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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2003年01月31日(金) 天気:晴れ時々雪(中標津) 最高:−3℃ 最低:−8℃

 
車のラジオをつけると、札幌の北区や東区は猛烈な雪、そして風と言っていた。後ろにその雲を意識しながら、雪から逃げるように恵庭に向かった。
 Kさんの犬舎には、たくさんの子犬の声が満ちていた。パグ、チワワ、フレンチブル、そうそう、レオンベルガーの子犬もいた。
 いつ来ても、犬たちの表情が明るく、建物の中も整然としている。御夫妻と若い人たちが、犬たちの名前を呼びながら、忙しく
世話をしていた。

 熱いコーヒーを頂き、犬に関わる話をしていると、道央の方が来られた。

 『いや〜、途中、まったく前が見えねんだは〜、いや〜こわいの何のって....』

 「こわい」には、恐ろしいだけではなく「疲れた」の意も入っているのが北海道弁である。前を必死に見つめてハンドルを握ってきたので、かなり疲れたと話していた。

 私は、幸いにも苫小牧の手前から浦河を抜け、そこから天馬街道を通り、十勝側に抜ける予定にしていた。

 『ああ〜、それなら何ともないべ、あっちは晴れるって事だ....』

 二人の言葉を信じ、私は交配のために1週間前から預かってもらっていたサモエドの花音(カノン)を車の後部のケージに入れ、帰途についた。

 ダーチャの子供にしては、花音は大人しかった。ひとりでのドライブに飽きてきたところでもあり、私はすぐに花音をケージから出し、助手席に乗せた。
 花音は嬉しそうに尾を振り、1度私の鼻を舐めたあと、身体を丸くして座席に落ち着いた。

 大平洋は、灰色であり、所々で、雲間からの冬陽を映し、銀色に輝いていた。どの港でも活動している船は見当たらなかった。波が強く、休漁となっているのだろう。

 天馬街道の要所、野塚峠はチラチラと雪が落ちていた。しかし、交通には問題がない。
 ただ、数カ所で高いクレーン車を使って道露脇の崖の雪を崩していた。何でも2日前はナダレのために通行止めになっていたらしい。それを防ぐために、崩れそうな所の雪を落としていた。

 7日からの札幌のイベントに行く時には、皆とこの道を使う予定にしている。距離的には日勝峠を通るよりも遠いけれど、雪とスリップ事故の可能性が小さく、交通量も半分以下が理由である。

 十勝に入ると、空は晴れていた。そう言えば『十勝晴れ』という言葉もあった、と思いながら、ひたすら東を目指して車を走らせた。花音は鼻音を鳴らすこともなく、ひたすら丸くなり、私が声をかけたり、左手で触った時だけ、嬉しそうは視線を返してきた。

 恵庭を出て5時間、私もトイレに行きたくなり、白糠の「恋問館」の駐車場に車を停めた。砂浜まで客が歩いた道があった。花音に声を掛け、走った。花音は乾いた砂の上で小便をした。しばらく、流れ着いたロープやら古木やらが散乱する浜で遊んだ。
 突然、花音が波打ち際に走った。そして腰を下ろし大便をした。あわてて私はポケットを探り、ビニールの袋を取り出した。
 さあ、形の良いウンコを拾おうとした時に、大きな波が寄せてきた。長靴の私も後ずさりをする大きさだった。

 花音のウンコは大平洋の魚の餌となってしまった。

 ひとしきり、夕方の海の散歩を楽しんだ後、さあ、あと2時間弱、と熱い缶コーヒーを買って車に戻ると、

 『あっ、その子はサモエドですよね〜、可愛いな〜』

 10メートルほど離れた所から声が掛かった。

 『そうです、メスです、サモエドの....』
 と私が答えると....

 『い、イシカワさんではないですか?先日のテレビ、見ました、サモエドは可愛いですね〜』

 何と、数年前に釧路の住宅地で行った王国の犬によるイベントを見に来ていたという、犬が大好きな方だった。

 犬とともに出かけると、思わぬ交流が簡単に実現する。そして人間がみんな笑顔になる。

 それを知らない方、頭から拒絶する寂しい人間もいる、と言う事をこの1週間で何度も知らされた故に、夕暮れの中での一声が、無性に嬉しかった。
 慌ただしかったこの旅も、良い終わりを迎えることができた。
 



2003年01月30日(木) 天気:晴れ時々雪(中標津) 最高:−3℃ 最低:−7℃

 睡眠3時間で、すっきりと目が覚めた。時計は6時を示している。カーテンを開けると、いつものような雪の庭と犬ではなく、見下ろした所に、もう車の音がする舗装道路、そして4階からの正面には、目の高さ以上に標高のあるT公園が広がっていた。
 その公園の雪に埋もれた登り道に、黒っぽい影が動いていた。よく見ると、それは小型の白い犬を連れた人間の姿だった。

 『散歩だ!!準備しなくちゃ!!』

 ひとり呟くと、私はあわてて着替えをし、煙草を2本吸い、コーヒーを流し込んだ。テレビの天気予報は、今日のサッポロは一時、雪も降ると言っていた。

 簡単な着替えと様々な書類を入れてきたバッグを開け、中身を出して確認をした。今日は、何ケ所か打ち合わせに行く事になっていた。必要な書類やメモを眺めて確認し、取り出し易いように順番にファイルに入れた。

 車は娘と息子の暮らすマンションの前、窓から犬の散歩を眺めた公園の駐車場に置いてあった。車体に積もっていた2センチほどの新雪は、ドアを開けると、その勢いでホコリのように舞った。
 エンジンをかけ、ヒーターを全開にする。窓のシバレが融けるまで、そのままアイドリングを続けた。
 また煙草に火をつけ、ドアの外に出て背伸びをした...その時に気が付いた。
 2台横の軽のワンボックスカーの中で動くものがあった。焦点を合わせて見ると、それは数匹のネコと1匹の犬だった。
 車体には『犬.ネコどうのこうの....』と大きく書いてある。

 一度、なにかで聞くか、読んだかした記憶があった。捨て犬、ネコの保護を訴え、犬ネコを連れて繁華街に現れるオジサンの車のようだった。
 エンジンがかかっている様子はない。零下数℃の毎日である、これでは寒いのではと思って、もう1度目を凝らすと、運転席が倒されているのが分った。そしてそこには黒い物が置かれているように見えた。どうも『〇〇先生』と運転席の外に書いている方が、寝ているように思えた。『募金ウンヌン...』の掲示もあった.....。

 『う〜ん..........?!』

 事情は知らない。しかし、私は、このようなやり方は苦手である。
 私は、捨てられる犬、ネコが少なくなるような呼び掛け、方策を探っていくほうであり、縁があり、育てる事になったとしても自力で、なおかつ静かに行う。

 命を思う根本は私と同じかも知れないが、辿る道は大きく違う.....そんな事を考えながら、まだ行き交う車の少ない道を円山の方へ急いだ。
 雪の積もったフロントガラス越しに、私の動きを見つめていたネコたちの瞳が、いつまでも頭から離れなかった。

 午前7時、太陽はまだ山陰にあり、薄い雪雲が流れていた。2匹の白い犬とTさんが散歩の準備をして待っていて下さった。プーとゴン、サモエドだった。ゴンの父はカザフ、そして母はラーナだった。昨年の1月、我が家で産声を上げている。

 挨拶もそこそこに、10ヶ月ぶりの再会のゴンたちと散歩に出発。慣れた道を犬たちは前にたって進んで行った。大都会に発展した札幌だが、少し歩くと豊かな自然が残されている。「森」「雪」「丘」「崖」「獣道」等々、楽しい時間が過ぎて行った。

 散歩から帰ると、Tさんのお宅で朝食まで御世話になってしまった。と言うのも、2月7日からの雪まつりイベントで、犬たちの滞在場所として、これまた御世話になる事になっており、その打ち合わせもあったからだった。

 犬仲間として、1匹の犬が繋いでくれた心の親戚として、ともに楽しんでいただける事を、とても嬉しく思う。
 7日の再会を楽しみに、私は笑顔でTさん宅を辞した。私たちが会話を続けている間、ゴンは幸せな日常をたっぷりと見せてくれた。

 その後、テレビ局等を回り、イベントの準備確認を済ませた。夕方、再び公園の駐車場に車を入れると、そこには、あのネコたちの視線はなかった。

 そして夜....どうしても気になり4階の窓から探した。朝と同じ場所に車が停まっていた。かすかに室内灯が見えた。気温は下がり、雪が落ちてきていた。



2003年01月29日(水) 天気:晴れのち曇り 最高:2℃ 最低:−6℃

 気温はさほどでもなかったが、夜を通して強い風が吹いたので、大地は見事に凍り付いていた。昨日、スノーモービルでつけた散歩道は、計画どおり、しっかり固まっていた。
 しかし、他の雪原の部分も犬が乗った程度では沈まない堅さに凍っていたので、ほとんどの連中は自由に駈けていた。

 『せっかく苦労して(?)道をつけたのに....』
 
 と、ブツブツ言いながら、人間の体重ではモービル跡以外では沈むので、私は独り寂しく道を歩いた。

 BBSに、ダーチャの子犬の1才の誕生日、と書かれていた。いつもの事ながら、私も女房も、昨年の今日、7匹の子犬が生まれたことを忘れていた。
 Tさんが貼ってくれた写真を見て、すっかり大人になった姿に喜ぶとともに、今、玄関で育っているアラルの子が、生後1ヶ月になった事を思い出した。
 あわてて、カメラを用意し、個性の出始めた子犬の写真を撮った。体重も3キロを超え、女房はいっぺんに2匹を抱えるのが精一杯だった。

 その後、立続けに電話があり、急に札幌への出張となった。それをBBSに書いたところ、すぐに札幌に住んでいるCさんから「今、札幌は晴れています」と書き込みがあった。
 リアルタイム情報が届くのも、ネットの良さだと感心し、その知らせを心強い味方にして夕方4時過ぎ、ハンドルを握った。

 道中、私は忙しかった。
 大きな音で、先日の兵庫のオフ会でTさんからいただいた沖縄の音楽のテープをかけ、目は、進路の状況と、対向してくるトラックを見ていた。
 そう、暗くなると、とにかくトラックが多いのである。時には10数台のコンボイ軍団となって、見事な隊列が押し寄せてくる。
 440キロを8時間と少しで走り、札幌の娘と息子のマンションに着くまでに、すれ違ったトラックの数は、なんと600を超えていた。
 今、私たちの暮らしは、トラック輸送に支えられている.....そう、再認識をした。



2003年01月28日(火) 天気:豪雪のち雨のち晴れ間 最高:4℃ 最低:−4℃

 深夜に降り出した雪は静かに積もり、明け方には30センチの厚みとなっていた。風がそれほどでもなかったので、今回は均等に積もっている。
 何となく外が明るくなったので、さあ、これで終わりかとコーヒーカップを手に外を見ると、居間の前のサークルの中で、小屋にも入らずに外で雪の布団で寝ていたベルクが、室内の私を情けない顔で見ていた。
 おかしいな、とよく見ると、白いものは落ちていなかったが、ベルクの身体が微妙に黒くなっていた。
 もう一度、目を凝らして眺めると、黒い木をバックに雨粒が確認できた。

 『お〜い、雨になっちゃったよ〜、参ったな〜』

 『そうよ、天気予報通りよ、今日は雨が降るの!!』

 女房の答には何の驚きも、せつなさも感じられず、ごく自然の成りゆきを語る口調だった。
 うん、これだからオンナは長生きをするのだ....などと、口には出せぬ言葉をコーヒーとともに飲み込み、さて、どうしたものかと考えた。

 『今、小屋の外に出ているのは、ベルクとカボス、それにダーチャだけだから、少し様子をみようか....?』

 『そうしたほうがイイと思う、予報では午前中に晴れ間が出ると言ってたから....。止むまで待ったほうが....』

 女房は、あくまでも天気予報を判断材料に行動を決めようとしていた。協会の方、ぜひ表彰をしてもらいたいものである、忠実な信者として。

 私は、かなり疑り深いほうである。もし、1日中、雨が降り続くようだったら、降り始めの今、犬たちの散歩をするべきだろう.....。しかし、今、外に出る事は、犬たちの全てを濡らし、私も濡れる事になる。密かに外の様子だけを観察し、女房の言葉に従って、溜っていた万事に向かった。

 11時、外から大きな音が聞こえてきた。ツンちゃんがロータリー除雪機とハイド板(ラッセル用の)を付けたトラクターで我が家への道の除雪をしようと来てくれた。
 毎冬の事になるが、身動きのとれない時に助けに来てくれるのはツンちゃんの運転するトラクターである。
 ロータリーが重い雪を力の限り遠くへ飛ばし始めた。みるみる道が開き、音に誘われて全ての犬が外に出て来た。雨は、いつの間にか小降りになっていた。
 う〜ん、またしても女房に、

 『ほらっ、言った通りでしょっ!!』

 と、澄まし顔で言われるのはシャクだが、雨が止んでくれるのは嬉しい事だった。
 もし、このまま30センチの新雪の上に大雨が降れば、その下の根雪部分が凍って固いために、水分が30センチの雪の中に貯まり、暖気の直後に必ずやって来る寒気によって、厚く固い氷の層ができてしまう。
 こうなると、エゾシカも放牧中の馬も、雪の下の笹などを掘り出して食べる事が難しくなり、キツネたちもネズミが捕らえ難くなってしまう。厳しい北の冬を生き物たちが生き延びるためには、真冬に一時の情けの仮面を被った暖気は無用なのである。

 トラクターが大きく道を広げていく横で、私はスコップを手に、埋った犬小屋を掘り出していた。幸いにも雨の止むのが早かったので、水気は表面の10センチまでのようだった。

 これで平和が訪れた.....そう思ったのは甘かった、と言うよりも、私の予想通り、午後1時を過ぎて、再び雨が落ちて来た。悪い事に、雨粒も大きい。
 もう協会がどうしたこうしたは忘れ、私はひたすら西の方角を眺めた。1時間後、雲が薄くなり、低い位置に太陽の輪郭が見えた。しぶしぶ雨も上がってくれた。

 さあ、次は今夜からの寒気に対する備えである。
 最悪の1月雨と、気温の高さから雪も解け、あちらこちらで水が溜っている。それを流し、小屋や柵の入り口の雪を、戸の10センチ下まで掘り起こす。こうしておかないと、しばれ上がり、戸の開閉ができなくなる。
 玄関の前の雪も除いた。ここがもっともアイスバーンになり易いからだった。

 最後は、犬たちの散歩コースの修復である。まあ、これは遊びのようなものである。そう、スノーモービルで新雪の中をぶっ飛ばすだけである。
 一応、コース作りだから幅を広げるために同じ所を何度も回るが、それも、まるで自分がレーサーにでもなったような気持ちで、カーブでの遠心力を楽しみながら、身体を倒して気分上々である。
 暖かく雪が柔らかいうちにコースの形を決め、モービルのキャタピラで踏み固めておくと、明日の朝には、たとえ120キロの巨体が走っても穴は開かない。

 途中で2度もモービルを雪に埋め、掘り出すためのスコップを取りに戻り、出くわした女房に『押してくれ』と頼んだが、何やら仕事をしているとの事で、手伝ってはくれなかった。
 どうも、完全装備(上着、ゴーグル、帽子)でモービルのアクセルを全開(80キロは出る)にしていると、仕事には見えないようで、いつも女房は素っ気無い。

 「明日の散歩の時には、必ずコースを歩くのに、感謝の気持ちがない...」
 とは思ったが、ひとりで大汗をかいてモービルを引き出し、再び耳もとを走る風の音を聞きながら駈けていると、やはり、これは遊びだな、と認める私がいた。



2003年01月27日(月) 天気:晴れのち曇り 最高:2℃ 最低:−17℃

 昨夜は神戸の宿に戻り、急な打ち合わせに顔を出した。オフ会でのバーベキューをたっぷり食べていたので、なかなか出された食事に箸が伸びず、やたらとアルコールを含んだものばかり口にしていた。
 これが悪かったのだろうか、話が終わる頃になって腹に痛みが出てきた。挨拶もそこそこに部屋に戻ると、4時間前に別れた仲間から電話があった。
 本来は、夕食を南京町で飲茶でも、という事になっていたが、私は、そのための電話をするタイミングを失っていた。

 腹の虫は疼いていた。しかし、痛みもまた疼いていた.....。

 仲間たちの楽しそうな顔が頭の周りをグルグルと回っていた。だが、痛みには勝てそうもなかった。
 『ゴメンナサイ....』
 断わりの言葉を発し、そっと受話器を置いた。持参していた薬を飲み、トイレに駈け込んだ。これもまた旅かと、苦笑いをしながら洗面台の鏡を見ると、そこには、やたらと赤い顔のオジサンがひとりいた。

 一夜明けると、長崎はどうか知らないが、神戸は雨だった。
 4時でトイレは打止めになっていた。
 腹をさすり、試しに冷蔵庫からスポーツドリンクを取り出して飲んでみた。グルグルもゴロゴロも言わなかった。痛みも出なかった。こればら大丈夫と、1階に降り、食堂で朝食をとった。念のためにコーヒーにはミルクをたっぷりと入れた。コーンスープが美味しかった。

 ホテルの目の前から出ているリムジンバスで伊丹空港に向かった。傘をさし、急ぎ足で行き交う人の流れが尽きず、雨の中で月曜日が始まっていた。

 空港の喫煙所で、ほとんどの人がたて続けに2〜3本を吸うのを観察し(もちろん吸いながらの観察である)、経由地の千歳の喫煙所は、ソファ付きの、まだ煙草吸いを人間扱いしている、数少ない空港だと感心し、中標津に戻った。

 玄関のサモエドの子犬たちは、表情が豊かになったとともに、反応がしっかりしてきた。
 『おいっ、おいで、可愛いね〜』
 と声をかけると、嬉しそうに横板に前足をかけ、背伸びをして近づこうとする。瞳は丸く、濁りはまったくない。
 『ほらっ、おじさんの目は、まだ濁っているかな〜....』

 そんな事を言っていると、女房の声が聞こえて来た.....
 『また、いっぱい飲んだんでしょう.....』

 ハイ、飲みました、嬉しいお酒を.....。
 



2003年01月26日(日) 天気:晴れ 最高:−4℃ 最低:−7℃

 障子を開けると、瀬戸内の海に朝日が輝いていた、
 部屋の中を見ると、初めて枕を並べて寝た男4人の、それぞれに昨夜の酒を感じさせる姿が面白かった。そう言う私が、もっとも酒臭い息を、この清々しい景色の中に吐き出していたのかも知れない。

 美味しい景色を眺め、美味しい朝食を済ませると、3台の車に分乗し、5分ほど走ってYさんの家に行った。昨年のこのオフ会に参加をしたKさんから、一度はYさんの運転する車に乗るべきだ、と聞かされていたので、この時とばかり、私は乗せてもらった。
 瀬戸内の海に沿ってアップダウン、そして右左に曲りながら車は進んだ。確かに、Yさんの運転はキレが良かった。しかし、カーブで後ろの座席の人間に顔を向けて会話をしながら曲るというテクニックを、今回は披露してくれなかった。

 『蘭、ラ〜ン、らんちゃん!!』
 Yさんが1匹の白い犬を連れて家から出てくると、仲間たちから声が掛かった。
 サモエド、そう我が家のマロとウラルの娘だった。
 真っ白で、しっかり熟女の感じで、そして額の赤いリボンが可愛かった。私の手が触れるのは何年ぶりの事だろう。おそらく9年近くになるだろう。数え年なら10歳である。しかし、老いは感じられず、見事な毛とともに、Yさんの家での幸せな生活が身体と表情から感じられた。
 
 仲間たちとの挨拶を終え、Bさんのレオンたち3匹とともに、大行列での散歩に出発した。私も蘭のリードを持った。蘭は、自分のコースをしっかり進み、そして何度となく小便をした。それを数えてしまうのが私の習性となっていた。

 『4回、6回....、9回....!!』
 どうも回数が多く、1回の量は少ない。

 『Yさん、蘭の前回の発情はいつでしたか?』

 つい私は聞いてしまった。
 『おしっこ、多いでしょう、回数が。間もなくシーズンだと思うんです』
 
 『次は13からです...』
 『今度が23です...』

 リードをK氏やA氏に手渡した時に、それぞれが小便の回数も引き継いだ。

 丘を下り、港の出ると、北海道で見る形とは異なる船が並んでいた。漁の対象によって船の形が変化をする、その理にかなった文化が感じられた。
 Yさんの家では、牡蠣の漁と、その直売所もされている。港に加工所兼売店があり、山のような牡蠣を中国から来ている研修生が素早く剥いていた。水槽ではナマコやホタテも動いていた。
 ここで水を飲んだ蘭は、いつも嬉しそうに尾を振り、後をついて来ると言う港町の与太(いちおう首輪はついていた)を引き連れ、丘の上への近道になる階段を向かった。かなりの急斜面であり、おつきの人間の息が辛くなって行った。私は要領よく、蘭のリードを握っていた。こうすると曵かれて登る形になり、随分と助けられた。

 我が家とは異なり、多くの人と、そこで暮らしている犬たちに出会い、それぞれに会話をしての散歩を終え、アヒルのピッピとトットに声をかけて、再びオフ会の会場となっている宿に戻った。

 『こんにちは〜!!』
 『うわ〜Tさんですよね〜!!、あっ、Rさん?』

 今日、新たに駆けつけてくれた仲間が続々、登場した。
 犬たちも増えた。ゴン太、権ちゃん、ユキ、アベル、りきまる、りょう、レオ、マック、そしてレオン、ひまわり、みぞれに蘭たちが挨拶を交わし、時にじゃれ遊び、時に吠えたてえて、彼らなりの楽しい一時を過ごしていた。
 周りに集う人間たちは、どう斜に見ても『仲間』であり、笑顔が共通語だった。
 何人かの子供たちは、犬と遊び、そして目の前の海岸に降りて、波打ち際で釣り竿を立て、貝殻を探していた。
 
 みんなが友だちだった、みんなが冬の一時を楽しんでいた。
 北海道、東京、千葉、静岡、愛知、滋賀、京都、大阪、兵庫、岡山、香川、愛媛、高知、山口.....各地から集った仲間たち、そのエネルギーに驚くとともに、素晴らしい1日をみんなで作り上げられた事に誇りを感じている。
 くわえて、不思議な『縁』をも再確認させていただいた。

 別れの時は駈け足でやってくる。札幌に戻るTさん、次いで四国に帰るTさん、Rさん、Lさんたち....そして、岡山へのNさん御家族....。
 『またね〜!!』
 と言い合いながら、笑顔で別れとアリガトウを告げた。
・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・・
 Yさん、そしてこのオフ会をまとめて下さったTさん、そして参加をされた皆さん、本当にありがとうございました。
 楽しい思い出を土産に、私は北の地に帰りました。

 いつの日か、この私のBBSでも声をかけさせて頂き、多くの方々と楽しい時を持つ事ができたらと思います。
 その時は、皆さん、気楽におこし下さい。


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 <女房 談>

 夜中で風はおさまり、凄く良い天気になったの。ベルクでさえ難儀した雪は、みんな吹き飛び、牧草地の上は、この間までの道が出て歩き易かった。
 あっ、ウコッケイが卵を産んだの、久しぶりに、春が近い感じがする。
 それもね、カリンの箱の中、寝藁の上に産んでいたのよ。なのにカリンは食べも割もしないの、変な子、もう仲間になっているのかな、いつも一緒にいるから......。

 とにかく、吹雪がおさまって何よりよ〜。続いていたら怒ってたはよ〜。



2003年01月25日(土) 天気:吹雪 最高:−4℃ 最低:−6℃

 三ノ宮のホテルに9時、Bさん御夫妻が迎えに来て下さった。大きな車の後ろには、王国のコリー「ペーロラ」の兄弟犬「レオン」と「ひまわり」、そして楽しいフオックステリアの「みぞれ」が乗っており、尾を振って迎えてくれた。
 初めてお会いした御主人は、予想通りの楽しい方であり、私と競いあうように煙草に火をつける素晴らしい男性だった。互いに近鉄ファンであり、泡の出る麦茶も大好き、そして犬を愛す.....どうも気が合うと思ったら、何と生まれた年も同じだった。

 ホテルから一路、Y町を目指した。この町には、我が家のレオンベルガーのベルクの実家があった。
 昨年の6月の事だった。実家のTさんからメールが届いた。そこにはベルクの母親のグレーシーの急死が記されていた。
 無沙汰ばかりの私だったが、それは犬、ヒト、皆さんの元気を信じているからの事だった。でも、大きな身体の犬たちは、本当にあっと言う間に私たちの前から姿を隠す事がある。
 ベルクを貰い受ける時に会いに行き、そして、その後もう1回この手で、目で確かめていた母犬の姿が頭の中をよぎり、何のお悔やみもできないままに、月日が過ぎていた。
 今回は、女房と二人でようやく完成させた写真パネルを持参していた。そこには『ありがとう』の言葉とともに、ベルク、そしてその子供たちの姿が30枚ほど貼付けてあった。
 グレーシー、おまえのおかげで、こんなに素晴らしい犬たちが育っているよ.....そんな御礼の気持ちをこめたパネルのつもりだった。

 Tさんのお宅では、やはり賑やかに犬たちが迎えてくれた。もちろんレオンベルガーがいた、ベルクの姉妹のベル、父親のエルガー...そして子犬も1匹いた。他にも、王国のリバティの母親のチョコラブやウエスティ、チベタン、ダックスなどが元気に挨拶にきてくれた。
 懐かしい話をし、写真を眺め、そして線香を供え、ほっとする一時を過ごさせていただいた。

 Tさん宅を辞し、車は姫路を目指した。
 何度も列車からは眺めているが、姫路の地に足を下ろすのは初めてだった。
 先ず、昼食の場所に決まっているイタリアンレストランに向かった。

 『こんにちは〜、遅くなりました!!』

 店には、賑やかな声と笑顔が満ちていた。Bさん御夫妻と私を待っていた仲間が、すでに料理を前にしていた。
 実は、25日〜26日にかけて、姫路から近い御津町で、あるHPのオフ会が開かれる事になっていた。それに参加をするメンバーが、姫路観光もしようと、集まっていたのだった。
 あるHPと書いたが、実は、これには私のHPも関連しているのかも知れない。もともとのスタートは1昨年に行われたインパクであり。その中のムツゴロウ動物王国のBBSで知り合った仲間たちが、メンバーのひとりであるKクンのHPを中心に集まり、昨年の1月に1回目のオフ会を開いている。
 そして今回、2度目のオフ会に私も加えていただく事になった。
 
 ネットという媒体を上手に使い、全国の方と仲間になる....これは素晴らしい体験だと、ネット初心者の私でも、そう思う。そして、何度も書かせて頂くが、犬、ネコをはじめ、生き物や自然を基礎に結ばれた絆には、不思議と冷やかしや中傷などが入り込めず、素顔のままで参加する事が可能である。
 いや、素顔でなければ続けられない、と言うべきかも知れない。だから、オフ会で顔を現わす事も自然な行為であり、特別な負担、心構え、厚い化粧(心の)などは無用で気楽に参加ができる。

 Yさんの所へ出発する時間が迫っていたが、ここに来たからには....と言う事で、みんなで姫路城の天守閣に登った。さすがに国宝、世界遺産である。あの戦争でも無傷に残った事に感謝しつつ、素晴らしい構造、素晴らしい歴史の一端を感じる事ができた。
 
 獣医大で学ぶBちゃんは、忙しいために姫路でお別れである。でも、わざわざ大阪から足を伸ばしてくれた彼女に、大感謝である。
 残ったメンバーは、夕陽がかすかに顔を出した瀬戸内の海を眺めながら、今夜の宿、室津を目指した。新幹線のように、やたらとトンネルに目隠しをされる事もなく、初めてこの地を私はゆっくりと見ることができた。

 宿で、顔を会わせた仲間もいた。たとえ初対面であっても、BBSでの言葉の積み重ねは、余計なものを除いて(儀礼、脚色等)、すぐに心と心で会話ができる。たちまち30年来の旧知の間のように話が弾んでいった。

 Yさんの挨拶と乾杯の音頭で御馳走を食べる会は始まった。泡の出る麦茶、出ない麦茶、ワイン、沖縄の泡盛などがどんどん仲間たちの胃の中に消えていき、いつの間にかカラオケの映像が映っていた。せっかくだからと、私も暗い持ち歌を顰蹙覚悟で歌い、みんなの熱唱に拍手を重ねた。

 穏やかな潮騒の音が聞こえる部屋で布団についた時、時刻は2時を回っていた。
 疲れと酔いに身をまかせ、ただただ、幸せを感じていた。

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 <女房 談>

 もう凄かったのよ〜、起きた時から猛吹雪、枝は飛ぶし、雪も飛ぶ、おまけにアチコチ吹きだまり、ベルクなんて、はまって動けないぐらい....!!
 飛行機も1日、欠航、Mさんは行けなかったでしょう、大阪に...本当に、凄い地吹雪だったのよ、風の強い事、強い事....。

 それから、コッコが死んでいた。昨日は、まだ歩いていたんだけれど.....。もう、かなり年だったけど、一番ジャンプを見せてくれた子がいなくなっちゃった.....寂しいね。

 吹雪のために、ゴミの収集も郵便配達も来なかった。身動きとれない1日だったのよ、そっちは美味しい物を食べていたのね......。



2003年01月24日(金) 天気:吹雪 最高:−2℃ 最低:−5℃


 夜半からの吹雪が続いていた。予報では午前中に酷くなると言っていた。11時の飛行機で千歳に向かう私は、気がきではなかった。まあ、だめだったら、その時に考えよう.....と空港に向かうと、何とした事か、地吹雪を引き起こしている風も穏やかになり、希望の視界が広がってきた。
 案のじょう、空港の受付には、天候調査中、東京からの便が降りてくれれば飛ぶでしょう、の表示があった。
 とにかくチェックインだけは済ませ、滑走路の見える2階のレストランで時々地吹雪が起きる雪原を眺めていた。定時からはかなり遅れている丘珠便のYSが、滑走路に向かった所でストップした。
 「おっ、これはひょっとすると....」
 そう、東京便が着陸するのを待つのでは、と思ったのである。

 予想適中、雪煙りで機体を隠すようにして無事に着陸をした。レストランにいた客から、歓声と小さな拍手が起きた。私も心の中で、大きな拍手をしていた。

 遅れて中標津を離陸し、後は順調に千歳、そして伊丹空港へと飛んだ。
 久しぶりの関西、明日からは楽しい2日間が始まる。

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 <女房 談>

 お父さんが行ってから、どんどん風が強くなって、犬たちの世話も早めに始めたわよ〜。吹きだまりが出来始めていたので、散歩が大変だった!!
 そうそう、子犬たちの駆虫、回虫が出た、けっこういたよ!!これで、もう1回すれば大丈夫かな。
 夜は、早仕舞い....風が凄い音をたてていた。



2003年01月23日(木) 天気:晴れ 最高:−3℃ 最低:−20℃

 間もなく恋の季節を迎えるキタキツネのラップたちが生活しているキツネ舎に、同居している(金網で仕切られてはいる)ウサギが1匹増えた。カラマツ荘(王国独身者の住まい)にいたウサギが、とうとうその子だけになり、寂しそうだと三谷さんに言われ、引き取ったのだった。
 一時期、100匹ほどのウサギがいたカラマツ荘も、これで全て姿を消した。
 
 先住の2匹に引き合わせると、簡単な鼻突き合せの挨拶確認の後、すぐに餌を食べ始めた。ウサギと言ってもけしてバカにはできない、時には大出血を起こすほどの闘いを見せる事もある。歯はもちろんだが、前足の爪も、まるでアイアンクローと例えられるほどの鋭さを持つ武器である。人間の皮膚程度なら簡単に裂く事ができる。

 互いを意識はしているが、穏やかに同居を始めた3匹に満足し、それとなく観察をしていると、新入りも、先住の2匹と同じ所で大小便をした。

 『お父さん、ウサギもトイレが決まっているね、タヌキみたい...』
 女房が言った。

 『もちろんだよ、この連中はアナウサギが家畜化されたんだから、もともと穴居生活文化を持っている』

 キツネなどとは異なり、アナウサギはその名前のように、巣穴を通年利用している。もし、垂れ流しだったら、住まいが不潔きわまりない所となってしまう。
 生き物は、そのような不合理とは無縁である。ウサギもある決められた所をトイレとし、眠る場所は汚さないように気をつける。

 さらに新入りの様子を見ていると、小便の時には、必ず匂いを嗅いで場所を確認していた。そう、『大小便の匂い』こそが便意、尿意を誘導するのである。水洗便所が普及するとともに、便秘の人が増えたという説も、あながち笑い話ではなく、真実をついているのかも知れない。子犬、子ネコ、みんなトイレの匂いを大切な信号にしている。

 こんな事を書く気になったのは、あるBBSにウサギの事が書かれていたからだ。その方は、室内でウサギを飼っており、あのポロポロウンコを同居している犬が好んで食べるとも記していた。
 その記述を読み、私はヤギのメエスケや、昔、私と女房が可愛がり、人工哺育で育てたエゾシカのジャックを思い出した。
 メエスケが牧草を食べはじめると、柴犬のミゾレやシグレなどが寄って行く。そう、食べると行為は便意を誘発し、どこでもトイレタイプのメエスケは、口をモグモグ、お尻の穴もモグモグとさせる。
 落下してきた大きめの正露丸的物体は、たちまち待ち受けていた犬たちの胃袋に収まる。
 ジャックが私たちと散歩に出た時も、必ず犬の付き添いがあった。そしてミゾレたちと同じ事をしていた。

 ウサギの糞も、まったく同じ魅力を捕食獣に与える。あの中には、膨大な微生物(バクテリア、乳酸菌等)があり、さらに良質なタンパク、様々なミネラル、ビタミンが、黒茶光りしている小粒な物体に満ちている。
 これほどの御馳走は、なかなか人間にも貰えない。そこで心と身体の命ずるままに、犬たちはパクリ.....となる。
 馬糞を『犬の正露丸』と私は言い続けているが、それに負けずにウサギの糞も、効果絶大だろう。
 胃腸が弱い犬を飼っている方は、同じ場所でウサギを飼うと良いのかも知れない。

 Tさんの文章から、そんな事を考えてしまった。

__________________________

 さて、明日、私は大阪に行きます。
 しかし、こちらの予報は猛吹雪.....飛行機が運行できたなら、の事になります。
 無事に出発できたなら、戻りは27日となります。
 またまた日記は休みとなります。ご了承のほどを.....。



2003年01月22日(水) 天気:晴れ 最高:−6℃ 最低:−22℃

 昨日1日で軽い雪が更に大地を白く輝かせた。風がそれほど強くはならずに済んだので、均等に新雪が降り積もり、朝日が細かな雪の結晶で屈折し、すべてが鮮やかに光を主張していた。
 こんな朝は、犬たちとの散歩の距離を伸ばしてしまう。手が冷たくなって、ようやく家への帰路に足を向けた。

 午後1時、私と、ヤマちゃん、モモちゃんの中標津組3人は、浜中の王国の居間にいた。もちろん、高橋夫妻をはじめ、浜中の皆も同じテーブルを囲んでいた。そのすぐ横の床の上には、昨日、兄弟のレミィが死んだラブラドールのローラが大きな布の上で横になっていた。15歳とは言え、まだ目はしっかりしている。私が視線を向けると、
 
 『あっ、ジャーキーが出てくるかな?!』
 と、期待の目をして首を持ち上げた。
 そんな元気なローラに、レミィの事を語りかけた。ローラはひたすら、私の口元、目、そして左手を交互に見ていた。
 
 『しょうがない奴だ〜、ほらっ、少しだよ......』

 1個はローラの分、そして、もう1個手に取り、

 『これはレミィの分....お前にあげる...』
 
 とローラに差し出すと、あっと言う間に飲み込んでしまった。
 ローラ、あと5年は生きるのではと、私は思った。

 皆が集まっての打ち合わせは、2月の『札幌雪祭り』のイベントに関するものだった。今回、初めて真駒内会場での雪のステージに参加をする。
 王国の行うイベントのタイトルは、
 『ムツゴロウ動物王国・イシカワさんの犬物語』
 となっており、少し恥ずかしいが、犬の素晴らしさを多くの方々に見て、楽しんでいただけたならと、仲間たちとパフォーマンスを展開する。

 期日、時間も書いておこう、お時間のある方は、ぜひ見に来て頂きたい。
 場所      雪祭り・真駒内会場(自衛隊真駒内駐屯地)
 期日      2月7日〜9日
 ステージ時間  11時 13時 15時(各30〜40分)
          1日3回です
 参加メンバー  石川 高橋 山本 菅 林 上辻
 参加犬(予定) 柴犬 (シグレ)
         サモエド (ダーチャ)
         レオンベルガー (ロック)
         ニューファン  (ハイジ)
         mix (ベコ)(キャスパー・リュート)
         ナポリタンマスチフ (フーチ)
         ラブラドール (モルト・グレーン)
         チョコラブ (リバティ)
         ベルジェ (アル)
         バーニーズ (エレーン)
         チベタンスパニエル (バニー)
         パグ (ジャム)
         ジャックラッセル (リボン)
         G・ピレニーズ (ピノ)

 今のところ、こんな連中が参加し、楽しく遊ぶ予定である。
 雪が大好きな連中、少し苦手な子....それぞれが特徴を活かし、来られた皆さんに拍手を頂こうと、特訓を行っている。

 掲示板でも、この日記でも書かせていただいている事だが、これだけ犬の時代になても、まだまだ誤解されている事が多い。それを実際に王国の犬を目の前にして、納得いただけるようにステージを工夫したい。
 ぜひ、見に、会いにきていただきたいと願っている。
 そしてもうひとつ、移動中も、3日間も吹雪は来ないようにと願っている。 




2003年01月21日(火) 天気:細かな雪.雪.雪.... 最高:−7℃ 最低:−21℃

 20年以上前の事である、私はラブラドール・レトリバーが欲しかった。映像や本で眺めては,ため息をついていた。
 これは国王のムツさんの方針のようなものになっているが、憧れる犬種があったとしても、ショップに手配をして簡単に手に入れる、という事は1度もしていないのではなかろうか。
 みんなで『この犬いいね〜、仲間にしてみたいね〜』と言いあっているうちに、不思議な事に、どこからか縁が結ばれ、王国の広場にその姿を現わしているのが常だった。

 王国第1号のラブラドール・レトリバーの『ラブ」もそうだった。私が夢に見て、そして言いふらして数年後の1985年秋、現在は山形でラブラドールを中心に多くの犬と暮らし、介助犬の育成普及においても大活躍をされているSさんが、当時、住われていた横浜から電話を下さった....『真っ黒なラブの子犬をいかがですか』.....と。

 私は真っ先に飛びついた。これは天の采配に違いないと思った。
 釧路空港で胸に抱いた子犬は、気おくれもせず、実に利発そうな瞳で私をみつめ返しできた。英国のサンドリンガム犬舎(エリザベス女王の犬舎)の血を継ぐ、実に素晴らしいメスのラブラドールだった。

 やがてラブは初めての出産をした。1988年が明けてすぐの事である。8匹のまっ黒な子犬たちを眺めているうちに、私には、どの子も素晴らしく見えてきた。 
 当時、北海道の盲導犬協会では候補犬が足りないとの報道があった。私は、このラブの子なら可能性があるのでは、そう思い込み、協会に電話をしてしまった。

 実際に王国まで協会のNさんに来ていただき、2匹を旅だたせた。

 そして1年、病気のために断念した1匹(今、浜中で暮らしているローラである)は王国に戻っていた。しかし、もう1匹のレミィは、見事に厳しい試験に合格し、王国のある浜中町の隣、別海町に済むHさんのパートナーとして活躍を始めた。

 ハーネスを着け実際に仕事をしているレミィを、私は何度かそっと見に行った。1度は、お宅にお邪魔をして、1.5キロ離れたHさんの友人宅まで、雪道でしっかり働くレミィに付合った事もある。目的のお宅に着き、ハーネスを外されたレミィは、たちまち1匹の陽気なラブラドールに変身し、その家の犬とじゃれ遊んでいた。
 ハーネスの有無での変わりように、犬の仕事心を再確認させられた出来事だった。

 やがて時が流れ、レミィは1昨年、13歳で現役の仕事を終え、札幌の協会に戻り、リタイア犬としてボランティアの優しい方に引き取られた。

 そして今日、そのレミィの死を、長く担当された協会のIさんからの王国への電話で知った。
知らせを聞いた途端に、私の脳裏を8匹の黒い子犬が駈けた。やがて1匹が私に向かって振り向き、軽く首を傾けた.....無言で見つめてきた....そんな画像が浮かび上がった。
 
 15歳である。素晴らしき1生だと思う。私は札幌の方角に身体を向け、すでに雪で煙る薄暗い空に、

 『ありがとう、レミィ、お疲れさん....静かに、ゆっくり眠れよ....』
 ............とつぶやいた。

 明日、私は浜中に行く。寝たきりではあるが、生き生きとジャーキーを口にするローラに、レミィの死を、そっと知らせよう。

 そして最後に、
 『北海道盲導犬協会の皆さん、そして協会を支える活動をされてる多くの皆さん、Hさん、山形のSさん....ありがとうございました』



2003年01月20日(月) 天気:晴れ 最高:−7℃ 最低:−19℃

 大寒の日、確かによく冷えてくれた。日中も気温が上がらず、作業の時は軍手を2枚重ねてしまった。股引と言い、2枚重ねた手袋と言い、どうやら私も普通の北国人になったようだ。まあ、真冬でもGパン1枚にトレーナー1枚だった昨年までが、おそらく異常だったのだろう。

 厳寒の日が続き、玄関の温度は4〜8℃の間で変化している。常識で判断をすると、そんな気温の所で、生まれたばかりの子犬を育てるのは鬼のようなものである。
 
 しかし、年末に生まれたサモエドのアラルの子犬たちは、その玄関で元気に成長をしている。母親が箱の中にいる時は、乳首を求めて集まり、やがて懐に抱かれて眠りに入る。時々、寝返りをうつようにモゾモゾと身体を動かし、母親と兄弟の体温で温まると、腹を上に向け、無防備な姿で転がっている事もある。

 アラルの育児リズムも変わってきた。長い時間、子犬とともに箱に入っているのは夜だけになった。朝日とともに、ミルクを飲ませる15〜30分間だけ抱き、その後は、玄関の外に出たいと瞳で訴える。それに気づいて女房や私がドアを開けると、離れたところで大小便を済ませ、玄関の近くの雪の上で、わざと腹ばいになり、乳首(乳房)を冷やすように伏せている。
 玄関の中の子犬の存在が気になる他の犬が近づくと、けして唸りはしないが、ドアの前にそっと立ち、ダメだよと身体で示している。
 やがて乳房が張ってくると、今度は中に入れろと訴える....これを2時間おきに繰り返す毎日だ。

 母親が外に出てしまうと、箱の中の気温は一気に下がる。そうなると5匹の子犬たちは、この時期の連中らしく直線運動ではなく円運動を示し、互いにぶつかると、そこでまとまり、大きな子犬ダンゴとなって温もりを保っている。玄関温が5℃以下の時は、けして仰向けにのびのびと寝ることはない。温かさを大切に保持しようとしている。

 体重を測ってみた.....

 オス  本日       1週間前     増加量
 (1) 2150     1550    +600
 (2) 1860     1360    +500

 メス
 (1) 1650     1260    +390
 (2) 1850     1400    +450
 (3) 2160     1550    +610

             (単位は、もちろんグラムである)

 こしてみると、5匹ともに順調である。メスの(1)が気になると言う方もいるかも知れない。でも、体重が減っていたり、わずかな増加に留まっていれば問題だが、コンスタントに伸びていれば大丈夫である。体重は大きな目安ではあるが、その増加曲線には個体差がある。大きく伸びる時期が、必ずしも兄弟で一致するわけではない。

 案の定、今日から本格的に試食させている離乳食に、真っ先に飛びついたのは、体重がもっとも軽いメス(1)だった。これで数日たつと、この子の増加量が1番になったりする。
 子犬と言えど、やはり生き物、人間の思うようには、なかなか行かない事も多い。加えて、人間の想像を超えて素晴らしさを見せてくれる事も多い。
 だから私は、彼らの姿、声が側にないと、何となくものたりない気持ちになってしまう。『子犬禁断症状』が出てくるのである。

 まだアラルっ子が旅立ってもいないのに、私は次の出産の準備に入っている柴犬のミゾレの乳腺等を確かめてみた。
 
 『だいじょうぶよ〜、間違いなく妊娠している。2月11日からが予定日....!!』

 ミゾレの腹をまさぐる私を見て、女房が叫んだ。
 うん、確かに、ここに子犬がいますと、ミゾレの乳首は主張していた。
 
 

 
 



2003年01月19日(日) 天気:晴れ 最高:−4℃ 最低:−15℃

 もし『ムツゴロウゆかいクラブ』のスタート時からの会員の方が、この拙い日記を見て下さっているのなら、ぜひ会報誌『LOOP・4号』を開いて頂きたい。そう1983年の秋の発行である。
 えっ、私が指をくわえた息子の弦矢をおぶっている....その写真の事は横に置き、5ページの「ゆかいな新人」のコーナーを開いてほしい。
 タヌキのマリ2世(名前が悪かったのか、この子も人間の男と相性が悪かった....)、羊のメリーと並んで人間の新人として、A子ちゃんが紹介されている。写真の中で抱えている子犬は柴犬のピコピコの子、後にツララと名が付いた王国2代目の柴だ。今、我が家にいるミゾレの曾ばあちゃんになる。

 A子ちゃんは秋田の出身だった。中標津の牧場で働いた後、王国に仲間入りをした。学生の頃から水泳の名手であり、国体にも出場し、ある有名なオリンピック選手のコーチをしたこともあった。
 そんな経歴のA子ちゃん、実に明るく、そして頑張り屋だった。彼女の元気な声が牧場に響き、犬たちが周囲を駆け回っていた事を思い出す。

 そのA子ちゃんが、今日、18〜9年振りに顔を見せてくれた。相変わらず笑顔で背筋がピンと伸びていた。

 『子供たちも大きくなったでしょう?』

 『もう、16と13歳です、すっかりオバサンですよ、私も....』
 いいえ、いいえ、夏になると今も水泳のコーチをしている彼女は、はつらつとしていた。こちらこそ、つい頭の白髪に手が行きそうになった。

 『今年の秋田はどう?雪は多い?』

 『私の所は〇〇スキー場のすぐ近くなんです、けっこう積もっているし、気温がいつもより低いかな〜』

 表道から近づいてきたA子ちゃんに、ちょうど散歩に行くためにクサリから放されたところだった我が家の犬たちは、一瞬だけ吠えた。しかし、彼女の大きな、そして落ち着いた声に、たちまち尾を振り、大好きな人にするように飛びつき挨拶をしていた。

 20年前のA子ちゃんと、何も変わっていない....私は、ただただ嬉しかった。
 笑顔で明日の再訪を約し、彼女は今夜泊まる母屋に歩いて向かった。見送る犬たちは、いつまでも尾を振っていた。



2003年01月18日(土) 天気:晴れ 最高:2℃ 最低:−9℃

 我が家のラブラドールのオス、センは2歳のオスである。顔は弛んでいるが、一度、交配も経験している立派なオスである。
 センの父親は釧路に住んでいる。名前をレイラと言い、真っ黒な(センはイエロー)男である。

 今日、レイラが飼い主のHさん一家とともにやってきた。感心な事は、車の中でケージに入れられている訳でもないのに、人間が車外に出ていても、中を破壊している様子がない事だ。ちょこんと助手席に無言で座っているので、我が家の賑やかな犬たちが気づかないほどだ。

 奥さんに聞くと、まだ子犬らしさを残している頃、ほんの少し齧った事があるらしい、でも最近は、まった心配もいらず、時には12時間、車内で留守番をする事もあるらしい。

 そんな感心な父親のレイラに、私はセンと、センの母親のタブを会わせる事にした。Hさんがレイラの散歩をするというので、一緒に行く事にしたのである。

 助手席のドアが開けられ、レイラが姿を現わすと、一斉に我が家の連中が吠え始めた。それはそうである、自分たちのテリトリーに、明らかに大人と思われる犬が出現したのである、10メートル程の距離も微妙である、たちまち『怪しい奴』....と言う事になる。

 私と女房はセンとタブを連れて行った。一応、センだけはリードに繋いでいた。
 レイラを見るなり、タブが猛烈に尾を振り、口先を近づけて挨拶に出た。かつての結婚相手を覚えている。つられてセンも軽く尾を振りながら割り込むように近づいた。
 センはタブとは異なり、先ず、レイラの尻に鼻先を向けた。ついで腹の下.....。これで、相手が父親とは知らないが、オスであると認識したはずである。

 レイラの偉いところは(ラブラドールという犬種の良さであもあるが)、過剰な反応を相手のオス(セン)に示さない事である。先ずタブに挨拶を返し、嬉しそうに『オンナだ〜』と反応をし、その後、センの尻、腹の下を嗅いで『何だ、こいつは男だ....』.....それだけで終わらせた。
 そしてレイラは、周囲に漂い残されている、我が家の犬たちの小便の匂いの追跡確認に心を向けた。

 グイグイとレイラは我が家の連中の散歩コースを進んで行く。私はHさんに声を掛け、レイラもセンもリードを外してフリーにした。
 センが、レイラが、そしてタブが、尾を上に掲げ、元気に駈け始めた。レイラは犬たちの小便の跡を見つけるたびに立ち止まり、確認もしている。センは新しい仲間が嬉しくて、ひたすらレイラの横でピョンピョン跳ねている。
 そのうち興奮が高まってきたセンは、レイラの横から後ろからマウントの仕草をするようになった。けして、レイラがメスの匂いを出しているわけでも、センがホモになったわけでもない。特に犬では、嬉しさ、喜びが極限になると、オスでは『勃起』『マウント行動』が出易いのである。ゴリラ等にある上下の確定のためのものとは違い、あくまでも転位行動的なものである。

 夕暮れの雪原で、そうとは知らないだろうが、瞼の父に付合ってもらい、センは楽しい一時を過ごした。レイラも、水を飲み、フードを食べると、また静かに助手席に丸くなった。

 玉付きのオス同士の、静かな認め会いの場に立ち会い、私はニコニコとして家に入った。薄い雲に輪郭のぼやけた満月が葉のない樹木を照らし、Hさんと泡の出る麦茶をかわす時間が迫っていた。



2003年01月17日(金) 天気:晴れのち曇りそして雪も 最高:−1℃ 最低:−13℃

 玄関で育児中のサモエドのアラルは神奈川県伊勢原市で生まれている。その母親は我が家のマロとウラルの間に生まれたノールである。
 ウラルの血を継いだ子を残す前にウラルが事故で死んでしまい、こちらからお願いをして、マロとウラルの孫になるノールの子を1匹譲ってもらった、それがアラルであり、4年前の事になる。

 その伊勢原からTさんが来られた。
 玄関に入るなり、すぐに育児箱(産箱)の横に腰を下ろし、両手は箱の中に伸びていた。

 『ま〜可愛いね〜、どの子も真っ白プクプク、いい子だね〜』

 Tさんは、まさしく孫を見る顔、声になっていた。
 母のノールは1度しか出産をしていなう。従ってTさんが自分の家族のような子犬を見るのは久しぶりの事だろう。

 挨拶を済ませ、先月末の出産の状況、残念な2匹の子犬の死、残った5匹の成長具合などを私と女房は伝えた。それを聞き、あいづちを打ちながらも、Tさんの視線と手は常に子犬の所に伸びていた。
 『オ〜イ、行くか〜伊勢原に...おばちゃんと一緒に...』
 『だめだよね〜、待ってる人がいるよね〜』

 Tさんのひとり語りが玄関で永遠と続いていた。私と女房は、『予測していた通り』と、無言で言い交わした。

 この日記を読んで下さっている方は、またか〜と言われるかも知れない。でも、あえて私は書かせていただく...。

 『血統書』ではなく、人間の言葉、触れた温もり、その時、その時を記録した映像で犬たちを繋いでいきませんか....と。
 
 同じ時に生まれた兄弟の情報はもとより、母犬の姿を示す写真1枚すら付けない子犬のやりとりは、もう終わりにしましょう。
 5匹の兄弟が、その後どのような成長をしていったのか、その後、お産はしているのか.....。
 これを情報として確認所持する事で、次の犬たちの健康と幸せが増す確率が高くなり、安全性も増加すると思う。

 と言う事で、遠路はるばる中標津の我が家まで足をのばされたTさんには感謝である。
 
 明日、おそらく早朝から玄関にTさんの姿があるだろう。私と女房は、『明後日、伊勢原に帰る前に、Tさんのバッグを調べようか』....そんな冗談を笑顔で言っている。



2003年01月16日(木) 天気:晴れ 最高:−3℃ 最低:−20℃

 『今、浜中のGさんの所です、これから出ようと思うのですがいかがでしょう?』
 
 同じ町に住むMさんから電話が掛かってきたのは午前9時だった。
 『どうぞ、どうぞいつでも....お待ちしています』

 『では、私が先導して走ります、10時頃には着くと思います、よろしくお願いします』

 電話を切ってから思い出した。Gさんは....う〜ん、どうも「さん」付けはピンとこない、彼女のイメージのままにGクンにさせていただこう。
 そのGクンは免許の取りたてだったはずである。それも大阪の教習所で。果たして若葉マークで北海道の冬道....。
 心配になり頭の中で浜中からの道の状況を思い浮かべた。うん、裏道に入らず、急ブレーキを踏まなければ何とかなるだろうと、心の中で祈って待った。

 初めてGクンに会ったのは、1昨年の晩秋だった。王国へのツアーに参加され、華奢な身体で大きなカメラを下げ、リズムよく動き回っていた。髪は短く、後ろからは少年に見える事もあった。心はとても温かく優しいが口の悪い連中は「G夫」と呼び始めていた。

 それから、何度か北海道の王国で、そして大阪で、多くの掲示板仲間とともに会った。いつも穏やかな白い笑顔、そして美味しい食べ物にこだわりを持っていた。

 詳しい事は知らないが、生まれた地を離れ、大阪で食に関する勉強を続けてきたらしい。
 そして、その延長として、彼女は北海道の東の地まで来てしまった。これまでのような旅人としてではない、腰を据えて働く人としてである。

 以前、書かせて頂いたが、浜中の王国から近い所に、酪農家が経営をしているレストランがある。『ファーム・デザインズ』..本州出身の強い心意気の持ち主、Kさんが始めた店である。私も何度か食べに、そしてコーヒーを飲みに行き、その味と雰囲気に笑顔を貰っている。
 Gクンは昨年の晩秋に体験面接のような形で来道し、見事にOKを貰い、寒さ厳しい年末に越してきた。

 この行動力、そして食に対する興味を持ち続ける信念が、私は好きだ。つい応援をしたくなる。
 『寒いでしょう、こんど股引を持って行きますよ〜』
 『雪焼けに要注意、あなたは白いから、アバタ焼けに気をつけて....』

 メールで、そんなエールを送っていた。

 『こんにちは〜、あっ、今年もよろしくお願いいたします』

 Mさんの車に続いて、4WDのごつい車で登場したGクンは、相変わらず顔が白かった。そして、何となく頬がふっくらとしていた。緯度の高い北の地に来た事で『ベルグマンの法則』により大きくなった、と言うよりも、単によく食べているだけだとは思うが、寒さの場所では、この方が生き残るスタイルである。

 とにかく、私は彼女の元気な姿が嬉しかった。そして、我が家の玄関のチャイムを鳴らすよりも先に、タドン、マロ、ベコ、ダーチャたちに会いに行っている姿に、温かいものを感じた。

 それから数時間、故郷を数千キロ離れ、身内、親戚、旧友ひとりいない所で、自分の目的に向かっての第何歩目かを踏み出したGクンに、「良き将来あれ」と心の中で唱え、厳寒の日を楽しく過ごした。

 『エスプレッソもいれられるんですよ、それに私の作ったケーキも店に出ています....』

 もちろん、食べにいきます、Gくん!!



2003年01月15日(水) 天気:晴れ時々雲 最高:−11℃ 最低:−14℃

 予報(−20℃)を裏切り、明け方の最低気温は−14℃だった。晴れていることだし、これなら暖かくなるだろう、と思ったのは大間違い、いつになっても気温は上がらず、逆に午後からはどんどん下がり始めた。上空に強い寒気の層があり、風が弱く居座っている時に起きる現象だ。次の朝は確実に−20℃となるだろう。

 このところ、生き物たちの水に関しての苦労が多い。これも今冬の冷え込みの強さを証明しているだろう。
 では、毎朝の水問題対策本部の奮闘を書いてみよう。

 <7時30分>
 女房が家の中からバケツ一杯の湯を外に持っていく。ガチガチの凍っているマロとカリンの水オケをひっくり返し、底に湯を掛ける。カリ〜ンと音をたて、氷がストンと抜け落ちる。その水おけにバケツの湯を注ぐと、湯気がもうもうと上がり、待ってましたとばかりに、マロイ、カリンだけではなく、動物用の台所がある小屋から出て来た、ネコのアブラたちやコッケイも口をつける。
 まだ他の犬は繋がれており、うらやましそうにマロたちを見ている。

 <8時30分>
 母屋の犬たちの散歩が終わった頃を見計らって、育児中のアラルを玄関から、動物用台所の隣の車庫に繋がれていたカリンをフリーにする。さっそく大小便を済ませに駈けて行った。

 その後の、犬たちの作業に関しては省略し、とにかく水問題だけを書いて行こう。

 <8時50分>
 沸騰した湯がたっぷり入ったヤカンを手に女房が動物用台所に向かう。このヤカンを手に玄関のドアを開けようとして湯がこぼれ、ギャンと啼いた子犬が2年前にいた。ドアの手前に産箱があり、そこで子犬は生活をしている。
 湯がかかり直径2センチほどのヤケドを肩にしたのが、ラブラドールのタブ母さんの子犬だった。そこだけ毛の色が濃くなり、私と女房は他の子犬と区別しやすいので、その子を『ヤックン』と呼んだ。もちろん「ヤケドのヤックン」である。
 顔もハンサム、骨もしっかりとした『ヤックン』は山口県に旅立ち、何と新しい飼い主さんも『ヤックン』と呼んでくれている。『ヤクマル』のヤックンである。我が家のセンの兄弟であり、今も、いいや、ますますハンサムである。

 話が飛んでしまった、軌道修正....。
 ヤカンの湯は、動物用台所に設置してある瞬間湯沸かし器の水パイプだけではなく、ほとんどすべての部分にかけられる。そして、水を落としていたコックをひねり、水が出る事を確認する。
 しかし、−15℃程度までなら、これで水が出るのだが、20℃ともなると、微妙な所(調節器、分水器)に氷が残っている。
 ヤカンの湯は切れ、ここで第2陣の攻撃に移る。登場したのはハイパワーのドライヤーである。スイッチを強にし、ここと思われるところに熱い風を吹き付ける。

 『ジョボ、ジョボ、ジョボ、ジャー!!』

 これで、ようやく水が出始める。水温調節スイッチを熱湯側に回し、プロパンガスの火がつくのを祈る...

 『ボッ...!!』
 青白い炎が、寒気の中に輝く、これでようやく皆の水おけの氷を湯に替えることが可能になる。

 しかし、まだ油断はできないのが今の寒さである。動物用台所には暖房はない(そこで逞しくアブラたちは生きている)、おまけに北側に向いている。
 バケツが満タンになったからと言って湯沸かし器を止めると、ものの数分で細い管の中が凍り、故障の原因となってしまう。
 従って、水や湯を使う作業はまとめて休みなく行うか、いちいち水を抜いて備えをしなければならない。

 こんな面倒はあるが、今だからこそ生き物たちがどんなに水を求めているかが判る。例えばヤギのメエスケ....配合飼料よりも牧草よりも、先ず湯気のたつ水おけに口をつける。
 『イッキ、イッキ!!』
 とカラオケ屋や居酒屋風にはやしたてているわけでもないのに、あいつは、本当に息つく間もなく6リットル以上を飲み干す。この時期は湿度が低い上に、乾きものの餌ばかりである。よって水、ぞれも温かいものは大切な存在である。
 
 犬たちも、ネコも、そしてニワトリやヤギ、キツネ....皆が待っている朝の水(湯)のために、今朝も明日もヤカンは活躍するだろう。
 私と女房は、歩き始めたアラルの子犬たちに『ヤックン』を作らないように気をつけなければならない。

____________________________

 沖縄の旅....必ず続きます、お待ち下さい。



2003年01月14日(火) 天気:晴れのち曇り時々雪 最高:−3℃ 最低:−11℃


 拙文を書かせていただいている月刊誌『ワン』と『キャッツ』の2月号が届いた。名前の通り犬とネコの雑誌である。
 いつも、「あ〜もう少し何とかならないのか....」とため息をつきながら自分の文章を読むのだが、今回は期待を込めて本を開いた。そう、どちらにも、このHPに来られている方が何人も、愛犬、愛ネコとともに登場しているからだった。

 キャッツには、犬とネコの同居に関する小特集のコーナーに3人のKさん(なぜかハンドルネームの頭文字が同じである)が笑顔で異種同居の楽しさ、素晴らしさ、そして手法を語られていた。その言葉は数枚の写真により見事に証明されていた。

 ワンでは、数カ所に仲間が登場していた。もちろん素晴らしい犬たちと一緒にである。ここでも人間は笑顔、犬たちは瞳を輝かせていた。
 
 ネットやオフ会などを通しての交流により、そこにはある雰囲気が作られていく、そしてペットに対する考え方も.....。
 それが編集者という『ろ紙』を通過し、誌面に登場していくと、そこには純粋なものだけが、基本の柱となるものが残っている。
 これを私は『文化』と呼んでいる。

 ハンドルネームではなく、本名で登場されてている皆さんの顔を眺め、HPで、すっかりなじみになった犬たちの顔を紙の上でみつめ、何か素晴らしい流れが確実に始まっている....そんな気がした。
 『来る方を拒まず、去る方を追わず、留まる方とは笑顔で...』
 そんな呑気な構えで、のんびり、そして愉快に生き物を考えていきたい。

 釧路発23時の列車で息子がサッポロに帰った。送った帰路、風に舞う雪の道で、クロテンが横切るのを見た。2匹のキタキツネは路肩で並んでいた。
 生き物たちの春は近づいてきている。


 



2003年01月13日(月) 天気:曇り時々雪のち晴れ 最高:1℃ 最低:−14℃


 アラルの5匹の子犬たちの体重を計った。私が沖縄に行っている間に目が開き、身体はプリンプリン、まるで黒いゴミが何ケ所か付いた(目、口、鼻)芋虫のようである。
 残念ながら2匹、帰らぬ早い旅立ちをした事が無念だが、残りの連中が順調なので、少しほっといしている。
 今回の子犬たちは、多くの方が待ってらっしゃった。このHPを御覧になっている方も多い。おそらくこの子たちのどれかが....と思われただろう。オス2匹、メス5匹がオス2匹、メス3匹となり、先日、女房が電話で、予約順の早い方には確認の、そして子犬の数を超えた皆さんには、残念な連絡をさせていただいた。
 本当に申し訳ない事であり、心苦しいが、今回は5つの御家族のもとにしか子犬は行く事ができない。
 だからこそ余計に5匹の事が気にかかる。

 さて、そんな子犬たちの生後2週間の体重は下記のようになった。
 (1) オス  1360グラム
 (2) オス  1550グラム
 (3) メス  1400グラム
 (4) メス  1260グラム
 (5) メス  1550グラム

 それぞれに3〜4倍の体重になっている。順調と言えるだろう。わりと早く(3週目過ぎには)離乳食も始めなければ....。

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 <3泊4日・沖縄への旅>

 長ぐつバンドは、音楽の業界の流れに乗ってはいない。という事は、演奏している曲を、私たちの音楽を、知っている方は少ない事になる。
 まだ聞いた事のない方に紹介をさせていただくために、今回のコンサートの内容を書いてみよう。

 ・オープニング
   VTR構成(メンバーひとりひとりの映像が流れる)。そ
  れをバックに、エリちゃんが作曲したインスト(歌なし)の
  曲を演奏。
 ・散歩
   VTR+スライド(犬たちの散歩写真)をバックにモモちゃ
  んが歌う。軽快で楽しい曲。
 ・子猫物語のテーマ
   チャトラン、プースケのスライドをバックに、同じくモモ
  ちゃんがボーカルを。
 ・日だまりの丘
   スライドでムツさんの素晴らしい歌詞を掲示し、娘のアミ
  ちゃんがボーカルを....。
 ・わが友ムク
   無人島の時からのアミちゃんの親友、茶色のムク毛の犬、
  ムクの曲である。
 ・ほおずき
   アキヤ君のハーモニカとキーボード、ギターだけの美しい
  曲である。バックには子供たちを中心に王国の生活がスライ
  ドで展開される。
 ・魔法の馬
   ロック調の馬賛歌、ボーカルはツンちゃんである。スライ
  ドで王国の馬たちが続々登場。
 ・Sail the Osean
   ムツさんがハワイで鯨とともに泳いだ時にできた曲である
  る。その時のVTRをバックにツンちゃんが歌い上げた。
 ・青い空
   沖縄風にアレンジをした、子供の頃を想うせつないバラー
  ドである。ボーカルはツンちゃん。
 ・美しい星
   2002年9月にアミちゃんによって作られた曲である。
  歌うのもアミちゃん。地球の平和を優しい言葉とメロディで
  訴えている。バックには自然を中心としたスライドが....。
 ・キタキツネ
   私が写真を決め、それを見てエリちゃんが4部の曲を書い
  てくれた。30年間のキツネの映像とともに、私の拙いフル
  ートの音が流れた。
 ・風の国から
   私の大好きな曲である。モモちゃんが歌い上げた。自然、
  そして生き物たちのスライド構成が、歌詞の心を訴えた。
 ・こんにちは さようなら
   長ぐつバンドにとって、もっとも重要な曲のひとつであ
  る。出会いと別れ....その中で生き物は今を元気に生きてい
  る....そうモモちゃんのボーカルは伝えていた。
 <アンコール>
 ・いつも幸せ
   アミちゃんが軽快なリズムに乗って歌った。バンドの古い
  曲のひとつである。

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2003年01月12日(日) 天気:中標津は晴れ 最高:0℃ 最低:−10℃


 3泊4日・沖縄への旅

 1月9日
 心地よく冷えていた。−19度、排気ガスが白い湯気のように上昇する。フロントガラスの凍りはなかなか解けない。そんな中、みんなで3台の車に楽器や荷物を積み込み、8時に中標津を出発、釧路空港を目指した。近くに中標津空港があるのだが、残念ながら昨年の12月から羽田への便が1日1便となってしまい、つなぎがうまくいかない。やむなく釧路からの搭乗となってしまった。
 重く大きな荷を預け、青い空に上がったのが11時25分、羽田での昼食の後、那覇への飛行機に乗り換え、午後6時過ぎに沖縄に降り立った。実によく寝た、ひたすら眠りの中にいた移動時間だった。

 外に出ると、やはり周囲の雰囲気は違う、雪と氷の北国ではなく、建物の形や色づかい、流れ聞こえる音、そして人々の言葉からも沖縄が感じられた。温度計は19度を表示していた、もちろん−は付いていない19度である。
 
 ホテルまで約1時間、迎えのバスの中から久しぶりの沖縄の町並みを眺め、皆で食べたい物を列挙しているうちに、あっという間に着いてしまった。首里で生まれ、育ったツンちゃんは、運転手さんと、たちまち沖縄の言葉で会話を始め、私たちは、その中身はチンプンカンプン、まるでBGMのように雰囲気を楽しんむことになった。

 荷を片付け、ほっとすると、すぐに夕食だった。エージェントのYさんが用意してくださっていたのはイタリアンのレストラン、実は、羽田でもパスタだったが、続けて食べても、十分にOKな、美味しい食事だった。もちろん、私は特別な日と宣言し、あのオリオンビールをおかわりし、ワインを楽しんだ。
 
 そうこうしているうちに、先に那覇に到着し、各地をレンタカーで巡っていた井戸端の皆さんがホテルに戻って来た。
 Yさんは、私の部屋をツインのシングルユースとして下さっていた。つまり集会場にどうぞとの心遣いである。
 ありがたくその意を受け、さっそく1回目の宴会となった。いつもは遠く離れた地に住んでいるネット仲間たちが、こうして顔を揃え、同じ笑顔で語り、飲むのは、実に楽しく、そして自然だった。
 翌朝、あらためてテーブルの上を確認すると、泡盛が3本、泡の出るオリオン麦茶が10本ほど空になっていた。

 1月10日 曇り時々雨 最高気温18度

 東シナ海から拭き寄せる風が強く、気温以上に肌寒く感じる日だった。温度は夏の中標津や浜中では普通な数字だが、やはり上着を持参して正解と思えた。

 午前中から、海に面したホテルの施設でのコンサートの準備が始まった。借りた楽器と持参した楽器を並べ、照明の調整をし、ビデオのスクリーンを張り、PAの配置を決めていると、あっと言う間に午後3時、ようやく音を出してのリハーサルになった。
 今回は、いつも『長ぐつバンド』のPAコントロールをして下さっている羅臼のSさんと、その友人で有名なミュージシャンのPAをされているMさんのお二人が調整をして下さる。こんな贅沢で心強い事はない、1曲ずつ確認をし、ほとんど手直しなしにリハーサルは進行していった。

 午後6時、『ミニ王国祭・ゆかいクラブ・井戸端の皆さん』、そして北海道のFM曲『AIR−G』のツアーの皆さんと合同の夕食会イベントが始まった。まずは美味しい物を腹に入れ、地元、沖縄のサルサバンドの演奏、サンシンの演奏を楽しみ、私も犬を中心とした生き物のことに関して話をさせて頂いた。
 最後にビンゴゲームが行われた後、いよいよ私たちの長ぐつバンドの出番である。先ず、友情出演をして下さるモーガンズ・バーのAさんとIさんが、ピアノとギターでダイナミックに、そしてせつなく歌いあげる。次いで、王国メンバーがステージに.....。
 今回は13曲のほとんどにビデオかスライド構成の映像を用意した。王国オリジナルの音楽と映像、ともに楽しんで頂けたなら、と思っての事である。
 嬉しかったのは、初めて私たちの音楽を聞かれた方が、最後には立ち上がり、手拍子を下さった事である。
 『良かったよ、びっくりしました』
 そう言って下さった年配の御夫妻の言葉が、私たちには何よりの勲章になった。
 コンサートを終え、しなれないネクタイを外すと、時計は10時を過ぎていた。再度、腹を満たしに行くという仲間たちから離れ、部屋でくつろぎ、私は再び井戸端の皆さんと泡盛を楽しんだ。部屋の窓からは白い砂浜に寄せる静かな波が、かすかに見えていた。



2003年01月08日(水) 天気:快晴 最高:−1℃ 最低:−13℃


 夜、懐かしい方から電話があった。沖縄のNさんだった。
 
 『明けましておめでとうございます.....!!』
 賀状が往来していても、やはり声に出して年始の挨拶を交わしたい、互いに受話器の向って頭を下げながら言いあった。

 『明日から、こちらと書いてあったので.....』
 Nさんが切り出して下さった。
 そう、明日から王国のメンバー大人7人、子供4人が沖縄に行く。王国を支えて下さっている『ゆかいクラブ』の皆さんとの旅である。
 暖かい沖縄の地で、コンサートを楽しんでいただき、そして、ともに各所を巡る。その中でも私が楽しみにしているのは、リニューアルをした『美ら海水族館』である。

 Nさんは、ここで飼育の責任者をされている。
 最初に知り合ったのは随分と昔の事になる。王国で保護したアザラシの授乳法としてミルクシャーベット法を開発した頃で、Nさんは別の水族館でアザラシなどを担当されていた。
 はるばる王国まで来られたNさんと、様々な話をした記憶がある、それがおつき合いのきっかけだった。
 以来、20年以上、互いの元気な事を賀状で確認しながら、その仕事ぶりに、静かに拍手を贈らせていただいてきた。

 『御連絡が遅くなりまして、申し訳ありません。明日の那覇着の便で入ります....』

 沖縄で顔をあわせるのは8年ぶりだろうか、楽しみですと私は伝えた。
 話が進み、私たちが水族館を訪ねた時に、挨拶と説明をしていただける事になった。何と言っても、Nさんはマナティの出産、育児を成功されている凄い方である。実践と研究、工夫のオーソリティーから、直接、お話を聞く事ができるのは、最高の喜びであり、得るものが大きい。

 『では、よろしくお願いいたします!!』

 間近の再会を楽しみに、電話を終えようとした時に、受話器から犬の声が聞こえてきた。王国の高橋家で生まれたチベタンスパニエルだった。今はN家の愉快な仲間として、ネコと一緒に暮らしている。
 私は、ニコニコとして電話を切った。

 と言う事で、明日、朝8時に中標津を車で発ち、釧路空港→羽田空港→那覇空港の行程で3泊4日の旅に出ます。
 できれば、日記は書きたいと願っていますが、どうなるか不明です。
 12日、夜には確実に戻っています。
 それまで、失礼をさせていただきます。
 良い演奏、そして良い旅をしてきます。

 



2003年01月07日(火) 天気:晴れ 最高:−4℃ 最低:−15℃


 明け方、アラルの子犬が1匹死んだ。動きがおかしいのを見つけ、手元の箱に湯たんぽを入れ、そこに収容をして8時間後だった。
 発見した時から、毛の薄い腹部に、明らかに内出血の様子があった。息を終えた後、その眠るような姿に、私はメスを入れた。何としても原因をはっきりとさせたかった。
 これは、老衰や病名の判っているケース以外の死においては、必ず自分に義務づけている作業だった。何かが判れば、それは次の子の命に繋がる、そう思うからである。
 もちろん、細胞診の器具などがあるわけではない、何が何やら判明しない事も多い。でも、時には私の目に、死の原因をさらけだしてくれる事もある。
 
 不思議な事に、メスやハサミを握り、心肺や腹腔の中を探っている時は涙が出ない。切り開いた部所を閉じ、大地に還そうとすると、恥ずかしながら、留めなく熱いものがあふれてくる。

 アラルの子を乾いた目で見つめながら腹部を開いた。出血は肝臓の辺りで起きていた。腸はきれいであり、いっぱいのミルクウンコが残されていた。
 明らかに、大きな力によって起きた損傷が原因と思われた。とすると母親の足しか考えられない。運悪く、本当にタイミングが悪く起きた事故だろう。
 無念ではあるが、アラルをせめることはできない事故だった。腹部を閉じると、冷たくなった子犬の肛門からウンコが出た。舐めとる親は側にはいない、女房がそっと拭いてやった。


 この事を、とうとう掲示板には書く事が出来なかった......そう、、久しぶりに放映された『ムツゴロウ動物王国』の番組が終わるまでは.....。

 アラルの出産が、おそらく番組に中で放映されるであろう事は予測していた。
 だからこそ、放映当日の死を記せなかった。

 自分の中で、迷い、迷い、そして迷った。
 今回の番組が実況だったならば、迷う事なくカメラの前で死をみとり、解剖もしただろう。
 しかし、撮影は1週間前に修了している。番組は、あくまでもその段階の現実であり、余分な要素を付け加える事に躊躇があった。それも、『当日』と言うことに.....。

 と言う事で、メスの子犬の無念な死の報告が遅くなった事を、今日、番組を視て下さった皆さんに許していただきたい。



2003年01月06日(月) 天気:吹雪のち晴れ 最高:−5℃ 最低:−9℃


 空明るく、原野は白い闇......北風とともに地吹雪がやって来た。中標津から弟子屈に続く道では、車20台による玉突き事故が起きた。一瞬にして視界がゼロになる地吹雪は、ハンドルを握る人間を凍り付かせる。こんな日は、できるならば外出を控え、静かに肩をすぼめていたい。

 さて、昨日、浜中で『地主会』の会合が開かれた。動物王国が使用している土地の中に、周辺の方が共同で所有されている地域がる。国有林を払い下げてもらい、共同の放牧地として活用されていた所である。
 しかし、今は放牧される馬もなく、全てを動物王国で借りている。
 現在の地主さんの数は22名、その方たちと王国のメンバーが年に1度、正月に会い、酒を友に語り合い、親ぼくを深めている。

 午前11時、会場に入ると、懐かし方々が並んでいた。ほとんどが漁師さんで、長年にわたって潮風を受けた逞しい顔の皆さんと、おめでとうございます....と挨拶を交わした。

 王国からは、私を含めて7名が参加をした。その中には2名、酒のだめな人間も加わっている、もちろん、帰りの運転係である。
 1年に1度の集いとは言え、普段は同じ地域の住人として個々に行き来がある方ばかりである。乾杯の後、すぐに賑やかに話の輪ができた。
 
 『イシカワさん、これ、この写真、ムツ先生がここに来た時のだよ、判るかな...』
 Mさんが、小さなアルバムを取り出して見せてくれた。

 地主会の皆さんが多く住んでいる榊町の小学校体育館での、『ムツさん歓迎会』の様子が写っていた。昭和46年の事だった。
 若々しいムツさんと純子夫人の画像に、王国30数年の歴史を感じながらアルバムを繰っていくと、モノクロの小さな写真が数枚出てきた。

 『これは、ひょっとすると.....津波ですか?』

 『そうだよ、十勝沖地震のではなく、昭和35年5月のチリ地震のやつさ....』
 『あの、今、トンネルのある丘の上から撮ったんだ...』

 5枚の写真には、水が押し寄せた榊町の光景、そして倒れた船やら、何かは判らないが、異様に広い浜に点々と散らばる大きな物が写っていた。

 浜中町(当時は村)全体では11名の命が失われている。しかし、8年前に十勝沖地震による津波を経験していたMさんたちには、その時の行動に落ち着きがあったと言う。
 そもそも、地球の反対側であるチリで起きた地震による津波である、揺れを感じた訳でもなく、誰も(気象庁もである)日本にまで来るとは考えていなかった。当日、海の異常に気づいたのは朝の早い漁師さんたちであり、その問い合わせに釧路の気象台は『不明』としか答えようがない時代だった。

 『前の経験があったから、あんだけの死者で済んだんだ、みんな逃げたからな〜』
 『役場も警報を出してくれたし、何より明るくなってからだったんで良かった...』
 『凄かったな〜、潮が何百mも引いたんだ、こんな大きなカレイがバタバタしていた,,,』

 地主さんたちは、両手を広げて魚の大きさを示した。ゆうに1メートルはありそうだった。他にもカジカがうごめき、普段はけして見る事のできない岩場が出現していたと言う。

 1回目の大きな波がきて家々を襲い、その波が下がって行くと、再び4〜5百mも海岸線が後退したと言う。Mさんたちは、リヤカーを出し、カレイを拾い、流れて行った畳を回収してきたらしい。
 『津波は何度も来るでしょう、怖くなかつたのですか_』

 『大丈夫よ〜。40分ぐらいの余裕があるって事は、十勝沖で判ってたから.....。キリタップは大変だったけど、ここは落ちついてたよ、あきらめもあったしな〜』

 どことなく懐かし気に語る皆さんの口調には、厳しい自然を相手に、毎年、真剣な闘いを挑んでこられた逞しさが感じられた。
 
 地主の皆さんも、ほとんどの方が現役を引退されている。
 しかし、酒の強さは変わっていなかった。
 楽しい酒とともに、思いもよらぬ驚きの話を聞かせていただき、そして写真を拝見し、私は大きな感動を土産に中標津に帰ってきた。今年の運転手のひとりは、珍しく私だった。



2003年01月05日(日) 天気:晴れ 最高:−3℃ 最低:−11℃


 浜中の集まりから戻り、犬たちの世話をした後、出発までに数日となった沖縄でのコンサートに向けての練習をした。
 練習の合間に暖かい練習場であるサウナ棟から出て、雪原に向かって用をたしていると、50メートルほど離れた津山家から遠吠えが聞こえてきた.......

 『ウオ〜〜〜、ウウウオ〜.......』

 絞り出すようなその声は、長く、細く、そして明らかに相手を求める訴えが込められていた。

 『オオオ〜ン、ウオ〜〜!!』

 私が『エリー』と大きな声で呼び掛けると、一瞬、止まるが、再び細かな雪が舞い始めた暗闇に、せつな気な声が響いた。

 オオカミ犬のローラが死んだ。
 エリーやカイの母、我が家にいたタローの祖母だった。アラスカで生まれ、津山夫妻の結婚とともにやってきて15年、16歳の一生を今朝、終えたのだった。
 
 『本当に、眠っているんだと思ったんです....穏やかな姿で....』
 『そう、声を掛けたら起きてきそうな感じだった....』

 アミちゃんとツンちゃんは、そう言っていた。
 
 『ローラがいなくなったら、エリーが居間のガラスをガリガリして凄い....。ローラが中に入っていると思っているようで....』

 ついこの間、大地に還った豆太郎の隣で、ローラも永い眠りについた。
 練習からの帰り、皆より少し早めにサウナ棟を出て、私はひとり、新しい土の跡が残る場所に立ち寄り、
 『ローラ、グッバイ!!』
 と囁くように告げた。

 降りの強くなった乾いた雪が、静かに土を隠そうとしていた。エリーの声は、まだ続いていた。



2003年01月04日(土) 天気:吹雪のち雨のち快晴 最高:4℃ 最低:−9℃

 『良かった、良かった』と、手を叩きたい気持ちだった。
 
 夜半に激しさを増した雪と風は、11時過ぎにミゾレになり、そして正午には雨になった。このままでは酷い事になると覚悟をしたところ、にわかに空が割れ、太陽が顔を出した。
 北国で、真冬の雨ほど、動植物全ての生き物にとって辛いものはない。そのまま雪が融けて春になるのなら大歓迎だが、1月では、必ず寒気が来る事が分かっている。大地も雪も葉を落とした樹木も、生き物たちの巣穴の入り口や、時には中までも凍りつき、命の営みを困難にしてしまう。

 だから、すぐにやんでくれた雨に拍手なのである。

 太陽に誘われるままに、私と女房は遅い朝食兼昼食を終えると、外に出た。吹雪の中でも散歩に行きたいと目で訴えていた犬たちが、一斉に喜びの声を上げた。1匹ずつクサリから放すと、新雪の中を駈けて行き、思い思いの場所で大小便をしていた。我慢をしていた彼らがいじらしい。
 私はスコップで犬小屋の周囲、そして小屋の中に入った雪を除いた。女房は、雪の下に姿を隠している水オケを掘り出している。スコップで、ここぞと思う場所に軽く刺し、金属音を頼りに、見えないオケを探し出している。まるでナダレ事故での捜索活動のようだ。

 降った雨の量は少なかった。しかし、気温が高く、雪質はこの辺では珍しいベタ雪だった。そう、雪合戦の玉が簡単にでき、雪ダルマも作り易いものである。
 これは、実は曲者である。冷え込みが始まっており、明日の朝はマイナス19度の予報である。そうなると、雪の表面は凍り、堅く板状になり、犬は表面を駈けて行き易いが、人間は体重が重いので、1歩1歩、膝までズボズボと踏み破っていくことになる。これは体力を普段の何倍も必要とするのである。

 『お〜い、コースを作ろうか、雪の柔らかい今日のうちに...』

 女房に提案し、昨日までの散歩コースが埋り、一面の雪野原となってしまった牧草地に、女房を先頭に、歩幅を狭めて踏み固め、散歩コースを作り始めた。
 ついでにと思い、犬たちも連れて行った。うまくいけばネコの手ならぬ、犬の足も役にたつのでは、と思っての事である。
 しかし、彼らは目的意識に欠けていた.....と言うよりも、人間が勝手な期待を寄せ過ぎていた。

 『もう、お前たちは邪魔ばかりする...。ついて来る子は、同じところしか踏んでくれないし....』

 女房が犬たちにクレームを付けていた。
 新しい雪と思わぬ時間の散歩に喜び、とにかくめちゃくちゃに駆け回る元気者と、静かに人間のポケットの中身(ジャーキー)を狙い、ひたすら女房の足の跡に自分の足を置き、歩き易さだけを考えている連中に分かれた。明日の事を考えて、少しでも道を踏み固め、広げておこう..などと考えている犬は1匹もいなかった。

 その当然の事が愉快で、私と女房は何周もしてしまった。おかげで立派なコースが出来ていた。
 足元で雪がキュッキュッと歌う明日の散歩が楽しみである。



2003年01月03日(金) 天気:晴れ 最高:+1℃ 最低:−13℃

 9時に中標津を出て、60キロ離れた浜中の王国に行ってきた。連れはカメラのだいちゃん、途中、風連川を渡って浜中町に入るまでは、アスファルトも乾いていて快適なドライブだった。
 ところが1歩、本当に1歩、別海町との境界線を越えると、路面にはわだちのように凍った雪がへばりつき、注意して車の進路を守らないと、スリップをしそうな危うさがあった。
 これは、今年に限った事ではない。例年、浜中のほうが除雪が下手と言うか、機械が旧式なのである。
 口さがない連中は、大きな自衛隊の演習地の存在と、それに対する町の協力度が、除雪の機械の差になっていると力説する。真偽のほどは知らないが、悪路に背筋を寒くする体験をした人間には、何となく頷かせる力がある。

 まあ、この道は私の最も通ったルートである。どこで加速し、どこでブレーキ、どこに左バンク....もう身体にしみ込んでいる。無事に王国に着き、新年の挨拶を生き物たちに笑顔で行った。犬にもネコたちにもジャーキー、馬には優しい我が手の接触を与えた。

 予定の写真を撮り終えると午後になっていた。前にも書いたかも知れないが、元気と意欲、そして行動力のある酪農家が、王国から15分の所で、見学体験のできる牧場とレストランを開いている。そろそろ雑煮に飽きていた私はカレーを食べるために寄った。だいちゃんは、お正月はこれですよ〜と、どんな理屈か知らないが、ボリュームたっぷりのオムライスを頼んだ。 
 
 店は2日、つまり昨日から開けているとマスターが話していた。私やだいちゃんのような連中が多いのだろう、椅子はすべて埋っていた。横目で見ていると、大きな牛肉(おそらくステーキ)がド〜ンと皿に乗った「カンザスセット」が人気のようだった。
 いつ来ても、この店は明るく、そして活気にあふれている、『酪農家は元気である』.....そう言葉で語らずして、それが伝わってくる素敵な店だと私は思う。厨房では若い女性たちが忙しく動き、笑顔で応対をしていた。これも、この辺のおっとりした土地柄では珍しい光景である。

 そうそう、座れるかな〜と、だいちゃんと話しながら店の入り口への階段を上がって行った時、ドアの前のテラスに大きなゴールデンレトリバーがいた。店の中のほうに頭を向け、床に腹這いになり、アゴも付けて上目づかいにおとなしくしていた。誰がまたいでいこうと動こうとしない、そんな雰囲気であり、実際、瞳以外は微動だにしなかった。
 おそらく、家族が中で食事をする間、『待て』....と言われているのだろう。
 私は、ただただ嬉しくて、満員の客の中で、どの方が飼い主かと眺めてしまった。
 もちろん、その犬に、よけいな綱は付けられていなかった。これもこの辺だからこそできる事なのかも知れないが、実に豊かな感じがする光景だった。

 夜、テンプラとおせち料理の取り合わせで夕食を食べ終えると、母屋から電話が掛かってきた。
 『そろそろ、どう?....大丈夫ですよ!!』
 ムツさんだった。
 これはもう決まっている。
 そう、正月は国技を楽しまなければいけないのである。それが開国以来の30数年の伝統、儀式、しきたりである。

 体調の回復したムツさんを囲み、7時半、国技はスタートした。
 そして日が替わり、1月4日、午前1時15分。
 ムツさんのひとり勝ちで国技は終了した。最後の回に役満を上がったのもムツさんだった。

 除雪に差のある浜中、中標津間の通い慣れた道......それは、かつて浜中に住んでいた私にとって『シルクロード』ではなく『マージャン・ロード』だった。

 



2003年01月02日(木) 天気:曇り時々晴れ間そして雪も 最高:−1℃ 最低:−19℃


 新年早々に申し訳ありません、万事が終わりません、日記は明日の朝のアップとなりそうです.......。あっ、明日は朝から浜中に出かける....さて、どうなりますやら〜。



2003年01月01日(水) 天気:ひたすら快晴 最高:−3℃ 最低:−21℃


 昨夜から今朝にかけて.....言い換えると「2002年から2003年にかけて」となるのだが、このホームページのサーバーの調子が悪くなった。最初は画像だけが拒否されていたのだが、新年の声を聞いた頃には開くのさえやっとの状態になってしまった。そんな事で、締めくくりの日記を書いたのが2003年になってしまい、昨日の文章に既に新年の挨拶が書いてある。

 でも、やはり1月1日の日記にコレがなければ気の抜けた泡の出る麦茶である....もう一度...

 『新年、おめでとうございます!!』

 あと1時間待つと鮮やかな初日の出が見られる.....と言うところで、運悪く女房が起きてきた。まあ、徹夜でサモエドのアラル
の育児を見張っている私に睡眠を与えようとの気遣いだから、感謝こそすれ悪く言うのは間違いと分かってはいる。しかし、おかげで私は布団に倒れこみ、初イビキでネコたちを寝室から追い出してしまった。

 『おとうさん、いつまで寝ているの〜』

 女房の初大声に起こされて時計を見ると、針は10時を示し、2階の廊下の窓から差し込む太陽が明るかった。
 「少しは寝ないと...と言って布団に追いやったくせに、今度は早く起きれ....とは首尾一貫性に欠ける...」
 .....などと初ブツブツを、女房に聞こえない声で言いながら、私は居間に下りた。

 いつもならば、外で犬たちと遊んでいる時間だった。窓から覗くと、全ての犬が居間の窓を見つめ、人間の動く影を認めると、緩やかに尾を振るのだった。
 昔から王国の正月の三が日は『動物受難の日』となっている。ポ〜ンと餌を置き、経常的な作業は手を抜かれ、犬などの散歩の時間はテキトウになり、生活リズムは消えてしまう。そう、人間たちが朝寝坊できるのが『三が日』なのである。

 しかし、歳をとるとともに、この重要なしきたりを守れなくなってきた。あの犬たちの瞳に耐えられないのである。

 私と女房は目で互いに確認をした....
 『どうする、先に雑煮....それとも外....』
 女房が無言でこう言っているのはよく判る....。
 さてどうしようかと考えようとした時には、女房はコンロにヤカンをかけて熱湯の準備に入っていた。これは、凍っている外の水道を出すのに使われる。つまり、私の返事を待たずして、女房は外の作業に歩を進めているわけである。
 「だったら聞くな.....」
 と、再び声なき声でブツブツと言い、私も上着に腕を通した。
 その様子をガラス越しに見つけたカボスは、前足を揃えて大地を叩くように跳ね、無言で喜びを表わしていた。この姿を無視できず、我が家は、王国のしきたり破りになってしまった。

 何故か判らないが、雑煮とおせち料理を前にした時に、私はお屠蘇替わりにワインが飲みたくなった。うまい具合に、先日、アラルの出産祝いに頂いたイタリアワインがあった。

 『お前も飲むか?』
 息子を妊娠した時から、すっかりアルコールがだめになった女房は無視し、私は昨日帰って来た息子に聞いた。

 『少しなら....』
 ヒゲ面が応えた。

 癖のない、爽やかな感じさえする赤だった。渋みも適度で、久しぶりに旨い赤を飲んだ。驚く事に、おせちにも雑煮にも合い、息子もグラス2杯と、本人いわく、初めて杯を重ねた。

 『成人式はいつだっけ?』

 『7日よ....おとうさんも一緒にいくんでしょ!!』
 
 女房が口を挟んだ。そうだった、息子の成人式でもあり、私が町の教育委員会の役員をしている事もあり、初めて参加をする事にしていた。
 田舎の町では、ほとんどの所で正月に式を行っている。20歳と言えば、進学等で町を離れている連中も多い、彼らが里帰りをしている間に済ませるのである。下宿地などの自治体でも成人式は行われている。しかし、学生などには、そこはあくまでも仮の居住地であり、幼い頃からの仲間(同級生)との式こそが、心満たされるものなのだろう。まあクラス会のようなものである。

 中標津に越してから、それほど長い時間が経ったとは思っていなかった。だが、目の前で旨そうにワインを飲む20歳の息子を見ると、そのすぐ横の居間の床で、指をくわえ、パーマンの枕から頭を落として子ギツネと一緒に寝ていた彼の姿が、別の世界の事のようにも思えてきた。

 新しい年.....初めて息子と飲んだ赤ワインとともに、また歳を重ねた。