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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2002年11月30日(土) 天気:晴れ 最高:6℃ 最低:−7℃


 最近の映画、特にハリウッドで製作されたものを視ると、必ずと言ってよいほど犬が登場する。主役級の事もあれば、出番は少なくとも、ストーリーの展開に重要な狂言回し的な出演も多い。
 しかし、どの映画でも、犬の登場シーンには監督の大いなる主張が込められている気がしてならない。

 『パールハーバー』を視た。
 ジャックラッセルが4度は確認できた。最初はイギリスの基地でパイロットが出撃のために官舎から走り出てくるシーンで、オレンジ色のボールを転がしていた。

 わずか数秒のシーンを目にして、私は不覚にも胸がいっぱいになった。女房に気づかれぬよう、偽の咳をし、そして鼻をかんだ。

 大男の足元に映っていたその犬....姿でジージョを、そしてボール転がしでブルンを思い出していた。
 ごく最近、2匹は、相次いで去っていた。
 ともに、長い時間の空の旅をしてイギリスからやってきた犬だった。そして、多くの子犬たちの父となっただけではなく、楽しいパフォーマンスで人間に笑顔をくれた。

 ジージョの得意はスケボーに乗る事と、他のオス犬とのケンカだった。晩年は心臓と肺に問題があり、激しい運動は禁じられていた。
 ブルンは、もちろんサッカーだった。王国の元祖サッカー犬として、小さなピンポン玉から大きいのでは特注の馬サッカー用のボールまで、とにかく転がるものなら何でも追い掛けた。
 ある時、テレビの撮影で、スイカを転がしてみた。ブルンは鼻で追い、歯で押し、破れたスイカからの甘い汁に気づくと、さすがに競技を中止し、おやつタイムにしていた。

 結構、他のオス犬に対してキツイところを備えていた2匹だったが(種オスとして当然である)、わが家のオオカミ犬のタローにだけは信頼と慕いの行動を示してくれた。
 ブルンなどは、短い尾(のようなもの)を振り、フガフガと言いながらタローの口元に顔を寄せ、転がって喜びを表わしていた。

 どちらも、私が実際にイギリスに行き、決めてきた子だった。当時は日本ではあまり見かけない犬種であり、私たちは、驚きと楽しみを味わいながら2匹と付き合ってきた。

 今、その血は新しい世代に継がれている。
 心配するな、お前たちの存在は、永遠に王国に、そして出会った人間の心の中に残るよ....。
 そう言って見送りたい。

 映画の中のジャックラッセルは、真珠湾の水の中で泳ぎ、助け上げられていた。日本で製作した映画では、まずこのようなシーンは出て来ないだろうな.....民族の感性の違いも感じた3時間だった。



2002年11月29日(金) 天気:晴れ時々曇り 最高:5℃ 最低:−1℃


 午後7時、ムツさんの家に全員が集まった。男も女も、子供も大人も、今、ムツゴロウ動物王国にいる、すべての人間が顔を揃えた。

 悦ちゃんの1周忌のようなものだった。
 1年前、11月22日。悦ちゃんは長い旅に出た。この1年間、それぞれが、それぞれの想いを積み重ねて、悦ちゃんの不在を認めようと過ごしてきた。
 
 純子夫人が声を掛け、今夜、みんなで集まった。

 今が旬、ヌーボーがあった、白ワインがあった、ビールが並んでいた....中標津で1番という寿司があった、王国で特別な事の時に並ぶ『ブリ』の大物が、純子夫人の手によってきれいに大皿に並べられていた。悦ちゃんが大好きだった帯広のエルパソから送ってもらったソセージに骨付きの大きなハムがあった。

 純子夫人の悦ちゃんを偲ぶ挨拶のあと、みんながテーブルに殺到した。
 
 笑顔で食べ、そして飲んだ。馬鹿ッ話をした......。

 アックとともに小さな写真の中で、悦ちゃんは苦笑していたかも知れない、それともカリカリしていただろうか....自分は食べられないと...。

 『ありがとう、悦ちゃん、けして私たちは貴女を忘れない!!』
 『そして、私たちは、笑顔でブリを、ハムを食べ、生きて行くよ.....!!』

 そんな気持ちで、私は今日を特別な日と認定し、仲間たちと酒を重ねた。

 帰る時に、林の中のモニュメントに寄り、小さな石を女房と、そして娘と、新たに1個ずつ積んだ。
 雪に隠れた石の1個1個に、仲間たちの想いが込められていた。



2002年11月28日(木) 天気:曇り時々雨か雪 最高:2℃ 最低:−3℃


 また見て、そして聞いてしまった。BSで放送された『S&G』のセントラルパークでのコンサートである。
 つい先日、放映され、私はビデオにも収め、4〜5回、再生している。それなのに、今夜もである.....。

 彼らを知ったのは映画『卒業』だった。故郷の寒い映画館で涙した覚えがある。私が高三の冬だった。
 以来、彼らの歌声は耳から離れなくなった。ノートに英文の詞を書き写し、辞書を片手に自分なりの訳詞を書き、プロの方の日本語歌詞に、ひとりで文句をつけていた事もあった。

 当時の私には、ビートルズよりも彼らの曲のほうが心に合っていた。
 この数日で、あの伝説のコンサートを聞き、その原因が判った。彼らの代表曲に、単なる男と女の愛を歌った曲は、ほとんどないのである。
 69年から72年....東京にいた私の心情と合致するには、ビートルズのリズムとメロディではなく、やはりS&Gの社会と人のありかたを眺めた『言葉』だった。

 BSで流れたコンサートは、解散して10数年たってからのものである。
 ここでも、私はS&Gの自信と偉大さを感じてしまう。
 かつての歌い方を変えていないのである。これはなかなか出来ない事である。
 たとえば、日本の『なつかしの名曲』的な番組を見ると良く判る。古い持ち歌を熱唱する歌手のほとんどが、『エッ』と思う変身歌唱を披露している。
 まるで、昔のままに歌うと、あいつは進歩していない.....そう思われるのを恐がるかのように...。

 あれっ、何か評論家になっているぞ、気をつけなくては....。他人の悪口は簡単に言うことができるし、変に気分が良くなるから癖が悪い。

 さて、話を戻そう。
 東京の古いアパートで、やっと手に入れたステレオセットにLPを乗せ、電気を消し、コーラ(コークではない、まだ...)にニッカ(北海道にこだわっていた...)の黒を入れたグラスをコタツの天板の上に置き、落花生をひとつかみ皿に準備するのが、私の正しいS&Gの聞き方だった。

 当時、まだムツさんを私は知らなかった。ただ、目の前の社会に問いかけ、希望を紡ぐS&Gの曲を聞いていた。

 今夜、思い出して冷蔵庫を開けた。コーラはなかった。床下の貯蔵庫を探り、1本のソーダ水を見つけた。1年前に開けてそのままになっていたスコッチと合わせた。落花生の代りはチーズだった。
 周囲の物だけではなく、私自身も大きく変わっているが、あの歌声と、それから起きる感激は、今日も変わらなかった。



2002年11月27日(水) 天気:曇り 最高:4℃ 最低:0℃

 平らな所では20センチの積雪となっていた。下に雨水があり、犬たちが駈けるとザクザクと音がし、大きな雪の固まりが跳ね飛んでいた。まだパウダースノーがフワッと舞う状況にはならない。
 でも、雪は雪である。樹木の枝の上の、一面の大地の白を見ると、心が浮き立ってくる。

 今日も娘と釧路の病院に行った。詳しい診察を受け、札幌に戻る事がOKになった。まだ全体重を掛けられるほど回復はしていないが、注意しながらなら、仕事に復帰できそうである。
 もちろんリハビリ運動は続けなければならない。雪道、それもアイスバーンの多いのが札幌である、気をつけろ、と言っておいた。

 時々、へたくそなのに短歌や俳句、川柳が頭に浮かぶ。今日も、そんな1日だった。


 その足を  気遣いし女性(ヒト)  今はなく
    笑顔の写真に  娘報告

 雪原に  向かう私の  目にグラス
    遊び寄る犬(こ)は   奥をうかがう

 店先の  滑らぬ靴を  見比べて
    娘の足   その大きさを問う

 鶏小屋の  水おけ氷  取り替えて
   しびれる指に   卵は熱く

 新雪の  上に土色  寝転がり
   明らかな跡   穴掘りのダーチャ

 我が車を  一息の間なく  追い抜きし
   黒いセダンよ    道はアイスバーン

 片足を  上げて啼く声   合う瞳
    伸ばした腕に   駈け寄るアブラ

 
   

 

 

 

 

   



2002年11月26日(火) 天気:雨、夜になって雪 最高:4℃ 最低:3℃


 夜になり、強い雨は湿った重い雪に変わった。
 葉を落とした樹木の枝に雪がからみ着き、その重さでしなり始めている。径が5センチほどの居間の出窓の前のダケカンバの枝は、すでに折れ、タブの寝ている小屋の上に垂れ下がっている。

 以前は、これが心配だった。1本たりと枝が折れる事は、人間が手足を骨折すると同じように考えていた。
 しかし、今は違う。
 私の考えを変えてくれたのは、ある植物学の先生だった。

 『石川さん、雪が折る枝や、倒れる木には、やはり意味があるんですよ.....。自然は、けして無駄な傷は与えません』

 確かに、さっき折れたダケカンバの枝は、この夏、葉をほとんど付けていない枯れ枝に近いものだった。
 ちょうど人間が枝払いをするように、重い雪や強い風が、より強く樹木を育てるために枝を落としてくれていると、先生は言った。
 たとえ根元から倒れたとしても、その木は土が流れ出るのを防ぎ、、時間を掛けてじわじわと分解し、全てが次の世代の樹木や他の生き物の役に立つと.....。

 『雪囲い.』......これは、庭木や果樹など、その木が本来持っている能力、役目、寿命以上のものを期待され、その為に人間が庇護にまわっているものであると....。

 つまり、樹木にも『家畜』と『野生動物』があると言う事になる。
 先生は、地球の基本は『野生動物的』な樹木だ力説された。
 その上で、私から見れば『家畜的』な樹木(植木、果樹、並木、各種人工林等)もまた、人間の身近なところで、経済を、心を、そして大地を、守り、育んでくれていると。

 以来、私はバッサリと枝を払うことができるようになった。今年も、わが家の屋根に触れるまでに伸びた枝を、思いきり切った。幹に手を加えなければ、樹木は次なる手段を考えて生長を続けるしたたかさを備えていた。
 それでいて、家周りの砂利の上に芽を出した、わずか5センチのダケカンバやヤマザクラを、犬たちに踏まれないように移植することも忘れなかった。
 10年後、いや50年後かも知れない。私のひ孫たちが見事なヤマザクラに喜んでくれる事を夢見ながら。
 
 ついさっき、本州のような雪を頭に受けながら、私は移植に耐えた数本の桜を見てきた。
 15センチほどの木は、しっかり自分の幹で立ち、細い枝の雪は、ちょっぴりの風で揺れるだけで落ちていた。なるほど、自らの力で、今を耐えている、そう思った。

 明日、私と女房は折れた枝を集める。柳はヤギのメエスケが樹皮と芽の多い小枝を喜んで食べ、他の木はバーベキューに利用される。
 

 

 

 
 



2002年11月25日(月) 天気:曇りのち雨 最高:4℃ 最低:−1℃

 娘のリハビリに付き合って釧路まで走った。9月の上旬、手術のために入院をする頃は、まだ緑が周囲にあふれ、かろうじてヤナギやカバ、そして鬼クルミの葉が黄を見せ始め、ツタウルシが赤くなりかけていた。
 初めて車椅子に乗った頃、確か霜が降りた。退院の頃、風が強く吹くと落ち葉が庭で舞っていた。

 そして今日、どんよりとした雲の下、大地はセピアに染まっていた。葉が残っているのは、トドマツの濃い緑、そして、なぜか枯れた葉を春まで枝に残すカシワだけだった。
 最後まで頑張っていたカラマツの山吹色の針葉も枝からは消え、痕跡が国道の路肩に、黒茶色の固まりとなって落ちていた。

 娘の回復は療法士の方が唸るほど順調なようだ。10日ほど前から松葉杖も使わずに行動している。まだ左足の各種筋肉の強さは完全ではないが、ずいぶん動きがスムースになってきた。
 今日は、初めてゆっくりと駆け足をしたらしい。少し痛みはあったが、誉められたと、喜んでいた。
 あせる事はないが、予定よりも早い回復は何よりの事である。この分なら12月初旬には札幌に帰る事ができるかも知れない。

 買い物を終えて中標津に車を向けたのが午後4時、すでに真っ暗だった。釧路に戻る車で対抗車線は混んでいた。しかし、街を離れる私の車はスイスイである。ついアクセルに力が入りそうになる。しかし、行きに、1台の乗用車がボコボコの形で道脇の牧草地に鎮座しているのを見ていた。路肩には赤色灯をつけたパトカー....。
 エゾシカ、キツネ、そして降り始めた雨......心を抑え、助手席の娘に再度のリハビリがいらないように、真面目な父親としてハンドルを握って帰った。
 カーラジオは、盛んに北海道の交通事故の多さ、そして致死率の高い事を伝えていた。

 午後1時に家を出て、帰り着いたのが6時。走行距離は200キロとなっている。先日、2度目の車検を終えたのだが、メーターは5年間で12万キロを示していた。
 以前に比べると3割ほど少ない数値だが、それでも都会の自家用車よりはかなり多く走っているだろう。
 公共の交通機関が限られ、今や、運転ができないと、車を持っていないと生活に支障をきたす田舎の暮らし....。
 そして、それを当然と思っている自分に、時々、愕然とする事がある。
 でも、目の前の必要に迫られ、またハンドルを握るのだが、無用なドライブだけは避けたいと最近思うようになった。
 その結果として、女房と二人で出かける事が多くなった。いわゆる『乗り合い』である。かつては、買い物の対象、掛ける時間の差(私は、目の前の物を手にして終わりである、選ぶのが苦手である)などから、互いに不満が出ないように、なるべく別々に出かけていた。
 少し、省エネに心を配るようになった最近の私である。



2002年11月24日(日) 天気:曇り 最高:5℃ 最低:−6℃

 昨夜遅く、とうとうスルメに手をつけてしまった。一切れが二切れになり、とうとう2時間、ネコたちと闘いながら噛み続けてしまった。
 その影響だろう、朝から歯茎が腫れている。何と情けない事か。仕方が無いので食事は腫れていない右側で噛んでいる。

 冬に備えての準備、その最終段階(まだ何かありそうな気もするが....)として、先ず新しい長靴を下ろし、着用した。
 我が家の番鶏・コッケイが目を真ん丸にして駈け寄ってきた。そして足蹴りを数連発!!
 そう、私はわざと赤い色の入っているミツウ〇製の靴を買っていた。心優しい私は、女房用には黒い靴を選んでいる。
 これからの数カ月、毎日この赤い靴で動き、何とかコッケイを諦めさせよう、慣れさせよう、という作戦である。

 朝、5回、襲ってきた。その度に手と声で追い、逃げるまで反撃をくわえた。 
 夕方、襲撃は3回だった。1度、蹴りの連続技が決まると、その後の20分は、すぐ横を通ってもコッコと鳴くだけだった。
 それでも、忘れた頃に、トットットと静かに駈け寄り、後側に飛び掛かってきた。

 この感じなら、わりと早い時期に、長靴はOKになるような気もする。それを目指して、私は赤が目立つように、毎日、長靴の汚れを落として、鮮やかな色を保たねばならない。
 残念ながら、午前中の暖気で雪が消えてしまった。また衣服や長靴が泥だらけになるだろう。そんな中で、コッケイとの楽しいやりとりは続いて行く。

 今日、泥縄で行った冬対策、その2は犬小屋の屋根替えである。中標津に越した時に、私が作った2つの小屋の屋根が、12年で限界になってきていた。まあ、端のほうは住人ならぬ住犬が噛み破ったせいもあるが、寝ながらにして流れ星の観察ができそうな状態になっていた。
 古い屋根をバールで剥がし、というよりも壊し、新しい板を打ち付けた。犬たちも待っていたようで、すぐに中に入り、顔を入り口に出し、あごを仕切りに乗せて心地良さそうに昼寝をしてくれた。

 余った板で、数軒の犬小屋の壁の隙間を塞いだ。特に北側に面した所は何度も調べ、冷たい風が入らぬように直していった。
 吹雪の日でも雪の中で眠るのは平気なくせに、小屋の中にいる時に、小さな穴などから吹き込む風雪は嫌う。私たち人間が、すきま風が気になるのと同じ事だろう。

 これで、準備万端と、煙草に火をつけて一服していると、女房が1輪車を指さして言った、

 『隔離柵の出入り口、土が消えて段差が大きくなっているから、砂利で埋めて。あっ、それからダーチャやカザフの穴も埋めなくちゃ....』

 明日の仕事が見つかった。

 

 



2002年11月23日(土) 天気:晴れ 最高:5℃ 最低:−11℃


 今、腹が減っている.....。
 夕飯は普段通り、7時頃に食べた。量もいつもと変わらない。でも、無性に何かを口に入れたい。
 どうも、さっき読ませて頂いたK氏の日記、そしてBBSに書かれていた『お好み焼き情報』が影響している感じである。

 『もう、いっつもソレなんだから〜、もう若くはないのよ....』
 女房と外食をすると、帰り際にこう言われる。
 目の前には食べ切れなかった品々が皿に残り、恨めし気に私を見つめている(そんな気がする)。

 そう、注文をする時に、その基礎を20代の自分に置いているのである。目と記憶が『食べたい・食べられる』と叫び、その勢いに乗って頼んでしまう。

 『もう、昔の胃じゃないんだから、私だって、そんなに食べられないのよ...考えて頼まなきゃ』
 
 女房の小言は続き、私は、

 『大丈夫だよ、犬やキツネたちが喜んで食べてくれるから....』
 と言い訳をしつつ、店のお姉さんに持ってきてもらった袋に残った物を詰め込む。

 東京で暮らしていた頃、そう30数年前の事である。給料が出ると、その日の夕食は御岳山駅前の中華料理店か雪谷大塚駅近くの定食屋、トンカツ屋で食べるのが常だった。
 今でも覚えている、
 『あんかけ焼そば、餃子、レバニラ炒め、チャーハン』
 『ヒレカツ定食、ライス大盛、キャベツ3人前』
 『冷ややっこ、オムレツ、卯の花和え、フライ定食』

 これに必ずビールの大瓶が加勢していた。
 ああ、何と言う胃袋だったのだろう。この時代の記憶が焼き付き、いまだに同じような注文をしてしまう。女房があきれるわけだ。

 さて、そんな事よりも、今の空腹の問題である。お好み焼きはない、インスタントやレトルトの食品もない。
 加えて、コンビニまで買いに行く気力もない。

 仕方がない、時間の掛かるスルメでも焼いてくわえるとしよう。ネコたちとのバトルを楽しみながら。
 土曜の夜、私の胃袋はわがままである。
 



2002年11月22日(金) 天気:晴れ 最高:2℃ 最低:−9℃

 昨年の11月22日の天候がどうだったのか、まったく覚えていない。今年のように雪が輝いていたのか、それも記憶にない。
 ただ、犬たちと暗くなっても林の中を歩いていた事は、しっかりと覚えている。同じ歌を何度も歌いながら......。

 いつもは『ハウス』と言われる時間を過ぎても、辺りが暗くなっても家路につかない私を不審に思い、何度も犬たちが寄ってきて、顔を見上げた。
 私は、犬に対しては無言で、そして胸の想いを遠い地に馳せて、囁くように歌い続けた。
 犬は日常から外れた事に敏感である。これ幸いと勝手に消えることはせずに、私に歩調をあわせるように、私の歌を聞くかのように、周囲に集まり、同じスピードで進んでいた。

 昨年の今日は、20年、王国で仲間としてともに暮らした悦ちゃんの死が、入院していた東京から伝えられた日だった。

 昨日の忙しい天候とは打って変わって、2002年の11月22日は朝から青空が広がった。まるで間に合わせたように大地は白く輝き、昇るオレンジの太陽が顔をわずかにのぞかせた時から、我が家の犬たちはソワソワしていた。

 母屋の犬たちの散歩が終わったのを見計らい、クサリを外した。10数匹が、一斉に駈け、ジャンプし、互いにからみ合った。そのあい間に私と女房の身体に体当たりを繰り返し、雪の喜びを表わしていた。

 まだ背丈の高い草が雪から顔を出している牧草地を横切り、犬たちは悦ちゃんが暮らしていた母屋の前庭で遊び始めた。
 私は、少し離れたムツさんの書斎のすぐ横の林に行き、昨日まで、犬たちにたっぷり汚された上着のポケットを探った。
 指先に小さな石があたった。それをつまみ出し、林の中にある様々な石が積み重ねられたケルンの端に置いた。
 昨年、暗い林で歌った曲のワンフレーズを軽く口ずさんだ。
 悦ちゃんの記憶を重ねておこうと、ムツさんの提唱で作られたケルンだった。

 家へ向きを変え、犬たちと朝日を正面に受けて進み始めた。犬たちはますます元気になり、ターゲット遊び.....鬼ごっこが始まった。一瞬たりと止まらないシルエットが白いキャンバスで躍動していた。
 雪が積もっただけで、犬たちは昨日とは少し違う動きと喜びを示す。
 これが生きているという事なんだろう....そう思いながら、私は再び小さな声で悦ちゃんの歌を口にしていた。

 『こんにちは〜 さようなら〜 さようなら〜 こんにちは〜』

 



2002年11月21日(木) 天気:雪のち曇りのちまた雪 最高:3℃ 最低:−3℃

 この冬、初めての積雪があった。
 それは昼過ぎには濡れた大地に変わる程度のものだった。しかし、一瞬にせよ、犬たちも私も、大いに喜び、足跡をいっぱい牧草地や庭につけた。

 そして、女房に声を掛け、2台の車のタイヤをスタッドレスに替えた。まさしく『ドロナワ』である。
 
 午後、1ヶ月ごとの検診で病院に行った。尿と血液の検査を終え、廊下の長椅子で診察の順番を待った。何が大変と言って、この時間の長さ以上のものはない。混んでいる時は2時間以上待ちの事もある。
 同じ姿勢でいるうちに、私はウトウトとしていた。
 突然、後ろからの大きな声で目が覚めた。

 『い〜や〜い〜や〜、すんごい降りになったべさ〜、み〜て、これっ....』

 私の母よりは少し若そうな女性が、頭の上の雪を、自慢げに知り合いに見せているところだった。
 振り返って窓の外を見た。細かい雪が病院の壁を這い回るようにうごめいていた。まだ3時前というのに辺りは暗く、光量探知型の街灯がオレンジに光り、屋根やボンネットを白く変えた車がライトをつけて走っているのが、かろうじて見えた。

 この冬、初めての吹雪だった。
 
 診察を終え、先生が言ってくれた、
 『グッド コントロール!!』
 を、ハンドルを握り、昨日までとは異なるタイヤの音に合わせて何度も巻舌を入れて呟き、私は帰宅を急いだ。
 何としても夕方の犬たちの遊びに付き合いたかった。

 『あら、早かったのね...もう、終わるわよ...』

 診察のことなどには、女房は1言も触れずに、暗く、吹雪だったので、犬たちの散歩は早めに始めていたと女房が言った。

 カボスがセンが、そしてシグレやタドンが、まるで夏の散歩の時のよう舌を出し、忙しく呼吸をしていた。
 『面白かったよ〜、やっぱり雪は最高だ!!どこ行ってたの?』
 そんな風に通訳をしても間違いではなさそうな表情だった。

 雪は夜には収まり、月が光っている。
 大地が白くなると、月明かりだけで充分、林が見通せる。キツネ舎の前には3匹のキタキツネが現れ、追い掛けあってギャッと鳴いた。

 明日、私は早起きをしなければならない。そして犬たちと今日の夕方の分まで雪の上を駈け回ろう。

 そして明日、5年間ともに生き物たちと過ごしてきた、大切な仲間のストウ君が王国を去る。彼女は、峠を越え、今度は牛たちを相手にする。
 『君の笑顔と心は、必ず牛にも通じるよ、ファイト!!』
 



2002年11月20日(水) 天気:晴れ一時曇り 最高:7℃ 最低:−7℃

 予報を裏切り、雪にはならずに1日が過ぎてしまった。王国の中で、私と女房の車だけは、まだ夏タイヤのままである。子供たちが高校生の頃は、朝夕の送り迎えがあるので、真っ先にスタッドレスに替えていた。しかし、今は路面が凍っている時間は、犬たちと散歩をしている。道東は積雪が遅いことと、ハンドルを握るのは道の氷が解けてからになるので、何とかノーマルで過ごすことができた。
 でも、そろそろ限界だろう、事故にならぬよう交換を....と思いつつ、今日も雪の姿を見られず、またしても、そのままになってしまった。

 動物王国をともに楽しみ、支えてくださっている仲間たちの組織『ムツゴロウゆかいクラブ』の会報誌・Loop119号の校正を行った。これが3校、いわゆる色校正と呼ばれているものだ。
 1校目では、まだ原稿が入っていないところもあり、スカスカの状態で、誤字脱字、はてには文章の大きな手直し等を行う。次いで2校、今度は、1校で直した所の確認と、新たな原稿のチェック、写真の割り付け確認などを行う。
 そして今日、印刷所から届いた3校(色校)で、最終的な校正を行い、輪転機が回ることになる。

 一応編集長の私や写真を担当しているだいちゃんなどが、何度も目を通しているのだから、間違いはないと思いたいのだが、これが不思議、やはり人間の行うことで、いざ、皆さんの手元に送ってから『アリャリャ!!』と言うことがよくある。

 細かい間違いは、実は少ない。何と、サブタイトル的な大きな活字に、とんでもない見落としがあったりする。それと数字である。
 1番の原因は『思い込み』である。
 誌面に向かった時に、ここは何度も読んだ....、そう思ったらミスが生まれる。目は30cm離れた誌面に注がれているが、実は頭は記憶の中で綴った活字を読んでいる事が多いのである。
 懲りずに何度もミスを重ねて、今頃になって『今回こそは...!!』と、心を真っ白にして校正にのぞんでいる。
 
 夕方までに、だいちゃんと二人で最終校正を終え、明日の朝、印刷所に戻す事にした。今夜一晩、もう一度確認をしますと、だいちゃんは抱えていった。私の手元にも1部が残されている。風呂の後に見直す事にしていた。
 果たして、印刷所のドアをくぐるまでに、新たな直しはあるのだろうか....。気になるところである。

 犬たちとの生活でも、同じような事が言える。
 毎日の生活は、それほどダイナミックなものではない。いつもと同じ事の繰り返しであり、そこに天候や自分の仕事などでの小さなリズム変化が加わる程度である。
 そうすると、散歩から数時間たつと、
 『あれっ、あいつの今日のウンコの固さはどんだったろう?小便は何回したっけ、その色は?』
 と、具体的なことを覚えていないのに愕然とする。

 もちろん、現場を見ていなかったわけではない。匂いを嗅ぎ始めた時から足を止め、真面目な顔での片足上げ小便を直視していたはずである。
 だが、色や勢いは思い出せないことのほうが多い。
 
 3回目の校正と同じで、慣れたところにこそ、穴は開いている。
 私は、犬やネコたちにとって、本当に編集長としての仕事をしているかどうか、そんな自問を繰り返している。

 



2002年11月19日(火) 天気:晴れ 最高:6℃ 最低:−5℃


 夕方のフリー散歩は、午後3時35分に出発した。400メートル離れたムツさんの家までの往復だが、途中で横にそれたり、牧草地から馬の放牧地に入ったりと、往復800メートル、ハイ、終わり....とはならない。

 第1陣の参加犬は次の連中だった。群れの中での順位に従って書いてみよう。
 マロ、ベルク、ミゾレ、タドン、ラーナ、カリン、メロン、タブ、シバレ、アラル、ダーチャ、ベコ、セン、シグレ、カボスとなる。
 
 大人になって加わったバルトは、まったくの別行動にしている。本来NO、2のカザフは、マロには従うのに、ちょっとした事でカザフに対抗の姿勢を見せるタドンとシバレを繋ぎ、マロを休ませた後、第2陣の大将としてフリーになる。

 我が家から50メートルで広い牧草地に入る。15匹は、自分の思うままに行動している。それでも、時々、私と女房の動きを確認し、いつののように母屋方向だな、と理解すると、また駈け回るのだった。
 群れの遊びの中に『ターゲットごっこ』と私が名を付けたゲームがある。分りやすく書くと『いじめ』である。1匹対象になる犬を決め、数匹で、時には10匹で追い掛け、くわえて振り回し、押さえ付けるのである。
 その様は、群れが獲物を捕らえる様子にそっくりなので、ターゲットと名付けた。本来の狩りやイジメと異なるところは、襲われる犬が喜んでいる事である。今日は、シグレだったのだが、日によってカボスだったり、ベコやアラルになる事もある。
 さすがにマロ親分が目標にされた事は1度もない。加えて、マロが襲う側に回った事もない。いつも、メス犬たちの小便の跡を探し、畑の中をスラロームをするように徘徊して嗅ぎまわっている。

 ムツさんの家の前で、しばらく過ごし、私と女房が声を掛けて帰路についてしばらくした時だった。右手の川に続く林の中で、エゾシカが駈け出す音がした。

 『ウワンワンワン〜!!』
 
 身体全体で林から離れる方向に逃げ、吠え出したのはシグレだった。
 すでに林の中は薄暗い、人間の目は尻の白い毛を広げたエゾシカを確認していたが、犬たちの目と耳には、突然の不審な音でしかなかった。
 
 シグレの声に瞬時に反応し、マロがシバレが、アラルが、そしてほとんど全ての犬たちが、同じような短い警戒音を出していた。
 声だけではない、自分たちの知り尽した場所とは言えない所なので、声を出しながら身体は、我が家の方向に向き、肩の毛が立ち、中には一気に数十メートルも、吠えながら駈け戻った気の弱い子もいた。

 『みて、カボス....もう100メートルは逃げている...』
 
 60キロの大きな身体を引き気味に、群れの連中からもっとも離れた所で、カボスは吠えていた。
 次に、逃げた距離の長かったのがシグレだった。そして、セン、アラル、ベコ.....何となく群れでの順位と関連している結果だった。

 勇気を出して、わざわざ音のした林の近くに来た子もいる。マロ、ミゾレ、そしてベルクだった。彼らは緊張しつつも、林の中を探る余裕があった。

 群れの生活をする連中は、それぞれの個が全体のために仕事を受け持っている。
 けしてカボスやシグレ、ベコなどは先兵にはなれないな、別の役割が必要だ。そんな収穫を得ることのできた、愉快な今日のフリー散歩だった。

 



2002年11月18日(月) 天気:晴れ後雨、そして曇り 最高:9℃ 最低:−9℃


 朝日を眺め、横殴りの雨に打たれ、そして曇り空と、忙しい1日だった。午後には、雨とともに強くなった南の風に促されて、気温もどんどん上昇し、とうとう9度まで上がってしまった。
 日較差が大きいと、着る物に困る。寒いと感じて厚手の上着にすれば汗ばみ、薄いジャンバーで散歩に出ると、風に攻められる。
 それでも、人間は簡単に着脱ができるから恵まれている。我が家のように、戸外が生活の中心になっている犬たちは、服は一張羅の毛だけである。寒さ暑さを、穴を掘ったり、小屋や物陰にひそんだり、果ては水たまりに伏せてしのいでいる。

 今日の雨風の方向は、我が家の連中には不得手なものになる。冬を前に、北西から真北の風に対応する向きになっているので、南が吹くと、小屋の入り口から吹き込む形になる。
 案の定、センやシバレは、小屋の中には入らず、その後ろの穴に身を隠していた。

 でも、夕方、雨が上がると、元気に散歩をせがんで啼いていた。私は1匹1匹、彼らの背や胸に触って確かめてみた。
 どの子も、表面には水気が残っていたが、皮膚近くまで濡れてはいなかった。

 『お〜い、凄いね、この連中は.....』
 枯れ葉が入った水おけの水を入れ替えている女房に私は声をかけた。
 『何が凄いって?』
 『ホラ、全然濡れていないよ、毛の中までは....』
 『それはそうでしょう、この子たちの毛は、みの傘のような物なんだから....』
 『いや、それだけじゃないよ、これは、やっぱりズボラ作戦のおかげだよ...』

 我が家では、まず犬を洗わない。もちろん、ネコは一生シャンプーを経験しない子ばかりである。
 自前の油こそが、最高の身体防御バリアと考えているからだ。これは、戸外生活を中心としている犬には、特に大切な事だと思う。何度か試してみたが、シャンプーをした犬は、川で泳ぐと、毛が身体に張り付き、まったく別の犬種になる子もいた。水は、毛の根元までしみ込んでいた。
 それに比べて、ブラッシングだけで、一度も洗った事のない連中は、川から上がってブルブルと身を震わせると、ほとんどの水気が吹き飛び、毛の中は乾いていた。これこそが生き物だと感心する。

 明日からは、再び寒気が来るようだ。やがて、当幌川に薄く氷が張るだろう。流れる水の温度が4℃になっても、我が家の連中は氷を割って泳ぐ。
 その時に元気に遊ぶ事ができるように、今年もまた、犬たちに手を掛けない我が家である。



2002年11月17日(日) 天気:晴れ 最高:7℃ 最低:−9℃


 北海道では動物たちとともに楽しむイベントが、昔から結構行われてきた。幼い時からの記憶を辿ってみても、牛、馬、犬などのの品評会から、馬がソリを曵いて競うバンバ大会、羊の毛刈りコンテストなどを見に行ったと覚えている。土地柄、アイヌ犬(北海道犬)の品評会では、本物のヒグマを使って狩猟犬としての実際能力を試されていた。
 最近では、これに様々なスポーツドッグの大会や、ペット大集合のイベントが加わり、バンバ大会にも乗用馬のレースが加わっている。

 このようなイベントの時に、必ず開会式の挨拶で聞く言葉がある....
 『弁当とケガ(事故)は、自分持ちとなっております.』

 これは、生き物に関わる行事の際の昔からの不文律である。
 人間だけの集まりでさえ事故はある、ケガをする可能性は常に存在している。ましてや、人間語を使えぬ動物たち.....恐怖や、はずみで、ケガなどをする事もあるだろう。
 それをもっとも早く予測できるのは、その生き物の飼い主である。従って、起きた事故の責任は、すべて飼い主に預けられて当然でる.....という考え方である。
 私も、そう思う。
 そして、そのような事にならないように、心を配り、そこから新しい楽しみを作り出して行く事ができるのも人間だと思う。

 12月8日、埼玉県熊谷市『国営武蔵丘森林公園・ドッグラン』にて、このホームページ等に来られた皆さんと御会いできる。
 私は、午前10時から午後3時まで、集まられた人、そして犬たちとニコニコ笑顔でおしゃべりを楽しみ、犬たちに舐められようと思っている。
 
 ここでも『弁当とケガは自分持ち...』を使わせて頂こう。
 もちろん、会場のルールは遵守しなければならない。その上で、日常から飛び出して、心が揺れている犬たちに、集まったすべての皆さんと一緒に働きかけ、短い時間ではあるが、新しい社会を犬たちとともに作り上げたい。
 
 面白い事に、フリスビーでも単なるオスワリでも、自分の縄張りから出て、見知らぬ人や犬の見える所で行うと、上達が早いのである。
 これは、犬の心が適度の緊張状態に置かれるからだろう。加えてヤキモチである、これを上手に導き出すとうまくいく。

 ああ〜、楽しみである。
 私が乳父として関わった犬たちも来てくれる。大きさはもとより、どのような性格になったのだろうか、御家族の皆さんと、どのような絆を見せて頂けるのだろうか....。気になって、我が家での子犬時代の写真を引っ張り出し、女房と過去巡りをしている。

 初めて会う犬たちも楽しみだ。小型愛玩犬から和系ミックスまで、彼らが、初めて会った私、そして他の犬たちと、どのように心を繋いでいくのだろうか....。
 万が一、トラブルが起きそうになったら、これは私の出番である。真ん中で、犬たちがあきれるような、いつものパフォーマンスを見せてあげよう。あっけにとられるのは犬だけではない、おそらく、初めて顔を会わせた皆さんも、あわてて帰り支度を始めるかも知れない。

 でも、私は、常に笑顔だろう、そして、初冬の1日を、幸せの中で送る事だろう。


 最後に....
 もし、お時間がある、と言われる方。よろしければ一緒に遊びませんか?犬がいなくても、もちろん大歓迎です。その辺を元気に跳ね回っている他人の犬で遊びましょう。
 詳しくは『お知らせコーナー』→『乳父(ウブ)の動き』を御覧下さい。



2002年11月16日(土) 天気:晴れ 最高:3℃ 最低:−6℃

 晴れてはいるが、気温が下がり始めた午後、ベコとメロンを皮切りに、犬たちが一斉に吠えた。短く連続した声、近くに何かを見つけた吠え方だった。
 窓から外を見ると、車が庭先に停まるところだった。運転してきたのはヤマちゃん夫人、ケイコちゃんだった。旅の報告に来たのだろうと、中に入ってくるのを待ったが、いっこうにドアが開かない。
 不審に思った女房が玄関に出てみた。女房の目に入ったのは、表側の扉を足で支えて身体を半分玄関に入れ、外のコンクリートの上に落ちた物を拾い集めているケイコちゃんの姿だった。その前には、首を高く掲げ、偉そうな表情の雄鶏『コッケイ』がいた。

 『やられたの〜、コッケイ?』
 
 女房の声が家中に響いた。その口調には同情も心配も感じられなかった。

 『見て〜コレッ!!』

 ケイコちゃんの差し出した、取っ手の付いた厚い紙袋は、ズタズタに引き裂かれていた。その中身、様々な中華饅頭が転がっていたのだった。

 『お土産なのよ〜、それをコッケイが、コンニャロ!!』

 大丈夫、我が家では、たとえ泥の上に落ちた物でも、かるく汚れを落として口に入れている。まして、その饅頭はセロファンにくるまれていた。
 女房が手伝い、無事に饅頭は我が家に辿り着いた。

 以前、我が家の雄鶏『コッケイ』、愛称『番ドリ』に関して書いた事がある。黒い長靴の人は、あまり襲われず、黄色や赤、鮮やかな青などで近づくと、足蹴り、嘴攻撃を受けると。
 これは明らかに、色を見分けた反応だった。

 では、何故、そのような色を攻撃するのか.....である。
 あの後、実験を重ねるとともに、ムツさんとも話し合った。
 結論は、これまた簡単だった。
 ライバルの印......そう、雄鶏の象徴である大きなトサカの色、もしくはそれに似た色に対して、排除のための脅し、攻撃が出るのである。
 考えてみれば当然の事である。1対1で番う連中はもとより、ハーレム型の社会を構成する鶏のオスにとって、いかに他のオスから嫁と縄張りを守るかが大使命である。犬のように、鼻を付け合い、尻やチンポコの匂いを嗅いでからでは遅い、遠目に見て、侵入してきた相手がオスと判断する手がかり.....それがあの目立つ造型物の色だった。

 ケイコちゃんの心尽しの土産が入っていた紙袋の色は、明るいワインカラーだった。まさにセオリーの通りだった。

 通達を出さなければならない。我が家に来られる人は、土産をヨロシク....そして、それは白、灰色、黒、などの袋、包みである事....と。
 でも、これも無用になるかも知れない。怖い番鶏がいると言う事で、来訪者がいなくなってしまうのでは。



2002年11月15日(金) 天気:晴れ 最高:3℃ 最低:−9℃

 9月に、急な病でサモエドを失った知床のSさん御夫妻が、久しぶりに我が家に立ち寄ってくれた。
 車には、たくさんのドッグフードが積まれていた。愛犬のためにストックしていた物だった。変質してはもったいないと、わざわざ届けてくれたのだった。
 私と女房は、喜んで使わせていただきます、と御礼を言った。

 さっそく、今日の餌の時に、いつものフードを減らして頂いた物を使った。死んだ子の父親であるマロには、他の犬よりも多めに娘が口にしていたフードを入れた。
 何もしらないマロは、ただただ嬉しそうに平らげた。

 Sさん御夫妻の目的は他にもあった。ひょっとすると、そちらが1番かも知れない。それは、先日、交配を終えたサモエドのアラルに会う事だった。
 すぐ横に腰をおろした奥さんに、アラルは柔和な表情で接していた。この子は、けして派手なアクションを示す子ではない。どちらかと言うと控えめなほうである。しかし、今日のアラルは、奥さんに身体を擦り付け、そして腹を見せて甘えた。

 『ぜひ、1匹、メスの子犬を.....』

 女房も、私も、ひたすら笑顔だった。

 ともに過ごした犬を失って、もう2度と犬は飼わない、という方もけっこういる。
 これは、私や女房には、せつなくて、悲しくて、そしてクヤシイ事だった。
 もちろん、飼われていた方が、どれほどの衝撃と悲しみを体験したか、それは理解できる。その上で、そこから、どのようにスタートをするかだと思う。

 Sさん御夫妻は、同じ種類の犬を求められた。
 これは勇気であり、前の犬に対する感謝の表れである。その犬が、その犬種が素晴らしかった、と言う大きな証明である。

 アラルに変化が出たら、連絡をします、ぜひ、見に来て下さい......そう約束をさせていただいた。
 
 2003年の3月、雪の中を転げ回る元気なアラルっ子が知床に旅立つ時、今度は、私がドッグフードをお渡ししよう。
 



2002年11月14日(木) 天気:快晴 最高:4℃ 最低:−6℃


 ラブという名の犬がいた。ラブラドール・レトリバー種、ビロードのような光沢の黒い毛が見事な犬だった。
 3年前に、ラブは癌で死んだ。たしか14歳だったと思う。それほど長い時間の闘いではなかった。進行の早い、難敵に狙われてしまったのだった。

 ラブに惚れ込んでいたのは私だったと、今も心の中で自慢を
している。
 横浜からやって来た子犬のラブを釧路空港で迎え、ケージから出て来た時の、小さな尾の振り方、そして、ひたすら見つめてくる瞳に、私は、ただただニコニコとしていた。

 世話をしたのは、私ではなかった。
 しかし、外で一緒になれば、必ず声を掛け、遊び、そして還って来る手ごたえを味わっていた。
 ラブが出産をした。10匹近く生まれたと思う。どの子犬も良く思えた私は、盲導犬協会に電話をしていた。盲導犬候補の犬が不足しているとの新聞記事が頭の中に残っていたからである。

 協会から指導員のNさんがやって来て、確認をされた。
 Nさんは、私たちの予想とは違い、子犬を眺め、遊ぶ時間は
短かった。
 それよりも、ラブを王国の外に連れ出して、どこまでも一緒に歩いた。
 後で聞いたところ、これがテストだった。

 『あの母犬から生まれた子なら、可能性はあります、預かりましょう...』

 その言葉のとおりに、レミィと名前の付いたラブの子は、13歳で引退をするまで、隣町で頑張ってくれた。

 ラブは、人間の役にたとうと仕事を求める子だった。まさにラブラドールである。くわえて運ぶを基本に、私たちの足元で常に、次の仕事を探していた。
 王国の下に広がる海岸に行くと、必ず海に入り、鴨ならぬ昆布をくわえてきてくれた。一度、私が柔らかい昆布を茹でて千切りにし、酢醤油で食べたくなって、ラブが遊びでくわえていた流れ昆布(波などで切れて漂っていたもの)を、『出せ!!ヨシッ』と言って受け取り、持ち帰った事がある。
 以来、ラブは海岸に行くと、たとえ−15度の日でも、シャーベット状の氷が浮いた海に入り、ひたすら昆布を探した。
 運良く見つかったのをくわえて誇らし気に立つラブの全身に、すぐに白く氷ができていた。元気に振る尾が、シャラシャラと音を立てていた。

 人間の言葉と仕草を常に見つめ、自分が何を求められているか、赤みを帯びた茶の瞳で聞いて来たラブ.....以来、私は自分の手元にもラブラドールを置いている。
 人類が作り出した犬という家畜の中でも、傑出した犬種のひとつだと思う。

 今日、14日、正午頃.....。
 神奈川県で1匹の黒いラブラドールが天寿を終えた。
 17歳と2ヶ月....『謙二』という名の、私の好きだったラブの甥っ子だった。
 彼もまた、ラブラドールの世界からやって来た、最高の大使だったと、飼われていた御家族の便り、写真を見て、そう思う。
 
 雲一つない星空、そこに素晴らしい星がひとつ増えた夜、寒暖計はマイナス5度を示していた。



2002年11月13日(水) 天気:快晴 最高:10℃ 最低:−2℃


 相変わらず、風の強い1日だった。数日前まで、霜にも初雪にも耐えて葉を残していたツルウメモドキも、気がつくと、すっかりツルだけになり、黄色の中に鮮やかな赤が目立つ実を風にさらしていた。
 隔離柵の上で繁茂していたそれは、夏の終わりから秋まで、スズメたちの拠り所となっていた。薄暗くなると、数十羽が葉の中に隠れ、夜を過ごしていた。暗くなってから隔離柵の犬たちに餌を与えに行くと、頭のすぐ上でチュンチュンという声と、ざわめく音がした。手を伸ばせば、アブラではなく私でも捕まえられるのではと思うほどだった。
 昨日の夕方、鶏小屋の梁にスズメが隠れていたのは、葉の落ちたツルから引っ越しをしたためだったのだろう。

 1歩1歩、確実に冬への歩みを進めている今日、このHPへのアクセス数が『100000』を超えた。
 立ち寄って下さった皆さんには、本当に感謝である。北の原野で、犬、ネコ、キツネ、ニワトリなどと暮らし、思うがままを言わせて、書かせていただくという、ある意味で最高の贅沢、そして最高のワガママをさせてもらっている私は、真の幸せ者である。
 生き物、自然.....すべての命に想いを寄せてくださっている皆さんに、重ねて御礼をさせていただこう...
 
 『ありがとうございます!!』

 お気付きの方がいらっしゃるかも知れない。私が掲示板で書く文章の中で、犬やネコをどのように呼んでいるか、に関してである。
 実は、これには随分悩んだ。過去を辿ると、書き込んで下さった方の犬に対して、ある時は『〇〇クン』ある時は『〇〇ちゃん』、そしてまたある時は『〇〇』と呼び捨てと、その時その時で変わっていたはずである。

 何年も前になるが、あるペット雑誌から原稿の依頼があった、

 『イシカワさんにぜひ、ワンチャンとニャンチャンの事について毎月、ゆかいな話を頂きたいのです....』

 すでに長く付き合いをさせて頂いている雑誌があると丁重に断ったが、実際はこう叫んで電話を切りたかった....
 
 『私は、犬をイヌ、猫をネコと言えない編集者とは意見が合いませんので、お断りします!!』

 ワンチャンは、偉大な王選手(監督)お一人で十分である。その素晴らしさは、昨年のローズ、今年のカブレラと、豪打の二人が56号を打てなかった事でも証明されている。

 1匹の犬を可愛がっている方の発言なら、まだ我慢はできる。
 しかし、ペットの産業に関わる方が『ワンチャン、ニャンチャン』と口にすると、どうしても揉み手で客にすり寄る姑息な感じがしてならない。
 もちろん、何をそんな細かな事にこだわるの....とお叱り、怒り、あるいは呆れてる方もいらっしゃるだろう。
 でも、反論を書かせて頂くのなら、私は次のように言いたい。

 『ワンチャンでひとくくりにされると、そこには情緒が先にたった、可愛い存在としてだけの姿が真っ先に、受け取る人間側に現れ、他の大切な部分が闇に消えてしまう』

 と思うのである。
 時には、吠えて、啼いて、咬んで、駈けて、引っ張って、大食いで、下痢をして、泥だらけになって、盗み食いをして、そして人間を笑顔にしてくれる『犬』の多様性、犬種的変異、特性、を大切にし、そこから犬を見てもらう事で、様々な問題が解決し、より楽しい『犬との生活』、より過ごし易い『犬のいる街』の可能性が広がると思う。
 ぺット雑誌の編集者たるものが、プロたるものが『ワンチャン』とは何ごとぞ....この考え方は、私のなかでより強くなっている。

 どうも、話が横にそれた上に、100000の御礼を言わせて頂く日にはふさわしくない。
 でも、この記念の日に私は宣言をさせて頂きたい、

 『すべての犬、ネコに対して、私は敬称を使いません..』

 先に書いた事に加えて、もうひとつの大きな理由は、こちらに寄って下さる皆さんの愛犬、ネコは、私の大好きな犬、ネコでもあると思うからである。
 こんな男ですが、名誉飼い主にさせていただければ光栄である...。

 お寄りいただいた心が10万を超えた夜、気温はすでにマイナス5℃を下回っている。半月が傾き、星が凍って見える。



2002年11月12日(火) 天気:雨のち快晴 最高:15℃ 最低:6℃

 強い風と雨の後、午後には見事に晴れてくれた。気温も高く、霞みもかかり、なにやら怪し気な空気が漂っていた。時期外れの黄砂がやって来た所もあったようだが、まさかこの辺のモヤモヤは違うだろう。

 午後と、夜10時の2回、1.5キロ離れた仲間のヤマちゃんの家に女房と二人で行って来た。
 珍しくヤマちゃん夫妻が二人で出かけたので、室内の犬たちの散歩をするためである。

 家の前に車を停めると、すぐに吠える声が聞こえてきた。玄関のガラス戸の曇りガラスには、大きな黒い影が映っていた。

 『フーチ、今、開けるよ!!』

 きしむ戸を左に大きく動かすと、丸く黒い固まりが飛び出てきた。体重は60キロに近いだろう、ナポリタンマスチフのフーチである。続いて2匹、これまた黒っぽい犬が駆け出してきて、私と女房のズボンと手の匂いを嗅ぎ、盛んに尾を振り、跳びついてきた。この犬たちは頭頂にわずかの毛があるだけで、あとは無毛、メキシカンヘアレスのピカとキラである。
 女房が室内に入り、ケージの中にいたクラウン、ジェロニモ、ムム子の3匹を解放した。やはりヘアレス犬で、老いたクラウンも元気に外に出て来た。

 『お〜い、みんな、行くぞ〜!!』

 声をかけ、私が先頭にたって家の裏に広がる牧草地を目指す。若いピカ、我が家のヘアレス犬カリンと同腹のジェロが追い越して行った。
 室内で我慢をしていたのだろう、それぞれが好みの場所で小便をし、終わると私と女房に駆け寄って、まるで御褒美の習慣があるかのように、『何か美味しい物をチョウダイ....』という目で見つめてきた。
 ヤマちゃんたちが、いつもどのようにしているのかは不明だが、私たちはイシカワ家流に、惜し気もなくポケットからジャーキーを与えた。

 午前中は高かった気温も、空が晴れるとともにどんどん下がってきていた。カリンのように真冬でも外で暮らしている子とは違い、ヤマモト家の連中は、室内生活に慣れている。ピカが、クラウンが片足を上げ始めた。
 
 『足が冷たいようだね、もういいかな、ウンコはどう?』
 『だいたい終わったようよ、入れようか....』

 その言葉が理解できているかのように、ヘアレスたちは家の方向に進み出した。フーチだけは、相変わらずヨダレの垂れた大きな口で、私の左のポケッットを探っていた。

 総勢6匹を居間に入れると、隣の部屋との仕切りを外した。1匹のヘアレス犬が尾を下げていた。足元には黒白の毛で、まるで我が家のベコのような姿の子犬が座っていた。3週間ほど前に生まれた子犬と母親のカムリだった。
 ベコはカムリを母、サモエドのマロを父としているので、有毛で生まれても納得できる。しかし、カリンやベコの弟になる、この子犬は、両親ともにヘアレスだった。たった1匹で生まれた子が有毛とは、遺伝の不思議を感じてしまう。

 子犬を育てているカムリは、なかなか外に出ようとはしなかった。それでも、名前を呼び、ひとかけらのジャーキーをあげると、子犬を気にしながらも庭に出て、全速で20メートルほど離れた草むらで小便とウンコを済まし、私からジャーキーを貰うと、またまた全速力で玄関に戻って行き、数分前と同じように、黒白っ子の横に立った。良き母親ぶりを見せてくれた。

 犬たちに水を与え、ケージや暖房の確認をし、テナガザルのナナやリスザルのシンディの元気な姿に安心し、ルークたちネコの様子を見て、アイガモのヒナにをからかい、私と女房はヤマちゃんの家を後にした。

 実は、イシカワ夫婦が、ヤマモト家の連中の世話をするのは初めての事だった。立ち寄っても外で話をする事が多く、室内に長い時間滞在するのも珍しい。

 それなのに、私も女房も咬まれもせず、犬たちに逃げられもしなかった。
 ここに『犬の真実』がある。
 何度も、何度も書いている事だが、もし、犬が飼い主家族を自分の群れの1員と認識しているのなら、私と女房は、完璧に他所の群れのメンバーである。
 とすると、フーチやクラウンたちは、自分達たちのナワバリに無断で侵入してきた二人を、噛みつき、追い出さなければならない。

 でも、二人は無傷だった、それどころか、おいしいオヤツをおくれと、尾を振って駈け寄り、名前を呼ぶと軽く耳を倒して笑顔になり、ハウスと言うと家に戻った。
 車が停まった時に吠えたのは、誰かが来たという仲間同士での連絡と、誰だろう?誰かが来た、嬉しいな〜!!の混在した反応である。だから、私と女房の姿が確認できると、吠え声は収まり、次の行動に切り替わった。

 犬たちが人間を見つめている根本は、上下関係ではない。人間と一緒に何ができるのか、何をさせてもらえるのか、それを期待している。
 良き飼い主とは、分りやすく犬に仕事の説明をできる人ではないだろうか(5歳の子供の言う事を、犬がなかなか実行しないのは、けして犬より下位だからではなく、命令法が下手なだけである)。
 もちろん、その仕事の中には、犬ゾリなどのスポーツや、しつけと言われるもの、そして様々な遊びまで、同じ時間と空間を使うものはすべて含まれている。

 11月12日、私には得るところの多い1日だった。

 



2002年11月11日(月) 天気:晴れ 最高:10℃ 最低:−5℃


 夕方、久しぶりに父がやって来た。朝5時に名寄を発ち、JRを乗り継ぎ、11時間を掛けて辿り着いた。バスセンターで手にしたバッグは、82歳が持つには、少し重かった。

 『少しだけど、ラッキョウを持って来た....』

 私が好きな事を、故郷の両親は覚えていた。
 そう言えば、昔『私の好きなもの...』を羅列した歌があった。ネットで訪ねる様々なHPでも、プロフィールの欄に書いてらっしゃる方が多い。眺めると、会ったことのないその方が、何となく見えてくるから不思議だ。

 私も、タバコを片手に並べてみよう....。
 
 さて、好きなもの、
 ラッキョウ、タマネギ、ショウガ、コンニャク、ジャガイモ、ピーナッツ、ナガイモ.....土の下で実る物は、どのような調理をされても生でも好きである。
 魚は1番がサバである、次いでワカサギやチカの空揚げ.....そうか、魚は食べ方で若干、変わってくる。でも食べられないものはない。
 貝は、先日も書いたが全て好きだ。
 
 いちいち、余計な言葉を挟むのはやめ、ずら〜っと並べてみよう。

 『犬のため息』『セピア色の原野』『ネコのあくび』『煮豆』『大きな声で、オハヨウと言う女性』『泡の出る麦茶』『ぬる燗と熱燗の間の日本酒』『夜の運転』『キツネのラブソング』『白餡』『ワイン』『丘の上のエゾシカ』『草競馬の騎手』『パチスロ』『今、ともに飲んでくれる役人』『呼ばなくても見つめに来る犬』『呼ばれそうと感じて逃げる犬』『日がな眠る老犬・老ネコ』『メスと縄張りを守る雄鶏』『サラっとした付き合い』『自分の言葉の祝電、弔電』『噛み砕いた原則論』『ピーナッツ味噌』『桃』『固い犬のウンコ』『我が家の鶏の卵』『渓流での餌釣り』『脂肪の少ないステーキ』『常夜鍋』『旧い友の手紙、メール、電話』『肩を怒らせた若者』『ネクタイを結べない大人』『年に1回、口にするケンタッキーフライドチキ〇』『ドーナッツ』『ワーグナーのすべて』『マージャン』『建て前を破る先生』『絞り立ての牛乳』『音楽全般』『固いリンゴ』『クラリネットの音』『寝る前の読書』『ムツさん』『わがままを示す犬』『きゅうりとナス』『むかれた伊予柑』『食卓に集まるネコ』『アラン・パーソンズ・プロジェクト』『海外テレビドラマ・今はER』『モロキュウ』『87分署シリーズ』『米の飯』『国語辞書』『6月の新緑』『子ギツネ』『アザラシのヒゲ』『野の花』『餅』『オレンジタルト』『吹雪』『源氏鶏太』『地図帳』........。

 終わりが見つからない....嫌いな物を書いたほうが早かったかも知れない。
 まあ、最後にひとつだけ加えておこう、『この日記を書き終えた瞬間』....煙草に火を付けた時も心地よい。



2002年11月10日(日) 天気:晴れ間あり 最高:5℃ 最低:−1℃


 舗装された道々(ミチミチではない、ドウドウと読む。北海道が管理する道...ゆえに道々である)から直角に曲り、ムツさんの家に続く300メートルの砂利道は、実のなる木で囲われている。まあ、簡単に言うと並木道である。
 交差点からしばらくは小粒のリンゴ『ヒメリンゴ』が続き、家に近づくと、リンゴよりも背に高いヒョウタン型の梨、いわゆる洋梨が10本ほどある。

 この1ヶ月、我が家の犬たちの楽しみは、梨の木の下に落ちている。セン、カボス、タブ、カザフ、アラル、はてはフガフガ犬のタドンまで、いそいそと木の下に行き、草むらをあさっている。
 もちろん、狙いは落ちた梨である。10月の初旬は、今ほど犬たちも熱心ではなかった。くわえて遊び、まれに食べる程度だった。
 しかし、ここ1週間は、彼らの意気込みは凄い、タブなどは、得意の吸い込み食事法で、あっという間に4〜5個を胃の中に収めてしまう。いくら餌の量を加減しても、体重が減らない理由はここにもあるのだろう。

 時々、私も拾って味見をする。
 確かに、木の枝に下がっていた時よりも甘い。これならば犬たちも好むと思われる固さとジューシーな感じがあった。
 私の実家にも同じ種類の梨があった。祖父は、枝から採って食べるよりも、やはり台風などの後で、落ちたものを集めていた。

 『霜が何回か降りてからのほうが旨い....』
 が口癖だった。

 ムツさんの家の前の枝に、今もしがみついている、そんなしぶとい梨は、もう2.3個である。ほとんどが霜、初雪、そして強い風の影響で大地の上に落ちている。越路さんがケーキの材料として使う分は、とっくに確保してある。
 ならば、このまま腐らせて草の栄養にするよりも、喜ぶ生き物たちの顔が見たいと、私と女房は、朝夕の犬たちとの散歩の時に立ち寄り、犬たちに食べさせるとともに、毎回、ポケットがいっぱいになるまで拾い、それをウサギやヤギのメエスケに与えている。まさに梨狩りである。
 
 寒い夏だったので、実の大きさは今ひとつだが、開花の時期(5月末)が暖かかった影響だろう、例年よりも数は多い。すでに大きなダンボール箱にあふれるほど確保し、毎日、消費している。

 この梨も、−5℃以下の日が何日か続くと、凍り付き腐ってくる。チャンスはあと数日だろう、明日もポケットを空にして行かなければ。



2002年11月09日(土) 天気:曇り時々雨 最高:5℃ 最低:3℃


 
 各地から雪便りが届いている。しかし、中標津は思ったよりも寒くならず、重い雲を頭に1日が過ぎた。1日の温度較差が2℃というのは珍しい事である。

 一昨日、日記に我が家の黒ラブ『タブ母さん』の子『ベル』の話を書いた。嬉しい誕生日FAXについてである。
 母親のタブは今年で満5歳になる。生まれたのは神奈川県、Tさんの家からやって来たので、名前は『Tさん家のラブラドール』と言う事で『タブ』となった。
 この語感は、王国の初代ラブラドールである名犬『ラブ』の響きにも似ているので、簡単に命名したわりには、私は気にいっている。

 しかし、2度の出産、合わせて18匹の子犬を、すべて母乳で育てたにもかかわらず、いつの間にかタブは、その名前が悪いとからかわれるようになってしまった。
 そう、タブを連続して呼ぶとどうなるか....
 『タブタブタブタブタブ.....ブタブタブタ、ブタ...』
 
 名は体を表わす、とはよく言ったもので、何とか期待に応えようと、タブはしっかり食べ、いつの間にか『ブタ』と呼ばれるようになっていた。

 私は、痩せたソクラテスよりも太った犬を好む。川でたっぷり泳ぎ、林の中をうろついて鳥を探し、草原で駈ける....その姿があるならば、丸い身体でも気にならない。タブは真冬でも氷を割って水泳をするので、寒さ防止に脂肪も役立つだろうと、おおらかに見ている。

 そんなタブが、先日の発情の後、別の犬になってしまった。
 体重、丸みをおびた身体.....これは変わらない。いくら餌を減らしても、素晴らしい代謝機能を働かせて、私の好きな体型を維持している。
 では、何が変わったのか、そう、行動パターンである。

 1ヶ月前までは、朝、クサリから解放されると、人間が付き合おうと、さぼろうと、必ず2時間は、500メートル離れた牧場の真ん中を流れる当幌川で遊んでいた。気が済むと、濡れて黒く光った身体で、我が家の庭先に戻ってくるのだった。
 これは、最初に、そのように教えたからである。
 生後4〜5ヶ月の頃、ともに散歩に行く私に、数分おきに駈け寄り、『ねえ、どうするの?もっと遊んでいいの?』と瞳で聞いてきた。
 これは、ラブラドールをフリーにしていると出てくる、犬種としての本能である。

 その時に、私は、
 『いいよ、好きな所に、好きなだけ行きな、GO〜!!』
 と答えていた。
 利発なタブは、すぐにこの信号を覚え、私から離れて遊ぶ事を理解し、それを楽しんでいた。

 しかし、今回の発情後、タブは1度も、私や女房の視界、他の仲間の犬たちの中から消えていないのである。

 『タブ、なんで川に行かないのだろう、もう自由なのに...?』
 『ハンターが怖いんじゃない、鹿と間違えられるから....』
 
 女房の返事は、数日前の日高でのサラブレッド誤射事件を頭に入れてのものではない。この辺でも、日の出前や日没後にライフルの音がする事はよくある(もちろん法律違反である)。
 従って、我が家でも、下の川への夕方の散歩は控えているのが実情である。
 
 『都会人のハンターは臆病(言葉が悪いだろうか?言い換えるならば、原野に慣れていない....だろうか?)だから、ガサガサと音がすると、すぐに撃ちやがる、あぶなっかしくてやってらんねえ〜』
 
 とは時々ガイドもしている地元の老ハンターの言葉である。

 でも、タブの行動の変化は、別のところに原因がありそうである。
 それは『加齢』である。
 5歳、もちろん『老い』ではない。歳を重ねて、充実期に入ったと言うべきだろう。ある盲導犬のオーナーも言っていた、5歳頃から、言葉を出さなくても先に先にと仕事をしたと。
 ラブラドールで言えば、特別な病気でもしないかぎり、5歳から9歳頃までが熟女・熟男の時期だろう。人を見つめ、先んじて人の望む事をしようとし、そして自信と落ち着きが出て来る。
 子犬の無邪気さ、若い頃のワンパクさ、それとは異なる、豊かな付き合いが始まる。
 そして、それを過ぎると、いよいよ老齢期に入る。これまた人間の心に侵み入るような心と眼差し、そして行動で私たちを幸せにしてくれる。

 もしも、私が犬、ネコ、馬、にわとり、ヤギなどの仲間とともにテーマパークを運営しているとしたら、犬は、すべてを5歳以上にしても構わないとさえ思っている。
 生きることのベテランこそが、他人に心を向ける余裕を備えているのでは......相変わらず30数キロの身体で、軽く跳ねながら私を見つめてくる最近のタブを前に、そう思う。



2002年11月08日(金) 天気:曇り時々雨 最高:13℃ 最低:−3℃

 明け方から風が南にまわり、気温が上がった。9時には寒暖計も10℃を示し、強い風とも相まって、何やら怪し気な雰囲気だった。このところの低温に慣れていただけに、犬も私も舌を出し、暑がりな女房は『熱い!!』と叫んで上着を脱ぐ始末だった。
 しかし、それも一時の事、夕方までには前線も通過し、今度は風が北に変わる。明日は一転して寒くなりそうだ。うまくいけば雪を見られるだろう。

 釧路の病院にリハビリに行った娘が、手みやげに『ツブ焼き』を買ってきた。私の握りこぶしよりも大きい真ツブを殻ごと焼いたものである。味は醤油だけだろう、この単純さが実にうまい。黒っぽい肉をフォークで突き刺して出し、そのままくらいつく。
 歯ごたえのある肉から微妙な味がしみ出し、私は何個も口に運んでしまう。

 いつからだろう、こんなに貝が好きになったのは。
 最初の記憶は、小学校に入るかどうかの頃だと思う。近所の仲間たちと名寄川(天塩川の支流)に遊びに行った。そこには工場のために水を取り入れている用水路があった。3歳ぐらい年上の子が、服をすべて脱ぎ、フリチンで入った。貝を採ると言う。
 もちろん私も同じように水に入った。けっこう深く、脇の下まで流れがあった。泳げない私はコンクリートの縁につかまり、足の裏で貝を探った。
 カラスガイ......ムール貝を大きくした形の黒い貝である。
 私たちはたくさん採取すると、用意の良い子が持ってきていたマッチで火をおこし、そこで貝を焼いた。固く、かすかに川の匂いもあったが、ワンパク連中にはドキドキする体験だった。

 以来、貝であれば何でも好きである。サザエやアワビ、トコブシ、アオヤギに赤貝など、北の地では無縁な貝も東京に出た時に口にして、たちまちファンになってしまった。先輩に連れていってもらった寿司屋で、アワビを食べまくり、5回目の注文で怒られた。
 
 11月は、この辺の貝がうまい季節である。牡蠣、北寄貝、ホタテ、様々なツブ、加えてアサリやシジミも....生よし、焼いてよし、揚げてよし、汁によし、幸せな私である。
 

 

 



2002年11月07日(木) 天気:晴れのち薄い雲 最高:10℃ 最低:−6℃

 嬉しいFAXが届いた。

  石川さんへ、
 今日はうちの家族(ベル・タブの子ども)のたんじょう日です。今日で3さいになりました。年はふえても、せいかくは小さいころのままです。
 今日は、たんじょう日なのでプレゼントに、ボール、ほね(おやつ)、ガム(犬用)をかってあげました。
 あと、今日だけとくべつに、へやの中であそばせていいことになりました。
 けど、ベルはじぶんのたんじょう日をしらないので、いつものようにおりていきます。
 こんどきかいがあったら、ムツゴロウ王国に行ってみたいと思っています。
 石川さんもかぜをひかず、元気でいて下さい。

                宮城県のH家より

 手紙の最後には、ケーキを前にしたベル、骨を前に『マテ!!』と言われているベル(よだれも描かれている)、ボール遊びをしているベルと子供の姿が添えてあった。

 いつもの事ながら、私はベルを含めて9匹のタブの子犬たちの誕生日が今日である事を忘れていた。3年前の今日、11月7日に生まれた5匹のブラック、4匹のイエローラブは、南は鹿児島から北は宮城まで、全国に旅立っている。
 
 今日のFAXは4年生のレイナちゃんが代表して書いてくれたのだろう。ベルが家族になった時、H家ではお兄ちゃんが3年生、レイナちゃんが1年生だった。
 すぐに手紙が届き、便が柔らかい事と、スリッパから子供たちの手足まで、傷だらけと書かれていた。吠えるのは3日でなくなったとも書かれていた。
 私は電話で、ほんの少し説明とアドバイスをさせて頂いた。
 
 次の手紙には、二人の子供たちの書いた絵手紙と、お母さんの情況説明が入っていた。
 2ヶ月で、じゃれ咬みはピタリとおさまり、ラブらしくバキュームで餌を食べ、子供たちが生き生きとして遊んでいると......。
 そして、カメラをしっかりと見つめるベルの写真が何枚も添えられていた。

 その後の事は、今日頂いたFAXで十分に想像ができる。最高のファミリーに恵まれた事を、母親のタブに代って私は祝いたい気持ちである。
 女房に、FAXを見せ、これまで頂いた写真や年賀状を取り出して、しばし、9匹の事を思い出していた。
 もちろん、祝いにつきものの泡の出る麦茶も、堂々と胃に流し込みながらである。

 確かに、行動学的にみても、生まれた時から旅立つまでの期間が重要である。あらゆる基礎が築きあげられる時期である。
 しかし、それ以上に大切なのは、やはり毎日をともに暮らす家族の皆さんである。
 どんな声をかけ、どんな餌を与え、どんな遊びをし、どんな眼差しを向けているか.....。
 豊かで心のこもった具体的な行動があって初めて、基礎が生きてくる。ベルは、そのすべてに恵まれた.....。

 今、目の前にベルの3歳を知らせてくれたFAXがある。A4の用紙からはみ出しそうな勢いの文字とイラストが、ビールを美味しくしてくれている。



2002年11月06日(水) 天気:曇り時々陽光 最高:7℃ 最低:−3℃


 ムツゴロウ動物王国を応援して下さっている皆さんの組織『ムツゴロウゆかいクラブ』の会報誌『ルップ』の編集に入っている。隔月の発行、サイズは小さいが24ページに心を込めているつもりだ。
 今、編集をしているのは12月に発行になる『119号』である。年に6回、来年早々には120を数える.....と言う事は、何と創刊から20年が過ぎている。

 利益集団ではなく心が集まった組織で、このように長く続いているのは珍しいのではないだろうか。多くの皆さんに応援され、支えられてこその結果である、本当にありがたい事である。

 このような集団に成長し、維持されてきたのも、柱が『ムツさん』と『身近な生き物たち』だったからだろう。
 セントバーナードのボス、馬のキチ、ネコのチャトラン、パグのプースケ、オオカミ犬のタロー、秋田犬のタム、道産馬のポンコ.....述べでは1000を超える、普通の生き物たちが、当たり前の生活の中で、ドラマを生み出してくれた。
 それは、どこででも起こりうる物語だと思う。だからこそテレビの画像の中に感情を投入することができ、ムツさんの書いた文章に頷くことができる。

 数年前に、女房への土産を買いに入った浅草のデパートで、レジの女性に声を掛けられた事がある。ゆかいクラブの会員の方だった。
 次の客がレジに来るまで、昔からの友人のように話が弾んだ。彼女は、まるで自分の実家の犬のように、老いたマロを心配してくれていた。キツネの旅立ちを祝ってくれた。

 遠く、北海道の王国まで訪ねて来て下さるクラブの会員さんも、我がことのように、生き物たちの日常に心を向けて下さる。誕生を喜び、病気や老いを心配し、そして乗馬や犬たちとの散歩を楽しんで下さる。
 そして、皆さんが口にされるのが、
 『この特別でないところが最高ですね。生活の中に溶け込むと事ができて嬉しかったです。また丘で犬と昼寝をするために来ます、必ず!!』
 と言う趣旨の言葉である。

 最近は『ホスピタリティ』と言う言葉が一人歩きを始めている。この辺での観光を語る会議でも、まるでファストフードの店のように、言葉のひとつ、おじぎの角度まで、さも大問題のように議題にされる。
 マニュアルはすぐに形骸化の副作用を見せる。そんな事よりも、あるがままの姿を示し、その中に臨時の仲間として加わっていただいたほうが、お互いに無理がなく、長続きがするのでは。

 『ムツゴロウゆかいクラブ』の会員の皆さんには、特別な権利、利益などはない。あくまでも想い、心を絆にした組織である。
 その想いの運び役のひとつとして、ルップの製作・編集には心を込めてと自分を律している。
 

 



2002年11月05日(火) 天気:薄曇り、夕方、小雨と雪 最高:7℃ 最低:−3℃

 薄日が差し、風も緩やかになったので、午前中にキツネ舎の連中と遊んだ。我が家から50メートルほど離れている。軽んじているわけではないのだが、餌の時に元気な姿だけを確認し、時間を掛けた付き合いは、どうしても眼前の庭で目立つ犬やニワトリなどになってしまう。

 重い引き戸を開けると、廊下を挟んで両側に並ぶ個室から、16の瞳が見つめてきた。廊下側は金網になっているので、入り口までを見通す事が可能である。キツネが3匹、ネコが3匹、そしてウサギが2匹、合わせて16の瞳である。
 
 彼らが見つめているのは、誰が来たかと確かめているわけではない。キツネたちはもちろんの事、ネコもウサギさえも、小屋に近づいてくる足音や雰囲気で、それが石川夫妻なのか、違う人間なのかをとうに承知している。
 それが証拠に、私が小屋にいる時に、ゲストの方が無言で近づいて来ても、キツネたちは急いで小屋の梁の上に駆け上がり、恐怖を秘めた瞳で見下ろしている。
 床に降り、金網越しに入り口を見ているのは、安心と期待の姿なのである。

 女房が、まずウサギたちを部屋から出した。2匹はキツネの前に行き、鼻を寄せて匂いを嗅いだ。すでに3年以上の顔見知りである。普通なら美味しい餌になるウサギに対しても、ハックやラップは友好的で、冬を前に太くなった尾を軽く振ってこたえている。
 
 次いで、3匹のネコが出て来た。アニキ、オト、クロのオス3兄弟である。子ネコの時に捨てられて11年、キツネ舎の古株になっている。
 クロは、真っ先に女房の所に駆け寄り、ジャンプをして肩に乗った。アニキとオトは、廊下を跳ね回っているウサギに近寄り、頭、背、そして、あるかないかの短い尾を擦り付けて挨拶をしている。
 それが終わると、当然の事のように、金網越しにキツネの顔の所で、身体を擦り付けていた。今日は、引き戸を開けているのでキツネたちは出さないが、時々、廊下で一緒になると、見事な挨拶行動を示している。種の異なる生き物を仲良くさせるのは、実は、一般に思われているよりも簡単な事だと断言できる。もちろん秘訣はあるが。

 アニキとオトも、キツネへの挨拶が終わると外に出て来た。クロと同じように、まず女房の所である。足に何度も擦り付けをし、軽く啼いて友情を示している。女房の手が頭や背に行くと、ネコたちは身悶えをするように身体をくねらせ、幸せな咽なりを響かせた。

 『さあ、遊んでおいで...』
 
 女房が歩き出すと、3匹は後を追った。大きなハンノキに
登り、枯れ始めているチモシーの葉を咬んだ。雰囲気を嗅ぎ付けて柴犬のミゾレがやって来た。目ざとく見つけたネコたちが寄って行き、やはり擦り付けの挨拶をする。
 あまりにそれがシツコイので、ミゾレは閉口し、声は出さないものの、上唇がピクピクとし始めた。

 『ほらっ、もういいよ、ミゾレもわかったって!!』
 
 女房が助け舟を出す。
 その声に、固まっていたミゾレが動きだし、開放されている戸口に近づいた。

 『ル〜、ル〜、シュ〜!!』

 もっとも戸口に近い部屋から息を吸い込むような声が聞こえた。過日、交通事故で骨折し、我が家に保護されて来た名無しのキツネだった。この子は犬との交流の歴史を持たない。それはそうである、事故に会うまでは野生だったのだから当然である。
 野のキツネにとって犬はもっとも恐ろしいものの一つである。名無しは、第一次警戒信号になる声を出した後、あわてて梁の上まで駈け登った。その動きは素早く、骨折が完治している事を示していた。

 次の部屋にいるハックとラップは、別段、際立った反応はしていない。実は、2匹の幼い時、ミゾレが友だちだった。我が家の居間でネコに囲まれて育ち、外での散歩の時は、必ずミゾレが同行した。
 
 これには意味があった。子ギツネは、たとえ人間に育てられていても犬にはならない。何かに怯えた時、夢中になった時、行方不明になる事もあり得た。
 それを防ぐのがミゾレの役割だった。当時、ミゾレはハックたちよりは少しだけ年上だった。私や女房の言う事をよく理解しており、声を掛けると、どこからでもすぐに帰ってきた。
 ミゾレを友だち、保母にする事で、ハックたち子ギツネをコントロール可能にしようと言う作戦だった。
 これは何度も行って来た手法であり、すべてが成功していた。もちろん、この時も、うまく行き、私たちは安心して子ギツネを外でフリーにする事ができた。

 狩猟犬としての長い歴史を持つ柴犬ではあるが、ミゾレはすべての生き物に対して(一部の犬はのぞく)フレンドリーだった。
 怯えた名無しにも、奥の旧友にも、特別な反応は示さずに、軽く様子を確認していた。

 時々、葉の落ちたダケカンバの林に、温もりを運ぶ秋の陽光が斜に差し込んだ。
 人間が空腹になるまでのひととき、キツネ舎グループの穏やかな時間が過ぎて行った。




2002年11月04日(月) 天気:晴れ・今日も風強し 最高:9℃ 最低:−5℃


 縁があって、現役バリバリの狩猟犬を眺め、遊ぶ機会を得た。メスのラブラドール、5歳である。
 一目見て唸った、身体つきが我が家の飽食、暇多しラブラドールのタブ、センとまったく違っていた。肩から前足にかけての筋肉、さらに腰から腿にかけてのそれが、固く盛り上がっていた。
 しかし、胸は薄く、下腹部のくびれもしっかりとあり、余分な肉は削がれた感じがした。
 胸に余分な肉や脂肪がない事は、速く遠い距離を走る可能性を示している。あのオオカミたちを見るとよく判る、身体の大きさの割に、実に薄い胸をしている。これは走る事で上がる体温を、肺の外側を薄くしておく事で冷やす効果がある。
 逆のタイプのマスチフ系の犬などは、長距離走は不得手と言う事が、胸の形状からもうかがえる。

 そのラブラドールは、鴨のレトリーブの仕事をしている。目つき、身体の張り、そして忙し気な呼吸は、まさしく働き場を求める姿だった。
 私はロングリードに繋いで、いつも我が家の犬たちが遊ぶ広い牧草地に出てみた。何故、ヒモ付きかと言うと、
 『この子は鳥を見ると、気が変わります....仕事のスイッチが入ります...』
 と言われていたからである。
 庭には、コッケイやコッコなどの鶏連中がいた。いくら番鶏をしていても、トレーニングを受けた狩猟犬にはかなわない。それで繋いでの散歩となった。

 彼女は、他の犬が小便をした跡よりも、牧草地の横の茂みや、上を飛ぶカラス、トンビに反応した。フガフガと音を出しながら匂いを嗅ぎ続けて草原を旋回するように走り、頭上を鳥の影がよぎると、必ず上を見上げた。
 茂みを見つけると、勢い良く突撃し、突然立ち止まって耳を済まし、音を確認していた。

 試しに、オス犬のカザフとセンを呼んだ。2匹は、どんな女が来たのかと(オス犬はひと嗅ぎで相手がオスかメスかを見分けている)、興味しんしんで彼女の周りを尾を振りながらまとわりつく。
 しかし、彼女は、一瞬、鼻を相手に付けただけで、後はフィールドワークに忙しい。普通の家庭犬の仕事をしているラブラドールのように、しつこいほどの挨拶行動、さらに進んで遊ぼう信号は示さなかった。

 私は、またまた唸ってしまった。
 
 柵の中にいる時は、まったく違っていた。会ってすぐの私に甘え、おやつをせがみ、飛びついてじゃれ遊んでいた。
 それが、広い所に出ただけで変身である。その変化は、かつて王国で生まれ、盲導犬として頑張ってくれたラブラドールを思い出させてくれた。そのレミィも、家の中ではヘラヘラの甘えん坊だった。ところが、ハーネスを身体に付け、玄関から一歩外に出ると表情も引き締まり、『仕事中』....という雰囲気をかもし出していた。その姿には自信と誇りが感じられた。
 
 彼女もそうだった。笛で呼び戻しを教えていると聞き、私は口笛で確かめてみた。
 見事に反応した。地面に付けていた鼻を上げ、私を振り返り、すぐに駈けて来た。

 『オスワリ!!』
 少し強め、そして短く指令を出すと、彼女は口の泡が顔の横についた笑える表情で私の前に座った。その顔には、やはり落ち着きと自信が見えた。
 「さあ、どうするの、次の指令は何?」
 と目と耳が聞いていた。

 現役バリバリの狩猟犬と言っても、その出動日は年にどれほどあるだろうか。おそらく多くても20〜30日間だろう。
 狩りに出た時に、仕事がうまくいき、そして誉められる...。その宝物を心に手に入れた彼女は、イザと言う時に真価を見せてくれる。
 さらに、いったん仕事を覚えると、指令をする相手が変わっても、正しく扱う人間ならば、確実に反応をしてくれる。
 やはり犬と人は、仕事をともにする、と言う契約で結ばれた関係だと、あらためて思った。

 ここで言う『仕事」とは、彼女のように鴨を運んで来るものだけではない、『オスワリ』『フセ』『マテ』『ボールを持ってこい』『ユックリ』『プロレスごっこ』等々、なんでも構わない、人との間で行う事は、すべて犬にとっては『仕事』である。
 これらを覚え、こなして誉められた時、犬は誇りと優しさと人との絆を持つ。そんな意味で、いわゆる『シツケ』や『遊び』は大いに役にたつ。
 8歳にして、初めて『オスワリ』を覚えた秋田犬のタムが、何かの要求や、人間に対する抗議を示す時に、言われなくても私や女房の前で座っていたのを思い出す。人間との意志の疎通が可能な、貴重な言語を見つけた歓びが、タムの顔の表情に感じられた。

 今まで、柴犬のシグレとレオンベルガーのカボスには、オスワリも何も教えていない。ともに1歳と4ヶ月になる。何もシツケなくても、よく遊んで声をかけてあげれば問題は起きないという証明はできた。今度は、教えた時の変化を確認したいとも思う。さっそく明日からでも始めてみよう。

 1匹の狩猟犬は、私に、さらに犬の勉強をしなさいと、その動きと表情で示してくれている。

 

 
 



2002年11月03日(日) 天気:快晴・北西強風・寒し 最高:8℃ 最低:−3℃


 女房が大鍋でウドン、冷や麦、蕎麦を茹でていた。
 
 我が家では、正味期限はあまり気にしていない。食べてみて『ムッ』とくれば、やめておこうか.....となる程度である。生きる為には、これが一番重要な『生き物らしさ』だと思っている。
 
 以前にも書いたが、自分の体験、さらに友人、知人、そして海外にたくさん出ているムツさんに聞き取り調査をしたところ、売られている食品に、いわゆる『食品表示法』に基づく中身の説明、正味期限などが付いているのは、地球上では限られた国だけである。
 言い方を変えれば、自分で確かめる舌、目を失った進化人(私は生き物として退化と思う....)が、藁をもすがる想いで頼りにしているのでは....。
 たとえ形はいびつでも、表皮に張りと素晴らしい色のあるトマトを敬遠し、形だけが完璧なふにゃふにゃトマトを求める方の気が知れない。これを揃えるために生産コストが上がり、結局は『不味く、高い』トマトを食べる事になる。

 あははは、つい農家の息子の愚痴と怒りと疑問が、また出てしまった。読み流して頂きたい。

 そうそう、大鍋の中身の事を書こうとしていたのである.....。
 頂いた蕎麦などは、なるべく感謝をして食べる事にしている。しかし、子供たちが札幌に居を移し、我が家の口は女房と私の二つだけである。どうしても残ってしまう事がある。
 暮が近づき、あちらこちらの整理を始めると、その一環として、古い麺類を動物たちにお裾分けをする事になる。
 その時に参考にしているのが、あの正味期限という物で、期限を2年ほど過ぎている品から茹であげられていく。

 夕方、たっぷりの3種混合麺を動物用の台所で分けた。ニワトリもウコッケイも好きである。長いままでも、嘴でくわえて振り回し、上手に食べている。
 犬たちも、ひと固まりの麺が入っていると食が進む。ほとんどの連中が、まず麺に口をつける。
 ネコはあまり食べない。それでも、居間の中では三毛の『エ』アメショーの『ワイン』が前足の爪で引っ掛けて食べている。まあ、この2匹は子育て後、どんな物でも食べているが。

 そして、何と言っても、私以上に『メンクイ』なのが、ヤギの『メエスケ』である。
 バケツに入れて運んで行った、配合飼料、野菜クズ、風で落ちた洋ナシ、ウドンと蕎麦.....。
 メエスケは、餌箱にあけられたこれらの餌を鼻で確認し、麺の存在に気づくと、まるで私が回収するのではと思ったかのように、あわてて麺に口を付ける。目を細め、鼻の穴を大きく開き『ウエッ、ウエッ』と啼きながら夢中になって食らい付いている。
 
 たとえ古くなっても、これだけ喜んで食べている連中がいるので、心をこめて送ってくださった皆さんにも、いいわけが立つのではと、私はニコニコ顔でメエスケの食べっぷりを眺めていた。
 
 そんな光景を、我が家で餌の採取をしている2羽のハシブトガラスが、すぐ横のハンノキのの枝の上で見ていた、そして鳴いた。私は、バケツの底に残っていた数本のウドンを木の根元に投げた。1羽がすぐに降りて来てくわえ、10メートルほど離れたカシワの枝に移り、口移しでもう1羽に与えた。
 相変わらず、仲の良い夫婦だった。



2002年11月02日(土) 天気:晴れ 最高:6℃ 最低:0℃


 
 『おとうさん、ゴミゴミ....今日は土曜よ、ゴミを出さなくちゃ!!』

 娘や息子にではなく、女房に「おとうさん」と呼ばれるのには、しばらく抵抗があった。しかし、それも昔の事、最近はまったく気にならない。まあ、私が女房を呼ぶ時は常に『オイッ』なので、それに比べればましなほうだろう。

 その『おとうさん』は車に燃えないゴミを積んで、独身寮前の四つ角に置いてあるゴミ箱に運んだ。透けた袋で4つ、これが我が家の1週間分の歴史である。
 中身で最も多いのが、ネコ缶である、1日に9〜11個になる。次いで犬用のレトルトフードの袋、そして人間の使った物と続き、ほとんどが金属系の物である。
 
 我が家では『生ゴミ』と言う物がない。野菜クズや果物の芯などはウサギとヤギ、そして鶏たちに行き、肉、魚の破片は犬の胃袋に収容されてしまう。
 
 誰も見向きもしない物は、裏庭に置いてあるコンポストに、小屋のキツネや、20匹のネコたちのウンコ、そして枯葉などとともに詰め込まれ、数カ月で最高の堆肥になっている。コンポストで作られた真っ黒な堆肥を軽くすくうと、その中には、冬でも無数のミミズが元気に動いている。
 残念なのは、この肥料が私の口に入る物まで十分に還元されていない事だ。
 まあ、これは仕方がない、どんなに頑丈な柵を作って野菜園を守ろうとしても、犬たちは、あの手この手で侵入し、間もなく食べごろという野菜を、すべてウサギ・ヤギ用に変えてしまう。
 これは多分、ウサギとヤギのメエスケからリベートでも貰っているのだろう。
 
 という事で、今の家に越して5年ほどで、大袈裟に耕作をするのは止めた。それでも土いじりの好きな『オイッ』は、今年も庭の隅に石で囲んだママゴトのような畑を作り、二十日大根、ほうれん草、シロ菜、カブなどを収穫していた。
 
 もちろん、これだけでは大量の堆肥は使いきれない。そこで、毎年、秋と春には、5本のサクランボの木、無数にあるヤマザクラの木の根元に、鶏小屋から運んだ糞とともに置き肥としている。
 気のせいかも知れないが、堆肥を貰った木は、生長が良いよう思える。サクランボは来年には実を付けるだろう。この木は、私の父が、冬にはマイナス30度を下回る名寄の実家から運んできてくれたものである。私の密かな楽しみのひとつである。

 今夜はすでに12時で氷が張っている。大地が本格的にシバレないうちに、堆肥と糞を処理しなくては.....。



2002年11月01日(金) 天気:雨のち曇り、そして快晴 最高:9℃ 最低:−3℃

 昨日(10月31日)の事を少し書いておこう。

 一大行事は、やはり娘の退院である。釧路の病院に手術のために入って2ヶ月弱、まだ松葉杖ではあるが、無事に帰ってきた。
 例によって、これを歓迎しない生き物も我が家にいる。ターキッシュバンキャットのレオである。
 玄関の前に車が停まり、骨の手術だけではなく、口を達者にする治療も(以前のままでも閉口....ではなく、十分だったのに)受けたような娘の言葉の洪水に、レオは敏感に反応し、2階への階段の手すりに避難し、そっと下の様子を伺っていた。
 
 いつもならば、娘に名前を呼ばれただけでボイラーの陰に隠れるのだが、昨日は違っていた。その原因は松葉杖である。アルミ製のそれは、伸縮させる部分のつなぎがゆるんでいるようで、娘が床に付けるたびにカチャカチャと音がする。
 レオには、その音と姿そのものが怪しく思えるようで、こわごわながらもその場を観察し続けていた。
 もちろん、他のネコたちも興味津々で、杖に寄っていっては匂いを嗅ぎ、そして身体を擦り付けていた。

 娘は先生に頼んで、余分なレントゲン写真を貰ってきていた。術前と退院前日の写真を比べると、私でもその違いが分った。医学とは素晴らしいものと、心から感謝をした。

 『おとうさん、見えるでしょ、この3本のボルトはチタン、それ以外にも、ほらっココに2本、骨と同化する特別なボルトが入っているの....』

 写真を説明する娘は、どことなく嬉しそうだった。けして痛みがどうの、リハビリがこうの....とは言わなかった。

 『あっ、証明書を貰ってきたほうが良かったのかな〜、この間、人工関節かなにかで退院した人は、身体の中に金属があると書かれた物をもらっていた....』

 『ほらっ、飛行機に乗る時に、ピンポーンになるでしょう、身体の中は見せられないから....』

 久しぶりに娘と泡の出る麦茶を飲んだ、あくまでも娘は陽気だった。
 
 娘が口から泡を飛ばし、口に泡を流し込んでいる間に、レオは、食卓から4メートル離れた壁に立て掛けてある松葉杖に、腰を屈めて近づき、しつこく匂いを嗅いでいた。
 レオの鼻が押したのだろう、安定していなかった杖が倒れ、大きな音をたてた、レオは4本の足を揃えて10センチほど飛び上がり、ボイラーの陰に駆け込んだ。
 食事が終わっても、レオは登場しなかった。
 
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 <11月 1日 >

 今年も残すところ2ヶ月となった。何と早いのだろう....とは書かない、言わないはずが、どうしても指も口もそう動いてしまう。
 明け方からの雨は1日続き、ようやく夕方には小降りになった。夕食を終え、外の様子を見て来ようと、タバコを手に、まだ乾いていない帽子を頭に乗せて玄関を出た。

 静かだった.....。
 雨、風、そして車、犬たち、メエスケ....すべての音が消えていた。
 顔を上げ、真っ暗な天空を見上げた。
 雨粒は当たらなかった。そのままの姿で煙りを大きく吹き出した。
 玄関のライトの微かな光を受け、煙りは白く輝いて昇っていた。
 その煙の形が暗闇に消えた時、星に気が付いた。
 眼も暗闇に慣れてきたのだろう、北極星の近くには、カシオペアがあった、ケフェスも輝いていた。眼を転じるとペガサスの四角形があった。
 雲は完全に姿を消していた。空は、どこまでもどこまでも星に埋め尽されていた。北極星ですら目立たず、他の星に遠慮をしているような輝きだった。

 首が痛くなるまで、煙草が2本消えるまで星を見上げ、
  『さあ、あと2ヶ月.....早いな〜』
 と言葉が飛び出し、それに和すようにカザフが立ち上がり、私に向かって一声、吠えた。
 私は忘れていたのだが、一昨日、カザフは6歳になっていた。ポケットを探り、折れて短くなった2本のジャーキーをあげた。
 闇の中で、カザフの尾の白が、大きく左右に揺れているのが分った。