和寒村からの移住視察で根室管内を調査していた西村武重はここから15キロほど南西にあるシュワン(標茶町虹別)に住んでいたアイヌの榛孝太郎エカシ(族長)から温泉がすぐそこにあると聞きました。西村は当時の地図を見て温泉があることは知っていましたが、すぐそこの温泉は別の温泉だと思っていました。
シュワンからまっすぐな踏み分け道が続いていて歩いているうちに日が暮れてしまいましたが、猟銃を持っていたことと若さも手伝って怖いものなしで夜空の山影と固くなっている地面を踏む足の感覚を頼りにいくつもの川を渡り今の裏温泉にたどり着きました。
見渡すと、小高い所には細木を何十本も並べた祭壇があり、地上1メートルほどの壇上にはクマの頭骨が50~60個も並び、若木を上手に削った新旧の木幣(イナウ)が何十本も立てかけてありました。これはクマ送りの祭壇であり初めて見た西村は、「実に荘厳で神秘的なものだった。」と記録しています。
思いがけなかったのは、そのとき裏温泉には人が2人もいたことです。一人は根室から羅臼にかけて海岸線の沿いの村で石臼の目立てをして生計を立てていた大川という老人で、胃を壊して湯治に来ていました。
もう一人はラウシというアイヌのチャチャ(威厳のあるアイヌの老人の呼称)で、若いころから根室、釧路、網走、北見を渡り歩き、これまで300頭以上のクマを仕留めたとのことで、このときも旅の途中だったようです。
翌日、大川老人に勧められひと山越した表温泉に行きました。その時に地形的にも湧出する温泉の量からもよい温泉だと直感したようでした。
クマ送りの祭壇はここ(旧花山荘の玄関付近)にもあり、クマの頭骨が三百数十個、新旧散乱していました。榛孝太郎エカシの話では、そこは300年以上前から利用されていて、榛エカシの時代は主に裏温泉を利用していた。シュワンコタンの人たちは春の彼岸頃に20人くらいづつ交代で湯治に来て、男は猟銃を持ちクマを捕りヤマベを釣り、女はオヒョウ、イラクサを温泉につけてアッシ(アイヌの織物)を織っていました。
1917( 大正6)年7 月に再び温泉を訪れた西村は、湧出する湯を石油缶に入れ持ち帰り、温泉許可の申請をしましたが、容器が金属であることから分析に至らず数十日の旅程は徒労と終わりました。大正8年にはビール瓶12本に湯を入れ持ち帰りましたが、トウモロコシの芯で栓をしたため再び分析には至りませんでした。大正9年、ガラス容器にコルクで栓をして三度提出し、ついに分析成績書が発行されました。鉱泉使用願いを出し許可を得たのは翌大正10年のことでした。
西村はこの間に温泉旅館の建築にかかる一方で、俣落から温泉までの国有林地8千間(14.5キロ)、幅1間(1.8メートル)を根室営林署より有償で借受け馬車道を私費開通しました。しかし、この道路だけでは不十分と考え、大正9年ころから現在の46線道路開発のために釧路土木事務所あてに「温泉道路開発願」を毎年出しました。1927(昭和2)年に測量が行われましたが、実際に道路が完成したのは昭和7年のことでした。