2008年 4月 19日 (土) 19:55
昨年の暮れ、何度目かの東京往復の時に、トラックに荷を積もうとして左手首を強打、見事に腕時計のバンドがぶっ飛んだ。
以来、私は腕時計をしていない。
生活に不自由があるのではと聞かれたら、おそらく嬉しそうな顔でこう返事をするだろう。
「いいえ、まったく問題はありません。これまで、あの小さな計器に、いかに心を縛られていたか、よく分りました」
今の時代、これは贅沢の一種かも知れない。
通勤の電車に乗るわけでもない。営業時間を気にする必要もない。笑顔で見つめ、尾を振ってくる連中と会話をし、食べ物を与え、ウンコを始末する日々。後ろから追い掛けられるような切迫感とは無縁になった。
けして仙人になったわけではない。現実を見ると、100に近い生きものたちを空腹にさせないために、ギリギリの暮らしを続けている。大勢の皆さんの応援をいただき、そのおかげでなんとかなっている状況は早く打破しなければならない。
でも、時計は不要なんである。
飯の時間は、何かというと食べ物を要求する自前の腹が、そろそろ限界ですよと知らせてくれる。時には犬やネコたちが、彼らなりの態度で示すこともある。
あきる野で犬の相談を受けた時に、たまには餌や散歩の時間を変えるのも良い効果がありますよ、と話してきた。
まさにそれは真実だと、今、自分の暮らしの中で再確認をしている。いつもより遅れた食事のなんと美味なことか、、、。
太陽や風も時刻を知らせてくれる。
まるで原始人のようだが、傾いた陽光や、風の変化でおよその時間を知り、行動の基準となっている。これは犬ネコたちとぴったり合うので面白い。彼らは人間のすぐ横で生きてはいるが、地球そのものと共生する能力をけして失ってはいない。
鳥インフルエンザが発生した大規模養鶏場では、夜間照明を行なっている所も多いと聞いた。地球のリズムに背くことは、思わぬしっペ返しに繋がるのだろう。
もうひとつの大きな変化はラジオをよく聞くようになったことである。
生家にTVが入ったのは、たしか小学5年生の頃だった。それまでは祖父と一緒に、よくラジオで相撲や落語、浪曲を聞いていた。
鉱石ラジオを作ったり、真空管のラジオを解体、組み立てと、自作のラジオから音が聞こえた時の感激は、今も忘れる事ができない。
犬たちと散歩をしながら、時にはパソコンに向って仕事をしている時、そこに流れているのはNHkの第一放送かNHkFMだ。よほどのことがない限り(プロ野球中継など)、民放にダイアルを合わすことはない。あのかしましさが苦手な年齢になったのかも知れない。
NHkの放送の良さは、日本各地の情報の汲み上げである。それを他の仕事をしながらチェックできる気軽さが嬉しい。ただ願う、NHkのアナウサーが、民放の真似をしないことを、、、。
こう書いてみると、何か浮き世離れをしたように思われるかも知れない。
それは否定させていただこう。
このような時間の枠から外れた日々の暮らし。そこからは、湧き出るようにアイデアが生まれ、これまでの生きものたちとのドラマが蘇ってきている。
今、私は、それを形にする作業に没頭している。
そう、左手に視線を配ることもなく。
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<写真説明>
彼らも枠を飛び出し、思うがままに原野の暮らしを楽しんでいるらしい!
エニセイ、ワリーナ、私に視線を合わせないと言う事は、、、。
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