました。西村は当時の地図を見て温泉があることは知っていましたが、すぐそこの温泉は別の温泉だと思っていました。
 シュワンからまっすぐな踏み分け道が続いていて歩いているうちに日が暮れてしまいましたが、猟銃を持っていたことと若さも手伝って怖いものなしで夜空の山影と固くなっている地面を踏む足の感覚を頼りにいくつもの川を渡り今の裏温泉にたどり着きました。
 見渡すと、小高い所には細木を何十本も並べた祭壇があり、地上1メートルほどの壇上にはクマの頭骨が50~60個も並び、若木を上手に削った新旧の木幣(イナウ)が何十本も立てかけてありました。これはクマ送りの祭壇であり初めて見た西村は、「実に荘厳で神秘的なものだった。」と記録しています。
 思いがけなかったのは、そのとき裏温泉には人が2人もいたことです。一人は根室から羅臼にかけて海岸線の沿いの村で石臼の目立てをして生計を立てていた大川という老人で、胃を壊して湯治に来ていました。
 もう一人はラウシというアイヌのチャチャ(威厳のあるアイヌの老人の呼称)で、若いころから根室、釧路、網走、北見を渡り歩き、これまで300頭以上のクマを仕留めたとのことで、このときも旅の途中だったようです。
 翌日、大川老人に勧められひと山越した表温泉に行きました。その時に地形的にも湧出する温泉の量からもよい温泉だと直感したようでした。
 クマ送りの祭壇はここ(旧花山荘の玄関付近)にもあり、クマの頭骨が三百数十個、新旧散乱していました。榛孝太郎エカシの話では、そこは300年以上前から利用されていて、榛エカシの時代は主に裏温泉を利用していた。シュワンコタンの人たちは春の彼岸頃に20人くらいづつ交代で湯治に来て、男は猟銃を持ちクマを捕りヤマベを釣り、女はオヒョウ、イラクサを温泉につけてアッシ(アイヌの織物)を織っていました。
 1917( 大正6)年7 月に再び温泉を訪れた西村は、湧出する湯を石油缶に入れ持ち帰り、温泉許可の申請をしましたが、容器が金属であることから分析に至らず数十日の旅程は徒労と終わりました。大正8年にはビール瓶12本に湯を入れ持ち帰りましたが、トウモロコシの芯で栓をしたため再び分析には至りませんでした。大正9年、ガラス容器にコルクで栓をして三度提出し、ついに分析成績書が発行されました。鉱泉使用願いを出し許可を得たのは翌大正10年のことでした。
 西村はこの間に温泉旅館の建築にかかる一方で、俣落から温泉までの国有林地8千間(14.5キロ)、幅1間(1.8メートル)を根室営林署より有償で借受け馬車道を私費開通しました。しかし、この道路だけでは不十分と考え、大正9年ころから現在の46線道路開発のために釧路土木事務所あてに「温泉道路開発願」を毎年出しました。1927(昭和2)年に測量が行われましたが、実際に道路が完成したのは昭和7年のことでした。

◎大正から昭和
  旅館を始めたころあまり利用者はいませんでしたが、入植が盛んになる1929 (昭和4) 年には根室町の坂本与平が養老牛温泉株式会社を作り標津村屈指の建物といわれる大一旅館を開業しました。昭和5年に小山卯作が小山旅館を開き、翌6年には裏温泉に堀口温泉旅館、さらに昭和8年に坂本与平が大一旅館を譲り別に坂本旅館を建築開業しました。
昭和7年冬 手前が養老園、川向う左が小山旅館、右が大一旅館
 1937(昭和12)年の「北海道温泉案内」には「付近在住者の花見観楓及び閑散期における慰安湯治と冬期スキー客の程度なりしも、近年広く一般に知られ遠来の客も増加しつつある。」とあり、旅館については「旅館は六戸あり、各戸共湯滝および大プールの設備あり。宿泊1泊1円20銭~2円50銭、自炊の便もある。」と書いてあります。当時は土産品としてワラビ漬やラジウム羊羹を売り出していたそうです。
 しかし、第2次世界大戦がはじまると客足が遠のき、1942(昭和17)年に西村、坂本、堀口の各旅館が相次いで廃業し火の消えたような状態になってしまいました。

◎昭和の華やかな時代~現代
 戦争が終わり世の中が安定すると、1957 (昭和32) 年に釧路市の藤村敏一が花山荘を建築開業しました。当時の養老牛温泉の名を知らしめる有名な旅館で、赤い門柱があり女中衆が並んで出迎えをする格式のある旅館でした。西側の一段下がった場所には池があり大きな鯉がた
くさん泳いでいました。
 続いて1965(昭和40) 年に藤林てるが藤屋旅館を開業しました。この年には養老牛青年の家も設置されています。昭和47年に裏温泉に山田林業保養所(グリーン養老牛)、昭和49年に町の老人保養施設「福寿園」が設置され、裏表あわせて7軒の宿がありました。
 1978(昭和53)年に養老牛野外スポーツ林が設置されフィールドアスレチックがオープンしました。1984(昭和59)年に山田洋二監督の映画「男はつらいよ~夜霧にむせぶ寅次郎」の撮影が当地で行われ、山田監督や倍賞千恵子さんの定宿にもなっていました。
 このころは阿寒バスが計根別市街から温泉まで運行され、売店、スナックなどもあり温泉祭り(のちの紅葉まつり)も開催されるなど最高潮の賑わいを迎えた時期でした。
 しかし、時代の変遷とともに、1985(昭和60)年に青年の家、平成8年福寿園が廃止され、2003 (平成15) 年に花山荘が46年の歴史に幕を下ろし、2014 (平成26) 年には旅館藤やが廃業し、現在はホテル養老牛と湯宿だいいちの2軒宿となっています。

第12回養老牛温泉紅葉まつり(昭和53年)
第14回養老牛温泉紅葉まつり(昭和56年)




養老牛温泉旅館組合
【湯宿 だいいち】 〒088-2684 北海道標津郡中標津町養老牛518番地 TEL:0153-78-2131

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