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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2002年07月31日(水) 天気:曇りのちまた霧雨 最高:25℃ 最低:16℃


 7月も最後の日になった。予報を裏切り、今日も芳しい天気にはなってくれなかった。予定では、乾燥していた牧草を機械でコンパクトなサイズに固め、それを人力で牧草庫に積み上げるはずだった。しかし、昨日の雨による湿気を乾かすほど太陽は出てくれなかった。おまけに午後からは霧雨が落ちて来た。
 緊急の手段として、牧草大臣のツンちゃんと西條氏は、1個の重さが300キロを超える、大きな牧草ロールを作り、それをビニールでくるむ作業に切り替えた。最高の物にはならないが、雨がきても何とか品質を維持できるようにとの対策である。

 いつもの夏なら、すでに10000個のコンパクト牧草の収穫が済んでいる頃である。しかし、今年はすべてロールになっている。ロールの時は、力仕事は全てトラクターが行うので、助っ人は楽だが、やはり、汗をかき、筋肉の痛みがあってこそ夏である。

 犬たちと毎日通っている当幌川への道も、8月が近いと気づいたのか、急に雰囲気が変わった。
 つい5日前、王国祭りに来られた皆さんと行った時には、林の中で、その白い大きな花を主張していた『オオウバユリ』が、ほとんど葉も花も落とし、緑色の種袋だけが真直ぐに空を見上げている。
 もちろん、ハシドイは、白い花も、その香りも消え、小さな種が集まって枝先にしがみついている。日だまりの広場のチモシーは穂先から花粉を飛ばし、オーチャードグラスの葉先は黄土色になってきた。
 
 元気に花を咲かせているのは、淡いピンクのホザキシモツケである。香りは感じないが、一固まりのブッシュになり、その上に花を乗せている光景は、なかなか美しい。
 
 ヤギのメエスケが大好きなトリアシショウマの白い花も、いつの間にか焦げ茶色になっていた。こうなると茎も固くなり、メエスケもあまり食べてはくれない。

 そうそう、紫の小さな花が順序よく並んで下がっているツリガネニンジンも満開になった。風が吹くと、ゆるやかに揺れて、可憐な音が聞こえてきそうな気がする。
 紫と言えば、本命のトリカブトを忘れてはいけない。女房の観察によれば、5月の暖かさで丈が伸びたが、その後の低温と雨不足で、葉と蕾の生長がいまひとつだったらしい。
 確かに、まだ満開のものは見当たらない。それでも、我が家の庭先の数本が、かすかに紫色を覗かせている。私の大好きな花である。もちろん、眺めるだけだが......。
 赤紫はヤマハギである。こちらもわずかに蕾が開きかけている状態だ。

 10日ほど前に、かすかに林から聞こえたセミの声が止まっている。カボスの小屋の隣にあるダケカンバの木は、毎年、少なくとも10匹は羽化に使うのだが、この夏はまだ抜け殻を見ていない。庭を徘徊しているコッケイたちやカラスの大好物なので、食べられてしまった可能性もあるが、それにしても声を聞かないのが気になる。

 今日も、本州各地は記録的な暑さとのニュースが届いてきた。指をくわえて眺めているうちに、北の夏は通り過ぎてしまうのだろうか.....そんな心配も出てきた7月末日だった。



2002年07月30日(火) 天気:雨のち晴れ 最高:24℃ 最低:16℃


 『イシカワさんは、いつも明るいですね〜』
 
 先日、若い女性にそう言われた。嬉しくもあり、何か単純なようでもあり、少し心が揺れた。
 では、たまには沈思黙考....男は眉間にシワ....顔面に力を入れてみたら、

 『煙たいのなら、くわえタバコはやめたら、咳きも出てるし....』
 と女房から、的外れな言葉が吹っ飛んできて、私のオデコに当たり、縦て皺ではなく、オサルさんのような横皺ができてしまった。そのうちの1本、もっとも太いのは、幼い頃に、近所の兄さんがナタで薪割りをしているのを正面で見ていた時に、柄から抜けたナタが飛んできて当たった記念の傷だった。
 確か、冬だったと思うが、6キロの道を父に背負われて外科の病院に行った事を鮮明に覚えている。
 私が、肉体的に父の背のぬくもりを感じた唯一の記憶である。

 今、その皺が目立たないほどに、周囲に同じような物が増えてきた。何となく、父との思い出が薄くなっていくようで寂しい気もしている。

 さて、私にだって『鬱』の時もある....と頑張って、形、ポーズから入ろうとしたが、女房すら認めてくれない。もう、内気に戻るのはあきらめ、あるがままで行こうと決めたら、これが、実に楽な事で、肩の力も心の力も抜け、どんな方との出会いでも、嬉しく感じられるようになってしまった。
 郵便を配達してくるオジサンに、子犬の自慢をし、宗教の布教の方には、持論を展開して、どちらが折伏しているのか判らない状況になってしまう。
 
 年を重ねて、1年丸ごと『躁期』になってしまった私とは違い、子犬や子ネコは、1日のリズムの中で『躁鬱』が実にはっきりとしている。もちろん、病的な躁鬱とは意味が違うのだが、状態の例えとして使わせて頂こう。
 
 昨夜は、6時間に渡って三毛ネコのエの4匹の子ネコたちを観察した。6月21日に生まれ、まさにワンパク期に入ろうとしている連中である。
 
 私が、コーヒーとテレビのリモコンを手に、ソファに横になった時、4匹は床の上で母親の乳首に吸い付いていた。
 やがて満腹になったのだろう。気温が高い事もあり、眠り始めた子ネコから身体を離そうと、エが静かに立ち上がった。背伸びをした後、水を飲み、別の所で乳首を舐めて清掃をしながら横になった。

 子ネコは母親が消えても、同じ姿勢で固まって寝ていた。
 30分後、もぞもぞと4匹が動き出した。なるべく他のネコを布団にしようと、交互に上に這い上がっている。
 そして、15分.....『みお』と名の付いているホンワカとした子が、サバトラの子の先の曲がった尾に前足で遊びパンチを出し始めた。それが合図のように、4匹すべてが目を覚まし、それぞれにじゃれ始めた。
 やがて、茶トラが、もう知っていますよ....とでも言うように、大人のネコたちのための砂トイレの直進して行き、その隣に敷いてある、新聞紙の仮設トイレでオシッコをした。一人前に、小便が終わった後、前足でカキカキをするのが可愛い。
 ウンコとオシッコは感染する。残りの3匹も、大人のトイレや、もうひとつの仮設トイレであるソファの下に置いてある新聞紙の上で、上手に用をたした。

 さあ、出る物が出たところで、完璧に『躁期突入』である。このところ、子ネコたちが楽しみにし始めていた大人ネコの尾を狙う遊びは、その相手が女房とともに2階の寝室に行っているのでできない。
 そこで新たに見つけたのが、ドデ〜ンとソファで横になり、ビデオで映画を視ていた私である。イヤ、私の身体と言うべきだろう。
 最初に、茶トラがよじ登って来た。その動きを見て、残りの3匹も上がって来た。
 子ネコの時期は、爪が細く鋭く、よく物に引っ掛かるように出来ている。4匹はドッグレッグしているソファを前足の爪だけで登り、その後、私の身体に爪を掛けた。
 
 『痛〜〜〜い!!』
 
 思わず、声が出てしまうほどに、彼らの爪は鋭い。こちらはトレーナーのズボンにTシャツである。たちまち、あちらこちらに傷が付いてしまった。
 それでも、可愛い連中だからと、我が身体をジャングルジムとして提供していると、今度は、服の下が気になってきたらしい。シャツの襟元、ズボンのゴムの所から侵入を企て始めた。
 くすぐったいのに、時々爪の痛みが加わり、とても映画どころではなくなった。さて、どうしたものかと考えた時に、4匹の動きが、私の背とソファの間で、ピタリと止まってしまった。
 そっと身体を起こして覗くと、4匹は1直線になって、全身を伸ばし、眠りの中に入っていた。

 遊び始めから45分、彼らの『躁期』は終わっていた。
 次に行動が始まったのは、2時間の睡眠の後だった。それまでは、私がつまもうが、抱えてずらそうが、大きな音でオナラをしようが、眠気には勝てないようで、すぐにマブタが閉じていた。

 この眠りこそが、子ネコたちの成長のための貴重な時間だと思う。なんびとも、子犬、子ネコ、そして人間の子供たちの眠りを妨げてはならない......そう言えるだろう。



2002年07月29日(月) 天気:曇りのち雨 最高:21℃ 最低:15℃


 王国祭りの来られた皆さんが帰られたら、とたんに重い雲が根釧台地を覆ってしまった。おまけに夕方からは雨......明日、梱包する予定の牧草が濡れてしまった。雨に当たるたびに(刈り倒した後で...)品質が悪くなっていく。どなたかを(晴れ女?)足止めしておくべきだった!!

 珍しく、訪問者のいない日と言う事で、懸案の『バルト・群れ仲間入り作戦』を行った。
 バルトは昨年の春、成犬として我が家にやって来た。レオンベルガーという大物犬種のオス、痩せてガリガリではあったが、それでも体重は50キロはあった。

 サモエドのマロを頂点に、我が家の犬たちは完璧なヒエラルキー社会を作っている。当時、15、6匹の群れには、タマ付き(去勢をしていない)のオスが5匹存在し、微妙な力関係の中で、日々の平和を維持していた。
 ここに成犬のオスを加える事は、私が100メートルを10秒で走れと言われるようなものである。まず成功は難しい。
 しかし、私の尻にロケットエンジンを付ける事が可能かも知れないのと同じように、バルトも時間と手法によっては、何とかなるのでは....そう思うのが、私の悪いところだった。

 以来1年と数カ月、随分と変化があった。かなり見通しが明るくなってきたのである。
 その大きな理由は、バルトが大型愛玩犬種だった事である。これが柴や秋田犬だったら、すぐに流血沙汰である、私は最初から隔離する事しか考えなかったろう。
 しかし、レオンベルガーは番犬、闘犬等の歴史を持っていない。ただただ、人間に可愛がられる存在だった。これは大型犬種では珍しい事である。
 つまり、レオンベルガーは何かを守ろうと言う意識レベルが低いのである。そして挨拶も上手い。この点ではラブやゴールデンのオスと似ている。王国で、成犬で群れの中に加わる事が出来たのは、小型愛玩犬種以外では、このレトリバー2種だけである。

 バルトの群れ馴致作戦は、まずその存在を示す事から始めた。20坪の隔離柵に入れ、その隣の柵にメス犬たちを交代で入れた。間は金網なので、互いの姿や匂いを確認する事ができた。
 ころ合いを見て、今度は人間立ち会いのもと、メス犬たちと実際に合わせた。見事に匂い嗅ぎ挨拶を行い、そして前脚を揃えてバタバタと大地を叩く、遊びの誘いを示してくれた。
 これで、メス犬たちとはOKである。異性のケースではどんな犬種でも、まず問題はない。

 そして対オスである。
 まず、マロたちの散歩コースを、バルトのいる柵の横を通過する方向にした。マロもシバレも、そしてタドンもカザフも、横を通る時は、声も出さず、視線も送らない。
 しかし、彼らが極度の緊張の中にいる事は、倒しかけた耳、立っている肩の毛で明らかだった。意識しているからこそ、あえて無視しているような行動を取っていた。
 これは、相手が柵の中にいる.....と分っているからである。その証拠に、試しにバルトを柵の外に出し、繋いでおいたところ、先住のオス犬たちは、不思議な連帯感で結びつき、全員でバルトに向かって吠え出した。

 時間がかかるな〜!!
 それが昨年の5月の感想だった。
 しかし、ちょうど発情が来たメスのベルクと結婚をさせた頃から、全体の雰囲気が変わった。我が家の群れ社会で、マロの次に位置していた(現在は2番手はカザフになっている)ベルクが認めた事で、バルトも頼れる存在が見つかり、落ち着きが出てきた。重ねて、ベルクの尻に敷かれたバルトは、より下手挨拶に磨きがかかった。
 私は、繋がれているマロに、これまたリードを付けたバルトを会わせてみた。昨年の秋の事だった。
 マロは尾を振りながらバルトの口先に鼻を寄せ、そして尻を嗅いだ。バルトは緊張をしながらも、ゆるやかに尾を振り、マロのチェックに耐えていた。マロの口が尻から離れると、嬉しそうに跳びはね、ガウッ、とマロに一言叱られてしまった。

 これでマロに認められた。そうすると、シバレやタドンなども、私の一声で、バルトに対する吠え声が収まるようになっていった。
 残っているのが、野心まんまんのカザフである。頂点を目指し、父親のマロに3度にわたって奇襲をかけたが、3回ともに返り討ちにあっていた。以来、マロに対して唸り声を出してはいるが、けして3メートル以内には近づかない。
 そこにバルトという新手のライバルのようなオスの出現である。カザフは面白くない。私が連れて庭に姿を見せただけで、猛烈に吠えていた。1度、2メートルまで寄せたところ、鼻に皺、犬歯むき出し、肩はふくらみ、鬼の形相になってしまった。
 相手に、そこまで反応されると穏やかなバルトも対抗せざるを得ない。私を意識しながらも低いうなり声を出していた。

 以後、とにかく姿を見せる作戦だけを行ってきた。カザフが繋がれている時に、バルトと散歩をするのである。時には、ベルクだけではなく、他のメス犬たちやセン、カボスなども同伴させてきた。
 これはカザフに対して効果があった。
 最初は、焼きもちを灼き、より酷くなるのではとも考えたが、実際は逆で、仲間たちが認めたやつならしょうがない、マロと同じように、俺から近づかなければいいんだ.....と、自己を卑下する事なく、相手が出しゃばらなければ、意識しての無視という認め方をするようになった。

 今日は、もう一歩、前進するために、バルトをカザフの鼻先に連れて行った。
 吠えはした、しかし、以前のように鼻に皺はなかった。バルトも、私に連れられているから、やむなくカザフの前にいるけれど、できれば面倒から離れていたい.....そんな動きを示していた。
 これならば、近いうちに、どちらかをフリーにしての散歩も可能になるのでは、そんな気がした今日のトレーニングだった。



2002年07月28日(日) 天気:快晴 最高:23℃ 最低:10℃

 <27日の日記・・パート2>

 昨夜は、日記の途中で寝てしまった。どこまで書いたのかと、今、読み直し、何とか文章になっていたのでほっとしている。

 さて、続きである。
 アザラシのカムのプールから離れ、皆さんは馬の放牧地側に出た。足元には馬のウンコがいっぱい落ちている。でも、どなたも顔をしかめず、平気な様子で歩を進めていた.....私はニコニコ笑顔で眺め、この方たちは逞しく生きるパワーをお持ちだ!!と、嬉しくなった。
 高橋氏が大きな声で、300メートルほど離れた沢の向こうで草を食べていた馬を呼んだ。

 『ポ〜ポ〜ポ〜!!』

 一斉に馬たちが首を上げ、声の方向を確認するように見つめていた。やがて、子馬を連れた馬たちから、ゆっくりと動き始めた。毎日、世話をしている人間の声は、見事な効果を上げるとともに、群れの生き物である馬は、リーダー的な1頭が動作を始めると、すべての馬が同調する。このようにして、群れ全体を守ってきたのだろう。

 30頭ほどの馬たちが柵際までやってくると、皆さんが手を伸ばして触り始めた。
 『手をゆっくり動かしてね、急な動作をすると、馬は臆病だから驚いたり、逃げてしまうよ〜』
 高橋氏の適切な指示が出ている。

 馬も匂いでの確認を大切にしている。初めて会う皆さんの皮膚が露出している部分、つまり手に鼻を寄せ、穴を大きく開いて嗅いでいる。
 小柄なドサンコ、大きな尾根(ペルシュロン)、そしてドサンコとペルシャンアラブ(ベンハーなどに出ている、古い名馬)をミックスして作出している連中が、柵から首を懸命に伸ばして人間の手を求めていた。この人懐っこいところも王国の馬の特徴である。

 『柵の中に入っても大丈夫だよ〜、ゆっくりね!!』

 高橋氏の言葉に、皆さんが柵を乗り越え、くぐって馬の群れの中に入った。少し気の弱い子馬は母親の陰に身を隠し、好奇心があふれている子は、人間を追い掛けて、時にはジャレ噛みをしていた。

 大きな生き物との対話は、時間を忘れてしまう。気が付くと昼食の時間が迫っており、その後、ツキノワグマのロッキーに会いに行く予定だったが、中止とさせて頂いた。帰りのバスの中から見てもらうことにした。

 一応、手を洗う事のできる水道施設の案内はさせて頂いた。しかし、半数以上の方が、そのままの手で、王国特製のカレーを食べて下さった。
 これまた、素晴らしい事である。
 実は、様々な実験で確かめられているのだが、私たちが普通に行っている手の洗い方では、かえって問題が残る事が多い(常在菌が消え、濡れたところに、あらたに他の細菌等が付くなどの....)。乾いているのなら、そのままの手で食べたほうが清潔と私は言い切っている。

 快晴の空の下、犬たちの『欲しいよ〜攻撃・・主に瞳による、時には口も出て来る)訴えから肉片を守り、無事に自分の胃にカレーを収め、午後は、本日のメインイベントである、海への散歩になった。
 参加をする犬は、母屋グループ、オス柵グループ(アキヤグループ)、そして高橋家グループの合同になる。
 ゲートを1歩出ると、あれほど王国内ではピリピリとグループ間で牽制をし、緊張を走らせていた連中が、3群仲良く入り交じって海への道を急いで行くのである。
 これもまた群れ型生き物である犬、そしてナワバリを持つ犬の特徴である。テリトリーの圏外に出た時、そして人間とともに仕事(彼らには散歩も仕事である)をする時は、ヒエラルキーを飛び越えてしまうのである。

 『うわ〜冷たい!!』

 犬たちが楽しそうに太平洋で泳ぐのを見て、後を追うように水に入った子供たちが叫んだ。それはそうである、この辺ではどんなに海水温が上がっても14度である。従って、遠浅なのに地元の人たちは、昔から誰も海水浴はしていない。魚やコンブ漁の町でありながら、舟から落ちて亡くなる漁師さんも多く、水泳をマスターしてもらう為に、町には無料の温水プールがある。

 ボール、フリスビーなどを波に向かって投げると、少なくとも10匹の犬たちが一斉に泳いで行く。砕ける波頭を越えるように海中でジャンプをする姿は、見事と言うしかない。
 子供たちも大人の方も、何度もボールを投げ、犬と同じように海を楽しんだ。
 感心するのは、泳いでボールをくわえてきた犬が、必ず人間のもとに運んで来て、誉められ、ヨシッと言われれば、ボールを人間の前に落とす事である。
 『さあ、もう一度投げて、また仕事をするから.....』
 そう言ってるのである。

 たっぷりと海で遊び、急な坂道を息を切らして登り、冷たい麦茶で喉をうるおすと、もうお別れの時間となっていた。皆さんは、バスの窓越しにいつまでも手を振ってくださった。

 いつの日か、また一緒に楽しむ事ができる時まで、つかの間の別れである。バスは霧多布湿原センターに向かい、そこの展望室の望遠鏡から3羽のタンチョウを確認した。
 
 中標津、浜中......2日間の出会いの時は、あっという間に、そして楽しい中に終わってしまった。
 皆さん、お疲れ様でした。


 <ここからは、本日28日に日記です>

 雲一つない快晴の1日だった。風も爽やか、軽く汗をかきながら青空の下で心地よく身体を動かした。
 
 しかし、私の心は東京に飛んでいた.....。
 冬に亡くなられた、私がたいへんお世話になった方の『想い出の会』が、今日、親しく御付き合いを頂いていた皆さんが集まって開かれていた。音楽の大好きな方だったので、きっと仲間の皆さんの演奏や歌があふれた集まりになった事だろう。
 王国に加わり、仕事を通してのOさんとの出会いから25年にはなる。数え切れないほどのアドバイスを、そして激励と叱責を受けてきた。
 今日の集いに出席できなかった事を、心の中でお詫びしながら、青空の下で私を見つめ、問いかけてくる犬たちに、

 『大切な人を、元気に送ろうね、それが恩返しだ〜〜、よしっ、行くぞ!!川まで全速!!GO!!....さようなら、Oさん、ありがとうございました....!!』
 
 と叫んでいた。

 昨夜、女房は町の教育委員会が主催した『コウモリを見る会』に参加した。
 残念ながら、
 『見るカイ?』と言われたので『ハイッ、見ます』と参加をしたのに、講議の後の野外探索では、空振りに終わったらしい。
 我が家のサーチライトには来ていたので、家で開催すれば良かったと思ってしまった。
 しかし、この地域の情報をたっぷりと聞いてきたので、これからには役にたつ。勉強はどこかで必ず生きて来る.....これもOさんがよく言っていた言葉だった。

 王国祭りに参加をされた方は、今日、様々な交通手段で帰郷された。暑い所へ戻られ、体調を崩されないようにと祈っている。
 いつの日か、再びお会いし、元気な会話と遊びを、生き物たちとともに実行したいものである。



2002年07月27日(土) 天気:晴れ 最高:22℃ 最低:15℃


 夜半に、かなり強い雨の音で目が覚めた。これはマズイと思いながらも、ネコを3匹、布団に乗せたまま、再び眠りの中に入ってしまった。
 目が覚めると、東側にある廊下の窓から、強烈な陽光が差し込んでいた。布団の上のネコたちは、床の上の太陽の恵みの所で、手足を伸ばして寝ていた。

 2時間後、私は浜中の王国にいた。60キロ、やく1時間のドライブは、正面に真っ青な空と、輝く太陽を見ての行程だった。まだ大潮なのか、王国の下には、濡れた広い砂浜が現れ、白い湯気が上がっていた。

 昨日を中標津の牧場で過ごしたツアーの皆さんが、ニコニコ笑顔でバスから降りてきたのは午前10時、少し前の事だった。すぐに犬たちが集まり、尾を振りながら、歓迎の匂い嗅ぎをしていた。ゲストの方の中に、王国の犬を怖がる人はいない、皆さん、犬の驚かない、のんびりとした応対で、それぞれの犬の心を掴んでいた。
 大きな犬たちに顔をベロベロと舐められて、昨日は、少し泣いてしまった3歳のAちゃんも、今日は、かなり慣れたのだろう、結構、絶えて根性を見せてくれていた。わが子が舐められようと、けして騒ぎ立てない両親の姿が、私には心強く思えた。きっとAちゃんの心は、また1歩、前に進んだ事だろう。

 昨夜の雨だけではなく、このところの悪天候で、王国のいたる所に水たまりや、泥沼が出来ていた。足元を気にせずに行動ができるように、挨拶が終わるとすぐに、皆さんに長靴を履いてもらった。
 先ずは、王国内の探検である。
 最初に、最も古い建物であり、王国活動の中心的な役割を果たしてきた『母屋』前に向かった。独身メンバーが、それぞれの部屋に犬、ネコを多数同居させている所である。
 浜中のリーダーである高橋氏の説明を聞き、次に、かつてエゾシカやタヌキ、キツネにヤギなどが暮らしていた中庭に向かった。現在は、犬たちのトレーニングの場所となっており、アジリティの道具や隔離柵が置いてある。
 ここからの海の眺めは、王国の中でも1、2を争う。眩しいほどに輝く今日の海を見渡し、湾に浮かぶケンボッキ島を確認した。

 オス犬ばかりが生活をしている300坪ほどの空間は、犬をよく知っている方ほど不思議に思う所だろう。もちろん去勢をしていない犬たちが7匹である。ニューファンにレオンベルガー、ゴールデンにラブラドール、そしてグレートデンにキャトル、グレートピレニーズと体重の重い連中が集まっている。
 アキヤ君という男がいてこその社会であり、犬が人を見つめると言う事が、どのような事なのかを証明している。つまり、人が関わる事によって、犬どうしの微妙なバランスを、平和を前提に、確固たるものにできるのである。

 ツアーに参加をしていた小学生の子たちは、大きな犬が大好きになっていた。長い間、オス犬たちの側から離れようとはせず、高橋氏が、何度も次に行くよ....とい叫んでいた。

 道産馬のキチに会い(暴れん坊と言われた馬である)、心が穏やかなオジサンになったのを見て頂き、高橋家に向かった。
 このグループも30匹近くの犬がいる。ソリを引く連中が中心で、夏の間もタイヤ引きと走り込みを続けている。他にも大きなウルフハウンドや、小さなパグMチベタンスパニエルと、多彩な犬が暮らしている。
 人間が高橋家の庭に消えたので、母屋グループに犬たちが、もっと人間にかまって貰いたいと、後を追うようにやって来た。その時である、高橋家の犬たちが、一斉に吠え始めた。
 この二つのグループは、完全に別の群れである。目に見えぬ境界線が存在し、その周辺ではイザコザもよく起きる。従って、犬たちの吠え声が出た瞬間に、王国メンバーの声も飛び出す事になる。
 大声は、犬の心を落ち着かせる効果がある。ケンカを防ぐために私たちはよく使う手法である。

 別棟のプールで泳いでいるゴマフアザラシのカムは、保護をした時から世話を続けているアキヤ君が説明をした。初めて冬を王国で越したアザラシであるカムは、年が明けてから急に心の発達が進み、単に警戒をしたり、怯えるだけではなく、落ち着いて人間を確認に寄ってくるようになった。
 今日も、ひとり一人の顔を記憶するかのように、何度もプールの縁、見学者の立っている方へ泳いで来ていた。

 ......とここまで書いて、猛烈な睡魔が襲ってきた。申し訳ない事になるが、続きは明日、書かせていただく事にしよう。

 



2002年07月26日(金) 天気:曇り時々晴れ 最高:24℃ 最低:11℃


 『ムツゴロウゆかいクラブ』のスタートは1983年だった。もう足掛け20年になる。スタート当時に生まれた方が、間もなく成人式と思うと、よくぞ続いたと思い、そして応援をしてくださった皆さんに感謝、感謝である。
 
 今日は、その会員の皆さんとの楽しい交流の日だった。見事に天気予報が外れ、夜のコンサートまで、乗馬、犬たちとの散歩、ネコと遊び、ムツさんの家を訪問.....等々、北の大地で1日を過ごしていただいた。夕食は、地元の食材を中心に、皆で炭火を囲んでバーベキューだった。女房が別の所だったのを見逃さず、私は泡の出る麦茶を、久しぶりに2缶あけてしまった。たくさんの仲間と飲むビールは実にうまかった。

 その後は、いつものように、王国のメンバーで作っている『長ぐつバンド』のコンサートである。果たして練習の成果が出たかどうかは不明だが、私たちの想いを、自分たちの言葉、自分たちのメロディにのせて演奏をさせていただいた。膝をつきあわせるような、いわゆるライブの良さはあったのではと思っている。

 明日は、浜中の王国に行く。王国のスタートの地である。建物は古くなっているが、思い出は常に新鮮であり、そして、新しい物語が今も積み重なっている。
 ここが『どんべえ』の建物、これがゴンベのいた柵、ここが私が馬から落ちて10分間、夢の中にいた所、そして、この丘に、星になった連中が眠っている.......そう、案内をさせて頂こう。

 もちろん、今を生きているゆかいな連中にも、たっぷりと会ってもらおう。クライスデールやペルシュロンの大きな馬たち、19歳になるツキノワグマのロッキー、長寿のセントバーナードのボス5世、冬を王国で越したアザラシのカム......。
 そして、そして、王国の原点である、無人の島『ケンボッキ島』を眺めながら、海で犬たちと遊びたい。

 さて、楽しみの明日を夢みて、今夜は早く寝なければ.......。
 (うん?昨夜も、同じ事を書いたような......)

 

 



2002年07月25日(木) 天気:雨のち曇り、また霧雨 最高:17℃ 最低:10℃


 台風が鹿児島の近くを通過している。今年はなんと日本に近づくのが多い事か。あそこにはレオンベルガーのベルクの娘が行っている。南の海で、ニューファンなどの同居犬と一緒に遊んでいる様子をHPや写真で拝見しているが、やはり心配である。

 北の大地は、押し上げられた梅雨前線の最後の悪あがきのように、連日、湿気の多い日が続いている。霧雨、小雨と地面が乾く間がない。この状態の王国に、全国からのゲストが、明日やって来る。いよいよ『大王国祭り』である。
 準備は、ほとんど整い、26日・中標津、27日・浜中で楽しんでいただく。大切な仲間を迎えるのだからと、王国のメンバーも力が入っている。私たちにとっても重要な出会いの日である。

 今年は、どこに行っても、記念のスタンプは必ずもらえるだろう。もちろん、それは犬の足型をしている。インクは泥.....その後、クリーニングに出すのか、そのままにしておくのかは、それぞれのゲストの方にお任せである。
 ただ、どの足型にも、悪意や攻撃性は含まれていない。すべて嬉しさと、遊んで催促の固まりである。行儀の悪い所は、感激あまっての事と許していただきたい。

 バンドのリハーサルも11時過ぎに終わった。これから拙いフルートの練習を、もう少し行って、今夜は早く寝よう。
 明日、皆さんと1日をたっぷり楽しむために.....。

 雨よ降るな!!....そう願いながら。



2002年07月24日(水) 天気:雨 最高:11℃ 最低:9℃


 我が愛車『ルネッサ君』の足回り方面から、軋む音が聞こえるようなってきた。走行距離は4年と少しで110000キロを超えた。そろそろ疲れが出てきてもいい頃だろう。
 これでも浜中にいた頃に乗っていた車よりは走っていない。当時は1年で40000キロだった。もっとも、ムツさんとのマージャンのために浜中、中標津を往復すると、それだけで120キロだから、無理もない事である。多い時には週に4回は卓を囲んでいた。

 今では、車のない生活は考えられない。鉄道は廃止され、バスの運行も少なくなった。道東では、18歳を過ぎると、ほとんどの人間が免許を取り、車を足に使う。自転車で行くには全てが遠過ぎ、坂も多く、そして雪が降る。
 生活のためならと言い聞かせているが、時々、せつなくなる事もある。
 今日も、路肩から突然、鳥が飛び出してきた。ブレーキに足が行ったが間に合わない、車を止めて確かめに戻ると、アオジが息絶えていた。ようやく巣立った若鳥だろう、羽は輝くように美しかった。
 身体の外部には傷ひとつない、しかし、もう呼吸をする事のないアオジを拾い、我が家の庭に埋めてやった。

 人類の文明とは、思いもしない打撃を、他の生き物たちに与え続ける事なのかも知れない。馬が交通手段の時代なら、衝突で死ぬアオジはいなかっただろう。しかし、後戻りは難しい。だからこそ、積極的に自然の保全に心する必要があると思う。ひとりひとりが出来る事を少しでも為して、免罪とは言わないが、文明の陰にある犠牲をカバーしていかなければならない。それが文化だと思う。

 運転をしていた車でアオジの命を奪い、そのハンドルを握っていた同じ手で、救いの必要な野生動物のケアをする.....一見すると、恐ろしい矛盾のようにも思えるが、ここが大切な箇所だと思う。なぜなら、命は他の命によってしか生を得られないからである。王様であろうと庶民であろうと、野良犬だろうと、飼い犬であろうと、そして小さな虫に至まで、すべてが連鎖の中で生かされている。
 そのことに感謝の気持ちを抱きつつ、無為なる殺戮、そして悪意ある殺戮を避けるしかないだろう。

 従って、今夜、私はニコニコ顔で美味しいステーキを食べた。その1時間後に聞いた犬の虐待死を、私は許さない。
 これは矛盾ではなく、地球の生き物のひとりとしての普通の反応だと思う。生き物への悪意ある確信犯的な行為は納得できないのである。

 



2002年07月23日(火) 天気:雨時々曇り 最高:12℃ 最低:9℃


 とうとうヘアレスのカリンは、服を脱がずに1日が終わった。私も昨日までのTシャツをトレーナーに替えた。しかし、女房は、袖は付いたが、まだ半袖でフラフラしていた。
 気温は上がらず、風は北東、そして雨がやみそうで収まらない日だった。
 
 夏休みと言う事で、全国各地の子供たちがツアーでやって来た。寒いを連発しながらも、楽しそうに犬たちと遊び、何人かは番犬ならぬ番鶏のコッケイに突かれ、蹴られていた。めったに経験できない事なので、許してもらおう、『思い出、思い出』と、私は言い続けた。

 我が家での時間がたっぷりとあったので、居間の床暖房を前もって入れておき、しばらくの間、ネコたちと遊び、身体を温め、トイレを済ませた後、川まで散歩に行った。もちろん元気者が揃っている犬たちも同行した。
 
 犬を飼っている子もいたが、なかなか川で遊ぶ機会はない。寒い気温、そして冷たい水温の川で、添乗員の注意が耳を素通りした子たちが、見事に川で足を濡らしていた。王国の長靴を貸していたのだが、わざと深みに入る連中には、それも無意味だった。

 『冷たくない?水温は10℃ぐらいだよ!!』
 
 私が聞くと、彼らはニコニコとして応えた。

 『え〜!!10℃しかないの、それでこんなに冷たいんだ....!!』

 これだけで、このツアーの意義があったと、私はそう思う。親をはじめとする保護者がいない旅である。彼らは、服を泥だらけにして犬と遊び、真新しいズボンをびしょ濡れにして、北の夏の川の厳しさを感じてくれた。
 ここに親が付いて来ていたなら、10人中8人は、こう言う違いない......、

 『あっ、だめよ!!濡れるわよ、気をつけて....。犬に跳びかかられると汚れる、ダメ、ダメ!!』

 鹿児島から来た小学6年の女の子は、クリーニング屋さんが断わるほどの汚れを貰っていた、それでもセンちゃんやシバレの横を離れようとはしなかった。

 泥だらけの天使たちに幸いあれ!!
 明日は、長崎から、別のグループがやって来る。何人がコッケイに突かれ、犬たちの泥足攻撃を受けるのか、楽しみである。

 バンドの練習が続いている。仲間たちは確実にこなしているのだが、私は進歩がない。頭と指がシンクロしないのである。管楽器ゆえに、簡単にトランスポーズは効かない。シャープが4個にもなると、オイ、オイ、ちょっと待ってと、指があわてている。
 これも年の為すところなのだろうか....。
 しょうがないと、個人練習をしているうちに、こんなに遅い時間に日記をかくはめになってしまった。
 明日の夜はリハーサルである、間に合うのか私は。

 



2002年07月22日(月) 天気:曇りのち霧雨 最高:16℃ 最低:12℃


 今日は、朝の気温が高く、それからどんどん下がる1日だった。夕方からは霧雨になり、ヘアレスのカリンが無言で女房の周囲をウロウロし、これまた無言で見つめていた。

 『服、着たいの....?』
 と女房が聞くと、カリンは先端にわずかな毛のある鞭のような尾を左右に振り、4本の足を交互に踏み替えた。これが寒さを感じている時の、カリンのサインになっている。
 女房が、動物用の台所からトレーナーを手に戻ると、カリンは左の前脚を浮かせ、さっそく着用の体勢に入っていた。
 7月も末と言うのに、今から服を着ていては先が思いやられる。本州各地の猛暑は、ここでは夢物語である。

 昨日から、急に本が読みたくなっている。例の、忙しい時に限って、他の事をやりたくなる『アマノジャク病』が出たようだ。
 おそらく『ウン、ウン』と頷いている方が多いことだろう、これは人類だけの本質的な病だと私は思う。犬たちの転位行動よりも深く、情けない。

 さて、読書....と思い付いた時に、忘れていた事を思い出した。どの位前だろうか、掲示板の中で、神奈川のKさんが、子供たちに奨める本はありませんか、と書かれていた。後で書き込みます、と返事を入れて、そのままになっていた。
 夏休みの子供たちのために、だろうから、もう間に合わないかも知れないが、私の好きな本を並べてみよう。

 (1)エド・マクベイン もちろん『87分署シリーズ』であ
    る。50冊以上のシリーズだが、その中でも私は『キン        
    グの身代金』よりも『クレアが死んでいる』が好きであ
    る。
 (2)R・B・パーカーの『スペンサーシリーズ』も必ず読ん
    でいる。中には外れもあるが、一人の男の心の揺れが面  
    白い。ともに困難に立ち向かうポールの存在が何とも言 
    えぬ味わいを持っており、つい読み終わるとウイスキー
    を飲んでしまう。
     『初秋』は、やはり名作である。
 (3)ロバート・ラドラムの、やたらと長いサスペンス物も大  
    好きだ。文庫本3冊セットで攻められると、最近は目が
    もたないので、一気読みはできないが、でも面白い。
 (4)その他、チャンドラーでもエラリークイーンでも、ドイ
    ルでも、シュエルダンでも何でも構わない。その作家の        
    シリーズ物や他の著作を読み尽すと、新たな感激、思い
    が湧いてくる。
 (5)農林統計協会が出している『農業白書』も愛読書であ
    る。5年おきぐらいに買うと、日本の食(それはつまり
    日本のありかた)の変化、傾向が見えてくる。農家の出 
    身の私には、恐ろしい数字が並んでいる。
 (6)各種図鑑......動物に関するものから植物、鉱物、何で
    も面白い。最近は印刷も美しく、眺めていてあきない。
 (7)ムツさんの本では、数多くある中から、私は『ムツゴロ
    ウの博物志』と『天然記念物の動物たち』を繰り返し読
    んでいる。ノンフィクションの最高峰と思っている。
 
 ここまで書いてきて、やはり、今、読みたくなった。これらの本を読む場所は、ほとんどが布団の中である。カラスの声、ニワトリの声を聞いて、本を閉じ、眠りに入るのが何よりの幸せである。
 まだまだ、羅列しなければならない本がある。それは次回にしよう。
 
 <Kさん、子供たち向きとは言えませんが、日常を超えた新しい世界に入る事が可能な本だと思います。大作も素晴らしいです。しかし、シリーズで出ている物語も、気楽に読めて、なおかつ記憶が積み重なり、病みつきになります>

 では、今夜は『昆虫図鑑』を枕に寝るとしよう。



2002年07月21日(日) 天気:晴れのち曇り 最高:25℃ 最低:17℃

 中標津を出る時、寒暖計は25℃を示していた。例によって犬たちは日陰に入り、大地に腹をつけ舌を出していた。
 途中で昼食を済ませ、60キロ離れた浜中町の王国に着いたのは2時過ぎだった。気温は18℃だった。
 時々、海からの霧により、気温が異常に低い事はある。しかし、今日は霧もなく、中標津と同じような天候だった。それでもこの温度差である。犬には浜中の夏が適しているのかも知れない。確かに、私の車を見つけると、ビアンカもボギーも、ティアラもモナも、そして他の犬たちも嬉しそうに寄って来た。木陰で寝ている子はいなかった。
 
 犬たちの動きは、
 『ワ〜イ!ジャーキー叔父さん登場だ〜!!』
 と言う反応であるが、けして悪い気はしない。

 あわただしく、生まれたばかりのラブラドールの子犬を眺め、写真を撮った後、帰路につく為にゲートに向かった。
 すでに夏休みの方もいるのだろう、2日ほど前から、ゲートの前に停まる車が多くなっていると、仲間たちが言っていた。
 今日は3台の乗用車が停車していた。1台は長岡ナンバーだった。新潟から来られたらしい。
 黒いセドリックも停まっていた。よく見ると、中に茶色の犬が乗っていた。私が車から降りてゲートを開けようとした時に、セドリックのドアが開き、明らかにオスの顔をしたゴールデンレトリバーと御婦人が出て来た。

 『こんにちは!!オスですね、立派な身体ですね.....!!』
 
 私は、ゴールデンらしい笑顔で尾を振っている犬を見ながら挨拶をした。

 『こんにちは、あのう、この子は王国さんから頂いたんです。ツジさんでしたっけ、その方いらっしゃいます?』

 『えっ、?王国の生まれですか、何歳ですか?』
 
 御婦人は、犬のリードを引き、私の身体の匂いを嗅がないようにしながら返事をくれた。
 『2歳です。モナちゃんがお母さんで、世話をされていた方がツジさん....たしかそんな名前だったと....』

 『ツジ...ですね、あっ、上辻です。今、ちょうどこちらに向かってきています。散歩に行くところですよ、オ〜イ、上辻さ〜ん!!』

 馬小屋からゲートに向かう直線道路を、上辻さんと武田さんが、10数匹の犬たちとともに近づいて来ていた。

 『母親のモナもいます、会ってやって下さい』

 王国で生まれ数カ月を過ごしたとは言え、今は立派な大人のオス犬である。ゲートの外にはモナと、ついでに出て来たチョコラブのリバティだけにし、他の犬たちは内側に残して、1年半ぶりの母親と息子の対面が行われた。
 鼻を寄せ、匂いを嗅ぎ、それで儀式は終わった。涙の再会シーンとはならず、あっけない結末である。
 しかし、これこそが記憶の残っていた証明である。未知の、初対面の犬だったら、もっとしつこく匂いを嗅ぎあい、互いの表情を確認する。

 1匹の子犬を核にして、今日もまた、生活が交叉している関係ではないヒトとヒトとの交流があった。
 長岡ナンバーの車の方も、後からやってきたレンタカーの方も、犬と人の輪に加わり、ハマナスが満開のゲートの前は、笑顔に満ちていた。

 王国、夏本番である。



2002年07月20日(土) 天気:曇り時々晴れ、たまに雨 最高:25℃ 最低:15℃


 本州からは梅雨明けの便りが届いて来た。中標津も蒸し暑さを感じる今日の天候だった。
 こんな日は、犬たちの気力も失われるのか、タドンやカリンは早々に散歩から戻り(自主的散歩)、日陰で舌を出していた。短吻とヘアレスのこのコンビは、寒さにも暑さにも弱い。さっそく女房は、タドンをタライに入れて行水式体温降下法を行っていた。

 王国には、浜中、中標津の両方に、『ムツゴロウゆかいクラブ(詳細はインフォメーションのコーナーを御覧下さい)』の会員の方が利用できるクラブハウスがある。空いているかぎり、会員が1人同行していれば、どなたでも利用が可能である。
 
 3日前から横浜のIさん御一行3人がみえている。これで3年連続の来国である。
 実はIさんは、ムツさんが王国を作る前、まだ横浜に住んでいた頃の知り合いである。何と国王夫人が米を買っていた、つまり、Iさんのお父さんは米屋さんをしていたのである。
 
 浜中で馬に乗り、犬たちと散歩を楽しみ、湿原の花を楽しみ、野イチゴを摘んでジャムを作り、そして中標津の私の家に寄ってくれた。
 Iさんは、挨拶もそこそこに1冊のノートを私と女房に渡してくれた。
 『ベルタつうしん』と書かれた表紙には、大きな茶色の犬が舌を出し、黒い顔が笑っている絵が描かれていた。レオンベルガーだった。

 『ベルタ、本当にいい子なんですよう〜。可愛いんです!!』

 私と女房が、ノートの中の写真を見ている時も、Iさんの言葉は止まらなかった。
 『ベルタ』と名の付いたレオンベルガーのオスッ子は、昨年の7月に生まれたベルクの11匹の子犬の1匹だった。昨秋に横浜に旅立って以来の成長の様子が、50枚近くの写真と文章で綴られていた。どのページにもベルタが幸せな暮らしをしているのが、はっきりと読み取る事のできる楽しい内容だった。

 レオンベルガーを望まれたのは、Iさんのお母さんだった。王国のテレビ放映の中で、我が家にベルクが加わったエピソードを視たお母さんは、
 『いい犬だね〜、大きい犬はいいね〜、いつか家にも欲しいね〜、あのムツゴロウさんの所のベルクの赤ちゃんが生まれたら....!!』
 と言われていたらしい。
 しかし、残念ながら病に倒れられ、数カ月の差で、その腕に大きな子犬を抱く事は叶わなかった......。

 亡くなられたお母さんの遺志を、お父さん、そしてIさん姉弟がベルタで実現をされた。
 
 こんなエピソードを話して下さった.....、

 『まだ、家に来てすぐの頃、朝、起きてみると、居間中に紙切れが散乱していたんです。電話帳3冊を、まあ、見事にバラバラに噛み破ってくれていたんです。横浜のイエローページは結構厚いんですよ、それを、1ページと残さずに細切れです.....』
 『それを見た父が....オウ!!良くやったベルタ、凄い芸術だ!!....と喜んだのです、変でしょう.....』

 変である.....お父さんだけではない、Iさん姉弟も、ベルタの話を私にして下さる時の表情は、尋常ではない。
 そして、それは女房が、私が、ベルクをはじめ、我が家の生き物を語る時の姿に似ていた。要するに『親馬と鹿』である。

 ノートの写真には、屈託のないベルタが写っていた。同居している先輩のミックス犬『アリス』との理想的な関係、そして人間が大好きな姿、さらに、50数キロという大きな身体ながら、けして人を引きずらない心配りが感じられた。
 散歩仲間、そして近所の犬たちとの関係も、去勢をしていないオスでありながら、もめ事を起こさない理想的な形になっている。

 『お母さんは、きっと何か心の中で信じるものがあったのだと思います。この犬種にこだわったのは.....。それは、大正解でした!!』

 大型マスチフ系の犬種で、唯一、番犬としての歴史を持たない犬である。簡単に言うと、大きな愛玩種である。その良さが、すべてベルタの中に見て取れた。
 
 『ベルクお母ちゃん、そしてバルトお父ちゃん、ベルタをありがとう!!イイ子で育っているからね.....』

 笑顔で2匹の親に話し掛けるIさんの言葉を聞き、私は、子犬を産んでくれた全ての我が家の犬たちに、あらためて『ありがとう』と伝えたい。
 全国に旅立った子犬たちが届けてくれる、新しい飼い主さんたちの笑顔こそが、私と女房の宝物である。
 



2002年07月19日(金) 天気:曇り時々小雨 最高:25℃ 最低:15℃

 生後25日が過ぎた三毛ネコのエちゃんの4匹の子ネコたちが、突然、行動圏を広げた。これまでは、ペット用のベッドの中におとなしく収まり、よじ登れば簡単に出られる入り口に前脚を掛けるのが精一杯だった。
 しかし、今朝、先ず顔の白いミオがベッドを脱出し、横にあるネコ用のポールの柱にしがみついて遊び始めた。次いで三毛もどき、茶とら、サバトラと脱出が続き、中には4メートル離れたソファの下に潜り込む子もいた。
 母親のエちゃんは、その様子を床の上に横寝の形で、じっと動かずに眺めていた。

 やがて、兄弟と離れ、自分一人で不安な事に気づいたサバトラが、少しトーンの高い、そして回数が多い救いを求める声で啼き始めた。
 その声がしばらく続き、ようやくエちゃんは身体を起こし、近くに寄って鼻を子ネコの顔に付け、ベッドの方に歩き始めた。サバトラはつられるように、母親の後を追い、安住の住み家であるベッドに帰った。

 夕方になると、4匹の動きは、より活発になっていた。居間の半分は、躊躇せずに歩き回る事ができるようになった。女房が、試しに大人のネコたちに与えている缶詰を鼻先に置いた、しかし、誰も口にはしなかった。まだ離乳食には早いようだが、この動きの良さは、順調な成長を示している。
 よし、よし....である。

 柴犬のミゾレの4匹の子犬は、生後3週間に近づいた。今日は、初めて長めの外気浴をした。本来なら日光浴と書きたいのだが、残念ながら曇り空だった。まあ、体温調整が完全ではないので、この時期は直接の陽光をあまり長い時間は当てられない、雲があるのがベストと言える。
 ミルクの出も良く、さらに、それを飲み尽す逞しさが子犬にあるので、どの子もプンプクリンである。4匹は潰したヒキガエルのような形で移動している。歩くと言うよりも這う感じである。
 
 目は明るさだけではなく、動きに対しても素早い反応を示すようになってきた。と言っても、まだ瞬間的に身を臥せる、怯えの動きをするだけである。
 それでも、こちらが声を掛けながら、ゆっくりと手を差し出していくと、瞳がそれに向けられ、口が伸びてくる。何度か失敗をし、そして、私の指は子犬たちにくわえられる。

 すでに、母親の舌以外の刺激でも、大小便が出るようになっている。短足腹デブさんなので、どうしてもオスはチンポコが敷いてある布に擦られる、すると、そこには小便のシミが残される。
 さらに、(特に子犬は)小便とウンコがセットになっている。従って、擦れた刺激で小便が漏れ、その刺激で、今度はウンコが漏れてしまう。
 気分転換で散歩に出ている間に、育児箱の中に子犬たちの無数の大小便の跡.....戻って来たミゾレは、必死になってなめ取っている。

 こちらも、明日、試しに犬用の缶詰をあげてみよう。
 体重は、すべて1キロを超えた。順調である!!



2002年07月18日(木) 天気:晴れ 最高:23℃ 最低:13℃

 滞在時間40時間で、娘は再び夜行バスで札幌に帰って行った。
 あわただしい中にも清清しい初夏の1日、いつものように娘は、依怙贔屓をしっかりと実行していた。
 彼女の贔屓は決まっている。昨日も書いたが、純血種以外の連中である。ベコは川までの特別散歩に連れて行って貰った。メロンは表通りを娘とカップルで歩いた。キツネ舎の3匹のネコたち(クロ、アニキ、オトの3兄弟)は、長い時間、庭のベンチで本を読む娘の周囲でウロウロとしていた。

 長い間、多頭数で犬を飼う場合は、焼きもちの防止の為に、それぞれの犬を公平に扱うのが重要だと思っていた。
 しかし、最近、私はこの考えを捨てた。実は人間側からの『依怙贔屓』こそが、犬の心、そして人との絆を作り上げる大きな役割をしていると思うようになった。
 逆に言うと『競争心』を煽る事である。これは王国にやってきた子供たちが乗馬を楽しんでいる時に、はっきりと現れる。
 つまり、上達の遅い子を励ますのには、先にうまくなった子を誉めるのも良い方法なのである。
 社会において心ならずも.....と言う経験を望まずして数多く積んだ大人では、これは逆効果になる事が多い、
 
 『そうですよ、どうせ俺なんかへたっぴ〜ですよ。フン、あいつばかり誉められて.....アアッ、もう止めた、こんな乗馬の何が面白い.....』

 となる事もある。
 しかし、子供たちは、
 『よしっ、今度は僕も誉めてもらおう、がんばるぞ!!』
 と前向きな反応を返してくれるのである。

 他の10数匹の羨望の吠え声の中を、一人の人間を独占して散歩や遊びをする事は、多頭数で暮らしている犬には、まさに『盆に正月』である。嬉しくて尾はちぎれんばかりである。
 さらに、普段とは違うシチュエーションの為に、人間に向けて来る注意力が数段強くなっている。何かを教えるとすぐに理解する状態になっている。
 もちろん、単に人間と一緒にいられたと言う事だけでも、十分に幸せな事である。

 これを見せつけられた残りの犬は、次に自分の名前が呼ばれ、1匹だけで散歩に行く事になると、1匹目以上の興奮と喜びを示す。
 
 『焼きもち』『依怙贔屓』が、ある意味で前進への貴重なきっかけ、エネルギーになっているのは間違いない。群れの生き物である犬を飼う時には、特に心に留めておくべきだろう。

 次に、娘が依怙贔屓をしに帰るのがいつになるか、まだはっきりとしないが、また、ベコとメロンは瞳を輝かす事だろう。

 さて、『ムツゴロウゆかいクラブ』の夏のツアーが近づいてきた。今夜、どのような中身にするかのミーティングが行われた。詳細は来られた皆さんの感激が大きくなるように、あえて書かないが、きっと、楽しんでくださると思う。もちろん『長ぐつバンド』のコンサートもあり、私も錆びたフルートを取り出し、あわてて練習をしている。技術はともかく、心を込めて吹かせていただこう。

 そして最後に、
 我が家のラブラドールのオス、センちゃんがパパになった。御相手は姉さん女房のサンゴ、9匹の子犬(1匹は無念、死産だっつたが....)を見せてくれた。子犬たちが遊び出したら、ぜひセンちゃんを連れて行きたいと思う。きっといいお兄ちゃんをしてくれるだろう。幼い生き物に対して、特別に優しいセンちゃんだから......。

 
 



2002年07月17日(水) 天気:雨のち晴れ 最高:22℃ 最低:12℃


 『レオ〜〜!!レオちゃ〜ん.....』

 居間の戸が開き、娘の声が響くと、ソファの上で眠っていたターキッシュ・バンキャットのレオが、ネコでありながら脱兎のごとく逃げて行った。

 『また〜、いじめないの、レオちゃんを....可哀想でしょう、おじいちゃんなんだから....』

 早朝の6時に中標津のバスターミナルに着いた、札幌からの深夜バスに乗って来た娘を迎えてきた女房が言う。

 今年で24歳になる娘は、幼い頃からネコが好きだった。我が家のほとんどのネコは、娘が手元に残したと言ってもかまわない。特に、純血種以外の連中は、娘の何らかの声が影響している。
 不思議な事に、捨てられた子ネコを見つける名人でもあり、さらに、進学して家を離れていた頃は、帰郷する度に、家の前に捨てネコがあるという、まるでアンビリーバボーの事件が続いた。

 その娘を苦手とするネコが1匹だけ我が家にいる。それがトルコネコのレオである。
 娘の『猫可愛がり方』は、いわゆる『猫かわいがり』とは異なっている。はた目で見ていると、ハラハラするような乱暴さ、言い換えるならば『ダイナミックな会話』である。
 振り上げ、回し、逆さ釣りに猛烈な抱き締め、そして、頬擦りに全身触り攻めである。
 これが、レオの苦手とする部分だった。レオはトルコの寒地を故郷とする品種である。従って、掌球の間には4センチほどの長い毛が房のように生えている。それを触られるとレオは、毛を立てて怒り、前脚のパンチが飛んでくる。
 娘は、その反応が楽しいようで、家にいる時から、腕を傷だらけにして、何度もからかっていた。

 あまりのしつこさに負けたのはレオのほうだった。いつの間にか、娘のからかい心があふれた『レオ〜』の声を聞くと、いや、足音を聞いただけで、手洗い場の奥にあるボイラーの陰に身を隠すようになってしまった。

 今朝、7ヶ月振りの娘の出現という不意打ちをくらったレオは、しばらくボイラーに身体を付けて、嵐が過ぎるのを待っていた。娘が、ハナちゃんやらエの親子などを相手に、ネコなで声を出している時に、足音をたてない生き物であるネコでありながら、さらに慎重に忍び足で居間に現れ、娘の手の届かぬ茶箪笥の上に身を伏せた。

 普段、堂々としているが故に、余計にレオの落ち込みぶりが目立ち、苦笑をしながらも、生き物が身に付ける『天敵反応』に関して、思いを巡らしていた私である。

 娘は用事を済まし、明日の夜、またバスで帰る。レオの緊張はあと23時間続く事になる。



2002年07月16日(火) 天気:曇りのち雨 最高:22℃ 最低:14℃


 久しぶりの電話があった。Tクンだった。
 彼と知り合ったのは、もう10年になるだろうか、ある町での講演の時だった。声だけは大きいが、話の中身は(?)マークの私の拙話が終わった後、母親に連れられてロビーで待っていてくれた。
 係員の青年に、
 『あの人です、イシカワさんに会いたいと言われてるのは.....』
 と告げられ、こちらを見ている方を探すと、30代であろう、Gパン姿の若いお母さんの身体に、半分、隠れるようにしてTクンがいた。小学6年生だった。

 恥ずかし気に、頭を軽く下げて挨拶をした彼は、その後の私とお母さんの会話を、1メートルほど離れた所で、真剣に聞いていた。
 その時、私が『オヤッ?!』と思ったのは、話の内容が、登校拒否、それも先生との問題によるものだったにも関わらず、彼の視線が、私の顔に向けられ、一時も離れなかった事である。

 それまでにも何度か、学校に行く事を止めた子、家庭の中で、暴力とまではいかないが、家族との会話を失ってしまった子....さらに、様々なイジメのターゲットになってしまった子に、私は、王国や他の場所で会っていた。
 ほとんどは、王国のイメージの中に救いの場を求めようとする、親たちのせつない願いの結果として、出会いがもたらされていた。
 
 Tクンのお母さんも、生き物が大好きで、王国の番組は必ず見ている彼に、何か新しいきっかけが与えられたらと、私などの話に望みを持って来られたのだろう。
 
 無言で大人たちの話を聞いているTクンの様子を見ていて、相談に来られた子たちが、ほぼ共通して持っている、会話の相手の目を見ない、という特徴が、彼には該当しなかった。
 いや、該当しないどころか、私の1言1句を聞き漏らすまいと、耳だけではなく瞳でも聞いていた。

 私の胸の中に、怒りが込み上げてきた.....会ってもいない、説明も受けてはいない....しかし、このような真剣な瞳の少年を苦しめる『先生』を、どうしても認められなかった。

 そのままの事を、私はお母さんに向けて話ながら、実はすべて、Tクンに語りかけていた。
 内容は、人間を王国の犬の群れに置き換え、いかに群れタイプの生き物は、社会的に大変か、そこには、ある種の技術が必要であると.....。簡単に言えば『処世術』である。その1番先にくるのが『挨拶』であると......。
 どんなに嫌な先生であろうと、理不尽な事を言う大人であろうと、君はあと数カ月で卒業し、新しい出発ができる。その日まで我慢をするのではなく、嫌な人にこそ、大きな声で、最初に自分から『おはよう』と言ってみようよ....。
 そうすると、何かが変わるよ、君もだけれど、周囲も変化するんだ。そうなれば君の勝ち!!王国の犬たちも、そうやって毎日を過ごしているんだ〜君にできないはずはない、試してごらん......。

 この単純な作戦を、今までに、私は何人かの子供たちに耳打ちしてきた。楽しい事に、成功率は100パーセントに近い。あれこれと手法を使わず、挨拶だけ、というのがポイントだろう。
 子供たちに必要なのは、声を出す、ほんの少しの勇気だけである。

 Tクンは、見事に、その勇気を出した。卒業までを、1日も休まずに登校したと、お母さんから電話があった時、私は大きな拍手をしていた。

 今日、すっかり大人の声のTクンは、最初、名前を言っても、誰なのか判らずにいる私に、

 『小学校の時、先生にイジメられたって、泣いていたTです.....石川さんに、それは凄い、じゃあ、その先生にオハヨウって大声で言えと教えて貰いました....』
 それを聞き、私の頭の中で、彼の名前と顔が一致した。もちろん小学生の顔だった。

 『おかげさまで、就職が内定しました。ゼミの仲間の中で、1番です.....』

 後の会話は、あまり覚えていない。ただただ、頑張れよ〜と言っていた気がする。
 
 台風の余波だろう、夕方から雨になった。それが、なぜか今夜は、心地よく感じられる。
 
 





2002年07月15日(月) 天気:雨のち晴れ、そして雲 最高:26℃ 最低:14℃

 『匂うでしょう....?』
 
 マロとベルクを引き連れ、遅れて川に辿り着いた女房が、ほぼ元の水位に戻った当幌川の中で、先発組のダーチャやカボスたちと遊んでいる私に聞いてきた。

 『うん、今日は判る、いい匂いだ。風が止まると、ここには匂いが溜まるね〜』

 増水で、また浅瀬の地形が変わっていた。台風の前までは長靴で大丈夫だった所が深くなり、それまで水が渦を巻いていた所に倒木が流れ着き、その下流に新しい浅瀬ができていた。
 私は、長靴への水の侵入を気にしながら、深く何度も息を鼻から吸い込んでいた。
 夕方のひんやりとし始めた空気が胸に届く、その前に鼻を通過する時に、なんとも言えぬ香しさを残していた。記憶のある匂いと言うよりも、まさに『香り』だった。それが何なのかを、思い出そうとしている時に、タイミングよく女房が答を出した。

 『あれっ、だいぶ前に2階のトイレに置いていた芳香剤!!安売りで買ってきた珍しいヤツ....あの匂いにそっくりね』

 嗚呼、私を見つめながら川で遊ぶ犬たち、ゆるやかに流れる当幌の川、上流の茂みからは、早くもセンニュウの声....そして黒く形を失いつつある、夕闇を呼ぶ林の木々.....。
 これらの情緒が、すべて私の心の中からぶっ飛んだ!!
 
 確かに、そうだった、女房の言うとおりだった。
 しばらくトイレの窓枠に鎮座し、空になってもまだケースだけが同じ場所にいた『ナチュラルな香り・リラの花園・気になる臭いはさようなら・心と身体がゆったりと....』の匂いだった。

 『今年は凄いのよ〜花が...ほらっ、この遊び場の周囲だけで、両岸に10本はある。それも皆な花を付けて.....』

 改めて、長靴や犬たちから目を上げ、暮れようとしている川の周囲を見回した。ハンノキやオヒョウ、そしてヤナギの木の間に、真っ白な花房を天に掲げるように枝上に支えている木が目立った。間に、ハンノキなどを挟み込み、等間隔で私たちが常に利用している浅瀬を囲んでいる。
 花は、咲き始めたばかりだった。まだ蕾のままの小さな白い固まりが、いくつも重なるようにして房となっていた。

 『ハシドイ』である。
 モクセイ科、つまり『ムラサキハシドイ(ライラックともリラとも呼ばれている外来種)』は親戚になる。
 札幌等で有名な紫の花の多いリラに対して、日本の、どこでも見かけられる白い花の木が『ハシドイ』となる。
 花房の大きさは、栽培され、手入れをされているリラにはかなわないが、他の樹木の葉が濃い緑になった頃に、鮮やかな白を主張するハシドイもまた、森や林では、実によく目立つ。

 花の香りもリラに似ている。だからこそ、私の記憶に残っていたのである、トイレ経験学のひとつとして。
 しかし、科学的に処方された芳香剤を、コウモリが迷い混むような狭い所で、他の強烈な(自分の責任ではあるが....)臭いとミックスして鼻に入れるよりも、せせらぎと犬たちの嬉しそうな顔の中で、夕闇に浮かび上がる白い花から、かすかな風に運ばれてくるその香りを身体に受け止めるほうが、はるかに心地よい。

 『おいっ、最近、なんだか鼻の能力が良くなった気がする....。散歩をしていても、そこら辺の花の香りに気がつくんだ〜!!』

 女房は、私の発言に対しては、1回でYESを出さない。

 『そう〜〜?それにしては、自分の臭いに気づいていないようだけど.....昨日、お風呂で頭洗った??』

 『え〜っと、昨日は、洗わない日だよ。洗い過ぎはキューティクルだかなんだかを傷めるから良くないらしいぞ!!』

 『それは、朝晩、何回も洗うと傷めるかもしれないけれど、おとうさんは3日に1回でしょう、だめよっ、臭くなるはよ、夏は!!』

 いかにハシドイの香しさに囲まれていようと、私と女房の会話は、いつものように、情緒も叙情の香りも存在しなかった。二人は結婚27年目の半ばに近づいていた.......。
 
 私は、無言で、もう一度深呼吸をした、ハシドイの香りとともに、湿気をともなった夕暮れが胸に満ちた。

 



2002年07月14日(日) 天気:雨のち晴れ間付きの曇り 最高:24℃ 最低:14℃


 浜中町にある『霧多布湿原』はラムサール条約にも登録された、素晴らしい所である。特にこの時期、3000ヘクタールの湿原のある部分では、エゾカンゾウのオレンジがかった黄色い花が、折り重なって広がっている。
 しかし、ここ10年、私が以前驚いたような花の咲き方は姿を消した。原因ははっきりしている。他の草が茂ってきたのである。
 そもそも、何故、一面のカンゾウの花だらけになったのか、これには馬の果たした役割が大きい。浜中はコンブの町である。水揚げ量は日本一を続けている。舟からコンブを天日で干すために広い干場(カンバ)に運ぶ時に、25年ほど前までは、馬車が大活躍をしていた。漁師さんは、1軒で少なくとも1頭の馬を持ち、仕事がない時に放していた共同放牧地が、カンゾウの花畑にあたるのである。
 馬たちは、カンゾウやアヤメは好まない、つまり、それ以外の草が馬の胃の中におさめられ、結果として日本一の湿地花畑ができあがった。

 心ある方は、花の衰退を危惧され、もう一度、馬の登場を計画した。公のお金やボランティアの協力で牧柵もできた。
 そこにクレームがあった。手続きやら何やらに問題があったとの事である。哀れ、牧柵は雨に打たれ、カンゾウは観光客の増加に反して、数を、見事さを失ってきている。
 これは、人間の世界の出来事である。
 
 そんな事は気にとめず、今年もまた、エゾカンゾウが、ノハナショウブが、そしてサワギキョウの紫の花やフウロの可憐なピンクが、必死に湿原を彩っていた。
 
 そう、私は今日、我が家の3匹の犬(カリン、シグレ、アラル)を連れて、湿原の端で開催された『エゾカンゾウ祭り』に行ってきた。中標津からも浜中の王国からも仲間と犬たちが集まり、総勢17名、30匹近い犬の大集団になった。
 2度のショーは『犬の素晴らしさ』・・つまり、野の花を含め、命ある物たちが、利用しあい、助け合って共に生きる素晴らしさ展開するものだった。
......ここまでは、頭の中のシナリオ、実際に始まると、集まって下さった皆さんは、王国の犬たちの。人間大好き、遊び(仕事)大好きぶりに、大きな歓声と拍手を下さった。

 この集いに参加をするようになって、もう10年になるだろうか。雨で中止という事もあったが、王国のスタートの地『ケンボッキ島』をすぐ前に見る場所でのイベントに、全力で協力をさせてもらっている。声を掛けてくださった役員の方は、王国の歴史を詳しく御存知の、なじみの顔の仲間ばかりなのも心強い。

 今年は、いつもの年よりも犬を連れて見に来られた方が多かった。それも生後8ヶ月から1歳ちょっとと言う若い犬が中心だった。
 ここ数年、私はショーの中で必ず、
 『ぜひ、自分の家の犬を、他の犬と会わせて、挨拶を交わし、遊んで下さい..』
 と発言をしている。その影響なのか、
 『今日、初めて他の大人の犬に会うのです。挨拶ができるか心配です.....。いつも近所の犬を連れた方には、寄らないで〜と言われているので、なかなか機会がないんです....』
 そう話してくれた。

 もちろん、王国の犬たちは、匂いを嗅ぎ、鼻を突き合せて、OKのサインを出していた。飼い主さんは、笑顔のまま、いつまでも動こうとはしなかった。

 さらに、このイベントが恒例になり、王国の犬たちに会えると知って頂けたのだろう、犬を飼っていない方が、自分の幼い子供を連れて参加されていた。
 そのような方のために、私は初対面の犬に会った時の挨拶法を簡単に説明させて頂いた。見事に、3歳の女の子も、犬に驚きを与えるような行動はとらなかった。
 
 大きなフーチやダン、そしてアラルなどに会い、見つめ、そしてニコッと笑顔になってくれた子供たちの、今夜の夢が楽しみである。

 それにしても、花の数が少なかった、けして一部の方が言うように、気候が理由だけとは、私は思わない!!



2002年07月13日(土) 天気:晴れ 最高:25℃ 最低:12℃

 我が家の前、ムツさんの家に続く牧草地の刈り取りは、1週間ほど前に終っている。草の長い時は、犬たちが踏み倒してしまうので、散歩は控えていた。
 しかし、刈り終れば、2番草が伸びるまでの間は、少しの時間ならば侵入も可能になる。と言うのも、よくしたもので、生長途上の草は、少ぐらい踏まれても、翌日には、太陽に向かって再び背を伸ばす気力があるからだ。これが、完全に伸びきり、穂が出た状態だと、一度倒されたら、ほとんど回復は不可能に近い。
 この事象は、子犬や子ネコ、ひょっとすると人間の子供たちにも当てはまる気がする。
 ワンパクな子犬は、同じイタズラに関して何度も叱られても、翌日にはケロッとして、笑顔で再びわんぱく振りを披露する。
 人間の子供だって、叱られてあと一眠りをすれば、またお母さんの足元にまとわりついて行く。
 成犬や大人の人間だったら、こうはいかない。落ち込んだり、人生を悲観したり、さらには相手を恨んだりと.....起きた事をサラッと流す事が出来難い。
 自分を振り返り、出来る事ならば、幼い心が備えている『柔軟なしたたかさ』を、忘れずにいたいと思うのである。

 あれっ?何の話から、こんな人生訓物語になってしまったんだろう.....、そうそう、犬の散歩の事だった。

 とにかく、現在の我が家の犬たちの散歩コースは、いつものように『当幌川水温8〜10℃を楽しむ』コースと、『ムツさんの家グループ犬に挨拶&誇示』コースの2つがある。
 どちらを選ぶかは、もちろん私や女房が決める事が多い。しかし、時には、わざと犬たちに聞く事もある。10数頭を一斉にクサリから放し、彼らの表情を確かめるのである。

 今朝も、それをやってみた。
 犬たちは、私と女房から声が掛からないので、オヤッと言う顔をする。そして、人間の周囲を駈けながら、
 『どうするの?どこへ行くの?』
 と聞いてくる。
 川に行きたいベコなどは、ニワトリ小屋の横、川への道の入り口で、ピョンピョンと跳ねて吠えている。
 母屋の道のほうが、草丈が短くて、私は好み.....そう思っているヘアレス犬のカリンは、表道で、やはり同じように跳ねている。姉妹でありながら、ベコとカリンは、明らかに『川派』と『母屋派』である。

 いつもならば、ここでカリンにフレンチブルのタドンが同調し、親分のマロも平坦で障害物の少ない母屋コースに進みはじめるのだが、このところマロは足と腰の状態がすこぶる快調である。親分は、ベコの待つ川への道を選択した。

 すると、ほとんどの連中、要するに楽しければどこでもいい、わ〜いと言う『日和見派』が、一斉に、川への山道を駈け降りて行く。
 私と女房は、最後まで母屋への道に固執している数匹に声を掛けて川の散歩を誘う。これで柴犬たちは来たのだが、カリンとタドンはとうとう、2匹で母屋に行ってしまった。
 これには、実は理由がある。毛のないカリンと、呼吸がすぐに荒くなるタドンは、草が倒れて道を塞いでいる所が苦手なのである。台風によって川への道は、周囲の野草が覆いかぶさる形になっていた。従って、2匹は、身体に優しい刈り終った牧草地を散歩コースに選んだのである。加えて、カリンは母屋の犬たちと柵越しに、吠えながら交流するのも好きだった。

 川は今日も流れが太かった。水位は台風の前より30センチほど上がっている。でも、犬たちには関係がない。いつものように、カボスやベコ、センちゃんは川岸から飛び込み、大きな水しぶきを人間に掛けてくれた。
 マロは例によって胸までつかり、上流を向いて沈思黙考の構えを取っていた。しかし、私が上着のポケット(常にジャーキーが入っている)に手を入れたかすかな音に対して、すぐにヘラヘラと寄って来たところをみると、あまり哲学的な事を考えていたとは思えない。夕飯でも頭に浮かべていたのだろう。可愛い親分である。

 帰り道、オオウバユリの花が咲いていた。白い大きなユリである。トリカブトも蕾が大きくなった、近日中に紫の妖艶な花が開くだろう。
 
 そして、我が家の庭では、先に散歩から帰った『母屋を訪ねて』グループの2匹が、舌を長く出して、ニワトリ小屋の横で待っていた。黒い身体に手を当てると、40度以上にも感じられた。
 日陰に下げてある寒暖計は、25度を示していた。



2002年07月12日(金) 天気:晴れ時々曇り 最高:24℃ 最低:12℃


 台風は、足早にオホーツクに去って行った。残されたのは、あふれた川と、風で千切れ飛んだ樹木の小枝だった。まあ、ほとんど被害はなかったと言えるだろう。
 そして、今朝、窓からは久しぶりの陽光が差し込んでいた。日の当たるところで、大きな身体のネコ、ルドとチャーリーが水泳の飛び込みの姿勢で寝ていた。まさに台風一過、心地よい朝だった。

 とんでもない所で保護をしたコウモリは、随分と元気になった。この日記を書き終わったら、外で解放してみようと思う。心配なのは、飛ぶ力である。もし、簡単に私に捕まるようなら、再度、リハビリと言う事も考えられる。どのぐらいの時間、トイレの水の中にいたのかが判らないので、体力の消耗度が不明である。とにかく1度、フリーにしてみなければ。

 このHPの『お知らせ』のコーナーでも募集の案内を載せているが、今月の末に『王国祭り』と銘打って、全国からツアーで来られた皆さんと、中標津、浜中、両方の王国で出会いを楽しむ。
 その中で、私たち王国のメンバーで構成している『長靴バンド』のコンサートがある。
 午後から、その練習をした。牧草の作業があったり、乗馬教室が行われたりと、なかなかメンバーの揃う日が少ないが、集まってくださる仲間の皆さんと、楽しいコンサートができるように、練習にも力が入る。

 これは、生き物好き人間の共通する事なのかも知れないが、王国のメンバーも、応援をして下さっているクラブの方々も、ほとんどが音楽好きである。
 長靴バンドも、そんな連中が25年以上も前に、自然発生的にセッションを始めたものである。演奏する曲は、すべて自前の、原野と命と温もりにあふれたものである。仲間たちが作り、仲間たちが演奏し、仲間たちが歌う....これが音楽の原点だと思う。

 時には、犬がシンセサイザーの音に和す事もある。よく、歌う犬と言うのがテレビなどで紹介されるが、サイレンの音に遠吠えを始める子がいるように、犬たちは、ある音域、ある音質の音に敏感である。これがまた、楽しい演奏になる。

 バンドのメンバーは強制されたものではなく、自分が楽しみたい人が集まっている。従って、絶えず変動をしている。でも、退国した仲間でも、その人間の作った曲、歌った曲は演奏を続けられている。今は、目の前に姿を見る事のできない人間が、流れる音楽の向こうに笑顔で見えてくる。
 これもまた、生活に結びついた音楽だからこそ......そう思い、懐かしいメロディの中に身体を預けている。

 さて、本番まで2週間をきった。果たして練習は間に合うのだろうか....いつも、そう言っているのも、我が長靴バンドである。



2002年07月11日(木) 天気:台風6号による雨と風 最高:14℃ 最低:11℃

 2年に1度ぐらいだろうか、台風が台風の名前のままに道東に近づく事がある。どれほど強い勢力の台風でも、ほとんどは北上する間に低気圧に変わるのだが、中にはシブトイのもいるのである。
 今年は早々に、なんと今日、6号がやってきてしまった。朝から断続的に強い風と雨の1日となった、いや、まだ続いている状態だ。しかし、思っていたほどの影響はない。タイミングの良い事に、夕方の犬たちの散歩の時には、合羽も不要な雨の降り方になってくれた。

 さて、掲示板に写真を貼り、状況も説明をさせて頂いたが、昨夜、我が家に珍客がやってきた。7日の日記に『初めてコウモリがやって来た...』と書いたのが縁、何と家の中にまで入って来てくれた。
 台風の接近を知り、こうもり傘を持たないコウモリが、雨宿り
に来た.....などと、猛暑の地域向けのギャグを飛ばしながら、私は笑顔で小さな命を歓迎した。

 いきさつは掲示板で読んで頂くとして、その裏話を今日は書こう。
 
 子供たちが二人ともに札幌で暮らすようになってから、2階のトイレは、客が多い時以外はめったに使わない。女房と私が、上手に時間差を付けて催しているのか、1階のほうだけで処理が済んでいるのである。
 
 昨夜も、私は1階のトイレでがんばった。1昨年の春、我が身体の食物の出口の手術をしてから、私は実に最高級の出物を日々生産し、トイレで精算している。本当に堅さも形も優れたものであり、かつてのような凄惨な事にはならない。

 しかし、昨日は、少し量が多過ぎた。1度目、2度目、3度目と水を流すも、田中知事に叱られるかも知れないが、どこかにダムを作り、水の減り方が遅い。
 
 『まあ、いいや、そのうち水分を含んで、なんとかなるだろう』 
 そう思い、知らぬふりをしていた。
 
 ウンが良かったのか悪かったのか、直後に女房が入り、異常に気づいた。おそらく『もう、しょうがないわね〜、きちんと詰まりを直さなければ.....!!』
 とか何とか呟きながら、女房は2階のトイレにある、私たちが『パッコン棒』と呼んでいる詰まり解消用の道具を取りに行った。そして見つけたのである。

 コウモリは、2階のピンクの便器の中で、ほとんど溺死寸前だった。しかし、私がすくい上げると、かすかに身体を動かし、さらに、助けられたと言うのに『キュッ、』と歯をむき出しにして鳴きやがった。子供の頃に、コウモリに噛まれた事があるが、結構痛いものである。
 とにかく、濡れた身体を乾かすのが1番と、布の上に置き、上げたままになっていたトイレの蓋を下ろした。我が家はネコだらけである。コウモリが静かに過ごせる所は、やはりトイレしかないと考え、そのままドアを閉めておいた。

 今朝、女房が、またまた騒いだ。
 
 『お父さん、いないよ、コウモリが!!』

 確かに、軽く見渡したかぎりでは姿がなかった。そもそも雨宿り(まだこだわっている....)に侵入できるのは、ドアの開閉で自動的に開く、外壁側に付いている電動式の換気口しか考えられない。時々、強い風が吹くと、開く事があり、その際に中に入ったのだろう。しかし、それも外からなら、の話である。内側からは小さな生き物でも出難い形になっている。

 『少し、時間がたったら、もう一度見てみよう...』
 行方不明のまま、私たちは1時間待つことにした。

 しかし、女房は40分しか待てなかった。
 『いたっ、おとうさん、出ている!!』

 町の学習講座『コウモリ学』に出席を申し込むほど入れこんでいる彼女が、またまた大きな声で私を呼んだ。
 コウモリは、トイレの入り口の上の鴨居に、頭を下にしてしがみついていた。毛はすっかり乾き、ビロードのような光沢だった。離れた位置に付いている耳(この距離が、彼らにはとても重要なのだが)が、私たちに向けて小さく動く。手を差し出すと、昨夜よりも元気な声で鳴いて抗議をしてきた。

 今日、女房は5匹の虫を2階のトイレに運んで放した。大きさも『大』『中』『小』と3タイプという念のいれようである。
 夕方、そっと覗くと、しがみついていた鴨居の真下に、ヤチネズミの物にそっくりな小さなウンコが落ちていた。
 
 明日、台風が去ったなら、夕方にでも野に還してあげようと思う。
 
 コウモリよ、私の固いウン〇があったからこそ、君は助かった。
 何とウン命とは不思議なものか.......。

 



2002年07月10日(水) 天気:曇り後雨 最高:15℃ 最低:9℃

 台風の襲来で、NHKのニュースの時間が延びている。こうなると、北海道の生まれ育ちで、あまり台風とは縁のなかった私でも、何か気になり、じっと聞きいってしまう。
 特に、今回は、ニュースの中の中継で、桂浜が映ればRさんの笑顔と元気な子供たちが、和歌山の港が流れると、TさんやLさんが、そして愛知、静岡の雨が写ると、Aさん、Mさん、Nさん、KクンにGさん、そして、もっと多くの皆さんが、次々と私の頭の中に登場してくる。
 
 その中には、実際には顔を会わせていない方もいる。しかし、インターネットの中で交流が始まり、いつの間にか、すぐ横の存在になってしまっている。
 どんな台風でも、日本のどこかに影響を及ぼすようなら、いつの間にか、私の中でそれは他人事ではなくなっている。

 さて、進路は北海道、それも王国のある、東を目指していると、いつもより語調を強くして予報士が伝えている。
 『それは困ります...』と言っても、天の動きを変えられはしないが、やはり困る。
 王国では、まだ3割も牧草を刈り取る作業が進んでいない。6月からの連日の曇り空と低温で、イライラとしながら空を仰ぐしかできなかった。
 雨が少なく、草丈は低いが、すでにチモシーの穂が出ている。クローバーは枯れ始めているものもあり、今が刈り時なのである。
 このままの状態で強い雨風が来ると、牧草は横倒しになり、台風一過の快晴のあたたかさで、倒れたまま地面に接したものから発酵や腐敗を始める。何としても、台風には、関東にも上陸せず、その後は、ハワイ方向を目指して一気に東方に走り、高い波を待つサーファーを喜ばせて欲しい。そう、来週の水曜日を到着予定にして....。

 今にも雨が落ちそうな午後、王国の牧草作業を中心になって行っているツンちゃんと西條氏が、2台のトラクターを使って、刈り倒してあった5ヘクタールの牧草をロールにまとめ、ビニールで梱包した。本来なら、あと2日、乾燥をさせなければならない草だった。しかし、台風で大雨に当たるよりは、サイレージ化はするけれど、今日、処理をするほうが、いくらかは救われる。
 100を超える馬たちのための食料確保の作業は、いつも、気象と、その年の流れと闘いつつ、仲良くもしなければならない。
 担当の人間には、胃の痛くなる日々が続く事になる。

 今回の6号、何とか、被害が少なく済むとよいのだが.....。



2002年07月09日(火) 天気:快晴 最高:20℃ 最低:6℃


 今日も、天候に関しては一言だけにしよう...『快晴!!』

 宅配便で荷物が届いた。サモエドの抜け毛が見事な毛糸になって箱に入っていた。女房は目を輝かせて、一玉一玉、手にとって眺めていた。
 
 箱にはノートも2冊入っていた。『サモエド・ノート』とタイトルが書いてあった。
 
 我が家のマロ親分の血を継いだサモエドは、これまでに300に近い数になっている。その始まりの頃に、我が家から旅立った白い天使の飼い主の方たちが、Tさんを中心に巡回ノートを始められた。今回、実家に送られてきたノートには『NO・6』『NO・7』と書かれていた。
 厚いノートが7冊目に入っている。そこには、全国各地、それぞれの家庭でのサモエドとの暮らしが、写真と文章で綴られていた。女房と私は、ノートを手にとるたびに、心が熱くなり、幸せを分けて貰っていた。

 マロの最初の結婚から10年になる。うらやましい事に、アイツは両手で数えなければならない程の嫁さんを抱えてきた。王国のサモエドだけではなく、他からも、その性格、身体つきを認められて、プロポーズをされてきた。
 そして、マロは交尾の名人であり、さらに1昨年までは、空振りがなかった。そのマロの子犬、そして、跡を継いだマロの息子のカザフの子犬を合わせて、300弱の子が新しい飼い主のもとで、笑顔を周囲に振りまいているのである。

 私と女房の嬉しさのひとつは、その子供たちが、皆、元気な事だった。
 しかし、この5月の末、悲しい知らせが届いた。
 『シュウ』・・マロとノエルのオスッ子の死を告げる言葉が、受話器から女房の耳に、涙の声となって聞こえてきた。
 2才8ヶ月と20日.......可愛がっていたT・Tさん御家族にとっても、実家の私たちにも信じられない死だった。

 今日、私は巡回ノートの最新号である『NO・7』から見た。最初の記入者がT・Tさんだった。
 5ページに渡って、詳細にシュウの死に至るまでの記録と、想いが書いてあった。最後のページには、物言わぬシュウの姿の写真が貼られていた。まるで、眠っているだけに見えた、声をかけると、むっくりと起きて、あくびをするような姿だった。
 
 長い患いではなかった。気づいて数時間の突然の死だった。
 『胃捻転』.....大きな犬に起き易い、誰も予測のできない、そして勝負の早い病気だった。

 シュウのケースでは、たまたま悪いタイミングが重なっていた。獣医さんの不在、簡単な診察(思い込みによる)等である。
 その全てを、巡回ノートの他の仲間の皆さんのお役にたつのならと.....実に詳しく書かれていた。
 読み進むうちに、この病気の初期症状から経過、その時の犬の様子などが、目の前で起きている事のように判る。これを読まれた方は、自分の犬が痛みを訴え、呼吸が切迫し、水を飲み、吐き気を示した時に、頭に必ず『ネンテン』の文字が浮かぶだろう。もし、T・Tさんが、シュウの死の前に、このような文章を読んでいたらという、その無念さが行間にあふれていた。

 私は、ただただ感謝である。
 シュウを失った悲しみの中で、この貴重な文章を書いて下さったT・Tさんに。そして、この『サモエド・ノート』の主宰者であるTさんに、さらに、ノートを大切に育ててきて下さったメンバーの皆さんに......。

 最後にT・Tさんは、ノートにこう書かれていた.....

 『この様な形で、サモエドノートの仲間と、お別れは辛いです、もう、しばらくは、サモエド仲間でいさせて下さい...』

 もちろんです!!あの白い犬は、たとえ姿が消えても、私たちの心の中に棲みついています。1度でも、サモッ子に触れた方は、何があろうと永遠に仲間です!!

 最後に『NO・6』のノートをめくった。エヘラエヘラと笑顔の、昨年のシュウの写真が貼ってあった。


 (主宰のTさん、そして、T・Tさんに断わりなく、文章を使わせて頂きました事を、明記いたします。石川 利昭)

 



2002年07月08日(月) 天気:雨のち曇り 最高:14℃ 最低:11℃


 本州からは、連日、猛暑の便り.....いいや、もう天気の事は書くまい、書いたとて詮無い事、それで暑くなるわけではない....。
 でも、一言だけ、
 『寒い!!』

 1昨年、2キロ離れた所に、テナガザルのナナちゃんや、多くのヘアレス犬(カリンの母、祖父、兄弟など)、そして、ナポリタンマスチフのフーチなどがいる、仲間のヤマちゃんの家から、グスベリを移植した。
 ヤマちゃんの家は、離農された農家の家である。周囲には鑑賞木、花などがたくさんあった。
 その中で、私が目を付けたのがグスベリだった。この『グスベリ』と言う呼び方は、北海道だけなのかも知れない。私が幼い頃、実家をはじめ、隣近所のどの家にもこの木があり、時期が来るとトゲに気を付けながら赤熟した小さな実を食べたものだ。
 
 『グスベリ』・・和名では『まるすぐり』・・西洋では『グーズベリー(GOOSEBERRY)・ガチョウが好きなのだろうか?』

 木は細い枝が集中して広がる低潅木で、高さは1メートルほど。上によりも、どんどん枝が横に広がって行く。その枝を途中で土に埋めると、すぐに根が出て、それを移植すれば、簡単に増えていく。
 私はヤマちゃんに、そんな小枝を1、2本、分けて欲しいと頼んだつもりだった。
 ある日、犬たちが揃って吠え出した。特にカリンが狂ったように啼いていた。あわてて外に出てみると、トラクターからヤマちゃんが降りて、我が家に向かって来るところだった。不審者と言うよりも、生まれた家のお父ちゃんを見つけたカリンの大喜びの声に、他の犬が和していたのだった。

 『グスベリ、持ってきましたよ、どこに植えます?』

 私は、トラクターを見た。あわてて女房を呼んだ.....。
 大型トラクターの、これまた大きなバケットにはみ出す形で、わけの判らぬ緑の固まりが乗っかっていた。それがグスベリだった。
 『全部、掘ってきたの?』

 私には、そんな量に見えた.....。

 『いいえ、まだ3倍ありますよ、家の裏にも、納屋の横にも生えてますから.....』
 
 ほっとした私は、その大きな株を、庭の入り口のすぐ横に穴を掘って植えた。これなら、すぐにでも実を楽しめるのではと、ヤマちゃんの心遣いが、実は嬉しかった。
 
 移植した年は、咲き終っていた花の後の小さな実が、移植の時期が悪かった事もあり、すべて落ちてしまった。木が新しい土に馴染むのに精一杯だったのである。
 昨年は、5本の枝に実が付いた。私が、そろそろ食べごろかと見に行くと、すでに何ものかによって採られた後だった。どうも、小鳥たちが怪しかったが、それはそれでしょうがない。

 そして今年である。
 この1ヶ月は寒い日が続いているが、5月は気温も高かった。グスベリはいつもの年よりも10日ほど早く、5月末に開花した。なんと、ほとんどすべての枝に花が付いていた。
 今日、女房が『北海道の木の実』という本を手に、私に話し掛けてきた。
 
 『グズベリーはどうやって食べていたの?もうすぐいっぱい収穫できそうよ!!』

 私は、あわてて見に行った。枝は直径3メートルの円で囲われる範囲に勢い良く増え、すべてに直径が1センチほどの丸い実をたわわに付けていた。
 私は、ニコニコとなり、青いうちに塩に漬け、少し黄色になったら酒に漬け、赤くなったら生食とジャム.....と、頭の中で作戦
を組み立てていた。

 熟すのを待ち切れず、ひと粒を口に入れた。思ったよりも酸味が少なかった。と同時に、子供の頃、あれだけ口にしていたのに、はじめて味わう感じがした。
 私と女房の雰囲気を嗅ぎ付け、人間を突き回っているコッケイが寄って来た。試しにひと粒、放り投げてやった。目ざとく見つけたコッケイは、嘴でつまんでは地面に落とし、一際高い声で、メスのウッコイを呼んだ。餌があった、と言うサインである。駈けてきたウッコイは、あっと言う間にグスベリを飲み込んだ。

 『これは、強敵が現れたぞ.....。』
 そう思いながらも、さてジャムはいつ食べられるかと、赤くなった実がないかと、私はトゲに気をつけながら枝をたぐった。

 
 

 



2002年07月07日(日) 天気:雨のち曇り、そして雨 最高:16℃ 最低:14℃

 『お父さ〜ん、今、面白かった〜』

 右手に水色のハエたたき、左手に『十勝銘菓・防風林』と書かれたお菓子の空き缶のフタを持って、女房が書斎に現れた。
 こういう時は、私が返事をしなくても、あいづちを打たなくても、女房は、すべてを語ってくれる。

 『今、ヒナのために、蛾を捕っていたら、大きな影が横切ったの....。ウン?大物の蛾かなと思って、探したら、またダケカンバの方から、窓の前に飛んで来た。そして、私の目の前で、蛾を捕まえ、ギュッという音をさせて暗闇に消えたの.....。きっとコウモリだと思って、少し下がって、サーチライト灯りの中で蛾が飛んでいるのを見ていたら、また、来た!!やっぱりコウモリだったんだけど、私の前をヒュ〜と飛んで、あわてたように飛んで行っちゃった、失礼なコウモリ!!』

 私が、煙草に火をつけ、3服する頃に、女房の話が終った。と、思ったら続きがあった。

 『今年初めて見たかな〜、やっぱり寒くて蛾が少なかったから、コウモリも別の所で虫を捕っていたのだよね、大変だな〜。
 でも、あの小さな身体で、どのくらい虫を食べるのかな、私が食事の邪魔をしちゃったのかな?』

 私は、またまた無言で、インターネットでコウモリを検索した。日本には33種が棲息していると出てきた。

 『へ〜、小型のコウモリは、1日に自分の体重の半分量の餌を食べているんだって、凄い!!全部が蚊だったら1日500匹.....蚊とり線香の代りに、コウモリを飼ったほうがいいかも知れない、可愛いからペットにもなるし....』

 女房の驚きは続いていた。

 ようやく、カーテンをしていない居間や食堂の窓ガラスに集まる蛾が増えて来た。1ヶ月前から、女房はハエたたきを手に、寝床につくまで、何度も外に出て蛾を集めていた。すべて、人工孵化をしたウッコイとコッケイのヒナ(四分の一ニワトリ、四分の三はウコッケイの血が流れている)のためだった。
 どれほど優秀な配合飼料があっても、ほとんどの鳥のヒナは虫を好む、そして、体調が悪い時も食べてくれるし、栄養で問題が起きなくなった。
 だから、ヒナが可愛い女房は、せっせとハエたたきを手に、蛾たたきに精を出していた。

 数日前に20℃を超えた日があった。そうすると蛾をはじめ虫の発生が増加する。我が家の庭先には、多い時で6匹のコウモリがやって来た事がある。
 同じターゲットを狙う女房とコウモリ....どちらも満足できるほど虫が姿を出す、そんな気温が続いてくれるように祈る、本日16℃の中標津だった。

 このところの女房の成果、つまりヒナのコニが食べた蛾の種類を書いてみよう。
 トンボエダシャク、シロツバメエダシャク、キアシドクガ、マイマイガ、コキマダラセセリ(これは蝶だが)、カレハガ、などになる。
 大物で、薄い水色をしたオオミズアオは、もう少し暑くなると出てくる。これなら1匹で蚊の100匹分はありそうだ。コウモリにもいい御馳走なのだろうか。



















2002年07月06日(土) 天気:曇り時々陽光 最高:17℃ 最低:13℃


 居間のソファの下で4匹の子ネコが育っている。生まれたのは先月の21日、ようやく2週間になる。体重は270〜335グラム、この1週間で、それぞれ80から95グラム増えた。順調と言える。
 
 母親は、三毛で尾が短くて曲がっている、いわゆる和ネコの『エちゃん』である。
 ここ3年で、我が家では5回のネコの出産が行われている。そのほとんどのケースで、私と女房は傍観者になっている。昨年のワインの出産の時は、インパクでのネット中継があったので、決められた産箱があるほうが、撮影しやすいかなと、一応準備はしていた。
 しかし、ワインは、そこを好まず、すぐに子ネコをくわえて、ソファの下に運んでしまった。以来、母ネコ任せにしてしまった。

 さて、我が家の居間には、他に13匹のネコがいる。オバアチャンのニャムニャムから、6ヶ月前に生まれ、今がもっともワンパクな盛りの子ネコまで、とにかく元気ものが揃っている。自宅でネコの出産をさせた経験のある方が今日、この様子を見て、
 
 『こんな所で、アラッ、失礼!!でも、大丈夫なんですか?母親の気が狂うのではないですか、子ネコを食べません?』
 
 と心配をして下さった。
 私は、ニコッと最高の笑顔を作り、無言でソファの下に手を入れ、エちゃんの乳首に吸い付いていた4匹を引っ張り出した。
 子ネコたちは1週間で目が開き、明るさだけは感じるまでになっている。突然の居間の明るさに、目をしょぼつかせて鳴いていた。
 
 次に、私は子ネコたちを、3匹のオジサンネコたちが寝ている所にそっと置いた。オジサンたちは、子ネコの身体に鼻を寄せ、静かに匂いを嗅いだ。
 それだけだった。攻撃も、必要以上の嗅ぎまわりもなかった。
 
 そこに子ネコの声を聞き付けてエちゃんがやって来た。すると、オジサンネコたちは、ゆっくりと起き上がり、場所を譲るかのように、立ち去った。何度やっても、同じ事が起きた。あのヤンチャ坊主の6ヶ月オスまでが、子ネコをオモチャとは考えていなかった。
 エちゃんは、オジサンネコがいた場所で腰を下ろし、子ネコたちに乳首を与えた。そして、しばらくすると、1匹ずつ首筋をくわえてソファの下に運び、親子で眠ってしまった。

 今回は、人間もたくさん見に来ている。特に、1匹の貰われ先として決まっているYさん夫妻は、家が車で10分も掛からない地の利を生かし、何度も確認に来られ、その度に、ふたり同時にビデオとデジカメに、顔の白い優しい表情の、将来の自分のネコの姿を収めている。もちろん二人は、とっくに正真正銘の『親ウマとシカ』が始まっている。

 Yさん以外にも、毎日、多くの方が居間に入る。その時には、必ず子ネコを取り出し、可愛いね〜と言わせている。産んで1〜3日目までは、エちゃんも、人間が手に抱いている子ネコをしっかりと見守っていたが、そのうち、あきらめ、安心、しょうがないや....という変化があらわれ、よほど激しく鳴かないかぎり、人間が可愛がっている時間を待つようになった。

 これが、私の狙いだった。
 長い間の観察から、母親だけを横に育った子は、犬でもネコでもキツネでも(ひょっとすると、人間も?)、厳しい警戒心を持ちやすくなると感じていた。
 もちろん、それは暗がり(巣穴)だけの生活と、母親から伝わる警戒の気配の影響が強い。だからこそ、母親が『もう、しょうがない、どうにでもして....』と、人間の行う事を認めてもらいたかった。

 これは、あるていど成功している。我が家で生まれ、旅だった子は、犬もネコも陽気で、人間が、他の生き物が大好きである。
 今回の4匹の子ネコたちも、あと2ヶ月半後には、それぞれの家庭で、恐いもの知らずのノーテンキキャットになっているだろう。
 さて、これから、もうひと特訓、ソファの上で横になり、子ネコを抱いてテレビを見よう!!



2002年07月05日(金) 天気:曇りのち霧雨 最高:17℃ 最低:12℃

 車で30分の野付半島に行って来た。根室海峡を挟んで、今、話題にのぼる事の多い、北方領土である国後島が間近に見える所だ。
 残念ながら、今日は霧がかかっており、知床から根室に向けて流れる白波の海しか見る事ができなかった。それでも、観光バスやレンタカーで訪れた観光客の皆さんは、霧雨の中で、上着を手で押さえながら、島の方角を見ていた。

 私と一緒に半島の中ほどにあるセンターまで行ったのは、夕方の羽田便で帰るKさんとMさん、そして地元の仲間、Yさん夫妻だった。おっと、忘れるところだった、1匹の白い犬が同行した。サモエドのダーチャである。
 実は、Kさんの所には、昨年の3月生まれたダーチャの子が行っている。マーヤと名を付けてもらい、同居の柴犬アリス、そして5匹のネコたちと楽しく暮らしている。その様子はKさんのホームページを見て頂くと詳しい。
 実家となる我が家では、出て行った子犬の大きくなって行く様子、そして、その後の具合が気になる。ネットの中で、映像と言葉で確認できるのは、何よりの幸せである。

 Kさんは、数度、実家に来られ、母親のダーチャ、父親のカザフ、そして祖父になるマロなどに会って下さっている。私や女房にとっては、子犬を通しての親戚のようなものであり、いつでも気さくに言葉を交わすことが出来る。これは犬を飼っている者同士の不思議な社交性だと思う。

 さて、半島の自然センターに着き、先ずは腹ごしらえと、レストランに向かった。人があふれていた。店の方は、明らかに地元の主婦の皆さんである。こちらの希望を尋ね、とても良くしてくれた。
 さらに、野付(尾岱沼)と言えば、北海シマエビとホタテである。それをふんだんに使った料理が用意されており、客が満足できる味、量だった。先日、施設のリニューアルが終ったばかりだが、携わっている方々の(町の)意欲が伝わってきた。
 
 たらふく食べ、眠気が襲ってきたところで、上着のファスナーを引き上げ、帽子をかぶり直して外に出た。震えが襲ってきた。      
 食事の間、車の中に入れておいたダーチャを長い引き綱に繋ぎ、いざ、花園に出陣である。
 センターからは、徒歩で片道30分は掛かる内海まで道がついている。そこには『トドワラ』の名で有名な観光スポットがある。海水によって立ち枯れたトドマツやエゾマツの姿が、野の花の輝きの向こうに、侘びしさと形の奇抜さで眺められた。

 狭い道を、ダーチャを先頭に進んだ。前から人が来ると、知らない人大好き犬であるダーチャは、尾を忙しく振り、駆け寄って挨拶をしようとする。霧雨で濡れた土の道を進んできたのだから、ダーチャの足は泥だらけである。これで跳びつかれては、きれいな服装の観光客の皆さんはたまらない。私は、リードを短く持ち、
 『ダーチャ、ここで挨拶だよ、近くにいかなくてもいいからね!!』
 と話し掛け、身をひいて、笑顔の旅人とすれ違った。
 そうなのである、皆さんが、
 『あっ、犬!!可愛い、おとなしい、キレイ』
 などと、笑顔で言って下さるのである。
 旅は、人を雄弁、多弁にさせる非日常性があるのだろう。

 まだ、盛りと言うには花は早かった。
 でも、大きなハマナスの花びらが見事だった。紫のハマエンドウが咲いていた。フウロのピンクが咲き始め、黄色のセンダイハギが背伸びをしていた。
 足元では野イチゴの実が赤くなりかけ、シシウドの花の上には、賑やかにさえずるノゴマの姿があった。
 もちろん、スカシユリもエゾカンゾウも開き、人の道の両側だけには、シロとアカのツメクサが咲いていた。

 遠くの景色は霧雨で煙っていた。それが、よけいに静かな情景、野の花と鳥たち、そして白い犬の世界を童話のように作り出してくれていた。
 トドワラには立派な木道があった。潮がひいている時間帯だったので、根元のアマモは皆、砂地に寝ていた。この海草こそが、シマエビの揺りかごになっている。

 途中、ダーチャは立派なウンコをした。あまりにも見事なので、そのまま置いて原野の花たちの肥やしに.....とは思わず、きちんと袋に入れ持ち帰った。
 
 普段、群れで生活し、群れの掟を気にしている我が家の犬たちは、人間と1匹だけで付合った時に、思わぬ心を見せてくれる。今日のダーチャは、いつものグイグイと綱を曵く犬ではなく、景色と人間を落ち着いて楽しむ子になっていた。
 ほんのちょっぴり、日常から出る事で(時間、場所、扱う人)、犬の心は、また大きく進歩をする。
 それを実証できた、霧の中の花園散歩だった。



2002年07月04日(木) 天気:曇りのち霧雨 最高:18℃ 最低:12℃


 遠来の仲間たちとの夕食を済ませ、のど自慢をして帰ると、庭とキツネ舎の方角に向けてある、2基のサーチライトが点灯したままだった。
 女房は、すでに数匹のネコを布団の上に乗せて、うなされもせずに寝ている。ライトをつけたまま、と言うのは、まだキツネのルックが来ていない印となっている。遅く帰った私が、気づくようにと、いつの間にか決まりのようになっていた。

 玄関のドアを開けると、4匹の子犬を育てている柴犬のミゾレが腰を上げた。それまで、暖かい母親の腹部で眠っていた子犬たちが振り落とされ、抗議をするように啼いた。
 一瞬、子犬の方を確かめるように見たミゾレは、その後、すぐに私に目を合わせ、軽く尾を振った。
 これは、大小便か水を飲みたい、とのサインである。
  
 『よしっ、行こうか...あっ、ちょっと待ってね、懐中電灯を取ってくるから....』

 私の言葉を待つまでもなく、ミゾレはドアの前で期待の足踏みを始めている。
 柴犬はトイレに関して頑固である。どんなに緊急の状況でも、玄関を出てすぐには用を足さない。必ず、50メートルは進み、ササ薮などに入って、静かに、そっと済ましてくる。たとえ、冬であっても、胸までの雪をラッセルしながら、落ち着く場所まで行っている。この律儀さは、犬の世界でもトップにランクされるだろう。

 今夜のミゾレは、我が家に入る取り付け道路の脇まで、80メートルほど小走りに進み、懐中電灯の灯りの中で、長い小便と、最高品質のウンコを10センチ落下させた。
 我が家の犬たちは、ウンコをすると私に報告に来る。まあ、けして報告ではないのだが、3ヶ月前から行っているトレーニングの効果で、必ず私の側に戻ってくるのである。
 これは、盲導犬の訓練士だったNさんの話から思い付いた。仕事中に催すと困るので、盲導犬は、パートナーの言葉によって大小便をできるように訓練されている。家を出る前には、必ず済ますように習慣づけられているのである。
 その時の『キーワード』は、大袈裟にほめる事だとNさんは言っていた。

 『うわ〜、出たね〜、凄いね〜いいウンコだ!!素晴らしい!!』

 この繰り返しによって、人間の要求する時間に(たとえ1時間前にウンコをしていたとしても)、頑張ってウンコをしてくれるようになると言う。

 私は、ほめると同時に、御褒美にジャーキーを一切れ与えた。すると、犬たちは、ウンコをした後、必ず、ニコニコと笑顔で駆け寄ってくるようになった。
 牧場内なので、リードに繋がず、フリーで大小便をさせている我が家では、これによって、新たなフリー犬コントロールの方法が増えた。

 霧雨の中で、懐中電灯の光を浴び、期待の眼差しで見つめてるミゾレに、育児の苦労も考え、私はひとかけらではなく、まるまる1本のジャーキーをあげた。食べ終えたミゾレは、一目散に玄関を目指して闇に消えた。
 

 さて、次はキツネのルックである。
 上着を脱ぎ、居間の窓から外を見た。出窓のすぐ下で1匹のキツネが丸くなって寝ていた。窓ガラスに私の影がよぎったのだろう、キツネは頭だけを持ち上げ、私を見た。
 すっかり夏毛になり、痩せて見えるルックだった。この春の出産育児は失敗に終ったようで、とうとう子ギツネを見せてくれなかった。すでに人間なら100歳を超える年齢になっている。我が家で生まれ、野に旅だって11年、よく生き延びてきた。
 ルックのために、豆パンをあげようとして、すぐ後ろに、もう1匹のキツネがいるのに気づいた。ルックの旦那ではない、顔がそっくりなキツネである。
 おそらく昨年、もしくは1昨年のルックの子供だろう。母親から2歩ほど距離を置き、同じように私を見上げていた。
 蛾が入らぬように窓を少し開け、パンを落とした。まず、ルックがくわえ、右の草むらに消えた。娘と思われる、もう1匹は、その場でパンを食べ始めた。視線は、私と、ルックが消えた方向に交互に向けられている。細心の注意を払いながら、遅い夕食に取り掛かっていた。

 夕方からの霧がどんどん濃くなり、まるで雨のようになっていた。この状態になると、林や森では、梢の滴が大きな音を立てて大地の草の上に落ちて来る。
 つまり、キツネにとっては、ネズミなどの獲物の音が聞き取り難い、辛い状況なのである。
 従って、このような夜は、必ずと言ってよいほど、ルックが我が家に現れる。生まれた家を頼って来てくれるのである。この絆があるからこそ、私と女房は、キツネの様々な事を観察し、新しい事を知った。
 
 私が窓から落としたパンやチーズには、その御礼と、新たな『よろしく!!』の思いが込められている。



2002年07月03日(水) 天気:曇り時々霧雨 最高:18℃ 最低:13℃


 30年近く前に、開国間もない動物王国で、乗馬がブームになった事がある。どうもブームと言うと語感が良くないが、とにかく国王のムツさんを先頭に、毎日、みんなで馬に乗った。
 1年後に日誌を調べてみると、何と365日中300日近く、馬にまたがっていた。
 この手法は、ムツさんが、何ごとにおいても得意とするところだ。一時期に集中して取り組み、それを自分のものにしてしまうのである。50を過ぎても、草競馬で熱くなり、思いきり馬を走らせられるのも、乗馬漬けの『あの1年』があったからだと思う。ムツさんに感謝である。

 さて、乗馬と言うと、四方形の馬場を頭に浮かべる方も多いだろう。しかし、あのような所で乗馬をしている人の数は、乗馬人口からみれば少数派である。もちろん、世界規模で考えた時の事ではあるが。
 馬に乗る文化があり、実際に乗られている所のほとんどは、実用乗馬からスタートし、それが維持されている。
 一方、いわゆる馬場乗馬(馬術と言っても良いかも知れない)は、戦のない平和な時に、兵士の士気と技術の維持向上のために考案され、そこから発展をした。
 
 王国の乗馬は、やはり実用派である。ムツさんは、かつて、これを称して『山賊乗馬』と言った事もある。
 北の原野、林や森をステージに、その土地に、気候に合った、道産馬に乗り、時には野鳥の見学に(不思議と馬で近づくと、野鳥も、シカも逃げない)、車の使えぬ吹雪の朝は、郵便を出しに、美味しい昼食を食べに行く時は、近くの町の店の前までと...私たちは、馬に乗り、そこから広がる生活を楽しんで来た。

 その集中乗馬期に、よく馬首を揃えて走ったコースが、王国のゲートを出て右に折れ、幹線道路から山に入り、大きな沼を一周してくる林道である。距離は23〜4キロ、当時は、速い時で1時間15分程度でまわってきていた。

 今日、久しぶりに3頭の馬で、その道でトレッキングをした。昨日から、浜中の王国の中にある『ゆかいクラブ』のクラブハウスに滞在をしているMさんは、都会に住みながら、乗馬クラブに通っている。彼女の夢のひとつが、柵の中ではなく、思いきり外乗をする事だった。

 『外乗の経験はあるの?』
 『はいっ、1度だけですが...』
 『駈けた事は...?』
 『何回か、馬場の中ですけれど....』

 私の質問は、いつも、その程度である。馬に乗ると言う事は、100万語を使って説明をしても、またがった事のない人には正確には伝わらない。
 しかし、何度か乗り、誰かに曵かれるのではなく(私は、これを乗馬とは認めない)、自分で手綱を持ち、曲がりなりにも馬をコントロールした方は、ワクワクする歓びと同時に、ある種の恐れも心に焼き付けている。
 それを、私は、大事にする。
 
 どこで乗ろうと、乗馬は乗り手の責任がとても重いスポーツである。初心者もベテランも、イザと言う時には、誰も当てにはできない、自分でコントロールをしなければならない。
 さらに、クラブで時間を積み重ねても、それに比例して上達するようなものでもない。乗馬は、相手が心と温もりを持った馬と言う生き物であり、それに対面する当事者の心のあり方が影響するからである。
 極端な話、100度教習を受けた方よりも、心を解放し、2度目の乗馬で砂浜を10キロ、他の馬について全力で駈けてしまった小学生のほうが、バランスも手綱扱いも上達する事がある(何例もある実話である)。

 肝心なのは、本人の意欲.....それを大切にしたいので、私は、ある程度の経験があり、遠乗りに行きたいと、瞳を輝かせて訴える方は断わらない。ただ、どの馬を使うかを慎重に決めるだけである。

 さて、私は白い道産馬のアカネ、一緒に楽しんでくれる林クンは、競馬でもコンビを組んでいる愛馬のリョウ、そして、Mさんには、もっとも素直なミツに乗ってもらう事にした。
 放牧地から馬を連れて来て、馬装用の木に繋いだ。Mさんは、どのようにして引き綱を固定すれば良いのか、考えていた。
 『アレッ?』と、私は思ったが、もちろん声には出さない。ニコニコとしてブラシや鞍の場所を教えてあげた。
 多分、彼女の通っている乗馬クラブは、担当の人が、ゲストの馬の細かな世話を代行しているのだろうと、善意に解釈した。

 準備が整い、ゲートを出た。フランスのピレネーが出身地の、ベルジェ(牧羊犬)のアルが、大好きな林クンの後を追って、ゲートの外に出てきてしまった。今日は長い距離を行くので、何とか柵の中にアルを入れる。
 3頭は、急な下り坂に掛かった。ここで、ミツがストライキを始めた。坂の下には、白波の大平洋と、そに手前に数軒の漁師さんの家がある。久しぶりにこのコースに来ると、馬たちは、必ず恐がり、進む事を拒否する。
 かなりきつく追っても、ミツは前脚を踏み替えるだけで前に進まない。では、と言う事で、私がミツに、そしてMさんにはアカネに乗ってもらった。これで、ようやく坂を降り切った。

 今度は、登り坂が600メートル続く。よれていた馬に気合いを入れる必要もあり、私は大声でミツを励ました。
 恐い集落から離れられると、ミツは全速で駆け出した。アカネが、そしてリュウが続いてきているのが音で判った。
 私は待った、Mさんの悲鳴、訴え、驚きのサインを.....。
 それは、頂上に到達するまで、一言も聞こえてこなかった。
 『これなら、大丈夫かな』
 そう信じ、鋪装された広い道に馬首を向けた。

 やがて、道から見下ろす前方に大きな沼が見えて来た。

 『タンチョウ発見、もっと近くに行こう、馬ならだいじょうぶ.....!!』
 馬を、沼に向かう草道に入れる。ヒナを連れているのかどうかは確認できなかったが、2カップル4羽のタンチョウが、湿地の緑の中で白く輝いていた。
 
 しばらく進み、いよいよ林道になった。たまに車も通るので、わだちには草はなく、小石が転がっている。馬の足を考え、道の中央の草が茂っている所にコースを取る。

 『では、速足で行くよ!!トリャ〜!!』

 細かい振動が尻を打つ。キジバトやカッコウ、センニュウの声も聞こえる。馬が近づく方向からは、アカゲラの警戒音も届いた。巣立ちを間近にしたヒナを守る親だろう。
 2キロ、4キロ.....5キロ。
 3頭の軽快な蹄の音が響いて行く。

 『あの葉が半分白くなっているのがマタタビ、こちらがヤマブドウ、コクワ、そしてヒオウギアヤメにスカシユリ.....あっ、ウツボグサも咲いている....この黄色はキンポウゲ....』
 私は、せっかくだからと、Mさんに目立つ草花の名前を大声で告げた。

 『覚えられません、王国の犬の名前を覚えようと、今は、それで精一杯です....』

 道の上の小石が多い所は、慎重に歩き、草が増えると速歩や駆け足に替え、中間点で馬をカラマツ繋ぎ、人間は、リュックに入れてきたコーヒーを飲んだ。

 『どこで外乗をしたの、長野?千葉?』
 かなりきついトレッキングにもかかわらず、ニコニコとついてきたMさんの経験を、もう一度だけ確かめようと、私は聞いた。

 『エッ、あのう、カナダです!!』
 
 『それって、乗馬クラブに通う前のこと....?』

 『そうです、そこで馬が大好きになりました。道産馬よりも大きな馬に乗りました....』

 私は、心の中で『アリャリャ』と思っていた。今回も顔には何も出さなかった(つもりである....)。
 
 しかし、汗だらけの身体で、足元のササを食べているアカネやミツ、リュウを眺めながら、このトレッキングをして良かったと、私は心から思っていた。
 外乗に関しては、ほとんど初心者と言ってもよいMさんが、完璧に楽しんでくれている。これこそが、王国の乗馬のだいご味であり、修行ではなく、心と身体を解放できる楽しいスポーツである証しだった。

 『これで、またひとり、乗馬に惚れ込み、馬を見つめてくれる人が増えた....仲間が増えた.....』
 と、私はニコニコとしていた。

 そこから、王国のゲートまでは、馬たちが帰路と感じた事もあり、自然とスピードが上がった。のんびり草を食べていたエゾシカが、林の上で見ていた。
 湿原の中を通る所では、3キロを競馬のように駈けた。ミツが下るのを嫌がった最後の坂は、山賊的かけ声を掛けて、ラストスパートをした。ミツもアカネもリュウも、首を大きく上げ下げし、懸命に駆け上がってくれた。

 馬たちも、そして人間も、さわやかな汗をかいた2時間半だった。


 

 
 



2002年07月02日(火) 天気:ず〜っと曇り・重い空 最高:19℃ 最低:14℃


 我が家の見張りが交代した。
 
 『えっ、やっぱりあの恐い雄鶏が見張りなんですか、よく嘴でつつきに来る....番犬の替わりをしているのですね....』

 と、言った客人がいる。彼女は、庭に車を止め、運転席から降りるたびに、ニワトリとウコッケイのMIXである雄鶏のコッケイに追われ、足に来訪記念の青アザを付けられていた。

 『いいえ、あいつは余興担当です。犬の事です。うちの番犬が交代したのです...』

 客人は、不思議そうに周囲の10数匹の犬たちを見渡した。

 『でも、誰も吠えてはいないような....尾は振っているけど....』

 私は、簡単に説明をする。
 
 『それは、この距離、犬たちから見て、よく判る範囲に来ているからです。試しに、車を取り付け道路の所に止め、そこから歩いて来てみて下さい。凄いですよ』

 鋪装されている町道から分かれ、我が家の庭までの砂利道は、約100メートルあり、真ん中で左に曲がっている。今はカシワやダケカンバなどの樹木の葉が茂り、犬たちのいる庭先からは、入って来る人影は定かには見えない、これが、もっとも怪しい事になる。

 彼女は、私の言葉を忘れていなかった。今日、散歩から帰った犬たちが、川で濡れた身体を舐めているところに、車を100メートル先に置き、歩いてやって来た。

 『ワンッ!!ワンワンワン!!』
 
 真っ先に吠えたのは、推定14.5歳にはなる、捨犬出身のメロンだった。その声に、他の犬が反応し、周囲を見回し、どうやら表から誰かが近づいて来ていると知ると、カリン、ベコ、タドンが和した。そして、次に参加したのは柴犬のシグレとサモエドのラーナだった。
 他の連中は、うん?誰だ?.....と言う表情で、声は出さず、目と耳だけで表を気にしていた。尾はすでに軽く横に振られ、誰かが来ていると期待を始めていた。

 子犬まで入れると、20匹を超える我が家の犬群団の中で、リーダーに次いで(時には最も大切な役割)重要なポジションである『見張り役・偵察役』を担って来たのは、ベコとカリンの姉妹犬である。母親であるヘアレスの鋭い心が、見張り役に合っており、けっこう耳に響くかん高い吠え声が、群れに緊張を走らせていた。

 ところが.....である。
 
 この冬、大病を患い、入院、手術を繰り返したメロンが復調し、それまで暮らしていた隔離柵から、庭の小屋に繋がれるようになった。
 その理由は簡単である。あたたかい居間で療養をするまで、ネコに唸り、時には襲う姿勢を見せていたところから、他の生き物に対しての信用がメロンにはなかった。おそらく、捨てた人間の家には、ネコもニワトリもいなかったのだろう、しょうがない事ではあった。
 しかし生死の淵をさまよっている時に、ネコたちは、手軽な暖かい同居者として、メロンの身体に寄り集まり、一緒に寝ていた。さらに、コッケイが居間の中をウロウロする事もあった。
 メロンも最初は、弱った身体ながらも、ネコに唸り声を出していた。そんな時は、すかさず、
 
 『メロン!!ナカヨシでしょう!!友だち.....唸らないの...』
 と、私や女房が声をかけ、身体をなでてやった。
 2週間後、メロンはネコを、同じ空間にいる者として受け入れた。

 その結果を得て、この春からは、はれてメロンも隔離柵を卒業し、ネコやニワトリ、ウコッケイ、ヤギなどが顔を出す、庭の住民になる事ができた。
 そこで、目を覚ましたのが、ほとんどの日本犬系のMIXが備えている番犬資質である。私と女房以外の車の音を聞くと、小屋の中にいる時から吠え出し、周囲に警戒を呼び掛ける。さらに、見知らぬ人影が現れると、自分に声を掛けてくれるまで、吠える事をやめない。

 その賑やかさは、ベコやカリンの意欲を奪うのに十分だった。いつの間にか、見張り1号は、老いたとはいえ、まだまだ、耳と目のしっかりしているメロンの役割となってしまった。

 群れにとって重要な、この交代劇は、リーダーのマロの指示によるものなのだろうか....。
 もちろん、答は決まっている。たとえどんな利発なリーダー犬であろうと、何かの命令を出し、群れをコントロールするなどと言う事はあり得ない。
 では、どのようにポジションが決められて行くのか、それは、構成員の意欲(資質に基づく)が、自然に群れ社会の中で仕事を作り出すのである。
 つまり、番犬性質の強い犬は、真っ先に吠える事によって、他の犬に緊張と言う影響を与え、それが、群れ全体を動かす力となる。ネコが好きな犬は、その子がネコと仲良く交流をしている事を見せる行為によって、群れの仲間にネコ好きを増やして行く。
 すべて、自発的な行動、自分で仕事を探す事によって、群れ全体がうまく機能する。

 ここで、またアノ話(犬にとって飼い主家族が群れの構成員)になるが、何だかんだと命令をしつこく下す者は、犬にとって同じ仲間ではけしてない。『オスワリ!!』と命令をしている飼い主は、犬にとっては、群れ仲間とは別の、素晴らしいパートナー的存在なのである。

 
 
 



2002年07月01日(月) 天気:曇りのち晴れのち雨 最高:23℃ 最低:13℃

 キジバトの声が好きだ。今日のように、薄日が林に差し込み、風も優しい午前中は、犬たちの駆け回る音と、舌を出しての忙しい息遣いよりも大きな音で、樹木の陰から聞こえてくる。
 
 浜中にいた頃は、毎年6月の末になるとやって来る彼らを待っのを楽しみにしていた。
 朝、4つの馬小屋から馬たちがパドックに出て行く。その時に、何頭か、必ずボトボトとウンコを広場に落とす。馬房の中で静かにしていた馬が、歩く事の刺激によって、便意を催すのもあるし、習慣になっていた馬もあり、そして、他の馬の落とした糞を、立ち止まって嗅いでいるうちに、便意を誘発されたケースもある。
 まあ、とにかく、広場には、あちらこちらに、こんもりと物が残されていた。

 そこにキジバトがやって来る。ドバトのように集団の形はとらない。たいてい2羽だった。
 彼らは、馬たちが落として行った馬糞を狙っていた。王国の犬たちも、実はこれを結構好む。けして丸いからとい言って、ボールのように投げあうのではない、もちろん食用である。何度も書かせて頂いたが、腹の具合の悪い犬ほど、これを食べたがる。そして、良い便に回復をするのである。
 
 キジバトたちは、馬糞の中の燕麦や大麦などを狙う。細断や圧ペン処理をされていない配合飼料を馬に与えると、ほとんど原形のまま未消化で馬糞の中に出てくる。
 いや、もとの乾燥した固い実ではなく、馬の胃腸を通過している間に、しっとりと水分を含み、ふやかした状態になっている。キジバトの胃にも優しいのかも知れない、とにかく、これが好きで、ひたすらついばんでいた。

 馬糞好みのキジバトのように、北国では、6月の中旬過ぎからが、夏鳥の季節であり、それに留鳥が加わって、森も林も湿原も原野も、そして人家の近くも賑やかになる。
 そして、この季節に張り切りだすのが、我が家のネコ『アブラ』だ。いいや、アブラだった.......とすべきだろう。
 昨年までであったら、今頃は、毎朝、林に姿を消し、やがて意気揚々と小鳥をくわえて戻ってきていた。スズメ、アオジ、センニュウ、一度はカッコウを捕らえてきた。
 
 ネコとしての正当な稼業である『ネズミ捕り』は弟分のアブラ2世が担当していた。アブラはネズミにはあまり興味がない、とにかく鳥なのである。
 我が家で、もっともスズメが集まるのは、ニワトリ用の配合飼料が撒いてある鳥小屋である。アブラが行くと、スズメたちは、小屋の庭にあるミズナラの枝に避難する。
 アブラは、その枝の上を見つめ、ひたすら、間の抜けた、もしくは勇気のあるスズメが降りてくるのを、身を伏せ、石になって待っている。そこに、身長が7センチほどのウコッケイのヒナが小屋から登場しても、知らぬ振り......、ひたすら、野の鳥のこだわっている、おかしなネコだった。

 そのアブラが、この夏、まだ1度も鳥をくわえて来ない。朝も私や女房が行くまで、眠っており、その後は、鳴きながら後をついて歩き、ネコ缶を開けてくれるのを待っている。そして、昼寝か、我が家の勝手口から出て来る室内派のネコたちに、ひたすらガンを飛ばし、うなり声を出す事の精を出して楽しんでいる。
 
 今年で5歳、まだ老いと言うには早い。この変化をどのように見るのか、庭のベンチでキジバトの声を楽しみ、膝の上のアブラのゴロゴロの音を感じながら、私は、少し考えている。