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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2002年08月31日(土) 天気:曇り 最高:19℃ 最低:15℃


 カラスが集まり始めた。前の道路の電柱に、多い時には4.50羽がとまり、賑やかに鳴き交わしている。
 巣立ちまで、家族単位で生活をしていたカラスたちが、長い冬を前に、いよいよ集団化する。これを見ると、ああ、秋だな〜と思う。
 
 『烏合の衆』という言葉がある。辞書には「カラスのように規律のない集まり...」と書いてある。
 おそらく、編纂をされた大先生は、何の疑問も持たずに、昔からの意味合いをそのまま書いたのだろう。
 でも、これは間違いである。そうそう『犬猿の仲』と同じぐらい大きなミスである。

 秋口に、カラスたちは集まり、日中でもカーカーと鳴きながら、実は組織の再編成を行っている。その年に生まれた子ガラスを新入生として迎え入れ、冬を乗り切るための群れ作りを行っているのである。
 これは、けっこう厳しい試練である。どこかに普通ではないところがあるカラスは、時には虐められ、追い出され、命を失う事すらある。
 多い時には数千羽になる、同じねぐらを使う集団の成員になるには、慎重な入群検査を受けなければならないのである。

 王国で保護をし、大きく育て、そして自然に還したカラスたちは、何度も、その試験に参加し、何度も跳ね返されていた。無事に群れに加入できたのは半数程度である。せつない程に、野生は厳しい。
 だったら、そのまま王国のケージの中で飼い続ければ、と言われる方もいる。ところがである、外の景色が見えない檻の中で飼っていても、外のカラスの気配を察知し、何とリハビリカラスが鳴き始め、そして餌よりも、外に出たがるのである。8月後半から9月にかけては、カラスたちの胸の中に、群れに入らなければ....と言う指令が満ちているのである。

 すんなり群れに入る事のできないカラスとは、どんな連中か....。
 これまた、実にせつない事だが、まず『見てくれの異常』である。羽がみすぼらしい、身体の大きさが際立って異なる(小さい、大きい)、嘴が欠けている、曲っている....等々。
 次に、『対人間の行動の行き過ぎ』である。
 あまりに人間に近寄り過ぎるカラスは、他の連中の警戒音を誘発する、緊張をもたらすのである。
 すると、お前はなっていない....とでも言うように、人慣れした子は虐められるのである。ましてや、人間に育てられ、実家で美味しい食べ物を1羽だけ貰おうものなら、たちまち、集団に襲われる。

 これが、数多くカラスが生息している道東に30年住んでいる私の、秋から冬の季節限定のカラスの観察と考察である。春から夏の分散する時期は、また別の法則で生きている。
 
 大きな群れを作る鳥ゆえに、集まった時の彼らの社会は、厳しいルールで律せられている。何となく、その機微は人間の社会に似ているところがあり、カラスたちを見ていると、つい苦笑いになってしまう。

 あっという間に8月が終わった。母屋のカシワの木に設置されている餌台には、エゾシマリスやエゾリス、そして多種の鳥たちが姿を見せるようになった。
 間もなく霜がやってくる........。

 



2002年08月30日(金) 天気:晴れ時々曇り・霧雨付き 最高:24℃ 最低:13℃


 そっと2階の寝室を覗いてみた。畳の上に2組の布団が並び、すでに片方には女房の身体が転がっている。薄い夏掛けの上にネコが3匹寝ている。大きなレオとチャーリー、そしてニャムニャムだ。タンスの上に置いてある、ネコ用ベッドになるカゴには、名前が付いたばかりのミックスネコ『コジロウ』が丸くなっている。
 テレビ台の下にもいた、よく暗い所で私が蹴飛ばす、黒毛のハナだ。

 しかし、いつもの賑やかな連中の姿がない、そう、三毛ネコのエの子ネコたちである。最近は、女房や私が布団に入ると、いよいよ出番とばかりに、追い掛けあい、ジャンプし、そして枕元でゴロゴロと喉を鳴らして人間の安眠を妨害していた。
 
 居間に戻って探してみた。
 子ネコたちは食卓の下に収めてある椅子の上で、母親の乳首に吸い付いていた。もう飲んではいない、満腹になり乳首をくわえたまま眠っている。

 早朝、娘とともに釧路に出かけた。6時に戻ると、盛んに母親のエが、鼻にかかった声で啼きながらウロウロとしていた。
 この啼き方は、子ネコを探す、呼び寄せる信号だった。すぐに子ネコたちが走り寄り、ソファの上でエのオッパイを飲み始めた。
 次に呼んだのは、9時過ぎだった。
 そして0時半.....また飲ませていた。エの腹部で夢みるように眠っている子ネコは3匹だった。今日、1匹が旅立ち(と言っても同じ町の中だが.....)、小柄な母親の腹部に余裕ができていた。

 母ネコや母犬は、子供の数を指を折って数える事はできない。従って、見えない所で子供を取り上げさえすれば、数が減ったと大騒ぎをする事はない。
 しかし、授乳を続けている時に子供の数が減ると、それだけ乳房が張る。すると、母親は、せつない声で子供たちを呼び寄せ、乳首を与える。
 
 今日、貰われて行った『みお』と名の付いた子ネコは、最近、特に良く食べ、良くミルクを飲んでいた。それがいなくなった事で、エの乳房は張ってしまったのだろう、残りの3匹では飲み干せないほどに。

 端で見ていると、まるで、わが子がいなくなった事を嘆き悲しんでいるように見える。可哀想に......と。
 でも、真実は『乳房の張り』から発生した自然な行為だと思う。母としての無駄のない行動のひとつとして.....。

 女房は、飛行機の時刻表を熱心に調べている。子ネコだけではなく、あと10日ほどで柴犬の子犬たちも実家を離れる。残暑のニュースが届く中、できるだけ輸送時間を短縮できるように、中標津だけではなく、釧路や女満別の空港を利用する事も視野に入れ、羽田で長い待ち時間ができないように、ルートを決めている。

 1匹の子ネコ、そして子犬から、またニコニコ顔の方が増えると思うと、なぜか、私と女房も嬉しくなってくる。

 みおの兄弟たち、まだ母親のふところで、眠りとゴロゴロを続けている。



2002年08月29日(木) 天気:夕立ち付きの晴れ 最高:28℃ 最低:16℃


 暑かった.....と書かせていただこう。久しぶりに30度手前まで上がった。おまけに夕立ちもあり、何となく夏のカケラを体験できた気がしている。この辺では立派な残暑である。

 そんな日は、やはり川遊びと、犬たちを引き連れて下の当幌川に行った。先日の洪水の跡があちらこちらに残り、倒れた草木や、その上に残った砂も目についた。
 犬たちは、川の楽しさをよく知っている。私が『川だぞ〜行くぞ〜』と一声叫んだだけで、一斉に山道に向かって走り出す。私と女房が川岸に辿り着いた時には、みんな一泳ぎを済ませていた。
 
 川の水量はまだ落ちつかない。通常なら長靴で渡る事が可能な中州も、レオンのベルクの背まで達する深さになっていた。
 今日は、ミゾレも来ていた。育児中は、なかなか遠出散歩をしようとはしない。子犬に何かが起きてはと、急ぎ足で大小便を済ませては、子犬の姿が見え、声が聞こえる範囲に戻っていた。
 それが変化してきたと言う事は、いよいよ巣立ちが近いということになる。人間が日数を数えて決めるものではなく、母犬が行動で示す適格な目安となる。

 午後になると、にわかに風と黒雲が出現し、夕立ちが牧場の周辺だけにやって来た。7キロ離れた町に行っていた女房と娘は、ほとんど雨に当たらなかったらしい。
 今日のように気温の高い日の雨は、犬たちにはシャワーなんだろう。子犬とともに小屋の入り口で外を眺めていたミゾレ以外は、みんな雨の下で寝ていた。
 そうそう、ニワトリたちも雨を嫌う。連中は、我が家の玄関を雨宿りの場所としており、雨の後には、そこにたくさんの糞が落ちている。いつかは、ウコッケイのウッコイが卵を産み落としていた事もある。

 夜になっても気温は18度、おまけに湿気があった。
 そんな中、町の文化会館で名誉館長をしているムツさんの講演『北の夜話』が行われた。今回はブラジルがテーマだった。しかし、そこはムツさんである、ブラジルを際立たせる周辺の話がたくさん間に挟まり、今の時代を見事に語っていた。
 暑い中、ムツさんの熱い話が2時間に渡って繰り広げられ、私たち聞き手は満足して帰路についた。次回が待ち遠しい。

 私はと言えば、午後、病院に行った。1ヶ月半ぶりの検査である。7月後半からバタバタ、出たり入ったりの外食中心だったので、数値を少し心配していた。
 結果はHbA1cで6.5.....5月中旬に12を超えていた人間とは思えない、その年でと、見事に優等生ぶりを発揮できた。
 ここで、良くやったと自分を誉めて、祝いに泡の出る麦茶を与えないところが、少し大人になった最近の私である。



2002年08月28日(水) 天気:霧雨模様 最高:19℃ 最低:15℃

 『氏より育ち』という言葉がある。たくさんの生き物たちに囲まれて暮らしてきて、いつもこれが頭にこびりついていた。
 とかく生き物は、まず最初の判断材料として『氏』が利用されている。それが特に顕著なのは競走馬の世界だろう。まだ1頭も産ませた事のない初めての種馬に対して、種付け料だけでも数千万円などと言うのがザラである。
 ある牧場主がしみじみと言っていた。交配料の高かった子馬と安い子馬がいると、どうしても人間の期待と目と世話は高いほうに向いてしまう。従って、同じように運動、そして調教をすれば、実はとんでもない好成績をあげられたかも知れない、そんな安価な馬がたくさん埋没しているはずだ......と。
 私は、これで構わないと思う。だからこそ天の邪鬼や名伯楽の出番があるのであり、そもそも、先日亡くなったサンデーサイレンスの子馬だけが良く走るのであれば、競馬産業自体がつまらなくなり、衰退してしまうだろう。あまり人の目を惹かない、種付け料が無料などという思いも掛けぬ馬の子が活躍する事があるから、そこにドラマを見い出し、多くのファンがついているのだと思う。

 今日、滋賀から1頭のサモエドのオス犬がやってきた。1月5日に我が家で生まれた子である。旅立ったのが3月中旬だから、5ヶ月半ぶりの里帰りとなる。
 
 『育太郎』と名が付き、Nさんに可愛がられている彼は、敦賀から小樽までの21時間の船旅を含め、長い時間を過ごしてきた動く犬小屋(車)から降りると、全員で吠えまくっている我が家の犬たちを躊躇することなく見渡し、まず父親のカザフに寄って行った。
 育太郎の尾は腰の上に巻かれ、軽く横に振られていた。そんな無防備な子にカザフも平常心で対応した。互いに鼻を寄せ、そしてカザフは息子の尻を嗅いだ。
 その時、カザフの尾も揺れ始めた.......これは、相手を認知した、許した証になる。

 他のオス犬たち、祖父のマロや柴犬のシバレ、ラブのセンなども、同じような確認行動をした。
 これは、非情に珍しい事である。生後8ヶ月のサモエドと言えば、もう1人前の成犬として扱われる。オスの場合は我が家のような群れ犬社会に入り込むのは、困難か、もしくは時間がかかる事が多い。
 それなのに、わずか数秒の匂い嗅ぎで儀式が終わるのは、不思議とも言える事だった。
 これが、お互いに知らない所(初めての場所)だったら可能である。しかし、群れの連中の縄張りの真只中で起きたのである。

 まず、私は記憶を考えた。犬たちは自己防衛のために相手を匂いで見分けている。だからこそ鼻先や尻の匂い嗅ぎ行動が重要になっている。
 育太郎の尻には、我が家の連中が覚えている匂いがあったのだろう。
 しかし、大人になった犬は、その姿だけでも他の犬にストレスを掛ける、特に相手の縄張りの中では。それが、この育太郎には無いのが不思議だった。

 その答はすぐに見つかった。
 すでに宮仕えをリタイアされたNさんは、育太郎が家に加わると、実に多くの機会、時間を使われて、1人と1匹の旅に出られている。そこで、多くの犬、多くの人間と育太郎は会っている。
 さらに、毎日の散歩も5〜7キロと、丹念に繰り返されていた。近所の子供たち、そしてオバさんたちにも人気の犬となっているのである。
 この生活の中で、育太郎は自分のテリトリー以外の場所での身の処仕方を覚えたのだと思う。Nさんのパートナーとして。

 我が家で生まれ、ラーナの乳首に兄弟8匹と争って吸い付き、群れの犬たちに社会性を仕込まれ、ネコとニワトリに恐さを教えられたこと......これは『氏』だろう。
 それに加えて、どんどん地域社会、そして大好きなNさんと密着した形で遠方への旅に出る生活....これが『育ち』になる。
犬の世界では『氏より育ち』ではなくて『氏も育ちも』となるのだろう。
 この二つがバランスよく重なりあって、育太郎は実に見事な若オスとなっていた。
 
 女房と私は、また来年の再会を楽しみにしています、とNさんに告げた。海外に数多く旅をされていたNさん、今年の3月からは、まだ1度もパスポートを使っていないと仰っていた。

 



2002年08月27日(火) 天気:曇り、そして雨 最高:20℃ 最低:14℃


 昔、こんな事があった.......。
 そう、まだ結婚する前の事だから、27、8年も前になる。ヒロ子ちゃん(当時は、現女房をこう呼んでいた....みんながである)と私は、春の嵐の後、親にはぐれたり、弱って浜に打ち上げられたアザラシのリハビリ飼育をしていた。
 7月のある日だった。朝から気温がグングン上がり、飼育室の中は蒸し風呂のようになった。少しでも風を通そうと、窓を開け、反対側にあったドアも開放して、暑さ対策を講じていた。
 朝の餌や、部屋の掃除の後、付き添っていた私は、いつの間にか居眠りをしていた。

 『イシカワ君、いないよ!!アザラシが!!』

 ヒロ子ちゃんの大声で目が覚めた。ゴマフアザラシが消えていた。
 その建物は、ムツさんの書斎として建てられたものだった。したがって室内にプールなどはない。アザラシはドアを出て建物を半周し、そこに設置したタライや古い風呂おけで行水をするようになっていた。アザラシは利口である、いつの間にか、行水が終わると芋虫のような這い方で戸口に戻り、段差を乗り越えて自分で部屋に入る事もあった。
 だから、私は戸口の見張りをしていたはずだった。それなのに居眠り.....背筋を冷たいものが走り、あわてて建物の周囲を探した。
 しかし、どこにも姿はなかった。犬の声は聞こえなかったから
襲われたとは思えない、あらためて自分ならどうするかと考えてみた。
 ふと、思い出した。その前の年に収容したアザラシは、海でのリハビリの時、まだ波打ち際が遠くても、必ず海水のある方向に進んでいたのを。

 私と現女房は、建物の前方100メートルにある、海へと続く沢の確認に行った。
 『あった_!!この草の倒れた跡は、きっとアザラシよ!!』
 戸口から海を結ぶ線上に、押し倒されたノブキなどがあった。そのすぐ下が沢であり、500メートルで大平洋に出る。
 二人で沢を下って行った。アザラシはあと200メートルで浜、と言うところを、一心に海を目指して這っていた。
 せっかく頑張ったアザラシには申し訳ないが、まだ生きた魚でのトレーニングは終わっていない、30キロ近い身体を抱き上げ、汗をかいて建物に収容した。

 今年の夏の大きな話題に、多摩川で見つかったアゴヒゲアザラシの事件がある。タマちゃんと名が付き、各テレビ局をはじめ、多くのマスコミや見物人でにぎわっていた。しばらく姿が消えたと思ったら、今度は鶴見川に出現との事、またまたテレビカメラが並んでいる。
 私は、多摩川の時から気になっていた。何が.....。そう、あの痩せた身体である。
 何方かが、餌の魚を追い掛けているうちに、北の冷たい海から、猛暑の東京、その多摩川まで来てしまった、などと不思議な事を述べている。
 そんな馬鹿な事をするほどアザラシは愚かではない。でも実際にタマちゃんになってしまった....これは、明らかに病気である。まだ本当には解明されていないイルカやクジラの迷いこみ、浅瀬への打ち上げと同じように、体内の羅針盤、センサー等に異常があると思われる。
 従って、どんなに多摩川の水は清くなり(私が近くに住んでいた頃は、あそこには洗剤の泡が漂い、風にのって舞っていた)、天然の鮎が戻ってこようとも、バイカルアザラシでもない限り、淡水魚は好まない。
 食べていない証拠に、日を追うごとに腹部の肉が落ちて行った。

 健康なアザラシとは、おまぬけクンが居眠りをしていたら、コレ幸いと海を目指すのである、たとえ幼くても。
 鶴見川の水質うんぬんよりも、方向感覚を失ったアザラシが他に記録されていないかどうか、世界をくまなく探り、もし多くの事例があったとしたら、それが何によってもたらされたものなのかを探る必要がある.....タマちゃん、改めツルちゃんは、人類が気づかぬ何かを警告にやって来たのではないか、私は、そんな心配もしている。



2002年08月26日(月) 天気:腫れ....ではなくて、晴れ 最高:24℃ 最低:12℃


 目が覚めた時、まず頭を動かしてみた。痛みはなかった。次に、仰向けのまま、膝を持ち上げてみた。左足を抱えるように曲げた時に、腹筋と太ももの筋肉に緊張と痛みが走った。私はニヤリとし、薄い掛け布団の上で寝ているチャーリーとミンツを跳ね飛ばすようにガバッと起きた。
 今日も朝日が差し込んでいた。首を振ってみたが、音も痛みもなかった。左側の背筋と腹筋、そして太ももだけが張っていた。これは競馬をした後では普通の事で、けして落馬によるものではない。何となく物足りなさを感じながらも、ネコたちと階下に降りて行った。

 一昨日の豪雨で、犬たちとの散歩コースになっている当幌川が、またあふれている。昨日の夕方、少しは水位が下がったかと、いつもの連中と様子を見に行った。お調子もののセンタロー(センちゃんの本名である)は、勢いをつけたまま、川の30メートル手前の下り坂を駈けて行った。降り切った所に直径が1メートル以上のオヒョウの大木がある。その横にいつもの道があるはずと、センタローは全力で突入した......しかし、通い慣れた柔らかい土の道はどこにもなく、そこには同じ土色でも、濁った流れが渦を巻いていた。
 センタローの勢いは止まらなかった、ちょうど昨日のレースで、ロープでブレーキを掛けたモタロウの上の私のように.......。
 頭から濁流に突っ込んだ彼は、一瞬、水の中に消えた。次に私と女房が見たのは、必死に犬カキをして前方の草むらに泳いでいく犬の姿だった。
 
 その様子を見て、後続の連中は躊躇していた。いつもなら、真っ先に川に飛び込むカボスやタブですら、濁り水の前で、かすかに足を濡らす程度で、どうすべきかと考えていた。
 ハンゴンソウの小さな黄色い花の集まりや、葉を失ったオオウバユリが、流れに身を傾けながらも懸命にその場に留まろうとしていた。
 センタロウは、女房の声に、意を決したように、再び(今度は自らの意志で)飛び込み、下流に流されながらも、何とか仲間たちの方に戻って来た。

 しばらく、なんだかんだと、やけに多い今年の洪水の話をする人間の周囲で、犬たちはごまかし程度に足を濡らし、もう帰る体勢になっていた。異常な事は、彼らの警戒心を呼び起こし、そこから離れようとする信号が脳から出ているようだ。

 今日、同じ道を、異常が好きな(どうも父親に似たようだ、台風、吹雪となると張りきりだす....)娘が、2度も川の様子を見に行った。女房と犬たちが同行し、帰りにマタタビの小枝を折ってきた。
 川は、いつもの流れに戻っていたらしい。しかし、あふれた水が低地に残り、風景は変わっていたという。犬たちは、まだ濁りと、土手のすぐ下までの高さで流れる川を恐れ、ほとんど川遊びをしなかったとの事である。

 娘は、さっそくマタタビを居間の床に置いた。まずアメショーのワイン母さんが寄って行った。次いで、ワインの娘のパドメ(いつの間にか、娘がそう付けていた)、そしてワインとネズミの間に生まれた米露ミックスの若ネコ、コジロウ(これも娘の命名である)が鼻を葉に付けた。
 その後、エの4匹の子ネコをはじめ、すべてのネコたちが1度は確認に来た。しかし、それほどの執着は見せず、あっけなく去って行った。最初に寄ってきた3匹っだけが、葉を齧り、茎を舐め、そして身体を転がして枝を抱え込んでいた。
 子ネコたちは、匂いの反応はまった示さなかった。それよりも、まだ青いマタタビの実を床の上で転がして、単なるオモチャにして遊んでいた。

 実は、これまでに何度もマタタビによる実験をしている。結論から書くと、ネコたちが最も反応するのは、6月の、葉が出揃った頃である。白やピンクに変身する葉が出始めた頃とも言える。
 それを越すと、どうもネコの興味は薄れていく。ネコが引き寄せられるマタタビラクトンの含有量が少なくなるのだろうか。
 子ネコが興味をもたないのは、おそらく、まだ感覚系の発達が完全ではないためだろう。

 まだ人間が食するには実が若い。あと1ヶ月もすると焼酎に漬け、冬に楽しもう。なんせ漢方でも有名なマタタビなんだから.....。
 



2002年08月25日(日) 天気:晴れ間、そして雲と雨 最高:22℃ 最低:13℃


 昨夜は、これから日記.....と言うところで雷雨となってしまった。稲妻と音が5秒以上離れていれば、そのまま書こうと思っていた。しかし、犬たちの悲鳴のような啼き声とともに、どんどん雷が近づき、私はPCの電源を落としてしまった。
 めったに雷が出現しない所だが、運悪く近くのトランスなどに落ち、PCの回復に大枚をはたいた人を何人か知っている。従って、備えは早め、早めとなってしまう。

 凄まじい音をたてて樹木や屋根、北側の窓を打つ雨音を聞きながら、たぶん、前線が通過中だろうから、少し寝ていれば収まるだろうと、私は仮眠のつもりで布団に入った。めったに11時頃に寝ることはないので、ネコたちのスケジュールも狂ったのだろう、何匹かが見にきたが、ともに寝ようとはしなかった。

 突然、ガタガタという音と身体の揺れを感じて目が覚めた。地震、それも7年前の震度6を思い出させる長い揺れだった。隣で寝ている女房もがばっと上半身を起こし、周囲のネコたちも不安そうに立ち上がっていた。
 大きくなるなら、ここでヒネリが加わるぞ....と覚悟をしたところで、幸いにも家鳴りは終わった。
 ここで、日記がまだなのを思い出せば良かった、しかし、私はほっとしたまま、再び眠りの中に落ちていった。雨音はまだ続いていた。

 昨日を振り返ってみよう。
 不思議と来客が集中する特別な日というのがあるもので、8月24日は、そんな1日だった。
 来られた方の住んでらっしゃる所を都道府県で書くと、次のようになる。
 福岡県、山口県、大阪府、東京都、そして北海道である。
 人数にして10数人、4つのグループだった。
 
 その中で、北九州からは古い友人のSさんが、中学生を2人、高校生を1人連れて自家用車でやってきた。
 
 ここ10年、夏休みになると、多い年には10人以上の生徒たちを、自分の運転するキャンピングカーに乗せて、はるばる北海道まで体験学習に来ていた。自分の妻と子供を連れてきたのは、昨年が初めてで、他はすべて、面倒をみている乗馬愛好クラブのメンバーである。よくぞ離婚をされないものだと感心していたが、自分の家族よりも、親でもないのにクラブの生徒たちのために、貴重な夏休みの10日間を充実した旅に使うSさんの実行力に感心していた。

 今回も、20日に小樽に上陸した後、道内各地を巡って、最終目的地の王国に来てくれた。中標津の競馬を楽しみ、そして犬やネコたちの事を学び、生徒たちと外乗を楽しんで帰っていく。
 無事に旅が終わる事を、そして生徒たちの心に何かが残る事を祈っている。

 さて、雷雨と地震の一夜が明けた今日、8月25日の事を書こう。

 目を覚ますと、何と、窓からは朝日が差し込み、風の音は消えていた。ネボスケのネコ、ハナちゃんとチャーリーが寝ている布団を大袈裟に動かし、私は外に出た。降水量のあたりをつけるために、昨夜、空にしておいたバケツに15センチ以上の雨水が溜まっていた。やはりかなりの豪雨だった。これで、中標津の8月としての雨の量は、おそらく新記録になっただろう。

 年に1度の馬好きの祭り『中標津競馬大会』は、かなりの雨でも開催される。昨夜、たっぷりと降ったとはいえ、今は晴れている。これは急がなければと犬たちの作業を駆け足で済ませた。

 競馬場に着くと、乗馬のコースでは大型のグレーダーとダンプが作業をしていた。コースの各所に沼ができており、そこに砂を入れて、何とかレースができるようにしていた。
 ここの大会は、乗馬と、重いソリを200メートル曵く(途中に2ケ所、小山のような障害がある)重種馬のバン馬レースの2種類が、交互にスタートしていく。

 しばらく、コースの整備をしながらのレースが続き、いよいよ王国勢の1000メートルキャンターレースとなった。予定では、私は午後の2000メートルに出場の筈だったが、思いやりのあるメンバーが揃っていて、年齢の高い私は2000では身体がもたないだろうと、急きょ、変更になっていた。
 
 乗る馬は『モタロウ』である。
 実は、この去勢したオス馬は、まだ発展途上の乗用馬だった。何度も騎手を地球の友だちにしている子だった。おまけに、私は、まだ1度もモタロウにまたがった事がなかった。
 しかし、どんな評判が付いていようと、それが変わっていくのが生き物の面白いところである。特に馬は、練習よりも、実際の競馬の場で大きな進歩を遂げる。そんな変化を何度も見ていた私は、それほど不安を抱かなかった。面白い事に、モタロウを気に入り、他の誰よりも多く乗っているカオリ氏が、
 『本当に、気をつけて下さいね、ぶっとぶ事がありますから、それも突然に....!!』
 と、もっとも私を脅してくれた(もちろん、年寄りを思いやっての言葉である)。
 私は、ニコニコとしてモタロウの首を抱き『よろしくな!!』と囁いていた。

 今回は撮影班にまわったカヨちゃんが、全身を震わせ、目が忙しく動くモタロウをなだめながらスタート地点に治めてくれた。首を振る事もなく、手綱への反応も落ち着いてきた....このチャンスを逃すとまずいと、私は馬上からスタート係の役員に、
 『オッケーです、お願いします!!』
 と叫んでいた。
 こんな自由がきくのは、これまた草競馬の良いところで、このレースは『ムツゴロウ特別キャンターレース』と名の付いた、王国メンバーだけのレースだったからだ。

 8頭が、入れられたばかりの深い砂を蹴ってスタートした。皆の大声が聞こえた、と、次の瞬間に、私はモタロウが右に目をやったのに気づき、左の手綱を握りしめた.....。
 しかし、遅かった、馬の力にはかなわなかった。
 スタート地点から10メートルの所に、パドックから馬場に入る出入り口があった。たとえ初めてそこに来た馬でも、この場所をしっかり覚えているもので、走るのが辛くなったり、雰囲気が恐かったり、単に臆病な馬などは、そこに進行方向を変え、ロープがあろうと突き破ってつなぎ場に戻ろうとする。

 モタロウは見事にそれを実行した。しかし、そこにはロープ....急ブレーキである。
 科学を愛し、科学を信じる私は、科学的な慣性の法則にのっとり、これまた見事に大地、それも濡れた砂の上の人となっていた。
 でも、誉めていただきたい、頭、背、腰に衝撃を感じ、帽子とゴーグルが行方不明となった中で、私はモタロウと私を繋ぐ拠り所『手綱』を離さなかった。従って放馬とはならず、あわててとんで来たカヨちゃんが押さえてくれているモタロウに再騎乗し、レースに復帰することができた。

 悪い事は重なるものである。
 落ちたのが、もっとも観客の多いスタートとゴールのある正面側、さらに実況中継のアナウサーのブースの前だった。昨年までなら、レースの実況は農協や役場の職員さんなどがおこなっていた。のんびりとした草競馬らしい風情だった。
 ところが、である。今年は寄付金が多かったのか、何と釧路からプロの女性を呼んでいた。さらに悪い事に、その方と私は、あちらこちらで何度か一緒にイベント等の仕事をしていた。

 『アッ、イシカワさん、大丈夫でしょうか?落ちました、イシカワさん、落馬です!!』

 ここで、私は自分を誉めたい、そのアナウスをしっかり耳に入れる余裕があった!!
 観客は、心配というよりも、さて、どうなるかと期待でモタロウと私を見ている。それはそうである、きれいにスタートした他の7頭は、すでに2コーナーまで進み、観客席からの視界には入らない。だったら目の前のハプニングを楽しもう.....と言うところである。

 私は、期待に応えなければならない使命を感じた。
 『ハ〜イ!!大丈夫デ〜ス、では、行ってきま〜す!!』
 馬上でそう叫ぶと、右手を大きくあげて挨拶をして、もう音も聞こえない馬群を追った。

 レースの結果は、後で人に聞いた。猛烈なスピードで追い上げはしたが、やはり私はビリだったので、前の状況は判らなかった。
 頭はタカスギ・コダマだった。半身差の2着にマロンに乗ったアッコ、3着がアキヤ・ケイだった。
 このHPの掲示板に、道東の情景、そして獣医として様々なアドバイスをして下さっているHさんは、競馬2度目にして見事5着に来ていた。

 私にも、もちろん収穫があった。それは微かに残る(今のところでは....)頭の痛みと、再騎乗後、再びパドックへの出入り口に差し掛かった時(スタート時とは違い、今度は全速である)、目と耳と全身で逃げようとしたモタロウを制御できた事である。
 ひょっとすると、今日のレースで一皮むけたのでは.....そんな期待もしている。結果は9月の別海町の競馬大会で判明する。

 



2002年08月23日(金) 天気:晴れのち曇り 最高:19℃ 最低:8℃


 朝のニュースで初霜が降りた所があると言っていた。中標津も8℃まで下がり、澄み切った青空が秋の色だった。
 エゾゼミとキリギリスの饗宴が賑やかに繰り広げられている。競演と書くべきだろうか、夏の終わり、そして長い秋の始まりを告げる音楽である。

 いよいよ、生き物たちも、厳しい冬に備えての準備に入ったのだろう、外ネコのアブラとアブラ2世の活躍が目立つようになった。そう、原野での狩りが絶好調なのである。
 昨日と今日の2日間で、私が確認しただけで、下記のような実績を示してくれた。

<アブラ・メス・避妊済み・5才>
 アオジ 5羽、スズメ 1羽、ヤチネズミ 1匹。
<アブラ2世・オス・去勢済み・5才>
 ヤチネズミ 5匹、トガリネズミ 1匹。

 これだけ運んでくると、全部は食べられない。もともと食用にならないトガリと、アオジ2羽、ヤチ2匹は、カラスが嬉しそうにくわえて行った。

 それにしても、我が家の裏に5分ほど姿を消した、と思ったらすぐにアオジをくわえてアブラが出てきた。何と上手いハンターかと感心するとともに、もっと警戒しなさいと、アオジに言いたくなる。けしてネズミを下に見ているわけではないが、小鳥の息絶えるところを見るのはせつない。

 この2匹のネコの本能は、たとえどんなに美味しいネコ缶をたっぷり与えても隠れはしない。しっかり食器の餌をたいらげ、その後、デザートを自主的に探しに行くように外出をして行く。
 まさしく、これぞネコと言う生活振りに、ただただ感心してしまう。
 先日の計測では5.6キロまで落ちていたアブラ2世の体重が、この2週間で6.3キロになった。今が、もっとも餌を確保しやすく、そして狩り心が大きくなる時期である、この分なら、憧れの7キロに到達するのでは......。目標としている千葉のKさんのポン太に勝てるかも知れない、この冬が楽しみである。

 外出から遅い帰りとなった今夜、車のライトは、アブラ2世が庭のベンチの上で、獲物のネズミを食べている姿を照らし出した。目が怪しく光り、『見たな...!!』....そんな表情に思えた。

 もうひとつネコの話題を書こう。
 昨夜、初めてエの4匹の子ネコたちが、私と女房が寝る時に、レオなどの大人のネコたちとともに、2階の寝室にやって来た。
 よほど嬉しかったのだろう、そして、枕元に本が山積みになり、タバコやらライターやらが転がり、布団に毛布、枕にスタンド....と言う雑然とした部屋が、まるで遊園地に思えたのだろう、4匹はいつまでも部屋中を運動広場にして駆け回っていた。
 
 『コラッ、いいかげんにしないか!!』
 
 と、怒鳴ってみても彼らには通用しない。逆に、私が身体を起こし、子ネコに声をかけるたびに、毛布の下で足が動く、それが適当な目標となり、いわゆる捕獲ジャンプをして、私の足を毛布の上から押さえるのだった。

 朝、その話を女房から聞いたネコ大好き人間の娘は、

 『いいな〜、お父さん、今夜から部屋を替わって.....!!』

 そう言って、自分の枕を移動していた。
 替わるのは一向に構わないが、子ネコたちが、眠っている人間の顔の上を、スパイク付きの靴でジョギングをしていくのに耐える覚悟が娘にあるのかどうか、結果は明日の朝、判明する。



2002年08月22日(木) 天気:曇り時々雨、まれに晴れ間 最高:16℃ 最低:12℃


 我が家から釧路の市内まで、およそ90キロである。主なルートはR272となる。今日、用事があって女房と娘を乗せて往復した。途中、7ケ所で工事が行われており、片側交互通行となっていた。まあ、この辺の事だから、止められて待っている車の数は10台にみたない。いつもと変わらぬ時間で行き来ができた。
 
 工事の中で、もっとも大掛かりなのは別海町の部分である。片側2車線の高規格道路になるとかで、立体交差等の大工事が進んでいる。
 実は、この計画が始まる前に、開発局などの主催するシンポジウムで、私は話をさせて頂いている。某代議士で有名になってしまったが、この計画は様々な業者が期待する公共事業であり、そして、私のように根室地区の奥に住んでいる人間にとっては、とても嬉しい道路だった。
 都会の方はピンとこないかも知れないが、実際、釧路のお医者さんはこう話してくれた......
 
 『標津や羅臼が、もう少し近ければ、あと何人かは助けられた.....、それが無念でね〜』

 そう、彼は脳外科のドクターである。クモ膜下や硬膜下の出血、交通事故、さらには心筋梗塞などの発作を起こした患者の事を言っているのである。
 
 確かに、片側を止めても、3分で10台も停まらない交通量の道である。しかし、JRはとうに廃線になり、もしその道が通行止めとなると迂回路は2倍近く時間のかかる道となってしまう.....それが、根釧原野なのである。

 奥根室地区と道東の中核都市である釧路を結ぶ『命の道』として、272号線が予定通りに完成する事を私は祈っている。
 今日、東京で会議が開かれているが、原野の1本の道は、第2東名とは、まったく異なる性格の道である。代替えの効かない貴重なルートであり、その工事費は距離に比して、それほどかからないのである。

 そんな事を、私はハンドルを握りながら考えていた。と言うのも9月に娘が手術を釧路でするからだ。骨に関してなので、退院までは数カ月はかかるらしい、その間、私と女房が何度も通う事になる272号線、それは別名『通院道路』とも呼ばれている。朝1番のバスには、早朝4時に起きて1日がかりで釧路の大きな病院に通う羅臼、標津、中標津などの方が、いっぱい乗っている。従って、いつの間にかバスのルートも、釧路の駅に真直ぐには向かわず、途中で寄り道をして2つの病院に行くようになっていた。
 これが広い大地の現状である。
 



2002年08月21日(水) 天気:強風・曇り時々雨 最高:16℃ 最低:13℃


 『うわ〜大きな犬がいっぱいだ〜〜!!』
 『吠えてるよ、噛まない?』
 『クサリ、切れるんじゃない、あんなに引っ張ってると....』
 『恐いよね〜、あの顔。おまけにフガフガうなっている!!』
 『こっちの子犬、可愛い〜〜抱きたい!!』
 『4匹いるね、柴犬だ〜』
 『子犬に手を出すと、親に噛まれるって家の母さんが言ってたよ』
 『この子は大丈夫そうよ、ほら尾を振ってるし、うならないよ....』
 『落とさなければ、抱いていいってオジサンが言ってるよ、私、抱きたい〜』
 『そうか、啼いてる犬は、待ってるのか、僕たちを.....』
 『やられた〜、見て、この泥....あの白い犬が飛びついてきた〜』
 『キャ〜、誰か助けて〜、このニワトリ、恐い〜、飛びかかって来る......!!』
 『走ると、よけいに追い掛けるんだって、止まったら!!』
 『だって、痛いんだも....ねえ、誰か何とかして〜』
 『あのう.....子犬に噛まれたんですが.....リーダー、消毒薬ありますか?』
 『どこ?血もなにも出てないよ、大丈夫、そのままで.....』
 『でも、赤くなってるし、ばい菌があるでしょ...』
 『大丈夫だっつて、気になるならそこのホースで水を出して洗ったら....』
 『ダイちゃ〜ん、この犬、何ていうの.....?』
 『それはカボス、さっき会ったロックと兄弟、母親は、そこのベルクだよ』
 『ねえねえ、家の中にネコがいっぱいいるよ、私、抱きたい〜』
 『外にもいる、ネコが、犬に噛まれないのかな〜?』
 『大丈夫なんだって、仲良しだって。一緒に寝る事もあるってオジサンが言ってたよ』
 『あっ、雨が降ってきたら、あのネコ、犬小屋に入ってしまった、優しい、あの白い犬!!』
 『ねえ、1班から家に入っていいって、やった〜子ネコに会えるね〜』
 『順番だよ!!あなた3班だから、まだよっ!!』
 『おしっこに行くんだよ.....!』
 『だめよ、男の子は外でしなさいってリーダーとオジサンが言ってたよ』
 『恥ずかしいよ、そんな事できないよ〜』
 『すっごいね、あんなにネコがいると楽しいね。子ネコ欲しいな〜〜』
 『山羊もいるんだって、どこかな?』
 『ニワトリの所の向こう側にいたよ、ヤギ。大きい!!』
 『そこの木の枝を折っていくと食べてくれるよ、あの山羊』
 『あっ、ダイちゃんが何か言ってるよ......』
 
 『そろそろ時間で〜す、残念だけどね。みんな犬やネコたちといっぱい遊んだかな、では、最後に、自分の1番好きな犬に挨拶をしてバスに乗ろう、いいかな〜』
 
 
 今朝までの強い雨もおさまり、全国からやって来た小学生のツアーも無事に進行した。寒い気温とともに、命との出会い、新しい友だちとの出会いを、きっと心に刻んでくれた事だろう。



2002年08月20日(火) 天気:ひたすら雨 最高:14℃ 最低:13℃


 台風と前線の影響で、昨日から雨が続いている。犬たちと散歩に行く当幌川があふれ、ヨモギや紫の花を付けたトリカブトが濁った水に倒されていた。
 先日、刈り終わった牧草地には、低い所に雨水が集まり、草の根を剥ぎ取って、黒い川が出来ていた。古い畑なら草の根がしっかりと張っているので、こんな事にはならないのだが、あいにくその畑は昨年の秋に更新(耕して新たに牧草の種を播いた)したばかりだった。
 強い雨足をフロントガラスに受けながら、傷ついた牧草地を見ると、農家の生まれ故の事かもしれないが、心が痛む。

 朝、いつもならば犬たちと散歩に出る時間が、もっとも降りが強かった。例によってカボスとダーチャだけは小屋の外でシャワーを浴びていたが、他の連中は姿を隠していた。
 こんな時は、私も女房も様子を見る事にしている。居間の窓から眺めると、ベルクもタドンもメロンも、そしてマロもセンも、この雨では仕方ないね、待ってるよ.....そんな表情で、小屋の中から私たちの顔を見る。強い雨でなければ、人間の姿を確認したとたんに、小屋から出て、ゆっくりと尾を振りながら玄関を見つめている。

 そんな憂鬱な雨の中、早朝に中標津に到着した札幌からの都市間バスで娘がやって来た。替わって午後の釧路からの列車で、息子が帰って行った。
 まあ、親孝行と言えるのだろう、二人の子供は同じアパートの部屋で暮らしている。何を食べているのか知らないが、今回、息子のズボンはゆるゆるだった。かわりに娘はピチピチでやって来た。
 そんな小さな変化はあっても、家に戻ったふたりの存在は、何ヶ月も会っていない犬やネコたちにとって、それほど目新しいものにはなっていない。
 いいや、ほとんど変わっていないと言うべきだろう。

 相変わらず、ターキッシュバンキャットのレオは娘のからかいから逃げ(玄関に娘の声を聞いただけで冷蔵庫の上に行った)、メロンとベコは娘の姿に尾を振り、息子の大きな身体を見つけると、ネコのチャーリーが寄っていった。

 生き物たちの記憶を思う時、必ず二人の子供たちとの関係を考える。少なくとも数カ月の重なりがあれば(但し、犬、ネコが大人であること)、かなりの確率でその人間を覚えている。それが、どのぐらいの間隔まで可能なのか、それとも1生続く記憶になっているのか、今、私は観察を記録している。
 今の段階で言える事は、声の記憶に匂いが重なれば、2年後でも100パーセントに近い確率で、嬉しそうに尾を振ってくれるようだ、犬たちは。

 娘は、しばらく家にいる。明日からは、レオの変化を観察しよう。ネコ好きの娘を苦手とする唯一のネコ、それがレオである。彼の心の変化を追ってみたい。

 雨に北風が加勢してきた。女房がパジャマ姿で現れ、どうしようと聞いてきた。外の犬小屋にいるミゾレと4匹の子犬を案じている。
 『大丈夫だよ、風が北に回ると思って、小屋の向きを変えておいたから.....もう少し様子を見よう。ミゾレもしっかり抱いているようだよ....』
 夕方、空にしておいたバケツに10センチの水が溜まっている。雨は止む様子がない。



2002年08月18日(日) 天気:曇り時々小雨 最高:17℃ 最低:14℃


 月初めから、浜中の王国に研修に来ている千葉のUクンを我が家に呼んだ。彼女が来てから旅に出てばかりだったので、初めての顔会わせ.....いや、あまり記憶には残っていないが、この2月のツアーの1員として来ているので、2度目の対面になる。
 しかし、2月の時は多くの皆さんの中のひとりであり、個人的に会話を交わしたわけではないので、今日が初めてと言っても良いだろう。
 
 Uクンは『Yカレッジ』という動物の専門学校の2年である。3年制なので、ちょうど半ばにさしかかった時期になる。目標は『AHT・獣医看護士』である。
 その勉強の一貫として、様々な犬種、ネコ種が奔放に暮らしている王国での研修を希望して来てくれた。

 我が家に着いたUクンは、準備万端、犬たちが飛びついての歓迎をしても構わないように、雨具のようなズボンを上に履いていた。
 私は、ひとつひとつ、犬を、ネコを、そして彼らが示しているサイン、心を解説していった。これまで、彼女が考えてきた事、学んできた事と異なる場合は、それが何故かと、詳細に科学的に話をした。

 意欲ある研修生と、なりゆきや憧れ、ちょっと名の知れた所の見物程度の実習生では、話を聞く時の瞳が違う.......。
 Uクンは、昨年の大阪から来た学生と同じ輝きとしつこさを持っていた。このような相手を前にすると、こちらもつい力が入り、すべてを語ろうとしてしまう。
 学校とは、何かを教えてくれる所ではない。どうすれば、自分の求めている進路への情報、知識、技術の道が開けるか、そのナビゲーションを得る所である。Uクンの素直な言葉、表情をみていると、彼女は自らの力で切り開いていくだろうと感じた。

 半日では話は終わらない、送ってきた王国の仲間には先に帰ってもらい、Uクンには我が家の作業の手伝いと観察を命じ、その後、私の車で浜中に送り届けた。
 もちろん、道中も、様々な話を続けていった。
 最後に一言、たとえ生き物たちを扱う仕事でも、肝心なのは、いかに人間を好きになるか、人間と明るく挨拶ができるか.....そこにかかっていると話した。もちろん笑顔とともにあれ.....と。
 Uクンは、爽やかな笑顔で頷いてくれた。

 浜中に着くと、ちょうど夕食が始まるところだった。居間兼食堂には、15匹ほどの犬たちがたむろしていた。
 私のポケット(常にジャーキーが入っている)を狙いに集まってきた連中の頭の上を飛び越えて、台所に立っていたフルゾノさんの声が聞こえた。

 『イシカワさん、プリンが2日、何も食べていません.....水だけです』

 私は、あわててプリンを探した。18歳の老犬は、元気な犬たちの陰で、私のポケット狙いで振り回す犬たちの尾の、往復ビンタ攻撃を受けていた。
 
 『プリン、どうした、元気がないのか!!』
 
 もちろん、私の声は聞こえない、手を近づけても白い瞳は反応を示さない。しかし、美味しい物の匂いが鼻先に現れると、ガブリと手加減なしに食らい付いてくるのが、いつものプリンのはずだった。
 
 しかし、今日のプリンは私の指を齧らなかった.....軽く鼻を寄せ、顔を上げて、見えない瞳と聞こえない耳を向け、私の存在を確かめる仕草をした。しばらくすると、下がっていた自慢の巻尾が、明らかに持ち上がり、風に吹かれた程度に、左右に揺れた。

 『大好きだったチーズも、生の牛肉も、そして、ハムもミルクも食べないんですよ、水だけです.....』

 フルゾノさんは、先日、ゴールデンの老犬レイラを失っていた。その直後に体調を崩した14歳のセントバーナードのボスは、何とか体調を回復させていた。
 そして、プリンである。彼女のグループの犬たちは、大きな過渡期を迎えていた。せつない程に寿命の短い犬という生き物ゆえに、仕方のない事ではあるが、一度に押し寄せてくるのは、それぞれに思い出の多い私にも、感じる事が多い......。

 『ガンバレヨ、プリン!!』
 そう声を掛け、軽く胸を撫で、もう一度、プリンの姿を目に焼きつけると、霧雨の中、私は帰路についたのだった。

 短い研修期間ではあるが、Uクンも『命が老いる』という事を心に焼き付け、そして、世話をする手で考えてくれただろう。あるがままの王国は、若い皆さんの最高の研修の場だと思う。



2002年08月17日(土) 天気:曇り後雨 最高:不明℃ 最低:13℃℃

 苫小牧のデパートで開かれているペットのイベントの行って来た。同行したのは、カラマツ荘(独身者の住居)の住人であるカオリちゃんと、彼女の可愛がっている2匹の犬たちだった。
 ゴールデンウイークの盛岡、5月末の札幌、そして今回と、私の車は犬たちの運搬に活躍している。めったに掃除をする事がないので、落ち着く匂いが満ちているのだろう、黒ラブの『カルロ』とオーストラリアンシェパードの『ショウ』は、出発すると、すぐに後部の座席でゆったりと眠り始めた。

 14日、お盆たけなわと言う事もあり、道路は車の数が多かった。しかし、それはあくまでも北海道にしたは.....である。ラジオの交通情報が日高の静内から上りは渋滞しています、と伝えていたが、けして信号を2度以上待つことはなかった。
 それでも、苫小牧まで420キロ、いつもならば7時間もあれば悠々着く旅のはずが、予定よりも1時間半も余計にかかってしまった。
 今回、行きのコースとして、初めて『天馬街道』を選んだ。数年前に日高山地の下を通るトンネルが開通し、十勝と日高を結ぶ新しいルートである。
 天馬街道の名のごとく、トンネルを抜けると、そこは日本におけるサラブレッドのメッカだった。街道の横には次々と名の知られた牧場の看板と、きれいに整えられた馬房、そして放牧地が現れ、輝く馬体のサラブレッドが草をはんでいた。
 だが、時々、空家となった牧場もあった。厳しい状況が伝えられているように、競走馬産業もギリギリのところに差し掛かっている。どうか、ギャンブルとしての楽しみはもちろんだが、馬を守るためにも、多くの人に乗っていただき、めでていただき、さらに、食べていただき、加えて、どんどん馬券(外れでも構いません、数パーセントは馬のために使われます)を買って欲しい......事あるごとに話をさせていただいている、そんな私の『持論』を、ハンドルを握り、2匹の犬の軽いイビキを聞きながら思い浮かべていた。

 イベントに関しては、カルロ、ショウ、そしてカオリちゃんの大活躍が、私の拙い話を補い、大成功だった。32年間の王国での犬の科学(生理、行動、犬種学等の....)の集大成として、今、言葉と行動で伝えさせていただく事が多いと、見に来て下さった方の反応から感じられた。
 そう、無念な事に、これほどペット産業が花開き、文化までもが出来上がろうと言う時代に、あまりにも誤解が多いのである。
 それは、私がステージを終え、同じ会場の片隅(最近はどこでもそうだが....)にある喫煙所で『命の一服』をしている時に、より鮮明になった。
 いくつか紹介をすると、次のような相談がが寄せられたのである。

(1)初めて発情が来ました。生後7ヶ月のメスのコーギーです。それまで、室内のトイレでしっかりとオシッコをしていたのに、発情の時に、あちらこちらに漏らし、回数も増えました。専門家に相談したところ、犬が自分をアルファだと思ってきたからだそうです、この程度の悪い事は、どんどんしても怒られないと、人間を馬鹿にして図に乗ってきている.....。
 以後、厳しくしているのですが、治るものでしょうか?

 私の答え簡単である.....
『統計をとってみて下さい、発情したメス犬は、小便の回数が増えて当然なんです。その中に含まれているオスを狂わすなまめかしい匂いを振りまき、良い男を呼び寄せなければならないのですから....』
 そして、念のために、トイレでの小便を復活させる誉め方をアドバイスさせていただいた。

(2)うちのジョン君(ミニチュアダックス2歳オス)は、何故かパパのサンダルだけを齧ってだめにしてしまうんです。新しく買って3日も履くと、ボロボロになっているのです。
 獣医さんは、ジョンがパパより上に、リーダーになりたいから、そうしているのだと説明してくれました。毅然として叱らなければ、ますます、つけあがると.......。
 リーダーだと思い知らせるのに良い方法はどうすれば......!!

 意を決して、会場まで足を運び、そして煙草の煙を鼻から吹き出している私に相談を切り出す方は、本当に真剣で、必死な思いを顔に出されていた。そのほとんどの方が、家族全員で来られていた.....。
 (2)に対する私の返事も簡単だった。
 『御主人、足、クサイでしょう?買ってきたばかりのサンダルは狙わないでしょう、匂いが付いてからではありませんか?』
 奥さんが、
 『そうなんです、1日、外回りの仕事ですので、ネコも逃げる匂いなんです、』
 と返事をくれた。

 『犬は、ある種の匂いにとても鋭敏で、興味を持つのです。主にタンパク臭ですが、人間の足等から出る脂肪酸の匂いにも集中します。そこで、御主人の香しきサンダルが手頃な獲物となってしまうのです。歯ごたえも気にいってるのでしょう....。』
 さらに、どこの世界にサンダルをバラバラにしたからと言って、その履き主よりも自分が偉い、などと考える犬がいるかと、あきれた話の否定もさせて頂いた。

 このような、『犬を飼うなら、人間がアルファに....!!』
 という、クソッのような理論が、今、犬と人間の楽しい暮らしの妨害を盛んに行っている。犬に向き合った時に、
 『こんな事をしたら、犬に馬鹿にされるのでは、こんな事を許したら、自分をアルファと思うのでは.....』
 そんな、余計な心配、余計な計算が先にたち、犬を家族にした事によってもたらされる『素直な楽しみ』が、まったく見えなくなっている飼い主さんが多い。
 この風潮の責任は、私たち犬を長く仲間とし、そこで歓びを得てきた人間が、正しい事を口にしなかったところにもある。

 大きな反省と、強い意欲を土産に、私は苫小牧を後にした。道中、札幌に向かう車線は混んでいた。しかし、逆に進む私の車は行く時よりも1時間以上も早く中標津に帰り着いた。
 
 夜、王国の室内馬場では、ムツさんを中心に仲間たちが集まり、夏らしくならなかった北の大地の『夏の飲み会』が行われていた。
 苫小牧の夕食、プンプンしながら心を鎮めるために泡の出る麦茶を飲んでいた私は、今夜はおとなしく『泡無し麦茶』のグラスを重ねた。岡田氏の焼いてくれた焼き鳥が、相変わらず旨かった。

 



2002年08月13日(火) 天気:雨 最高:17℃ 最低:10℃


 さすがに夏休み、そしてお盆である。道ですれちが車に道外ナンバーをよく見かけ、キャンピングカーやルーフリャリアで荷を積んでいる車も多い。皆さん、この低温に驚きながらも、北の大地をたっぷり味わってくれているのだろうか。

 そして、この時期は王国のクラブ組織『ムツゴロウゆかいクラブ』の皆さんも、浜中の王国の中にある『ゆかいの家』、中標津の牧場から車で15分の所にある『ゆかいハウス』を利用されて、臨時の国民として王国を体験滞在されている。
 
 今日も、ふた組の御家族が我が家に寄ってくれた。Hさん御一家は、もう何度目になるだろうか、高校生になった娘さんの背丈が伸び、すっかり女性になっていた。客人大好きなターキッシュバンキャットのルドが、さっそく膝に上がり、帰るまでゴロゴロと幸せの喉なりを響かせていた。
 もうひと組の方は、あの暑い名古屋からだった。レンタカーを中標津空港で返却し、今日の夕方の便で東京を経由して帰られる事になっていた。
 
 『あの暑さの中に戻ると思うと......ふ〜!!』
 
 と、ため息をつき、名残惜しそうにエの4匹の子ネコと遊んで下さった。

 朝から雨が降り続いていたので、柴犬のミゾレの子犬たちも、いつもは尾を振りながらゲストを迎えるのに、なかなか小屋から
出ようとしなかった。
 そこで女房は、4匹を居間に入れてしまった。

 『あら、これってアブラ効果かな〜、ネコたちに敬意を持っているよ....』

 やんちゃでワンパクになって来ている子犬たちが、ネコが近づくたびに立ち止まり、尾を左右に一心に振り、ネコのされるがままなっていた。

 『確かに、そうだね。この間から、アブラとコッケイたちには、随分と教育的指導を受けている。けっこうネコパンチも嘴攻撃も痛いようで、自分達からはあまり寄っていかないものね...』

 4匹の柴っ子は、実に良い子だった。子ネコたちが体当たりをしてこようが、背の上を駈けていこうが、じっと耐えていた。人間には懸命にお愛想を振りまき、オシッコが近くなると、玄関への戸の所で啼いて知らせてくれた。もちろん、それほど我慢はできないが、けして無言で垂れ流す事はなく、必ずサインを示してくれた。ゲストの皆さんとともに、子犬たちに拍手をおくり、そして愛らしいコロコロっ子を抱き締めた。

 ふた組の御家族は、コーヒーのミルクをネコたちに与え、ジャラシ棒でたっぷりと遊び、そして自分たちの犬やネコの事を話して下さった。
 皆さんが、それぞれのドラマをお持ちであり、そして王国の生き物たちを愛して下さっていた。この広い気持ちに、私も女房も、ただただ感謝である。

 まだ4時というのに、居間はすべての照明のスイッチを入れないと、まるで夜だった。厚い雲は黒みを増し、窓から覗くと、餌を待つ外の犬たちが、珍しくすべて、小屋に入っているのが見えた。

 『必ず、また来ます、皆、元気でね〜!!』

 2台のレンタカーは、私が奨めた中標津で1番美味しいジェラートとイモダンゴの店に向かった。
 <寒かったけれど、楽しかった〜〜!!>
 この夏を、そう思い出して頂けたら、私は嬉しい。


 さて、またまた明日から4日間、私は留守になる。盆の里帰りではない、お知らせのコーナーでも書かせて頂いたが、苫小牧のデパートで開かれるペットのイベントに参加をする。
 今回は、カラマツ荘のかおり氏と、オーアストラリアンシェパードのショウ、ラブラドールのカムロが同行する。
 15日、16日、時間の都合のつく方は、マルイ・今井デパートの催事場に来て下さい。お待ちしています。

 では、皆さん、心と身体を休ませるお盆になりますよう、お祈りいたします。



2002年08月12日(月) 天気:曇り時々晴れ 最高:19℃ 最低:13℃

 久しぶりに明るい陽光があふれていた。こんな日は犬たちと散歩をしていても、何となく足取りが軽い。それは犬も同じようで、若いシグレ(柴犬)は、スキップをするような軽やかさで私の前を進んでいた。

 突然、シグレが駆け出し、そして空中に向かってジャンプをした。10数匹の犬の足音、気配に驚いてクローバーの草むらから舞い上がったクロヒカゲを狙っての動作だった。
 しばらく続いた雨と低温から抜け出し、蝶も嬉しかったのか、今日を逃すとチャンスはないと思ったのか、それともスケジュール通りなのか、たくさんのクロヒカゲがあちらこちらで舞っていた。それも番いが多く、中には合体したまま飛んでいるのもいた。
 
 ジャンプをしたシグレは、合体したままで、素早く動く事のできないカップルを上手にくわえてしまった。

 『シグレ、せっかくデート中なのに、おまえはもう.......』

 大声で私が言うと、振り向いたシグレが口を開けた。
 ヒラヒラと2匹の黒い蝶がシグレの口の中から飛び出した。それを目で追った後、シグレは私の左手に視線を変えた。そこにジャーキーがないかと確かめる目つきだった。

 もちろん、私はポケットから1切れを取り出し、蝶の代りに与えた。まだ腰の部分に冬毛の残っているシグレは噛みもせず、丸飲みをしてしまった。どうも、与え甲斐のない奴である。

 やっと訪れた、ちょっぴりの夏.....蝶も真剣に時を過ごしていたのだろう。周囲の林からは蝉の声が響き、ヒョウモンチョウが、この夏初めての姿を現わし、川沿いのトリカブトが満開になっていた。
 ほっとする1日となった。



2002年08月11日(日) 天気:曇り一瞬晴れ間 最高:17℃ 最低:12℃


 昨日の事を少し書こう。

 昨年の今頃、インパクのライブ映像では、レオンベルガーのベルクの育児、そして柴犬のミゾレの3匹の子犬の成長が、24時間、流れていた。PCでの小さな画面であり、解像度も低かったので満足のいくものではなかった。しかし、親子の声、そして周囲の自然の音、時々闖入するカラスや私と女房の声などで、雰囲気は伝わっていたと思う。
 その時に、BBSにはたくさんの応援メッセージを頂いた。日ごとの子犬たちの小さな変化を、自分の事のように楽しんで下さっていた。

 やがて9月中旬、1匹の柴っ子が東京に貰われていった。新しい飼い主のKさんは、何と私と田舎が同じ所だった。
 アズキと名前の付いた子犬は、Kさんの家の中で生活を始めた。便りをたくさん頂いたのだが、室内でイタズラもせず、トイレもすぐに覚え、実家の私たちが驚くほど素直な成長をしていた。かと言って、けして反応が鈍いわけではない、Kさん御夫妻との暮らしを楽しみ、人間のリズムを理解する能力にたけていたと言うべきだろう。

 その柴っ子『アズキ』が昨日、キャンピングカーの助手席に乗って、1年振りに実家に顔を見せた。車が停まり、Kさんに抱かれて我が家の庭に現れたアズキを見て、我が家の全ての犬が尾を振り、そして吠えた。
 アズキは怯えず、Kさんの腕のなかでキョロキョロとしていた。
 丁度、1年前のアズキのような4匹の子犬を育てているミゾレが寄って行った。

 『ほら、お母ちゃんだよ、覚えているか、アズキ....』

 Kさんが、アズキを土の上にそっと下ろした。すぐにミゾレが大きくなった自分の子の匂いを嗅いだ。鼻先、そして腹、さらにお尻......。アズキは尾を上げたまま、自分もミゾレの匂いを嗅いでいた。
 挨拶は、それで全てだった。アズキが4匹の弟妹に近寄ろうと、それほどミゾレは警戒をしなかった。
 次に、姉妹のシグレに会わせてみた。こちらも互いに匂いを嗅いだ後、まるで常に同じ所にいたかのように、すぐに遊び相手として誘い始めた。特にシグレの方が、前脚を伏せ、大地を叩くように積極的な『遊ぼうサイン』を出していた。

 やがてアズキは、1年前、自分が転げ回って遊んでいた我が家の庭の巡回を始めた。その際に、繋がれ、尾を振り、なかには待切れずに吠えている犬たちに、さりげなく身体を寄せ、匂いを嗅がせていた。実にうまいやり方である、これならば相手にストレスや警戒を生み出さない。

 犬のコミュニケーションの基本は匂いである。互いの尻の匂いまで到達して、初めて安心の域に入る事ができる。オナラをしたかどうかは知らないが、アズキの落ち着いた行動で、いつの間にか庭は、普通の状態になっていた。アズキの存在が認められた事になる。

 その後、居間にも入って頂いた。
 子ネコまで入れると20匹近い連中が、一応、アズキを確認に寄ってきた。ここでもアズキは目立つ動きはしなかった。居間にいるのが当然とでも言うように、ゆっくりと動き、軽くネコの鼻と尻の匂いを嗅ぎ、そして床の上に腹ばいに落ち着いた。
 4匹の子ネコたちも、好奇心丸出し....と言う状態で、アズキに近づき、少し立てた尾が太くなっていたが『シャー』と警戒音を出す子はいなかった。
 5分もすると、アズキの存在そのものが空気のようになり、ネコたちはKさん御夫妻に遊びの催促に行くありさまだった。

 私は、ただただ嬉しかった。
 我が家での育児法が間違っていなかった事と、新しい飼い主の方のゆとりある犬との生活振りを知る事ができ、幸せだった。

 奥さんが語って下さった。
 『散歩の途中で犬に会っても、けして吠えたり、唸ったりしません。嬉しそうに尾を振るので、本当に柴ですか、と言われます。ネコを見つけた時も、襲う事はありません、遊ぼうとするんですよ.....』

 猟犬、番犬、と言う柴の仕事から少し外れた、新しい時代の柴犬、それがアズキの中に見えた。私が目指している姿だった。
 
 今日、今回のミゾレの子犬の3匹目の行き先が決まった。35℃の地、福岡になる。
 旅立ちまで、あと1ヶ月、涼しい北の地で、人間大好き、犬大好き、そして他の生き物も仲間と認識する柴になって欲しい。皆さんに笑顔を運ぶ犬に.......!!



2002年08月10日(土) 天気:小雨 最高:14℃ 最低:13℃


 <猛暑紀行.....後編>

 5日、伊丹空港。
 午後4時を回り、たくさんの笑顔とあたたかい会話の数々を胸に、次回は1月の下旬と日取りを決めて機上の人となった。座席は、ほとんど埋まっていたが、何故か私の隣だけが空いており、一人でニヤニヤと思い出し笑いをするには都合が良かった。これも航空会社の思いやり.そんな事はないだろうが.....。
 
 スポーツ新聞を3ページほど読んだところで、『離陸します』とのアナウンスがあった。窓の外に目をやり、少し前まで大きな声で語り合っていた屋上の手すりを眺めた。西に少し傾いた陽に光っていた。
 その瞬間だった、パワー全開だったエンジンの音が、急に消えた。飛行機は惰性で滑走路をゆっくりと進んでいた。
 
 『え〜、(何やらかんたらの)警戒サインが出ていますので、これから駐機場に戻り、確認を.....(どうとか)....』

 機長さんは、あくまでも念のためにであると強調していた。
 
 再び滑走路に出るまで1時間弱、私は新聞を2度も読み、機内誌を眺め終わり、機内ショッピングのカタログを隅々までチェックし終えていた。月に1度の頒布制の果物が美味しそうだった。

 50分の遅れで羽田に着いた。飛行機が時間稼ぎをしてくれたので、すっかり夜の風景だった。しかし、ターミナルを出ると、大阪以上の熱風が襲ってきた。これでも3日続きの雷と夕立ちで、少し気温が下がったとタクシーの運転手は慰めてくれた。
 明日の講演の世話をして下さっている方々と、1年振りの再会を祝って食事会をした後、浦安のホテルに入ると、何も考えずにパンツ一丁でベッドの上に沈没した。

 6日、風なく、雲なく、ただただ夏の陽光が照りつけていた。東西線に乗り、隣の葛西駅を目指したところ、浦安で飛び乗った電車は、葛西も、その隣の西葛西も素通りして快調に都内を目指して地下に入って行った。
 そうだった、ここは都会だった。通勤時間帯には快速なる電車があるのを忘れていた。ただただ、目の前のクーラーの効いた電車に飛び乗った私の不注意だった。3駅先の東陽町で、いかにもここに用事があるのです、という素振りで落ち着いて下車し、ほとんどの人の流れとは少しずれて、そっと下りのホームに場所を変え、無事に葛西に辿り着いた。キップは1度しか買っていない、これもキセルになるのだろうか?

 東京の専門学校でも、たくさんの高校生、そして保護者(この言い方が、実は嫌いである)が、私の話を聞いてくれた。21世紀、生き物に関わる仕事をする方は、心も身体も強くなりますよ.....そんな話をさせて頂いた。
 実際、今年の春から浜中の王国で仲間として働いているSクンは、この学校の卒業生であり、昨夏、王国で実習の時に、放牧地で王国以外の馬に蹴られて骨を折った。でも、帰りたくないと言って頑張った女性である。若いけれど、しっかりとしている女性である。

 大汗をかきながら、生徒諸君、そして、わざわざ付き添って来られた保護者の方にエールを贈り、私は学校を後にした。
 
 葛西の駅前の喫茶店では、美しい女性が3人、駅を3つも素通りしてしまう私を案じて、エスコートに来て下さっていた。その夜は、あの銀座のレストランで、10数人の方と御会いする事になっていた。
 
 昨年の8月、同じ学校に講演に私が来たと知った関東の有志の方が、今年は集まろうと、1年越しに計画をされていた。私は、ひとつのきっかけ、という事で、喜んで参加をさせて頂くとともに、ネットでは友人ではあるが、初めて顔を合わせる方の生の声が楽しみだった。

 ビルのかなり上の方にある会場は、大型のクルーズ客船の中をイメージした造りだった。幹事として御苦労されてAさんは、こじんまりとした小部屋を確保されていた。互いの笑顔と声が真直ぐに伝わる最高の部屋だった。
 老いた愛犬の介護をされているJさんがいらっしゃった。このHPのBBSに、PCに関する様々なアドバイスを頂いている、御礼とともに、御会いできた歓びを伝えた。
 名古屋からは、スズメのヒナを無事に育てあげようとしているYさんが、静岡からはカッポレ踊りで疲労気味(?)のK氏が、新幹線で駆けつけてくれた。
 そして、プレーリーのダグ君のビデオを持参されたPさん、テディベアの事ならまかせてのKさん御夫妻、サモエドが兄弟のKさん、王国に何度も来られているMさん、Wさん、健康な色の笑顔で参加されたJさん、そして幹事のAさんと友人のMさん、さらに、昨秋に王国に来られたSさんとは10ヶ月ぶりの再会だった。

 それぞれに初対面の方がいるのにも関わらず、博多や大阪の時と同じように、ここでも話は尽きなかった。生き物、自然、命というものを大切にしている、それだけの共通点で、とかく他人との関わりを、あえて避けようとする風潮が見られる中で、まったく正反対の情景が目の前にあった。
 私は、嬉しくて、嬉しくて、隣に座られてサモエド化寸前(私もであるが....)のKさんの差し出すビールにグラスを傾け、けっこうイケルくちのWさんとカッポレK氏にはワインを注いでもらっていた。

 2次会を終えて浦安に戻ると、日が変わろうとしていた。いつの日か、広い所で時間を制限せずに、気楽にどうぞ!!というオフ会を開きたい。もちろん犬でも馬でも象でも連れてきて構わない....という集いである。
 何人の人にも話していると、不思議と実現してしまうのである。このHPで呼び掛けをさせて頂く日も、そう遠くはないのかも知れない。

 8月7日.....中標津空港に降りると、気温は14度だった。
 猛暑の中の5日間は、夢のよう終わっていた。



2002年08月09日(金) 天気:曇り時々小雨 最高:14℃ 最低:12℃


 <日が経ってしまった。でも2日からの猛暑紀行の事を書いてみよう.....。>

 
 8月2日、中標津空港を13時過ぎに離陸、千歳で乗りかえて福岡空港に着いたのは17時30分過ぎだった。風が良かったのか、パイロット氏が上手かったのか、20分も早く着いてしまった。
 タラップを降りると、一気に熱気が襲ってきた。何故か呼吸が浅くなり、鼻を使わずに口でパクパクしていた。これでは、まるで金魚だと、ひとりで笑いながらホテルに入り、フロントに荷を預けると、そのまま中州に急いだ。

 懐かしい4人の方が地下鉄の駅で待っていて下さった。そのうちのお二人は初めて顔を合わせる方だった。しかし、昨年のインパクからこの私のHPへと、ネットでの繋がりは続いており、何度か会った方と同じように、やはり懐かしさが込み上げてきた。
 会話は新鮮だった。それぞれの日常は物理的に大きく離れており、そのドラマが5人の口から流れ続けていた。全員が、自分の事として聞いてくれるのが不思議であり、嬉しかった。

 最後に屋台で博多ラーメンを食べた翌3日、博多駅から車で10分ほどの所にある専門学校で、私の話を高校生に聞いてもらった。将来は生き物の世界で仕事をしようという意欲にあふれた連中である、どの子も瞳を輝かせて、私の拙い話にうなずいてくれた。こちらこそ期待と希望を貰った貴重な時間になった。

 冷房のよく効いたタクシーで汗を冷やす間もなく、16時半の新幹線に跳び乗り、次の講演先である大阪に向かった。
 20時30分、道頓堀で、これまた4人の仲間と会った。ネットのメンバーだけではなく、数年前まで王国で仕事をしていた獣医のN氏も駆けつけてくれた。Gさんのお薦めの店は、どの料理も洒落ていて、そして美味しかった。店の外に出ると、前日の博多とは違い、風のない夜ながら、大都会の建物に溜め込んでいた日中の熱気が、私の身体を渦を巻くように取り囲んだ。額から背から、そして身体中から汗が湧き出てきた。まさに熱帯夜だった。
 オジサンの私と、ややオジサンのN氏は、若い3人の女性たちの元気な食べっぷりと楽しい会話に、笑顔、笑顔の夜だった。

 4日は、大阪の真ん中にある専門学校で、前日と同じように高校生と向き合った。付き添いで来られている父母の方々が、子供たち以上に私の話に何度も頷いてくれるのが嬉しかった。口の悪い私の言葉にも眉をひそめず、同感の意を現してくれていた。
 
 5日、午後の飛行機で東京に向かう前に、伊丹空港でネット仲間の皆さんとミニオフ会を開いた。岡山、島根、奈良、和歌山からも来て下さり、18人の賑やかな集いになった。
 
 ここでも、皆さんが古くからの......そう、まるで幼馴染みのような感じで話をされていたのが強く印象に残った。自然、生き物、そして熱い心がキーワードとなっている仲間だからこそなのかも知れないが、気張る事なく何と素直に話ができる事か...嬉しくなり、泡の出る麦茶をおかわりしてしまった。
 
 空港の屋上にあるプロムナードは陽光に白く輝き、記念写真のカメラを見つめるのが困難なほどだった。しかめっ面で笑顔....そんな不思議な写真が出来た猛暑の午後の愉快な集いだった。

                   後編に続く.....。



2002年08月08日(木) 天気:霧雨と雨 最高:14℃ 最低:12℃


 昨日まで滞在した所と比較すると、何と気温の低いことか....。20年前は、いくら道東でもこれほどの事はなかったと思う。明らかに、何かが変化している気がする。昨年も5月の中旬に2日ほど30度を超えた日があり、その後は低温のままに秋になってしまった。今年は、まだ1度も30度を超えていない、h本州の残暑の片割れでも飛んできてくれると嬉しいのだが。

 昼食を食べた後、居間の床暖房のスイッチを入れた。これがネコたちに好評だったようで、たちまちフロアーが10数匹のネコたちで埋まった。
 8月にこんな光景が見られるとは、今日、我が家に寄って下さる予定の、東京のイソノさん一家は、きっと驚き、喜んで下さるだろうと期待をしていた。
 
 午後2時を少しまわった頃、浜中の王国から4人は車で来られた。何年ぶりになるだろうか、私が犬ネコの雑誌での仕事を始める扉を開き、そして道案内をしてくれた『ちょさん』が笑顔でダーチャに泥足スタンプを貰っていた。
 その姿を見つめているラフなスタイルでラフな容姿の御主人が、ちょさん以上にニコニコとされていた。
 中一の娘さん、5才の息子クンも、我が家の犬たちを巡回して挨拶に回ってくれた。
 番ニワトリのコッケイは、なぜかツツキ挨拶をしようとはせず、私の後をつけてジャーキーを狙っていた。

 犬たちの歓迎式の後、暖房の効いた居間に入ってもらった。
 残念ながら、たくさんのネコたちが床に広がる光景は見てもらう事ができなかった。
 と言うのも、子供たち二人は、大のネコ好きだった。部屋に入るなり、歓声をあげて遊び始めていた。それに乗っていくのが我が家のネコである。若いネコたちはもとより、オジサンやオバサンたちも元気に遊び始めた。
 生まれて40日になるエの4匹の子ネコたちも参加をしていた。私が留守の間に、随分と視力が発達したことに驚いた。子供たちの激しく動かすジャラシ棒に見事について行っていた。

 楽しい光景を眺めながら、ちょさんと私は、懐かしい話を少しだけした。
 この春、彼女の家のだれもが可愛がっていた犬『杢太郎(メス)』が、悪意を持ってされたとしか思えない事件によって、今も行方不明になったままである(詳しくはリンクのページから訪ねて下さい)。その話を少し、そして、今の犬ネコたちの状況をいっぱい話をさせて頂いた。

 今夜も一家は、浜中の王国の中にある『クラブハウス』に泊まられる。夕食に間に合うように発たれた車に手を振りながら、明日の釧路湿原でのカヌーが、好天に恵まれるようにと、ただただ奇跡を願った。
 
 次に御会いできるのは何年後になるのかは判らない。しかし、同士、仲間と感じている人は、間隔がどれほど長く空いても、常に横に存在したような感じで再会ができる。従って、さらりと別れもできるのである。

 夜は、久しぶりに落ち着いてテレビを視た。
 『空とぶイカ・海面を走る貝』というNHK特集だった。この番組の撮影者の欄にSさんの名前があった。昨年、我が家で生まれたダーチャとカザフの子を飼われている。名前はソラ、元気に野山を駆け回っていると、嬉しい便りを時々いただいていた。
 以前、カラスの番組が放映された時にも書かせていただいたが、Sさんは王国の番組でもカメラマンとして大活躍をされていた。海外での取材の時も、僻地の時には必ず参加をされた登山、自然、生き物の大好きな方だった。
 不思議な海の生き物の姿、習性に驚きながら、その映像をカメラのファインダー越しに見つめているSさんの姿を、優しい笑顔の中に想像していた。
 良い番組に出会うと、どうして心が落ちつくのだろう.....今夜は、なんだか得をした気分である。

 そうそう、札幌の息子から電話があった。車の免許が取れたので、明後日には帰ると言っていた。私は、あいつの運転する車には、まだ乗らない......。



2002年08月07日(水) 天気:夕方から雨 最高:℃ 最低:℃


 日記が御無沙汰になっていました。本日(7日夕方)、中標津に戻ったのですが、旅の中身が濃く、厚く、記載は明日にさせていただきます。
 お時間がありましたら、明日の夜、覗いて頂けたらと思います。
 では、おやすみなさい!!



2002年08月01日(木) 天気:晴れのち雨のち晴れ 最高:29℃ 最低:15℃


 惜しい、実に惜しい!!
 あと1度で30度、本州の皆さんの仲間入りができた。いや、30度では振り向いてもくれないだろう、鼻であしらわれるだけかも知れない、38.5度には逆立ちをしても届かない。
 それでも、昨夜の雨の湿気があたりに満ち、いわゆる蒸し暑い状態になった。いつもポケットにジャーキーを入れているので、犬たちと散歩に出る時は、必ず上着を着ているのだが、さすがに今日はTシャツ1枚で出かけた。ジャーキーはウエストポーチに入れて腰に巻き付けて行った。
 この姿になると、犬たちの中で目ざとい奴が、鼻でポーチを突き上げ、こぼれたジャーキーを上手に口でキャッチして食べている。この動作の上手い犬は、サモエドのカザフとダーチャの夫婦である。だから、この2匹から生まれた子は、大人になった今でも、全国のあちらこちらで、畳やら額やら小石などを食べているのだろうか......そんな事を思い出し、笑いながら、いやしい2匹に盗まれないように、ポーチのファスナーを固く閉じて川への道をのんびりと進んだ。

 明日の午後、中標津空港を発ち、千歳で乗り換えて、私も暑さの中に飛び込んで行く。初日は博多である。次いで大阪に移動し、最後が東京となる5泊6日の講演紀行である。
 昨年も同じ時期だった。しかし、雨男の私が雷と大雨を先に送っておいたので、東京は28度と、前日よりも8度も下がっていた。かろうじて大阪と博多が30度を超えた程度で、私にも辛抱できる状況だった。
 しかし、今年は覚悟がいりそうだ。35度、36度.....汗かきの私は水分補給に気を付けなければ。

 私の話を暑い中で聞かされるのは、来年の春、高校を卒業する予定の高3の連中が主である。ペットを中心とした動物産業に進もうと考えている彼らに、私の思うところを早口で話して来る。単純にエールを贈るだけでは詐欺のようなものである。様々な問題を抱える現状と、次への展望、そして、その実現のためには何が必要か....若者だから可能な事というのがある。それを期待し、たきつけてこよう!!

 6日の留守の間、ミゾレの子も大きく、そして4匹の子ネコたちは、居間を運動場にするようになるだろう。樹木や草花も変化しているはずだ。
 それもまた楽しみである。時間、距離的に離れてこそ、見えてくるものがある。それが旅の良いところだと思う。

 では、皆さん、行ってきます。
 日記、掲示板、私は留守かも知れませんが、自由に利用して下さい。

 あっ、今、女房が報告に来た....
 
 『今、ヒナのために蛾を捕っていたら、勝手口の横で光るものが....。螢が蜘蛛の巣に掛かっていた。可哀想なので、放してやったよ....。今年はじめての螢ね!!』

 暑さで出たのだろうか、小柄なヘイケボタルが、今年も来てくれた。星が見事な空である.....。