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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2003年04月30日(水) 天気:雨のち曇り 最高:8℃ 最低:3℃


 朝食を終え、西側の窓を打つ雨の音を聞いていると、やたらと眠気、そして寒気が襲って来た。昨日のドタバタがボディブローとなって効いてきているのか、はたまた単なる怠け病なのか、午前中は、頭も身体も眠っていた。
 
 それでも、TVの撮影が始まると、あれも言いたい、これも見てもらいたいと、次々と映像と言葉が浮かんできて、雨の音を聞きながら昼寝をしていたいはずのネコたちを無理矢理に誘い、いくつかのシーンを収録した。
 
 そう言えば、イエネコの本当の意味での行動学を、分りやすい映像と言葉で示した番組を視たことがない。我が家の20匹の楽しいネコたちを素材に、いつの日か、それを実現したいものだ。
 今日の撮影をスタートに、方向を探ってみる事にしよう。題して「不思議いっぱい、ネコのすべて」である...うん、このタイトル、気にいった!!

 遅い昼飯を食べ、煙草を吹かしているうちに、再び倦怠感が戻ってきた。おまけに頭痛も新規参入、身体中が賑やかになっている。
 こんな時は昼寝にかぎると、朝から床暖房を入れたままの居間に転がると、すぐにハナとエ、そして小次郎が私の身体をベッドにすべく、嬉しそうに集まり、乗ってきた。

 ネコ3匹を背に乗せるのは、普段ならば、別にどうってことのない姿だ。しかし、今日は身体が押さえ付けられている感じが強く、そして節々が痛い。
 仕方がないので2階に上がり、自分の布団に入った。枕元に常備してある大好きな「植田まさし」氏の4コマをめくりながら、身体を包みこんでくる眠気に身を任せた。

 目を覚ますと、時計は4時を示していた。
 枕元の煙草を探す。箱はあったが中身はなかった。目をこすりながら階段を下りると、私が2階に消えた時のままに、ネコたちが寝ていた。

 雨は止んでいた。頭痛も治っていた。
 ソファにもたれかかり、煙りを大きく吹き出すと、甘えてヒザに乗ろうとしていたルドが、あわてて床に下りた。
 
 『ごめん、ごめん、お前にかけたわけじゃないんだ.....』

 そう言っても、耳の聞こえないルドは反応を示さない。私は、まだ二口しか吸っていない煙草を灰皿に押し付けて消し、ルドを抱きかかえた。
 おそらく6キロはあるだろう、まだ体重が維持できている事を喜び、ルドの大好きな耳の後ろを指で掻いてやった。
 たちまちルドのゴロゴロが始まった。耳が聞こえなくなってから、彼の啼き声は、他のネコを驚かせ、怯えさせるほど大きい。まあ、自分の声が耳の外から聞こえないためだろう。
 そして、理屈には合わないが、のど鳴りも大きく感じられる。

 甘えてくるルドを膝に、ぼ〜っと窓の外を見ていると、忙し気にバケツを下げて動く女房がいた。その姿を目で追うサークルの中のベルクを見て、ようやく、私の力が復活し、西の空に細く青空が顔を出し始めている庭に出た。
 犬たちが、嬉しそうに尾を振ってくれた.....。

 



2003年04月29日(火) 天気:晴れのち曇り 最高:17℃ 最低:6℃

 暖かい朝は、辛い知らせから始まった。
 入院をしていた友人の犬が、手術も効なく死んだとの電話だった。昨年、我が家で預かり、元気な姿で楽しませてくれていた子だった。
 その元気さと人間大好きな性格ゆえに、なかなか体調のよくないところを見せてくれなかった。もう少し食欲不振を、もう少しケダルイ表情を、もう少し体重の減少を.....そうすれば、手遅れにならずに....などと後悔をしてしまう。
 これもまた貴重な体験と、心のメモ帳にはっきりと記載し、次の子に生かさなければチャコに怒られる。

 ひとつだけほっとしているのは、成犬で来た事とネコやニワトリとの雑居経験がないために、隔離柵で暮していたが、3月から、発情が来た我が家の犬たちを代わる代わる同じ柵に入れてやり、それぞれの子と楽しく遊んでいた事である。
 狭い所だったが、思いきり犬語を使ってニコニコとしていたこの2ヶ月のチャコを忘れないだろう。どの犬にも優しい子だった。
   グッバイ、チャコ!!

 午前10時半、バタバタと仕事を片づけてムツさんの家に行った。大きな丸太造りの家の前には、すでに臼と杵が用意され、テーブルが並び、ガスが炎を上げて蒸籠を温めていた。

 動物王国が誕生して丸31年、無人島の時から数えると32年になる。気の向いた年は、5月のG・Wの時期に「開国記念のイベント」を行っている。今年は、その気の向いた年となり、急きょ、2003年度の祝いを行う事になった。

 このイベントに欠かせないのが餅つきである。歴史上の暦の上での開国日「4月1日」ではなく、5月に祝いをするのも、雪が融け、ヨモギの新芽が出るのを待っての事である。

 そう、今年も浜中の王国の周辺で採取したヨモギを使った草餅をついた。国王夫人の純子氏が用意した餡を入れ、草大福が完成し、それは、あっと言う間に王国民の胃袋に消えてしまった。
 単なる白い餅もついた。これは、大根おろし、納豆、キムチ、きなこ、海苔醤油、等々、様々な形に変わって口の中に入っていった。

 さらに、イタリアンの皿がいくつも並び、そして、越路さんの製作による大きなケーキが食卓に登場し、子供たちだけではなく、かなり平均年齢の上がって来ている大人たちも争って皿を抱えていた。
 
 気温が上がって暖かい昼下がり、残念ながら国王のムツさんは海外だったが、北の王国では、アルコールも加わり、赤い顔の国民の大きな声と笑顔が広がっていた。
 午後からは、王国の宝である子供たちが、これまた素晴らしい宝であるドサンコに乗り、満たされた腹を揺らせた。
 また、新しい1年、王国32年目がスタートした。

 60キロ離れた浜中の王国からも、ほとんど全てのメンバーが記念イベントに来ていた、しかし、タケダさんの姿はなかった。
 それもそのはず、昨夜からチベタンスパニエルのハニーが落ち着きをなくしていた。初めての妊娠、出産が近い印だった。
 宴たけなわの頃に連絡が入り、TVの取材スタッフの方が二つに分かれ、ひと組が浜中に走った。
 ハニーは、見事に3匹の子犬を産んでくれた。オスが2匹、そしてメスが1匹である。

 開国の記念の日と言えど、命の営みはなんら経常と変わらない、死も新しい誕生も、いつものようにやって来る。
 そして、私たち携わる人間も、一時の宴を終えると、夕方には、昨日と同じであり、実は、確実に昨日とは違う行動に戻っツている。
 その刹那に見つめてくる生き物たちの瞳の輝きは、「この瞬間」だけのものであり、それを大切にしていきたい。

 夕方、今朝、札幌に旅立ったミゾレっ子「ふぶき」の新しい乳父であるMさんから連絡があった。
 困ったような、情けないような顔で、周囲を見回しています.....との事だった。
 これもまた、今の表情であり、時間の経過とともに、ふぶきは確実にMさん御家族の犬となり、愉快に駈け回るだろう。
 3匹の兄弟が消え、1匹で残された愛称「ソックス」は、車庫のサークルの中でいつまでも悲鳴のような声を上げていた。
 せつなくなった私は、母親のミゾレを中に入れてしまった。尾を振り、耳を倒して甘えるソックスに、ミゾレは乳首を許した。
 
 明後日、ソックスが東京に旅立つ。その後、ミゾレの乳房は3日間ほど大きくふくらみ、車庫、庭、いくつかの小屋、そして私の車に手をかけて中を覗き込もうとするだろう。
 

 
 



2003年04月28日(月) 天気:晴れ時々曇り 最高:20℃ 最低:5℃


 柴のミゾレの子犬の旅立ちが今日から始まった。オスは中標津空港から千歳を経由して仙台空港へ、そして黒子と呼んでいたメスは、女満別空港かた名古屋空港に向けて飛び立った。
 ともに空港には16時前には到着し、17時過ぎに、両方の新しい飼い主さんから電話をいただいた。子犬は元気、そして「マール」「コロ」と名前が付いていた。

 柴犬や秋田犬、紀州犬などは車酔いをしやすい。案の定、2匹を乗せて5分も走らないうちに、先ず、オスが胃液を吐いた。まあ、これを見込んで昨夜から絶食、絶水をしているので、吐いた量は少ない。
 黒子のほうも、2時間近くを掛けて女満別の空港に着くまでに、やはり2度、大きな音をたてて吐いた。

 もちろん、全ての日本犬が車酔いをするわけではないし、この2匹は、初めての乗車であり、何が起きているのか、どこに連れて行かれるのか.....と言う不安が悪影響を与えている。
 何度も楽しいドライブを繰り返していけば、いつの間にか酔うこともなくなり、逆に嬉しそうに自分から車に乗り込むようになるだろう。
 実際、子犬たちの母親のミゾレも姉になるシグレも、車に乗るのが大好きである。ぜひとも、新しい家族の皆さんは、どんどんこの子たちを連れ出して遊んでほしい。

 オスを中標津空港に預けた後、そのまま私は女満別に道をとった。何気なくナビのスイッチを入れて設定をすると、あまり道東に詳しくないナビは、とにかく国道1本ヤリである。
 でも、走るのなら、立派に整備されていながら交通量が圧倒的に少ない道道(北海道の管理する道路)や町道が良い。どこまでナビが素早く反応するかを確かめるかのように、ナビの音声(心のこもっていない女性ボイスである)に逆らい続けて車を走らせた。
 感心な事に、20度ほど指令を無視したにもかかわらず、とうとう最後までナビは私の役にたとうと頑張っていた。開発者に敬意を表したい。

 往路は、どこも乾いた道だった。裏摩周を通る道は、両側に林や森が続き、そこにはたっぷりの雪が残っていた。新しい緑は、路肩で咲いているフキノトウと、時々見かけるヤナギの新芽だけだった。
 ところが、峠を越え、網走管内に入ると、こちらのような酪農一辺倒の光景に変化がおき、きれいに区画割りをされた畑作地帯となる。
 秋播き小麦の緑が鮮やかな絨毯のように広がっていた。ビートの苗が見事な列となって移植されていた。ジャガイモの種イモを埋めているトラクターが動いていた。
 家の前の花壇で黄色いスイセンが咲いていた。幅が2メートル、長さが200メートルほどのビニールが畝を覆っている畑があった。多分、デントコーン(家畜用トウモロコシ・サイロでサイレージとなる)の種が播いてあるのだろう。

 私の住んでいる地域よりも、一足も、二足も先に風景が進んでいた。
 これは、大地の凍り方の違いだろう。いつまでも根雪にならない(遅い)釧根地域は、防寒具の雪が覆う前に寒気で大地がシバレ(ガチガチに凍る)てしまう。酷い年は、地下50センチがツンドラ状になり、そのシバレが落ちる(融ける)のは5月中旬になってしまう。それまでは畑をトラルター等で耕す事はできない。
 比べて、釧根地域から山を越えただけの隣接地である、網走や北見、十勝管内は、根雪が早いために、大地は寒気から守られ、雪が消えたなら、すぐに耕作が可能になってしまう。

 時々、西からの風に畑から土ぼこりが舞うのを眺めながら車を走らせ、そんな事を思っていた。
 
 その間、2度、吐いた黒子は、時々、鼻声で寂しさを訴え、救いを求める目つきで私を見上げてきた。
 女満別の空港で草の上に降ろすと、もう30センチの背丈になり、花が終わろうとしてるフキノトウに鼻を近づけて匂いを嗅ぎ、濃い緑の古葉の真ん中に黄緑の小さな新しい葉を見せているシロツメグサの上に、長い小便をした。
 数時間後、黒子が踏み締めた大地は、すでに、あふれる緑に包まれた所、岐阜である。

 



2003年04月27日(日) 天気:曇りのち快晴 最高:17℃ 最低:4℃


 午前中も、そして午後も、さらに夕方も、柴のミゾレの子犬たちを、いつもよりも長い時間、庭に解放していた。朝の厚い雲はいつの間にか東に消え、暑いほどの日射しの下で、4匹は、離れ、そして集まり、身体をぶつけあって遊んでいた。

 『おいで、おいで、おいで.....!!』

 私や女房の声にも、実によく反応する。
 ササの中から、台所の床下から、はては車庫の奥の牧草の上から、転がるように駈け寄り、ズボンに前足を掛けて見つめてくる。
 一切れの御褒美を上げた後、おまけとして手にしている軍手を好きなようにさせる。4匹は指1本ずつを細い乳歯でくわえ、全身の力を加えて引く。
 まるで手袋脱がせの機械のように、スルッと脱げ、そのまま4匹がくわえたまま、片方の軍手を中心に綱引きが始まる。

 その様子を、横にいるミゾレと見つめながら、私は、そっと言った.....、

 『ミゾレ....お疲れさん、明日、黒子とオスが旅立つよ....』

 もちろん、ミゾレが言葉の意味を理解するはずはない。しかし、今日のミゾレは、いつものように勝手に姿を消すことなく、常に子犬たちが遊び回っている周辺にいた。

 それでは、と言う事で、私はオビをはじめ、遊びの輪に加わってくる他の連中を先に繋ぎ、サークルに入れ、フリーなのはミゾレと4匹だけにした。
 真っ赤な夕陽が沈むまで、牧草地、裏の林、そして、すっかり乾いた庭をいっぱいに使って、親子は長い影を作りながら遊んでいた。

 明日、中標津空港から仙台へオスっ子が、さらに女満別空港から岐阜へ黒子が旅立つ。
 4匹揃っての遊びも、食事も、ミゾレの吐き戻しを食べるのも、さらに、重なり合って眠るのも、今夜で最後となった。

 「オス」「黒子」、明後日の出発の「ただのメス」、5月1日に東京へ行く「ソックス」....。
 『みんな、良い夢を見るんだぞ!!』
 
 そう言いたい気分である。



2003年04月26日(土) 天気:雨のち夜になって曇り 最高:4℃ 最低:4℃

 最高、最低気温ともに4度だった。1日中、静かに雨が降り続けると、なんとなく気分が重たくなる。
 それでも、日常のリズムはあまり変えたくない。酷い降りの時は別として、穏やかな雨ならば犬たちに濡れてもらう。
 家の中から窓ガラスごしに見ていると、いつもの散歩の時間が過ぎると、どうしたのかな〜と我が家をうかがう顔が見える。こうなれば、覚悟を決めて、帽子と上着を雨用に替え、玄関を出る事になる。

 そう言えば、たとえ吹雪になろうと小屋に入らない子が多かった犬たちが、今日は静かに入っていた。
 しかし、1匹だけ濡れネズミがいた、そう、生後4ヶ月になろうとするサモエドの子犬、オビである。脱走のできない高い柵に替え、その中に赤い屋根の小屋を設置しているのにもかかわらず、外に置いてあるナンキン袋の上で寝ていた。
 もちろん袋は雨水を吸い込み、グショグショの状態である。あと2ヶ月もすれば、小屋の横にあるハルニレの葉が傘のように広がり、少しは雨よけになるかも知れないが、今は、素通りで雨粒が落ちてくる。

 『お〜い、オビ、だいじょうぶか〜?』
 
 そう言いながら、朝の餌を持って柵に入った。泥に汚れた身体に触ってみた。やはりサモエドである、まだウブ毛のような毛足だが、見事な事に、肌に近いところまでは濡れていなかった。
 生まれた時から、玄関で成長し、その後はマイナスの気温になる外で暮していたので、本州育ちの子よりも毛が密で長い。この効果は雨の時にも発揮されている。

 でも、そう分ってはいても、雨の中、濡れた布の上で丸くなっている姿を見ると、乳父(ウバならぬウブである)を自称している私の胸は痛む。
 そこで私は、母親のアラルとレオンベルガーのベルクが生活し、2個の大きな小屋のある広いサークルにオビを入れた(先日までオビ自身がいた所である)。アラルの真似をして、小屋に入ってくれるのではと期待して....。

 この計画は元気なオビの前に5分で頓挫した。やはり先日までのように、このサークルから脱走をするコツを覚えているオビは、簡単に乗り越えて出てきた。

 『もう、だめよ〜、しっかり覚えているから....濡れていても元気だから、新しい柵でいいわよ〜』

 女房の意見もあり、しばらく一緒に遊んだ後、オビには新しい柵に戻ってもらった。黒く染まったオビの身体が弾み、私の上着は泥だらけになっていた。

 外の作業が終わった後、動物用台所を中心に生活しているキジトラネコの「アブラ」を居間のケージに入れた。これはネコ用としては最大級の物で、3段仕様になっている。
 実は、アブラを居間に入れ始めてから10日ほどになる。24時間、入れるのではなく、人間が見ていられる時が中心である。
 その理由は、アブラが痩せてきた事にある。3ヶ月前から、じょじょに体重が落ちてきて、2年前には5.5キロだったのが、とうとう4キロを割ってしまった。そして食欲にも波があり、まったく食べない日もあった。

 これではいけないと、手を替え品を替え、女房はアブラの口が動く食べ物を探し、与えてきた。
 おかげで、食欲だけは、何とか確保できている。ウンコの状態も素晴らしい。そして体重の減少にも歯止めが掛かった。
 しかし、これと言った病因の分らないこのアブラの変化は、かなり心配である。従って、観察をしやすく、そして寒さを防ぐ事のできる室内生活にも適応できるように、まだ元気な時にトレーニングをしておこうと、テレビの横にケージをたて、連れてきている。

 アブラの苦手なネコは白ネコのミンツである。窓ガラスを挟んでいても、外と内で大きな声で唸りあい、勝手口から外に出たミンツを見つけると、わざわざ寄ってきて毛を逆立てていた。

 案の定、居間に入ってもミンツの姿を見つけると、5メートル離れた所から唸っていた。
 でも、本来が単独行動型のネコである。狭い所にたくさんの仲間がいても、それほどストレスはかからない。繰り返し中に入れているうちに、小次郎やパドメなどの若い連中から近づき始め、そしてアブラも開けっ放しのケージの出入り口から、ゆっくりと居間の床に降り、動き回れるようになってきた。

 この分なら、私や女房が不在でも、ネコたちで協調をはかれる時が近いうちに来そうである。
 だが、アブラが家の中のネコになってしまうと、1匹で外に残される「アブラ2世」が辛くなる。ヘアレス犬のカリンだけでは冬が寒いだろう。

 そこで、今日から、アブラに加えて2世もケージに入ってもらった。もともと鷹揚なネコである。それほどの緊張も見せず、すぐに出入り口から出て、他のネコの匂いを嗅いでいた。

 これならば、わりとすんなりと同居が可能かも知れないと、私はニコニコとしながら、アブラの好きカツオブシを探して小さな皿に盛り、ケージに入れた。

 この2匹が加わると、家の中のネコはついに15匹になる。



2003年04月25日(金) 天気:晴れのち曇り 最高:16℃ 最低:0℃

 柴犬の4匹の子犬たちが、生まれて70日になった。しばらく体重を測っていなかったが、3度目の駆虫をするために確認をしたところ、何と1ヶ月で3キロも大きくなっていた。

      (3月25日)    (4月24日)
 オス     2650       6000
 黒メス    2500       5500
 ソックス   2200       5100
 ただのメス  2500       5500

 それぞれに旅立つ先は、生まれる前から決まっていた。札幌、仙台、東京、そして岐阜である。すでに名前が決まっている子もいて、寄せられるメールやFAX、TELからは、1日も早く来て欲しいという気持ちがあふれていた。

 先週の末、女房と私は、待たれている皆さんにしてみれば「ようやく」の連絡を終えた、そう、「27日以降でしたら、旅立ちができます」.....との知らせである。
 
 生後2ヶ月半、柴犬の子犬にとっては良い時期だと思う。あまりにも元気に育ってきたために、これ以上、兄弟を一緒にしておく時は、今度は人間の目が必要になる。それを行わないと、プロレスごっこが1匹集中攻撃に変化し、負け犬的な子ができる事もある。
 1匹が、ひとつの家族のもとで、1身に注目を浴びるタイミングが来たのである。

 母親のミゾレは、まだミルクを飲ませている。出が良いために子犬たちが口で乳房を突き上げる動作をしない。従って鋭い乳歯による痛みも傷もなく、乳首はきれいなままであり、授乳が負担になっていない。
 70日になっても、これほどよく授乳をしている犬は、あまり見た事がない。何と素晴らしい母親だろうか。おまけに、食べた餌の吐き戻しも必ず行い、子犬たちは離乳食にちょっぴり口を付けただけで、残りはミゾレの胃の中からせしめようと、サークルに入ってくるのを待っている。

 車庫に設置してある子犬たちのサークルは、75センチの高さがある。そのままだとミゾレでは入る事ができない。
 ところが、ミゾレは車庫の奥側にヤギのメエスケ用の牧草が積み上げられているのに気づいた。
 そこで、彼女は、一旦牧草の山に登り、そこからサークルの中に飛び下り、そして子犬たちが嬉しそうに集まって来るのを待つ。
 2週間前にこれを見てから、私と女房は断乳をあきらめた。離乳食をまったく食べないわけではないので、我が家にいる間は「ミルク」+「人工離乳食」+「母親からの離乳食」の3本立とを認める事にしていた。

 しかし、これも今日を最後とした。
 明日からは、ミゾレをコントロール下に置き、ミルクを与えないように注意する。来週早々に始まる子犬たちの旅立ちを前に、心を鬼にして「人工離乳食」だけとする。
 4匹それぞれにミゾレを付けて送ることができるのなら、どのような食事法でも構わないが、それは無理な事、やむなくの隔離である。

 もちろん、人間が見ているかぎり、親子で自由に遊ばせる。残りわずかな時間を、楽しく過ごさせてやりたい....。

 そんなミゾレと4匹の子犬たちの様子を、フジTVの取材チームが撮影している。
 後日、4軒の皆さんは、足元でじゃれ遊ぶ出演犬の相手をしながら、きっと笑顔で視て下さるだろう。

 

 

 



2003年04月24日(木) 天気:曇り時々晴れ間 最高:16℃ 最低:3℃

 少々、お待ち下さい。


2003年04月23日(水) 天気:晴れのち曇りそして雨 最高:15℃ 最低:0℃

 コーヒーを飲んでいる時に電話があった。我が家から35キロほどの所に住んでいるAさんからだった。

 『突然のお誘いなんですが、今日、薫別の海岸にいかがですか?』

 Aさんのところには、我が家で生まれたサモエドの子「レヴン」が貰われていっている。先日、母親のアラル、そして兄弟のオビと訪ね、山で遊んだ後、今度は海がいいですね〜と約束していた。
 幸い、予定は決まっていない日でもあり、私と女房に断る理由は何もなかった。

 急ぎ、午前中の作業を終え、アラルとオビを呼んだ。2匹は、もう何が起きるのかを察知しており、さらにゆかいな事に、呼ばれなかった他の犬たちも、2匹が車に乗ってどこかで楽しい事をしてくると分っており、一斉に吠え始めた。

 アラルはいそいそと車のドアの前に行き、オビも尾を振りながら続いた。私がドアを開け、後部座席に布を敷こうとする時に、アラルは無理矢理乗り込み、センやマロの声が1段と大きくなり悲鳴のように聞こえてきた。

 『ゴメン、次はお前たちなっ!!』

 そう言い、ジャーキーを少しづつ与えて私たちは出発した。

 薫別の港から、大きな砂利と雪解けの水が流れる水路のある浜を車で進み、これ以上は無理と言う所で犬たちを解放した。
 レヴンとオビは、すぐに相手を認め、すぐにからみ合いを始めた。そう、要するに取っ組み合いである。アラルは大人らしく、一応、レヴンの身体の匂いを嗅いでいた。

 国後を目の前に、浜には置き去りにされた流氷があった。少し薄い雲が出て来ていたが、それでも陽光を中に閉じ込めたブルーグリーンの氷は、大きな宝石のようだった。

 リュックにおにぎりを入れた私や、それぞれの犬の自慢や打ち明け話をする女房とAさん御夫妻の歩みとは無関係に、母親と2匹の子は、波打ち際から海の中へ、そして砂利の海岸を駈け、追い掛けあっていた。
 レヴンは1ヶ月前にAさんの家に行ってから、何度もこの海岸に遊びに来ている。しかし、アラルとオビは、初めての海だった。

 『アラル、けっこう恐がりだから、海に近づかないのでは....』
 との車中での心配は杞憂に終わり、何の躊躇もなく胸まで海水に浸かり、おまけに塩水をガブガブと飲んでいた。

 『流氷のせいもあるのかしら、この辺の海水は、他の所ほど塩辛くないんですよ....』

 Aさんが教えてくれた。私は手ですくって舐めてみた、確かに浜中の海よりも薄く感じた。女房も頷いていた。オホーツクは塩分濃度が薄いと読んだ記憶があるが、それは本当だった。

 Aさんたちが足を止め、ふたりとも双眼鏡で前方の浜を覗いていた。いつもの事なのだが、双眼鏡を忘れて後悔をする私は、近視の矯正をするように、目を凝らして遠くを見た。カラスが10羽ほど集まっているのが見えた。

 『レイヴンがいそうです....』

 レイブン..「ワタリガラス」の事であり、レヴンの名前はそこから来ていた。
 カラスが集まっていたのは、エゾシカの死体があったからだった。歩き始めてから、何頭かの白骨とわずかな皮だけの死体は見ていた。しかし、珍しく砂の所に横たわった死体は、まだ新しく、草食獣の死体独特の臭いがしなかった。

 『昨日、来た時にはありませんでした、ここには.....』

 カラスたちは、春を目の前にして生を終えたエゾシカの、眼球と盲腸、大、小腸の部分だけをついばんでいた。
 背骨とアバラが目立ち、明らかに栄養不足の身体だった。大きさから2歳ていどのメスである。
 人間から離れて遊んでいた犬たちも、私たちが1個所から動かないと、何ごとかと確認に来る。実は、これがリードをつけない散歩の最大のポイントである。ここに人間との信頼関係、絆作りの最短の道がある.....、それは、また別の日に書きたい。

 とにかく、3匹はエゾシカの死体に気づいた。頭部、背、そして大きく開いた後腹部の臭いを嗅いだ。おそらくササが中心だろう、腸の内容物が砂の上に広がっていた。そこに、ふやけたカンピョウのような腸があった。オビがくわえ、あっという間に飲み込んだ。
 まあ、捕食獣にとっては最高の御馳走である、食べても別に構わないが、その口で私を舐めにくる事を考え、そして、今にも身体を内容物に擦り付けそうなアラルの様子を見て、犬たちの名前を呼んで先に進ませた。

 何個かの流氷を数え、犬たちの遊び、特に、オビとレヴンの激しいバトル(もちろんゲームである)を、あきれて眺め、今にも崩れ落ちそうな浜に面した崖の植物の様子を観察しながら、私たちは大きな流木(もしくは崖から倒れた木だろう)の所で昼飯にした。
 海があり、流氷があり、そして、私たち以外の人間の姿がなく、3匹の元気な犬がいる.....。
 これほどの御馳走はない、急な事でコンビニでありあわせに用意したオニギリとノンアルコールのビールが旨かった。

 しばらくすると、女房が私を呼んだ。

 『おとうさん、アラルが吐いた....。ボールが出て来た....』

 海岸を歩き始めてから、アラルはやたらと水を飲んでいた。海水だけではなく、崖から小さな流れとなって落ちて来る湧き水にも口をつけていた。
 どうもおかしいと思っていたところに、この吐き戻しだった。出て来た物を見ると、明らかに軟式野球のボールと思われる物体が、3個のヨレヨレの状態で出されていた。
 まあ、閉塞の原因とならず、見事に出て来た事に拍手をし、胸を撫で下ろした。

 子犬たちは、とにかくバトルだった。
 少し疲れたのか、離れて静かにしているな、と思っていると、実は互いに見つめあっており、どちらかが誘いの動きを示すと、たちまち取っ組合いが始まった。
 最初は身体の大きさで勝るオビが優勢と思ったが、実はしつこさと気の強さではレヴンが上手で、私は、やはりメスは怖いと頷き、
 『オビ、いい子だね〜、女の子に優しいね〜、さすがにイシカワ家のオスだね〜』
 
 と、女房に聞こえるように誉めてやった。

 雲が厚くなり、国後が霞んできたのを機に、私たちは浜を引き返した。泥だらけの犬たちを、どうしようかと話している時に、南の空から懐かしい声が聞こえてきた。
 間もなく北に帰る「レイヴン」たちだった。
 足元では、知床の自然の中で順調に大きくなっているレヴンが、そしてオビが、レイブンに近い色で笑っていた。

 



2003年04月22日(火) 天気:快晴 最高:11℃ 最低:−1℃

 ムツゴロウ動物王国のクラブ組織、「ゆかいクラブ」の会報誌であるLOOPの編集会議を行った。次号は122号、隔月なのですでに21年目に入っている事になる。
 毎回、みんなで内容の検討をするのだが、なかなか新しい試みは実行するのが難しい。もし、会員の方から、このような企画を、と言われれば、すぐに議題にさせていただこう、どなたか投稿をしてくれないだろうか..........などと考える事もある。
 その時の王国を、そのまま切り取り、旬の便りとして届けられたらと、それを基本にまた編集に取りかかる。

 夜、書斎に入って来た女房が、なんとなく嬉しそうな雰囲気をしているのを、PCに向かったまま、背に感じた。そんな時は、こちらが無言でも自然に声が聞こえてくる。

 『ルックのお腹が見えた、懐中電灯で照らした時に....』
 『妊娠していたんだは....そして、今、育てていると思う...』

 私が口を挟む。

 『うん、乳首が見えた?』

 『そう、乳首の周囲の毛が抜けていて、それで横から見てもポツンと飛び出ている、あれは、間違いなく吸わせている...』

 何度も、何度も書いているが、ルックは人間ならば100歳を超えているキツネである。この歳で出産すること自体が驚きであり、もし子ギツネが無事に育てば、これは奇跡的奇跡となる。
 昨年は、残念ながら3週間ほどで育児は失敗したと記憶している。幸いにも今のところ大雨もなく、天候には恵まれている。何とかルックの体力だけはと考え、女房はソーセージを1本、多く与えたらしい。
____________________________
 
 さて、先日から仲間たちのHPで犬の「チョークチェーン」が話題になっている。
 それに関して、私も一言書いたところ、メールでの質問等が寄せられた。どうせなら多くの方に私の考えを知ってもらおうと、ここに書くことにした。

 先ず基本は、『犬』という家畜をどう私が捉えているか、である。
 これを説明すると、しつけにせよ、遊びにせよ、ひいては小屋やベッドや餌など、犬に関する全ての事への私のスタンスがはっきりとし、おのずとチョークチェーンへの考え方も見えてくる。

 いつものように結論から書こう。

 『犬』は、実は人間以上のフレキシビリティを備えた、環境順応型の家畜である.......となる。
 
 さらに補足として、人を見つめる事で、そして人から見つめられる事で、どんなに苦しく厳しい仕事(出来事)でも乗り越えられる能力を備えており、それを喜びにまで昇華できる特殊な才能も備えている.....と書き加えておこう。

 では、チョークチェーンを例に話を展開してみよう。
 もちろんこのラピッドトラップ型のクサリの首輪は、犬か人間の力が加わると首が絞まり、それによって犬に何らかのシグナルが伝わる仕組みになっている。名前のままに「絞まる首輪」なのである。
 この用具の発明により、引く力の強い犬に対しても、首の部分の感覚の鈍い犬に対しても、人間の声を聞き逃す犬に対しても、付き合う人間が力をそれほど使わなくても、瞬時に意志を伝えやすくなった。
 これは立派な文化である、先人たちの知恵である。

 しかし、この道具を使う時に、間違えてはいけないと私は思う。それは、束縛し続け、押さえ付け続ける道具ではないと言う事である。あくまでも訓練のための知恵のひとつであり、そこには人間の心が必要不可欠であり、使う時間の長さとタイミングも重要である。
 つまり、これをしておけば、繋ぎっぱなしでも引っ張り過ぎれば苦しいので吠えなくなる、ああ、いい道具だ...ではないのである。
 あくまでも人間が横につき、ともに歩み、そして語り合う場で有効な道具である。
 都会など人が多い所で犬と付合っていると、犬に心を伝える時に、大声を張り上げるわけにはいかないであろう。そのような環境では、大いにチョークチェーンは役立つ。
 『マテッ』
 と、通行人を驚かせない程度の音量で声を掛け、同時に軽くチェーンを引き、信号を確実なものにする事ができるからである。

 逆に言うと、犬のほうでも大いに助かる。犬は人間からの信号を待っている、それを理解し、期待にこたえようとする純な心を備えている。
 しかし、人間側の意思表示が弱かったり、あやふやだと、犬も困惑し、どうすれば人間が頷いてくれるのか、喜んでくれるのか、誉めてくれるのか、それが分らずに勝手な(人間からみて)行動をせざるを得ない。
 これが1本のチェーンによって改善されるのなら、こんな良いことはない。

 実は、私の手元にもチョークチェーンが数本ある、しかし、使ったことはない。私がチョークチェーンを使わない理由はここにある。そう、隣の家が2キロ離れている所に住み、たまに釣り人しか出会わない川への散歩を常としているので、誰に遠慮をする事もなく、いつでも大声で『マテッ!!』と怒鳴る事ができるからである。
 
 さらに、絶えず話し掛け、ロングリードの収納部分をカチャカチャと音をたてる事で、いわゆるクリッカー効果(指令をカチッという音で示す方式)が自然と生まれ、私の声とその音を聞くと、犬は振り向き『な〜に、どうするの?』と聞いてくる。
 まあ、時間は掛かるかも知れないが、自然な流れの中で、犬たちの心の成長にそって無理なく絆を太くしていける。

 しかし、これはあくまでも広さと過疎に恵まれた所での話である、誰にでも適応するわけではない。

 では、都会でやむなくチョークチェーンを使ってコントロールされている犬は不幸なのであろうか、私は『NO!』と断言できる。
 もちろん、24時間、少し引いただけで首が絞まる状態で繋がれていたり、無言で方向変更などをされて、引きづり回されているケースは別である。
 それ以外の、正しい扱いをされて散歩に出ている犬には、けして心理的にも肉体的にもマイナスのストレスが掛かっているとは思わない。
 いや、チョークチェーンで人間の言葉を覚えたからこそ、扱う人間の動作の小さな変化にも、生き生きとして反応を示しているのではないだろうか。

 ちょうど、盲導犬がハーネスを見ると、そして付けられると胸を張って仕事をしようとするように、王国でチョークでトレーニングをした連中も、普段は外しているチョークを担当の人間が手にしているのを見ただけで、嬉しそうに尾を振り、声を出し、

 『今日はフリスビー、それとも散歩、うん、アジリティかな〜?』
 と、1本のチョークが仕事に結びつき(引き綱が付いていなくても)、喜びを象徴するものとなっている。

 再度、結論を書き記そう。

 我が家のリーダー犬で13歳になるサモエドのマロは、イギリスからやって来て以来、1度もシャンプーをしていない。先日は10センチの湿った雪を布団替わりに身体に乗せて熟睡していた。夏の暑い日は、自分の小屋の下に穴を掘り、土ぼこりまみれで寝ている。
 
 そのマロの、ある子犬(もう中年だが..)は、冬は居間に続くサンルームで、家の旦那さんとカーペットの上での昼寝を楽しみ、夏はもちろん、クーラーの効いた部屋でビールを飲む人間の隣で、時々ツマミを貰いながらくつろいでいる。

 この2匹、どちらが幸せなのだろうか.....?

 私は、この「質問」こそが的外れであり、不幸せなものであり、愚問の最高峰だと思っている。

 もうひとつの比較をしてみよう....

 ポチを飼っている家は、旧家であり、おまけに相続税を払っても、親の遺産がど〜んと残り、500坪の芝生と池、花畑の庭の一角に、エアコン完備の10坪のポチ専用の小屋(家)を作ってもらっている。
 小屋が広く、自由に運動ができるという事で、病気の菌があふれている外へ(庭すら)の散歩はしていない。もちろんフードはプレミアム商品ばかりで、使用人が交替で与えにくる。

 もう1匹のケンは拾われた犬で、飼い主はワンルームのマンション住い、どうやら女房に逃げられた過去があるらしい。おまけに収入はギリギリで、市販のドッグフードはまれで、魚屋さんから貰ってくるアラや食パンの耳が主食である。
 しかし、暇がたっぷりとある飼い主は、毎日、朝夕の長い散歩の途中で近くの川原に寄り、集まってくるたくさんの犬たちと遊ばせてくれる。
 そして、週に1回は、ボロボロの軽四にひとりと1匹で乗りこみ、大平洋の波で遊んでいる.....。

 この2匹ならば、私は自信を持って「ポチは可哀想」と言い切れる。

 しかし、マロと、その子供では比べようがないのである。どちらもいきいきと生きているのである。それぞれの立場で、人間から与えられた仕事、期待されている仕事をこなし、大いに誉められる事で、落ち着いた暮らしをしているのである。
 
 犬を犬たる存在にしているのは、毎日の人間の働きかけと具体的な交流があっての事であり、その時に初めてフレキシビリティが発揮され、マロも、その子供も、その環境に馴染み自分のものとするのである。
 
 つまり、チョークチェーンも同じ事ではないだろうか。
 使用する人間が、そのクサリを引く時に、同時に言葉と瞳で語りかけ、心から犬に何を求めているのかを伝える(自分が一緒に何をしようとしているかを)......そう、より密なコミュニケーションの取り方をすれば、この道具は本来の目的を達成するだけではなく、その犬にとって、人間との心を繋ぐ「人語→犬語翻訳機」になるのではないだろうか。

 王国には、絞まらぬように調整をしたチョークチェーンを、まるで高価なネックレスのように掛けている犬たちがいる。
 誰かがそれに手を添えると、犬たちは次に起きる仕事を期待して心拍数を上げ、瞳を輝かせ、心を躍動させる。

 <長文、失礼いたしました>

 

 



2003年04月21日(月) 天気:小雪 最高:1℃ 最低:−1℃


 明け方からの細かな雪は、北から北西に風が変わってもやむことなく降り続いた。
 3日前の雪と違うところは、大地が濡れていたので、ほとんどがすぐに水に変わるところだった。でも、風と雪の1日は冷たく寒く、脱いでしばらくたつタイツを頭に浮かべてしまった。

 桜の散った滋賀から仲間が来た。もちろん寒いと言ってくれた。北国で暮している私でさえ震えているのだから、そうでなければ悲しい。
 でも、犬たちはいつものように元気に客人を迎えてくれた。濡れた大地を駈けて行き、見事に泥足のスタンプを付けてくれた。

 滋賀のAさんとともに、地元の中標津に住んでいるMさん夫妻も来てくれた。我が家から旅立ったネコの「みお」と、浜中の王国生まれの犬の「とこ」も一緒である。
 この二人の「愛ネコ」「愛犬」家ぶりは見事なもので、2匹それぞれを紹介する時には、頭に「世界の....」とおまけが付き、「可愛いい〜」と常に話し掛けている。
 まあ、実家としては嬉しくもあり、見習わなければとニコニコしながらも、少しあきれている。

 我が家の連中のフリー散歩の時に、その「とこ」も同行した。チベタンスパニエルという犬種で、日本では珍しい小型愛玩犬である。そう、我が家のどの子よりも小さいかも知れない。
 「とこ」はすぐに我が家の大きな連中に囲まれた。犬としては当然の行為、「匂い嗅ぎ確認」をしようとしたのである。しかし、Mさんは「世界のとこ」に何かがあっては大変と、胸に抱きかかえている。我が家の犬たちには、これはせつない、尻の位置が高過ぎて、鼻が届かない。
 そこで、アラルが、オビが、ベコが、シグレがMさんに飛びつき「とこ」の身体に鼻を押し付けた。
 こうなると、今度は受ける側が困る。普段、このような集団での取り囲み、鼻ブヒブヒ攻撃を受けた事はないだろう。「とこ」の口から『キャン』と声が出た。

 この声は、全ての犬に普通ではない事が起きている、それを知らせる信号になる。たちまち、もっと多くの犬たちが確認に集まってきた。
 「とこ」は生後7ヶ月だったと思う。愛玩種らしく、まだまだ幼さを残しており、また、その特性とメスゆえに、大人になっても攻撃の対象にはなりにくい。

 『下に離してみて下さい....』

 私はMさんに頼んだ。

 「とこ」の周りに無数の鼻が並び、それが尻や腹の下を探った。尾が下がり、腰を落とした「とこ」は、固まったまま動く事ができない。
 これがまた、素晴らしい事である。動かないと言う事は、相手に嗅がせる時間が生まれる事でもある。
 やがて、人間たちの動きを見る余裕も出て、「とこ」は救いを求めるように、私たちの足元に駈けて来た。

 残念ながら、寒さに人間の方が耐えられなくなり、その後の展開を最後まで見る事は出来なかったが、この様子ならば、「とこ」はドッグランなどに参加するのも可能だろう、私は、そう思った。
 とにかく、犬と犬を結び付けるのは、犬同士に犬としての会話をさせてやる事である。その時に、人間は仲人の役割を担う、この技術(それほど大袈裟なものではない、人間の言葉で、仲良くね〜、大丈夫だよ、友だちだよ....と言うのが仕事である)を、犬を飼っているすべての方が備えると、より楽しくなるだろう。

 さて、寒さに負けた人間たちとともに居間に入った「とこ」は、10数匹の我が家のネコたちには、まったく脅えも遠慮も示さなかった。
 ちょうど餌の時間で、女房がネコたちに用意をすると、ちゃっかり食器を囲む輪の中に入り、実にうまそうに食べていた。
 ヒゲとヒゲが触れあっていても、「とこ」にはストレスは掛かっていなかった。「とこ」の普段の友だちがネコの「みお」だった事もあり、異種間の交流は、実に簡単に進んだ。

 自分の家に戻っての餌は見事に食べ残した「とこ」、ドキドキする1日だった。



2003年04月20日(日) 天気:曇り 最高:11℃ 最低:−3℃


 朝の散歩(フリー)は、いつものようにムツさんの家を目指した。これは2度に分けて行っている。先ず第一陣として、マロ、ダーチャ、セン、タブ、ベコ、ラーナ、シグレ、タドン、オビがついて来た。
 
 同時にフリーになったのは、他にアラル、ベルク、メロン、シバレがいたのだが、この4匹は母屋への道を取らず、ベルクとアラルは我が家の裏の林でごそごそし、メロンは表の道の手前でウンコをした後、道がグチョグチョなのは嫌いなので庭にさっさと帰り、シバレは我が家のエリアをぶっ飛んで回って小便を掛けるのに忙しく、みんなの後を付いてはこなかった。
 
 真っ先に母屋に着き、運が良ければ誰かに甘えられると、ムツさんの家の玄関で尾を振って待ち構えているダーチャに、5分遅れて私を含めた本隊が合流した。
 しばらくは庭で遊び、ジャーキータイムを設定し、それから来た道を引き返す。その時に、私はなんとなく川へ行きたくなった。

 120ヘクタールの牧場は、簡単に言うと600メートル×2000メートルの長方形の形をしている。その中央に当幌川という自然河川が流れている。
 雪のない時期は、朝夕、必ず犬たちと通う川であり、ヤマメやイワナ、そして秋にはサケが泳ぐ素晴らしい川だ。真冬ならばカンジキや山スキーで行く事ができるが、今はちょうど残雪が柔らかく、人間は疲れてしまうので、久しく行っていなかった。

 でも、1部の犬たちは、真冬も今も川までの自主トレを続けている。そう、タブやベコ、シグレやダーチャである。
 他の連中は、私や女房が動かないと、冬は川に行かない。そろそろ足元も何とかなるのではと、急に思い立ち、私は母屋から右に折れて林を下って行った。
 
 やはりまだ早いのか、斜面の林は北側に向いているので、所々、長靴の上まではまる残雪があった。柔らかい雪のために犬たちも苦労している。短足のタドンは、10歩ほど雪で泳ぐと、これはダメダ!!とばかり、元の道に戻り、さっさと我が家の方に消えた。
 彼の自主的な判断は正しい、その後も難儀をしながら、ようやく「陽だまり」と呼んでいる広場にでた。
 汗が流れ、犬たちも舌を出し、ほとんどの連中が雪を食べていた。私は煙草を取り出し、アカゲラのドラミングを聞きながら
煙を吹き出した。

 1服が終わると、いよいよ川へ向けて出発である。近道になっている斜面側は残雪が多いので、私は右に迂回し、昨日の新雪だけが残っている状態の林を歩いた。犬たちは、横に広がる隊形で続いて来た。
 500メートルほどで川が見えてきた。手前の河川敷の低い所には雪解けの水がたまっており、犬も私も浅い個所を探しながら進んだ。

 川の水量はそれほどでもなかった。普段の15センチ増しのかさだろうか。
 先ず、カボスが飛び込んだ。ダーチャが続いた。ラーナ、セン、タブも慣れたものである。

 そして、子犬のオビである。
 なにしろ、初めて来た所、川である。カボスが飛び込んだのを見て、訳も分らず、50センチの高さの岸からジャンプした。
 たちまち水しぶきと顔面着水である。驚いたオビは、あわてて砂の出ている所に戻り、ブルブルと頭を振った。

 ニコニコしながら見ていた私は、これをオビの初めての川遊びとは認めない。まあ、勢いあまっての事故のようなもので、オビがしっかりと川と言うものを認識した上での行為ではないからだ。

 一旦、岸に上がってその場所から上流に移動し、浅い砂底が広がる川幅の広い所に行った。先に私が入り、犬たちを呼んだ。センがタブが、そしてマロが、みんなが腹まで水につかった。
 残るのはミゾレとオビである。
 ミゾレは足先がわずかに濡れる所に留まり、私の手がジャーキーを運んで届けるのを待っている。
 オビは何としてもみんなの所まで行きたい。しかし、数分前の飛び込みで、これがどのような物なのかを理解し、鼻声を出して躊躇の足の踏み替えをしていた。

 『だいじょうぶだよ、オビ、ほら、みんな入っている、ゆっくりおいで....』

 オビは前足を前に突き出し、水面のすぐ上に浮かせた。そして、それをゆっくりと下げ、流れる水に当てた。次いで、もう一方の足.....。

 さすがに利口な子、と私が認定したオビである。抜き足差し足状態を5回ほど繰り返すと、安全だと理解し、私の手からジャーキーを、そして次は川の水に口を付けてと、落ち着いた行動ができた。

 私は、周囲の福寿草やヤナギの芽の具合を確かめるために、しばらく犬たちの好きなようにさせていた。
 川を認め、その楽しさを学んだオビは、最後には肩の近くまで濡らして、ラーナやベコと遊んでいた。川岸に引っ掛かっていた小枝をくわえ、それを流しては追い掛ける事までできるようになっていた。

 夕方、今度は最初から川を目指して散歩に出た。
 オビは、第一陣、第ニ陣両方に付いて来て、「もう帰ろうよ」と、疲れた私が声を掛けるまで、川の中に入っていた。

 いつも思うのだが、サモエドは雪だけではなく、水の申し子かも知れない。
 今日、また新たな水大好き犬が誕生した。



2003年04月19日(土) 天気:雪のち曇り 最高:3℃ 最低:0℃

 明け方から降り始めた雪は、午後遅くに上がった。細かい粒だったが、それでも積雪は15センチほどになった。真冬とは違い、気温が高いので重く湿った雪質である、もし、これがさらさらなパウダースノーだったら20センチ以上の厚みになっただろう。
 知人は、すでにスタッドレスタイヤをノーマルに履き替えており、今日は身動きがとれないと言っていた。我が家はいつもG・Wが明けてからとしている、これが北国である。

 雪が降ると犬は喜ぶ。爺さんと呼ばれる事の多くなったマロ、も、生後2ヶ月を過ぎたばかりのミゾレの子犬たちも、湿った雪で毛が濡れるのにもかかわらず、いつも以上に胸を張り、駈け足で新雪の上を進んでいた。
 
 もちろん、我が家のサモエドの3代目になるオビも負けてはいない。最近の親友である柴犬のシグレを追い掛け、逆襲されては喜んでいた。数日間、雪のない大地の上で遊んできたので、雪の上で転げ回ると、その跡が薄い茶に染まった。

 『これって、天然のシャンプーだよね....』

 女房が、笑顔で話しかけてきた。どうも新潟と北海道という北国出身の夫婦は、犬たちと同じように、雪を見ると嬉しくなり、気持ちも昂揚するようだ。

 今年は、強烈な吹雪や思いがけぬ冬の大雨が少なかった代わりに、春の声を聞いてからのまとまった降雪が多い。知り合いの牧場主は、『これは良いシグナル、こんな年の夏は暑い』....と嬉しそうに言っている。
 そう言えば、昨年は大雨が真冬にあり、8月は30度どころか25度すら数えるほどしか越えなかった。牧草の収穫に悪影響があり、王国でも自前の草では不足する状態となってしまった。
 今年こそは、暑いと言い合い、見たくはないが、女房のノースリーブ姿が庭に出現してほしい。

 3月から、なんとなくバタバタとしているうちに、私は大事な事を忘れていた。それを思い出し、あわてて浜中の王国に電話をした。

 『ねえ、ロッキーはどうなっている?』

 『あっ、起きましたよ、だいぶ前に。え〜っと、3月15日です....』

 受話器の向こうから木実ちゃんの声が聞こえてきた。
 私は、それを聞き、ほっとしていた。
 
 ツキノワグマである。目が開いて間もなく福井の山の中から王国にやって来た。もう18.9年は前の事になる、いや、20年になろうか...。
 春クマ猟で母親が撃たれ、子グマは殺せないと言われて保護されたのがロッキーだった。以来、浜中の丘の上のクマ舎で馬の群れを眺めながら暮している。鉄柵で囲われた運動場に隣接して冬眠用の部屋があり、12月の初旬までには、自分で入って眠る。
 ここ10年は暖冬の影響もあるのか、早い時には2月下旬、遅くとも3月上旬には、運動場の残雪の上にロッキーの足跡が印されており、世話をしている高橋父ちゃんが、大好きなリンゴや羊羹を運び始めるのが常だった。

 今年は、3月10日になっても、運動場には何の印もなかった。ベテランのクマだから大丈夫とは思っていたが、それでも心配はあった。無事に起きたと聞き、遅くなったけれど近日中にリンゴを届けよう。

 ロッキーは秋田犬のタムを保母として育った。ヒグマのどんべえが、やはり秋田犬のグルを慕い、遊んでもらったように、この2頭は素晴らしいコンビだった。
 このように異種間の組み合わせは、実は同種よりも仲良くなりやすい、特に犬は、あらゆる生き物に対して心を開く才能を備えている。本来ならば狙う獲物であるツキノワグマを、まるで大親友のように付合ったのは、やはり、犬が家畜である証明だと思う。
 そう、私たち人間が、タムに対して狩りではなく、クマと仲良くする仕事を与えた。それを理解し、こなすだけの能力がタムには備わっていた事と、人間と犬が仕事という「絆」を言語にして結びついているからこそ可能だったのでは.....。

 成長し、タムとロッキーの間には、太い金網の柵ができてしまった。その後も、タムと散歩に出ると必ずロッキーの柵に駈け寄り、ロッキーも精いっぱい近づいて、柵越しの挨拶をしていた。

 『ク〜ク〜ク〜』
 
 と聞こえるロッキーの甘え声を、私はタムの横で聞いていた。その時、タムの曲り尾は、腰の上でゆるやかに左右に振られていた。

 なにはともあれ、ロッキーの無事を知り、笑顔の春の雪になった。
 



2003年04月18日(金) 天気:曇りのち晴れ 最高:11℃ 最低:6℃

 ミゾレの子犬たちを庭に解放すると、真っ先に行くのは林のあちらこちらに残っている雪の上だ。1週間前ならば、たっぷりと庭にもあった雪が痩せ、近い所でも20メートルは笹薮をこいでいかなければならない。それでも子犬たちは、まるで雪の臭いが分っているかのように、まっしぐらに進み、嬉しそうに転がり、穴を掘り、そして口に入れている。
 
 そこに闖入していくのがサモエドの子犬、オビだ。
 昨日の日記でも書いたが、オビの体重は15キロになった。ミゾレの子犬たちにしてみれば十分に大人の犬である。それが、嬉しそうに突進してきて覆いかぶさり、転がすので、尾を下げ、悲鳴を上げて逃げるかと言うと、どっこい彼らも生後70日、だてに我が家の犬社会で生きてきたわけではない、堂々とオビに立ち向かい、ゴムマリのようなジャンプで首筋に挑みかかり、対等に渡り合っている。

 時々、どこかが痛い時は「キャ〜ン」と『止めてくれ信号』を出す。すると、それまでは無関心を装っていた母親のミゾレが飛んで行き、情勢を見定めるとともに、オビに「ガウッ」とシグナルを送る。
 もちろん、オビはミゾレの仕草が何たるかを理解している。数歩下がり、ミゾレっ子の気持ちが落ちつくのを待って、再度、跳びかかるチャンスを狙う。

 このやりとりが、毎日、数時間行われている。プロレスごっこが飽きた子や、気分が乗らない子は、静かに場所を変え、枝をくわえたり、カラスを追ったりと、ひとり遊びに集中する。
 それでもオビが追い掛けてくると、子犬たちは自分たちが夜の間の住居にしている車庫のサークルの周辺に避難する。
 そこにある小屋には、車庫の門番のように父親のシバレが繋がれている。彼に父としての自覚があるとは思わないが、それでもチャカチャカしたオビを叱る役目を果たしている。
 子犬は、シバレの小屋の下に潜り込み、父親の活躍を見守っている。
 
 横には、雪の消えた大地を嘴で探っているコッケイとウッコイの鶏の夫婦、小屋の屋根の上には、強くなってきた陽光を楽しむアブラとアブラ2世のネコたち.....。
 
 平和な我が家の庭先である。

 



2003年04月17日(木) 天気:曇り 最高:15℃ 最低:1℃

 レオンベルガーのバルトの柵の入り口が、足の長い私でも(本人だけが思っていることだが...)ヨッコラショと声を掛けなければ出られないほどの段差になっていた。
 雪が解け始めるのとメス犬たちの発情が重なり、何とか外へ
出たいと、バルトが檻の中のライオンよろしく右に左に歩き、水田のようになるとともに、どんどん掘れてしまったためだ。
 
 このままでは人間か犬の誰かがケガをしそうなので、急きょ段差を調整すべく踏み台を作った。
 1500×1200の枠木に板を打ち付け、軽く跨ぐことができる高さに設置した。さっそくバルトが、柵の中の泥んこを避ける昼寝場所としてつかってくれた。まあ、目的とは違うが、喜んで利用してくれてるのだから、汗をかいた甲斐があったとしておこう。

 汗と言えば、ノコギリに金づちを手に大工仕事をしていると、やたらと汗が出た。何気なく寒暖計を見ると、15度まで上がっていた。西から南西の数が強かったので、まさかそれほどまでとは思っていなかった。
 風を伴う暖かい気温は「雪解かし」であり「洗濯物乾き」である。牧草地の雪は残り2割となり、犬小屋の上にザルに入れて乾かしているリサイクル方式のネコ用の砂は、あっという間に乾いてしまった。

 午後、年に1回の大イベントを行った。
 単なる犬たちの体重測定なのだが、20匹近く数がいることと、人間用のヘルスメーターしか手元にない我が家では、けっこう大変な行事である。
 40キロまでの連中は、私が抱えて秤に乗る。1人と1匹を合わせて100キロ以内と言う事である。たしか6年前までは25キロの犬までしか同伴できなかった筈である、随分とダイエットしましたね、と誉めてもらいたいものだ。

 では、記録として連中の体重を書いておこう。今年(今日)のだけでは比較にならないので、2001年、2002年のデータも並べることにする。

           2001   2002   2003
マロ(サモエド・♂)  30.0    30.0   31.5
カザフ(〃)      35.0    35.5   37.0
ラーナ(サモエド♀)  21.0    21.0   22.0
ダーチャ(〃)     26.0    28.0   32.0
アラル(〃)      25.0    28.0   32.0
ミゾレ(柴♀)     13.5    13.5   11.5
シグレ(〃)      ・・・・   15.0   16.0
シバレ(柴♂)     15.0    16.0   17.0
タドン(フレンチブル♂)12.0    12.0   12.5
タブ(ラブ♀)     29.0    30.0   31.5
セン(ラブ♂)     22.0    29.0   29.0
チャコ(ラブ♀)    ・・・・   ・・・・・  31.0
メロン(ミックス♀)  12.0    10.0   12.0
ベコ(〃)       17.0    16.0   23.5
カリン(ヘアレス♀)  20.0    21.0   23.0
バルト(レオン♂)   46.0    55.0   52.0
カボス(〃)      ・・・・    57.0  51.0
ベルク(レオン♀)   50.0    52.0   55.0

オビ(サモエド子犬♂) ・・・・    ・・・・  15.0

____________________________
  <メモ>

 *メロンが昨年の春からみると復活をしている。
 *ミゾレは育児中のために痩せている。
 *マロは変わりなく元気。
 *カザフは中年太り?
 *アラルは幸せ太り?順調な育児とともに回復も驚異的。
 *シグレは完全にブクブク。
 *気をつかい、よく動くセンは太れない....。
 *カボスのダイエットは大成功(足を何度も傷めたので減量)
 *ベルク、その増えた重さは子犬を育てるためであれ!!
 *ベコ、おまえも中年になった?まだ早いはず...。
 *ダーチャ、来年は34を目指すのかな?
 *カリンはマロの毛のセーター効果、痩せなかったね。
 *そして、オビ、これまでの記録かな110日で15キロは。

 カザフはおとなしく私に抱かれた。しかし、ダーチャはプチプチの筋肉で暴れたために、私の右肩は、再び上がらなくなった。おまけに嬉しくて小便を漏らした。

 



2003年04月16日(水) 天気:曇り(中標津) 最高:5℃ 最低:−1℃

 早朝から20度を越えた福岡と、着陸の寸前まで雲の下だった中標津では、気温が15度以上も違っていた。おまけに風も強く、ジャケットの下にTシャツ1枚の私は、空港を出たとたんに震えてしまった。迎えに来た女房の出立ちは、真冬となんら変わりがなかった。

 暖房を上げた女房の車に乗る事18分、3日前に比べると明らかに雪の景色が縮小されている我が家に着いた。
 以前から、いつか行おうと思っていた観察を、車が庭の中央に停まる前から始めた。
 たいした事ではない、留守をしていた私の姿を確認した犬たちの反応を調べたかっただけである。

 群れの中での強い(上位)の順に書いてみよう。

・マロ
 小屋の横、風の当らぬ所で丸くなっており、耳だけが何度か車
 に向けられた。目は閉じたままだった。

・ベルク
 車が停まる寸前に小屋から出て来て、ゆるやかに尾を振り、私
 を認めると、前足を揃えてジャンプを繰り返した。

・カザフ
 小屋の陰で寝ていた。まったく身動きひとつしない。

・シバレ
 小屋の中から顔を出したままの姿勢で、何か起きれば反応をし 
 ようと考えている顔だった。

・ラーナ
 クサリで繋がれているので、その動ける範囲を右へ、左へと早
 足で動いていた。ハッハッハッとの呼吸音も聞こえた。

・タブ
 小屋の横で寝ていたが、首だけを上げ、そして私と視線が合う  
 と尾を軽く上下に振った。

・ミゾレ
 子犬たちと一緒に車庫のサークルに入っていた。私に近い所で 
 無言で尾を振っていた。

・アラル
 ベルクが跳ねる横に立ち、首を上げて尾を振っていた。

・ダーチャ
 クサリで首吊りをしそうなほどに、2本立で固まり、尾を忙し
 く回していた。声は聞こえない。

・カリン
 車庫のサークルの横にある箱の中で、ネコのアブラたちと寝て
 いた。車が停まるとアブラたちが起きて寄って来た。カリンは
 寝返りのように姿勢を変え、また丸くなった。

・メロン
 小屋の中から顔を出し、私の姿を認めると、クサリをジャラジ
 ャラと言わせて出て来た。背伸びをし、耳を動かし、尾を振っ
 た。

・タドン
 小屋の前に敷かれたナンキン袋にうつ伏せの形で寝ていた。私
 の姿を目を開けただけで確認すると、そのままフガフガと言い
 ながら寝ていた。

・ベコ
 車が表の道から入る前から動きが見えた。明らかに見張りの仕
 事のようだった。女房の車なので吠えはせず、そこから私が出
 てくると、嬉しそうに尾を振り、見つめ続けていた。

・セン
 車が停まる前から立ち上がり、ひたすら私を見つめ、無言で尾
 を振り続けていた。何かリアクションを期待している姿をして
 いた。

・カボス
 何だ〜誰が来たんだ〜、と、のっそりと顔を上げ、そのまま私
 の動きを無言で見ていた。

・オビ
 脱走防止用の新しい柵の中で、金網に前足を掛けて、自分が呼
 ばれるのを待ち、時々、ワンと啼いていた。

・ミゾレっ子
 母親のミゾレが立ち上がったのをチャンスとばかり、競い合っ 
 て乳首に吸いついていた。

番外
・アブラとアブラ2世
 寒いので、車に乗ろうと、カリンの寝床から寄って来て、泥足
 のまま乗り込んだ。いつもの事である。

・コッケイ
 嬉しそうに羽を広げ、コッコッコッと鳴きながら私に駈け寄り
 短い靴だったので明るい茶の靴下の部分を嘴で突いた。痛い。

・ウッコイ
 何だか知らないけれど、旦那が行くので付いてきました...。
 そんな感じで、私の足元で鳴いていた。

 <この観察における考察>
 ・・・と大袈裟に書くとすれば、やはり、私は(人間は)、犬の群れには入っていない、という事である。
 
 *その理由
 
 1時間でも構わない、どれか1匹を選んで車で出かけたとする。帰った時は、全ての犬が注目し、フリーであれば匂い嗅ぎの確認行動に進む。

 (注)
 車が我が家のものでない場合は、そこから降りる人間を私と確認するまで、注目をされる。
 

 今回の旅は、九州だけではなく、我が家でも収穫があった。この観察はしばらく重ねる事にしよう。



2003年04月15日(火) 天気:快晴(中標津) 最高:14℃ 最低:1℃


 福岡の空は晴れ渡っていた。ホテルの窓を開けると、まさに爽やかと感じる朝の空気が流れ込み、窓の下に広がる新緑の香りがが届いた。
 大きく深呼吸を何度か繰り返し、煙草に火を着ける、この1服が何とも言えない。

 1回目の講演は10時からだった。学生たちは男女ともにスーツに身を包んでいた。以前、行った時には服装はバラバラだった気がする。私の古い友であり、現在は先生と呼ばれているS氏が、
 『機会がある度に着用を命じています。そうしないとイザと言う時に、どうもスーツが馴染んでいないので...』

 そう言う彼が、紺のスーツ姿をしているのを私は初めて見た。どうも、いつものショートパンツにTシャツのイメージが強く、慣れるまでに10分は掛かった。

 会場には500人の学生が来ていた。なんとなく緊張気味で、そしてスーツだけがパリッとしているのが、1ヶ月前まで高校生だった1年の連中だろう。そして、髪が、柴犬やらゴールデン、アイリッシュセッター的なのが多く見受けられるのが2年生のグループのようだった。

 おとなしく演壇に私が滞在したのは、最初の30秒。その後の1時間半は、会場に降り、学生諸君にマイクを突き付けて質問の解答やら意見を迫り、女性たちを犬に見立てて触りまくり、階段を駈け抜けて話をした。

 話の中身は、この日記やBBSで書き記している事のダイジェスト版である。
 ひとつ違う点は、話し掛ける対象が限られた年齢の若い人であり、生き物に関わる仕事を目標にしている事だ。
 要するにプロを目指している連中である、職業の中でもっとも難しい物のひとつである、人間の言葉を使えない「命」を相手にする仕事の.....。

 すでに多くの経験を積み、自分の手法を確立している人が相手ならば、私も和やかなエピソード集で講演を終わらせるかも知れない。
 しかし、今回は、これから羽ばたこうとしている連中である。彼らへのエールは、おのずと過激になる。それは、私が思い、考え、歩んで来た道に、あまりにも間違った情報が多かったからである。その落とし穴の見つけ方は、私はムツさんから学び、自分の体験と学習から身につけてきた。
 できるならば、その時間を短縮するにこした事はない。その分を他の事に振り替えられるであろう。

 だからこそ、私は目の前の500人に、
 『何故?』『え〜、本当にそうなの?』『確かめてみよう!!』
 ・・・の生き方をして欲しかった。
 その入り口として、常識のように言われている生き物の情報を、次々とヤリ玉に上げた。
 そして、知識は生き物である、眠っていると、いつの間にか
置き去りにされ、命のプロとして生きて行くことは難しくなる、とも言った。

 明らかに、普段の授業で聞いている先生の講議内容と相反する事も述べた。そこに疑問を抱き、自分の目と積極的な観察や実験で、真実を探す努力をして欲しい、そう願って話を終えた。

 午後、客席の学生を新たな500人に入れ替え、気分一新をして2度目の1時間半のパフォーマンスを終え、夜、美味しい酒を飲んだ。
 その居酒屋で、昼の講演を聞いた学生がバイトをしており、ジョッキのお替わりを運んできた時に、メモにしてきた質問をぶつけてくれたのが、何より嬉しく、最高の博多土産となった。



2003年04月14日(月) 天気:くもり 最高:4℃ 最低:−1℃


 私は旅慣れているのだろうか?
 そんな事を少し考えた。と言うのも、今日から2泊3日で、かなり遠い所に行くのにも関わらず、前日どころか空港に向かう15分前まで、何も用意をしていなかったからである。
 
 『もう時間じゃない、信号に捕まると20分はみておかないと....』
 
 女房の声がするまで、私は外でオビと遊んでいた。こいつの見つめてくる瞳は、私の宝であり、できればいつまでも会話をしていたい。
 しかし、定時に飛行機が飛び立つとすると、あと1時間、泥だらけのGパンを脱ぎ、少しはましなズボンに履き替え、上着を本州用の薄いものにした。

 それから、書斎の片隅に置いてあるバッグを取り出し、中身を確認した。
 
 ペラの原稿用紙の束、万年筆、2色ボールペン、マーカー3本(ピンク、オレンジ、ブルー)、デジカメ、食事時に欠かせない薬、ティッシュ、航空券、歯ブラシ、ヘアーブラシにカミソリ、そして無臭ハードヘアージュエルを1本、割り箸、名刺一箱と名刺入れ、ルップのバックナンバーを3冊、携帯電話、財布、ライターに煙草を5箱、パンツ2枚、靴下3足、Tシャツ2枚、講演用ズボンと上着のセット、ガム1箱とピーナッツ、ビニール袋2枚、いつ持ってきたか分らない航空会社の袋、連載している雑誌の前の号の校正紙、必要なメールのプリントアウト、ほとんど書かれていないメモ帳、かぶり慣れた帽子、折りたたみ式老眼鏡、サングラス、ハンドタオル1枚、ハンカチ2枚.......。

 これが、今回、私がバッグと上着のポケットに分けて持って行った全ての品である。
 この中で、出発間際に加えたのは、校正紙だけである、後は、いつの間にかバッグの中で待機してくれていた。
 こう書くと、聞こえが良いかも知れない、実際は単に前回のまま、片付けられていなかっただけである。

 すべてを入れても、10キロに満たない、大きなバッグは必要ではない、機内に持ち込める大きさの手提げタイプの物に入れ、空港に向かった。

 そして、ここで問題が起きた。
 
 「申し訳ありません、お客さん、ライターはおひとり1個までとなっています....」

 上着に1個、それを紛失した時のためにバッグに1個入れているのが、いつもの私である。
 これがいけないと言われた。

 丁寧な口調だが、決まりですからと押してくる係員と論争をする気はない、彼らも業務である。
 しかし、なぜ1個は認められて2個はいけないのか、具体的に私を説得して欲しかった。これがマッチだったらダメなのか、やはり1個は許されるのか、火打ち石ならどうなのか.....。
 悪意で火をつける奴は、1個のライターがあれば十分だろう、2個ないからと言ってあきらめはしない。チラッと聞こえたガスうんぬんという理屈は、別の人間がオイルライターで引っ掛かっている光景を見て崩れた。
 
 このような決まりを作る人間に1度、ぜひ会ってみたいものだと思いつつ、時間に追われ、私は気に入っているピンクのライターを救い、青色と別れた。煙草をカートン買いした時に貰った物だが、なんとなく惜しい気持ちは機上でも消えなかった。
 やはり私は、今の旅に慣れてはいないようだ.....。



2003年04月13日(日) 天気:雨のち曇り 最高:9℃ 最低:0℃

 汗をたっぷりかいた1日だった。
 
 先ず、朝1番に、ニコニコとして柵から脱走したオビに付合い、間もなく消えるであろう牧草地の雪上散歩をした。最低気温が高くなり、もう凍った堅い雪は望めない。1歩進むたびに私の長靴は30センチほど埋り、オビのペースで進もうとすると、たちまち汗が吹き出た。
 それでも、1匹で私を独占して嬉しそうなオビを見ると、10分で帰ろうとは言えず、とうとう下着がじっとりと濡れるまで歩いてしまった。
 これは単なる親ばかかも知れないが、オビは絶えず私の存在、私の動きを意識し、理解しようとしている....そんな気がして、つい口笛が出てしまった。その音にも良く反応し、必ず駈け戻って私の顔を見つめるオビだった。

 午後1番の汗は、ドッグフードの荷下ろしだった。
 数多い(簡単に何匹と言うことは、不可能である.....)犬たちは、毎日、多くのフードを胃に治めてくれる。今日は、大型トレーラーでドライフードが届いた。雪が解けたばかりの倉庫への道は、重い車では入れない。そこで、全員が出動して、バケツリレーのようにフードの箱を中に入れた。10数キロの箱を600個近く投げ渡したのだが、これまた大汗とともに、腕の筋肉が悲鳴を上げ始めた。明日が怖い運動になった。

 そして、夕方の汗は、オビの柵作りだった。
 明日から、私は遠出をする。女房がひとりでは忙しくて目の届かぬ時もある。脱走して事故が起きてもつまらない、急きょ、1メートル50センチの高さのサークルを組み立てることにした。
 どうせ設置するのなら、少しでも楽しく変化のあるほうが良いだろうと、サークルの中央にハルニレの木があるように場所を選んだ。
 これが正解だったようで、汗をふきふき、新居に入れたオビの様子を見ていると、何度か柵の上を眺め、ジャンプした後、これは前足が届かず、出るのは無理と分ったオビは、ハルニレの根元に座り、そして、もたれかかるようにして寝てしまった。
 その姿が可愛く、つい声を掛けて起こしてしまう私だった。

 夜、そっと様子を伺うと、ハルニレの木の横に入れた小さな小屋の前でオビは丸くなっており、横にある古い柵の中にいる母親のアラルは、そこから最も近い所(オビの姿が見える所)で土の上で寝ていた。
 昨夜まで、同居していた時には必ず小屋に入っていたのに......と、アラルの母心にも感心した。



2003年04月12日(土) 天気:曇りのち小雨、そして晴れ 最高:9℃ 最低:4℃

 『おとうさん、また出ている〜』

 夕方の作業を終え、機織り部屋と称している書斎に入り、PCの電源を入れたところに女房の声が聞こえた。

 『もう、あんにゃろ〜は!!』
 
 小さく呟いて、火を着けたばかりのタバコを、吸い殻が山のようになっている灰皿に押し込み、腰を上げようとした時に、右手の窓に気配を感じた。

 そこには、嬉しそうに尾を振り、首を右に傾げたオビがいた。外は夕闇が迫って来ている。書斎のなかは蛍光灯をつけているので、私の姿がよく見えるのだろう、明らかに私を認めた尾の振り方だった。

 その窓の下は、屋根からの雪が落ちて溜る場所になっている。庭の主な所は雪が消えたが、そこだけはまだ2メートルに近い高さに重なりが残っている。その円錐形の雪山の頂上で腹這いになり、じっと私を見つめ、尾を振るオビの姿は、感動するほど可愛かった。

 『おとうさん!!』

 女房の声がきつくなった。多分、夕飯の準備で手が離せないのだろう。
 でも、このあどけなく、そして少年への変化を感じさせるオビの瞳を見ていると、つい、そのまま窓ガラスを挟んで「オビっ!!』と声を出し続けていた。

 玄関のドアが開き、そして閉まる大きな音がした。続いて、居間の前の方から女房の叫ぶ声が聞こえてきた。

 『オビっ、おいで、オビっ!!』

 それまで、私の口を見つめていた瞳が動き、私の口に向けて倒れていたオビの耳が後ろに素早く向き、そしてオビは女房の声の方角に消えた。

 雪がたくさん積もっていた頃、よくオビは庭のサークルから脱柵した。まあ、これは雪のために足元が高くなっているからしょうがない、そう思っていた。
 しかし、これはオビの特技だった。前足が掛かれば、その後、懸垂と後ろ足の蹴りを利用して、見事に出て来るのである。

 雪の消えた今、柵の高さは75センチである。この中に入れられているレオンベルガーのベルクも、オビの母親のアラルも、けして柵を越えて出ようとは考えていないし、以前、雷でパニックになった時も、ジャンプはすれど越えられず、最後は柵を押し倒して脱走した。

 しかし、オビは違っていた。3匹の中で、もっとも小さな身体であるにもかかわらず、前足が掛かる事で簡単に出る方法を獲得してしまった。
 昨日も、今日の餌の時もそうだった。動物用の台所で準備をしていると、いつの間にか足元でオスワリをして見上げているオビがいた。困ったヤツめ....と思いながらも、ついつい一切れの肉を、先に与えてしまう。

 『ねえ、ふたりとも出かける時、どうしよう、これじゃ危なくて柵に入れられない、脱走して道路に出たら.....』

 女房の心配はもっともだった。私も、名案はないかと頭をひねる。
 首輪をし、クサリで繋ぐという手法もあるが、これは生後6ヶ月までは禁止している。骨の成長が忙しい時期に、頸骨に負担やショックは与えたくない。

 『しょうがない、ニワトリの柵に入れようか。あそこは1メートル80はあるから....』

 今のところ、この作戦に決まりそうだ。しかし、昨夜までは、サークルに夕方に収容すれば、朝までは落ち着いていた。そのリズムが崩れたとなると、さて、どうしたものかと、時々、柵の中を確認しながら考えている。夜、ニワトリは長い睡眠を必要とする、夜間、そこにオビを入れるわけにはいかない.....。
 



2003年04月11日(金) 天気:晴れ夕方から雲 最高:14℃ 最低:0℃

 
 午前中に気温は14度まで上がってしまった。12月から服を着ていたヘアレス犬のカリンと、フレンチブルのタドンが、舌を出し、呼吸が早くなっていた。

 『カリン、セーター脱ぐ?』

 女房が声を掛けた。するとカリンは、待ってましたとばかりに腰を下ろしていた箱の中から出て、前足を細かく踏み替えた。
 この仕草は、『服を着るか...?』と聞いた時にも示す。そう言ってセータを見せると、必ず前足のどちらかを上げ、父親であるサモエドのマロの抜け毛を紡いで編んだセーター着用する体勢に入る。

 何度も繰り替えして確かめてみた。その度に、カリンは間違い無く、私や女房の発言に対応していた。

 『ねえ、カリンは言葉を分っているね、服に関しては....』

 『そうでしょう、風が冷たい日は、小屋に掛けてあるセーターの前で、足踏みをしながら離れないのよ、私をチラチラと見なてね.....。そこで、セーターに私の手が伸びると、もう大変、尾を横にブンブン振るのよ....』

 着用をせがむ事ができるカリンは、脱がせて欲しい時も、人間の言葉を理解しているのだろうか。
 それは1度では判断できないが、今日のカリンは自ら足を上げてセーターから前足を抜いた。

 身軽になったカリンは、4本の足を高く上げ、跳ねるように雪の消えた庭を走った。

 『お〜、カリンがこんな姿を見せると、春だな〜と思うね...』

 私も心軽く、弾んだ声のつもりで言うと、女房が現実的に答えた.....。
 『違うわよ、4日前から出血が始まってるでしょ、発情のせいよ、ほらっ、カザフの所に行った....』

 確かに、カリンは首を高く掲げ、耳を後ろに引きながらも尾を素早く左右に振り、クサリで繋がれているカザフに寄って行った。

 『カリン、だめよ、おいで、ハウス!!』

 女房の声が大きくなった。カリンは名残り惜しそうに振り向きながら、車庫の中に戻ろうとした。

 『ちょっと待って、今、カメラを取ってくるから、ほらっ、セーターの跡がきれいに残っている、撮っておくよ....』

 「どかた焼け」と言う言葉がある。半袖のシャツで隠れていた部分だけが白く、他はこんがりと日に焼けた姿だ。ゴルフ好きが片手の甲だけ焼けているのにも比べられる。
 そう、まるでピンクの服(少し汚れた)を着ているように、見事にセーターの下だけがメラニンが抜け、明るい皮膚の色になっていた。露出していた部分は黒のままである。
 これは、毛がないゆえに、メラニンを沈着させて皮膚を守る仕組みになっているヘアレス犬の特徴が、よく分る姿であり、服を脱ぐ生活になると、すぐに元に戻ってしまう、何としても今日、カメラに収めておきたかった。

  カザフやセンなどのオス犬たちを、発情の匂いで舌出し犬にしながら、カリンはしばらくの間、春の日射しを楽しんでいた。
 その舌出し犬の中に、フレンチブルのタドンがいた。この子もサモエドとレオンベルガーの冬毛で編んだ服を着ている。女房は、それも脱がしてしまった。
 タドンは何度も身体を震わせ、そしてカリンに向かって吠えながら、小屋の外の乾いた土の上でグルグルとまわり、自分の日光浴の場所を決めていた。
 
 タドンの隠れていた部分の色は露出していた部分と変わらない。泥やほこりの汚れとは無縁で、毛に艶があるだけだった。

 『やはり、毛がないと言う事は、かなりのマイナス条件だよね。そこからメラニンの強い働きを求める姿が出て来たんだ』

 『タドンは短いけれど毛があるから、変化がないんだ...』

 2匹の寒さに強くはない犬たちが、たっぷりと14度を楽しいんだ後、女房は、再び2匹に犬毛の服を着せた。
 徐々に薄い雲が姿を変え、午後2時過ぎには、少し肌寒さを感じるようになった。
 カリンもタドンも、舌を出す事はなくなり、穏やかな昼寝を楽しんでいた。
 



2003年04月10日(木) 天気:快晴 最高:8℃ 最低:−6℃


我が家への立ち寄りを復活してくれたキタキツネのルックは、毎日ではないが確実に元気な事を伝えるように、暗闇に姿を現わしている。
 
 先日の驚きの日からしばらくは、ひっそりと焼却炉の横や後ろの方に座っていた。ところが、1週間ほど前から、庭の正面からヤギのメエスケの柵の方向に出没するようになった。
 これは繋がれている犬たちには、十分に怪しい方角である。気温が高くなって雪の表面が凍らなくなり、身の軽いキツネでも歩くたびに、雪を踏む音がする。
 姿が見えず、この音だけが聞こえてくると、我が家の犬たちはベコを先頭に、「怪しいぞ〜」の啼き声で和す。
 
 特に、夜間になると元気になるのがサモエドのラーナで、彼女はキツネの雰囲気だけでも確実に反応する、従って、夜は焼却炉から離れた所に繋ぎ変えているのだが、その心遣いを無視するように、何と、今夜のルックは、そのラーナの小屋の5メートル後ろに座っていた。

 懐中電灯に照らし出されたルックは、すぐ前でギャンギャンと啼いているラーナには目もくれず、ただ女房の姿とその手にある食器を見つめていた。
 チーズに生肉、そしてソーセージを腹に入れると、残った
肉をくわえて、振り返りながら沢に消えた。

 『ひょっとすると....、ねえ、出産してるんじゃない?』

 女房が、私も口にしようとした疑問を先に言った。
 これまでの数多いルックの出産育児の形に、見事に当てはまる行動だった。彼女は、先日、6日間続けて姿を現わさなかった。そして、再び来た頃から、焼却炉側よりもメエスケ側にいることが多くなった。
 もともと老いたキツネである事と、まだ冬毛が身体を覆っているので、腹のふくらみの変化はよく分らない。
 しかし、巣穴に近い方角から現れ、犬たちを無視し、くわえて運ぶ行動は、明らかに、これまでの出産の時と同じだった。
 もちろん、子ギツネが生まれていたとしても、まだその子たちの餌として運んだ食べ物を使うわけではない。これは親になっている時期の自然な反応であり、どこかに埋めて確保する事が多い。

 しかし、人間で言えば100歳のキツネである。果たして出産があり得るだろうか.....。
 迷いながらも、もう一度、大きな奇跡を期待したいと、私と女房は思っている。



2003年04月09日(水) 天気:吹雪のち曇り時々晴れ間 最高:2℃ 最低:−2℃

 王国にも何度か来られているMさんのホームページを開き、日記のような書き込みを読ませていただいた。
 
 「うん、うん、うん....」
 と、同意しながら読み進むうちに、猛然と腹がたってきた。
 
 Mさんは、2匹の犬を可愛がっており、よく車に乗せて遠くの土地まで散歩に出没している。その行動力には、かねてから敬服しており、そして都会の真ん中にありながら、思いを具体に変えてしまうのは、その犬への愛だと、いつも読みながら温かさを貰っている。

 さて、腹が立った事に戻ろう....。

 彼女は、公共の土地(川、公園等)に立てられている、あのアホみたいな看板に疑問を感じている。
 
 *川に犬を入れてはいけません
 *糞は持ち帰りましょう
 *ゴミはきちんと捨てましょう
 *自転車はスピードを出さないように

 その他諸々の看板に対して、その効果と、立てられた経緯に怒っている。

 私も、同感である。
 友人で役所に勤めている男がいた。ある時、彼は酔った勢いで、つい本音を聞かせてくれた。

 『町民っていうのはね〜、文句ばっかり言うのよ....。それに弱いのがおれたちでね〜、どうするかって言うと、看板を立ててね、いかにも対処していますって示すわけ....それで終わり....』

 その時以来、私は彼と酒は飲んでいない、不味くなる酒はサケて当然と思っている。

 責任のがれが処世の術となっている今の役所(すべてではないが、ほとんどだと確信する)では、心ある人間は打たれると言う。
 従って、全てをポーズだけで済まそうとしてしまう。真剣に取り組もうなどと言う人間は、出現しにくい状況を作り上げ、その体制を無言の決まりとして守っているとしか思えない。
 
 つい数日前のTVニュースの特集を視て、私はあぜんとしてしまった。
 これは北海道の番組であり、不景気で税収も減り、国からの交付金も大幅減額。そこで各市町村が、どのように予算減額の中で頑張っているか...と言う内容だった。

 その中で、私が1番驚いたのは、人件費を減らすために、役所の受け付け案内の女性ポストを廃止し、代わりに各課長が交代で受け付け業務を行っている、というくだりだった。
 『ぽか〜ん』....である。
 私は開いた口が閉じないので、しょうがないから、テーブルに長い事置かれたままになっていた、猛烈に辛い浅草の煎餅を詰め込んで蓋をした。
 咽が焼け、涙が出て来た。

 こんな事を決めた首長は、私が選んだのであれば即リコールである。
 ぜひ、実際に長く受け付け業務をされている方に、今すぐ、その仕事の何たるかを聞いて欲しい。マンガであるように、けして見た目が美しいから勤まる、そんな仕事ではない。いつ、どんな理由を抱えた人が訪ねてくるか分らない場所で、笑顔を、明るい声を1日中表に出して対応をしなければならない、さらに、その組織の全てを認知していなければ役立たないセクションである。

 そこに中年以降の課長が座るのである。
 まあ、100歩譲って、何とか庁内の道案内はできるかも知れない。しかし、本来の「課長としての業務」には、必ず悪影響が出るはずである。課長は、その上の部長以上に責任が重く、その部署の方向性や行動力を決める役割を担っている。そのための課長職であり課長報酬である。
 それを、余計な住民向けのポーズのために受付に立たされ、余計なストレスを加える事が、長い目でみて良い事なのかどうか....。

 ああ、なぜもこう「目の前の責任から逃れよう」「苦情には茶にごし作戦で」と言う役所が多いのだろう。
 先見の明を持ち、90人の反対を押し切って10人の意見を生かす施策を実行し、成功の時は、奥で笑顔で眺め、失敗の時は潔く責任を取る、そんな官吏が、今こそ必要な時と思うのだが....。

 遠くから聞こえてくる選挙カーの、大音量の絶叫に和して遠吠えをする我が家の犬たちの姿を眺めながら、今日の私は、少し政治を考えてしまった。



2003年04月08日(火) 天気:曇りのち雨と雪 最高:6℃ 最低:0℃


 北風が吹いている。おまけに夕方からの雨は、その後、細かいアラレのような雪に変わった。
 どうも天候が落ち着かない。まあ、これが春と言ってしまえばそれまでだが、毎日、ズボンを洗濯に出すのが面倒である。犬たちの泥足スタンプがかすれる程度に大地が乾いてほしい。

 今日、久しぶりにオス犬たちの食器が、洗ったようにきれいだった。普段の25パーセントほどに落ちていた食欲が戻ってきた。
 これは、メス犬たちの発情の終わりを示している。試しにラーナ、タブ、ベルクたちにオスを近づけてみた。かろうじて尾を上げて迎えの姿勢をしたのは、ミックスのベコだけだった。昨日、劇的な交尾をしたベルクも、バルトが陰部の臭いを嗅ぐだけで怒っていた。
 昨日の今日、この反応と言う事は、何とも判断が難しいところだが、結婚成立であってほしいものだ。私は、ただただ祈る気持ちである。

 夜、ムツさんを囲んで、様々な話をする集いがあった。今年も忙しく走りまわっているので、なかなかこのような機会がない。
 今夜も、文学から生理学、動物行動学から海馬の話、バイオにギャンブル、そして絵画から世界紀行と、様々な話題で盛り上がった。
 いつも思う事だが、ムツさんの頭の中では、すべての知識、体験、観察が結び合わされて、より具体的な存在となっている。その目で物事を見ているので、私は、いつも驚かされ、目からウロコが数十枚、まとまって落ちていく。
 その基本は『何故?』と思う心だと、以前からムツさんに言われている事を、あらためて認識した。

 ダニエル・スティールという作家がいる。彼女の本は世界中でベストセラーを続けており、凄まじい数の出版数となっている。
 ほとんどはフィクションだが、自伝的な本もある。ムツさんは海外でそれを見つけ、旅の飛行機の中で一気に読んでしまった。
 その本がムツさんの翻訳によって近日中に日本でも出版される。
 内容に関しては、私はムツさんの口から熱くほとばしる言葉で、ある程度聞いてはいる。まさに凄まじく、そして現代そのものである。
 ぜひ、すべての皆さんに手にとっていただき、そして考えていただきたい本である。特に、育児をされている方、これから子供を育てようという方には必読書と言えるかも知れない。そして教育に関わっている方々にも.....。

 発売日等が決まったならば、あらためて紹介をさせていただこう、少々、お待ち下さい。

 今夜の話題のひとつに「愛」があった。詳しく書くには私の力不足と時間が足りないが、ひとつだけ結論を言うと、ネコたちに囲まれ、ニワトリに突かれ、そして多くの人の声と手に触れ、横に見つめる母犬がいる......そんな我が家の子犬たちは、まさに「愛」に包まれて育っている、そう言えるものだった。
 ほっと胸を撫でおろし、春の雪舞う北の夜話は終わった。
 

 



2003年04月07日(月) 天気:快晴 最高:11℃ 最低:−1℃


 犬の交配をする時には、いくつか気をつかう事がある。
 先ず、メスの発情開始から何日目か、という事である。そのヒントは陰部からの出血が分りやすいが、中には血を見せないままに始まっている子もいる。
 この問題を解決してくれるのは、我が家の「発情メス探知犬」という仕事を引き受けているフレンチブルのタドンである(別名・ドンファン犬)。
 彼が小便の跡を舐めたり、メスに叱られても叱られても尻を追い掛けていれば、発情が始まったとみて間違いはない。
 
 出血、もしくはタドンの業績の日から7日目に、交配を予定しているオスに会わせる。これは見合いのようなもので、即交尾となる事は、ほとんどない。
 しかし、この時のメスの反応によって、だいたいの排卵日の予測がつく。顔と口ではガウッと怒っていても、嗅がれるたびに尾が上がり、尻を向け気味ならば、3日以内には交尾まで行くだろう。

 そして、開始から9日目、11日目、13日目を目安に、本格的な見合いをさせている。これで、11日目に初めての交尾があったとすると、念のために15日目、17日目まで確認のための見合いをさせる。1日おきに3回の交配戦略である。このどれかが当れば、陰部粘液等の検査をせずに、犬たちの雰囲気と行為だけで上手く行く。

 柴、サモエド、タブラドール等は、この方式でこれまで問題はなかった。だが、レオンベルガーのベルクだけは、毎回、様子が異なっている。ガウッの声が消え、尾が上がる日が一定ではないのである。これまでの観察記録では、出血開始から5日でオスを許すこともあれば、15日になっても怒りまくり、尾を上げないケースもあった。

 ベルクは、これまで2回の出産経験がある。10匹、11匹と、合わせて21匹の子犬を自前のミルクで育て上げている。
 生まれてしまえば、ベルクは良き母になるのは分っている。しかし、交尾が成功し、妊娠をしてくれないと、何も始まらない。

 3月末から始まった今回のベルクの発情は、すっきりとした変化を見せてくれないままに続いてきていた。5日前からオスのバルトとの見合いを繰り返している。しかし、心優しいバルトは、1度、ベルクに唸られると、とたんにジェントルになり、遠慮をする。
 ベルクも中年に入ってきている、今度は、我が家に跡取りとして残すメスの子犬も欲しかった。何度も試みるが、尾が上がり気味になってきた今朝も、ベルクへの思いやりがバルトにあり、交尾までは至らなかった。

 そんな話を、ムツさんにしたところ、たちまち明解な返事が返ってきた。
 
「大型マスチフは、がむしゃらにメスを所有する気持ちがないね、ここが柴などと違うと思うよ。それに、もっとも親しい人間である君たち夫妻が、交尾の場にいる事で、あるプレッシャーが加わり、仮性インポテンツ状態になっているのかも....」

 そこで、先ず、ムツさんがオオカミ犬のアナバスで行ったような、バルトをオスとして元気づける「人間の手バイアグラ作戦」を行うことにした。
 なかなか文字での説明は難しいが、ようするにバルトの性感帯を刺激する作戦である。この時に、メスの陰部の臭いや、子犬が包まれていた羊水の臭いを重ねて利用すると、より効果が期待できる。
 今回は冷凍した羊水がないので、ベルクだけではなく、ちょうど発情がピークのベコやタブの臭いを、私の衣服に擦り付けた。

 作戦は、大成功だった。
 十分に興奮し、ベルクに挑んだバルトは26分間、泥田のような柵の中で、神妙な顔をして繋がっていた。

  タドンが意識し始めてから13日目、4月7日....奇しくも私の53回目の誕生日だった。
 もし、妊娠をし、無事に子犬が生まれたならば、53回の中でも、ひときわ思い出深い記念日になるのだが.....。
 
 



2003年04月06日(日) 天気:雪のち曇りのちまた雪 最高:1℃ 最低:0℃

 せっかく乾いていた道路が、再び真っ白になっていた。しかし、真冬のようにはいかない、湿った雪はシャーベットと化し、重くタイヤにまとわりつく。少し車のスピードを上げると、ハンドルを取られる感じがして、いつになく慎重になってしまう。

 本州各地の花(桜)便りをよそに、北の地は冬と春とのせめぎ合いが、まだしばらくは続きそうである。
 そんな中、3月の末から、我が家は連日のゲストの皆さんで賑やかである。多くは春休みを利用して来られている「ムツゴロウゆかいクラブ」の方々で、浜中の王国の中にあるクラブハウス「ゆかいの家」を宿泊利用し、さらに中標津に足を延ばして「ゆかいハウス」に滞在をされている。
 
 昨日は、岡山からの7人の皆さんだった。Kさん御一家と、娘さんの友だち2人の組み合わせで来られた。最初に浜中に泊まられ、犬と遊び、馬に乗ってきていたので、すでにたくさんの動物たちの名前を覚えてくれていた。その繋がりで、アラレの娘のミゾレ、孫になるシグレや4匹の子犬、そしてサンゴの旦那となったセン、ダンの母親のベルク..と、関連を確かめながら、寒い庭で楽しまれていた。
 家の中では、我が家のネコたちに驚いていた。どの子も初めての人に頭を擦り付け、鳴いて甘えてくると大好評だった。

 雪の降り始めた「ゆかいハウス」に泊まり、今朝は7時に網走に向けてレンタカーで出発された。なんでも流氷観光船の「オーロラ号」が今日までの営業だそうで、午前中の出航に間に合うように、との早出だった。

 実は、これが大正解になった。雪と北寄りの風はその後、強まり、中標津から網走に抜ける2つの峠が通行止めになってしまった。雪のある時期は、何が起きるか分らない。余裕を持って行動するにこした事はない。

 午後から、入れ替わるように4人の若い女性がやって来た。代表者は昨年の夏に実習生として浜中の王国で頑張ってくれたUクンである。
 彼女は東京のYカレッジという動物関係の専門学校の学生である。今回は同級生を誘って、純粋にゲストとして来てくれた。
 けして楽ではなかったであろう実習を、素晴らしい体験だったとメールをくれていた、なおかつ貴重な休みに高い航空運賃を払って飛んできた彼女たちに感謝である。
 
 たしか、この日記でも誉めて書いたと記憶しているが、Uクンの積極的な研修態度は、端で見ていても気持ち良いものだった。素直に対象にぶつかり、自らの判断で心と手を動かす....経験のない連中には、なかなかできない事である。
 その姿勢は変わらず、泥田のような所で尾を振る犬たちの周辺で、笑顔で遊んでくれた。4人ともに首都圏、都会の出身にも関わらず、汚れを気にせずに犬を観察し、新しいものを取り入れようとする態度に、私もただただ笑顔になり、つい力を入れて講議口調になってしまった。

 今夜は、牧場から15キロほど離れたハウスで4人は自炊で夕飯を食べている。サウナを楽しみ、ジャグジーで打たれ、そして吹雪のベランダに出ているかも知れない。
 
 仲良し4人が、学校3年目、最後の1年を、得る事の多い時間と自らの行動でするように、私は祈りたい。



2003年04月05日(土) 天気:曇り 最高:3℃ 最低:−1℃

 真夜中に、顔に温かい空気の流れを感じ、驚いて目を覚ますと、焦点の合わない近距離、そう、鼻の先に生き物の顔がある。これには誰もが驚くのではないだろうか、それが3晩続いている。

 犯人は柴犬のミゾレである。
 先日から、ミゾレは室内犬となっている。日中は外のサークルで4匹の子犬たちと日光浴を楽しんだり、庭を自由に歩き回ったりしているが、夜は居間に入れている。
 
 理由は、出の良すぎる乳房にある。生後50日になったと言うのに、いまだに子犬たちは母親のミゾレのミルクをあてにしている。普通は、母親も授乳を嫌がるようになり、せいぜい1日に3〜5度になる時期なのだが、ミゾレは鋭い子犬の乳歯にも耐え、子犬の望むがままに飲ませてしまう。
 これに離乳食とミゾレの吐きもどしたフードが加わり、今回の4匹の成長曲線は、かつてない急上昇を示している。
 
 まあ、困る事はないのだが、新しい飼い主さん家族も、今か、今かと待ちわびてらっしゃる。あと2週間も過ぎると旅立ちの日がやってくる、それに備えて授乳回数を減らすために、夜は、ミゾレは居間、子犬は玄関と分け、人間の管理のもとに2度ほどミルクタイムを設けている。

 最後の授乳は深夜の2時、その後は朝の7時まで隔離である。始めて数日は、ミゾレも居間で寝ていた。しかし、3日前から、彼女は私と女房の寝ている部屋に入る事を覚えてしまった。
 家を建てた時から、寝室が寝室として機能している時は、ドアが開けられ、中に人がいない時は閉められているという、不思議な部屋が夫婦の寝室である。
 理由はネコである。連中は女房が好きである。従って夜は女房の布団の上や周辺で横になりたがる。もし、ドアを閉めておこうものなら、一晩中、ガリガリと爪で引っかき、ニャ〜ゴニャ〜ゴと叫びまくる。
 こいつはたまらんと、いつの間にか寝室は開放されることになった。廊下の突き当たりに客間があり、私のイビキが開いたドアから素通りで届く。客人は、何と言う家だろうと思っているだろう。

 と言う事で、ネコたちと一緒に階段を上がれば、いちおう柔らかい布団がある事をミゾレは知ってしまった。そして、嬉しいことに、こいつは女房ではなく、私を選んでくれた。

 『おとうさん、もうネコでいっぱいなのに、ミゾレまで来たら、場所がないでしょう...』

 などと女房が言っているが、私の耳には届かない、ニコニコとして無言でミゾレにサインを送り、いそいそと寝室に向かっている。
 
 しかし、熟睡している時の「鼻先フア〜」は勘弁してほしい。柴犬らしく、もともとは大小便を12時間は平気に我慢ができる子だが、育児中は普段とリズムが異なっている。おまけに温かい室内なのと、子犬にミルクを吸われているので、凄い量の水を飲んでいる。大のほうはこらえても小のほうは出てしまうのだろう、漏らすのができない感心な子ゆえに、必死に私にサインを示している。

 外飼いが中心の我が家では、室内でのトイレを教えていない。ミゾレの行為は、礼節と矜持をわきまえた最高の姿である、叱ることも嫌な顔もできない。
 眠気を驚きで覚まされた私は、勝手口からミゾレを外に出し、80メートルほど離れた沢で用をたすのを待つ。戸口から流れ込む寒気に目が冴え、しばらくは枕元の電灯をつけて本を開く。
 さっぱりとしたミゾレは、そんな私の左腕の中にあごを入れ、静かな寝息を立て始める。
 女房の周りのネコたちが、眩しいとでも言うように、顔を電灯からそむけ、再び丸くなった。階下の玄関からは、ミゾレの足音を聞いてしまった子犬たちが、大きな声で啼いていた。

 こんな夜がしばらく続くだろう、嬉しい夜が....。
 

 



2003年04月04日(金) 天気:曇り 最高:4℃ 最低:−5℃

我が家の犬たちにとって外からの侵入者は、人も犬も気になる存在になる。まあ、犬としては当然の事で、この資質を生かして番犬という仕事が生まれた。
 さらに、外から近づいてくる生き物に関して、怪しい距離というものも存在する。
 150メートル先なら、「ワン!!」と小さく、細切れに啼いて凝視するだけである。ところが、その影がどんどん近づき、50メートル以内になってくると、今度は強めの連続した啼き声になり、さらに30メーチルになると、クサリを引きちぎらんばかりに身体を踏ん張って群れの全ての犬が啼きかわす。

 初めての人や犬は、この段階で躊躇し、足を止めることもある。そうすると、犬たちにとっては、もっとも怪しい距離(声がなければ識別が不可能な)にいつまでも不審者がいる形になり、さらに声が大きくなる。

 今日も、我が家の賑やかな連中に啼く機会があった。
 相手は我が家で生まれ育ったサモエドの子犬「レヴン」だった。この子は3月の16日に知床に貰われて行った。生後80日近くでの旅立ちであり、その後も健康そのもので大きくなって来ている。

 しばらく前に、知床に母親のアラルと兄弟のオビが行き、2時間ほど山々を見上げる林で遊んできた。こんどは返礼の形で里帰りである。

 レヴンを乗せたAさんの車は、庭から40メートル先に停まった。Aさんのいつもの停車処で、出産の時から20回近く寄られていた事もあり、その車の姿とエンジン音は、すでに我が家の犬たちの記憶に入っており、軽度の啼き声だけで警戒はすぐに終わった。
 
 ところが、車からレヴンが降りた時から、今度は「怪しい犬」としての警戒、確認要請の啼き声が10数匹からいっせいに上がった。
 レヴンは驚き、そして尾を下げて怯えの表情をした。でも、Aさん御夫妻は、どんどん群れの方向に進む、名前も呼ばれる.....怖いから、不安だから、レヴンは余計にAさんの足元に密着して進んで来た。

 最初に出会うのが父親のカザフの小屋と、ワンワンうるさい父親である。レヴンは挨拶をすべきかどうか、でも近づくのは怖い....そんな表情で、結局カザフには接触せずに、また少し進んだ。

 この段階で、レヴンの記憶を覚ますものがあったと、そう私は観察した。
 突然のキョロキョロ視線、鼻を空中に上げての匂い嗅ぎ、そして、すぐにその鼻は雪解けで水田のような大地に向けられた。
 次に起きたのは、繋がれている1匹1匹を見渡しながら、耳を後ろにピクピクと倒すことだった。
 そうしているうちに、車庫に目が向いた、その瞬間である、何とレヴンの耳は後ろに張り付いたままとなり、激しく尾が横に振られ、一気に車庫に向かって突進した。

 そこには、サークルの中で2匹ならんで啼いているアラルとオビがいた。
 私が見たのは、レヴンの目の輝きだった。まるで外国の片隅で、言葉も姿も違う人に囲まれてしまった時に、一声、日本語が聞こえた....そんな感じだった。

 レヴンは、手前にいる柴犬のシバレもヘアレス犬のカリンに目もくれず、一気に親兄弟のサークルに走った。身体が弾み、腰が少し落ちていたところをみると、嬉し小便が漏れていたかも知れない。

 頼る犬を見つけてからは、レヴンは絶好調だった。真っ白で、いかにも我が家の所属ではないサモエドらしかった身体は、オビとの取っ組み合いで、すぐに実家風になった。Kさんがこれを「ワイルドホワイト」と名付けてくれたが、まさにその通りにである。
 それから2時間、再会の運動会は続き、たくさんの犬に挨拶をすることもできた。

 私が興味を持ったのは、レヴンの記憶である。
 レヴンは20日前に我が家を離れている。その間隔は、今では別の世界となっている実家が、近づくのを拒むほど怖いものではなく、飼い主さえ横にいるならば、尾をさげながらも何とかなる時間だった。
 そして、奥まった車庫のアラルとオビを見事に認識することができた。

 うん、IDカードとなっている臭い嗅ぎ行動まで行かなくても、犬の視覚、聴覚記憶もかなり役立つものだぞ....そんな証明がまたひとつ増え、私はニコニコとしてレヴンたちの相手をしたのだった。



2003年04月03日(木) 天気:快晴 最高:10℃ 最低:−4℃

 7時45分
 ミゾレの4匹の子犬を、玄関の育児箱から庭のサークルに出す。それまで、子犬たちは箱の右側で固まって寝ていた。左側には数カ所の小便の跡が新聞紙に残されていた。
 母親のミゾレは上がり框の上で私と女房が出て来るのを待っていた。夜中に2度ほど箱に入って乳首を与えているが、それが終わると、箱から出て寝ている。
 
 庭に出す時は素早く子犬たちを抱えていかなければならない。彼らは、目が覚めると、すぐに大小便をするからだ。特に、生後1ヶ月半を過ぎ、ウンコを我慢できるようになり、夜中は辛抱している代りに、夜明けのコーヒーならぬ、夜明けの良いウンコが習慣になってきている。
 案の定、4匹はサークルに下ろされるやいなや、大家のベルクに挨拶をする前に、凍った雪の上を歩き回り、鼻を寄せて臭いを嗅ぎ、所定の場所で大小便を済ませた。

 そう、サークルに入れられて3日目、もう所定のトイレが決まっている。ミゾレやベルクが教えたわけでもなく、私も女房も何もしていない。ましてや「トイレ」の看板を、そこに上げているのでもない....。
 なのに4匹は、4坪ほどのサークルの中で、もっとも陰にあたる部分(二つ置いてある小屋の後ろである)で用をたしている。

 何が、そこを彼らにトイレと示しているのか、答は大きく分けて二つあると思う。
 ひとつは、物心ついた子犬は(生後4週目以降)、自分たちが寝る、遊ぶ所でウンコ・オシッコを避ける、という事である。確かに、誰だってウンコを布団にはしたくない。あの臭いは、そこで転がる(眠る)事を認めない反応を引き出すのだろう。
 
 二つ目は、先住犬の功績である。ベルクやアラルなど、このサークルを使ってきた犬たちは、やはり、普段は行く事のない小屋の裏をトイレと決めていた。
 従って、そこに積もっている雪は、あきらかに茶の色で染められており、人間の鼻では気づかない臭いが染み付いているだろう。
 4匹は、その臭いを確認すると、まるで尻の穴のセンが抜けたように、ブリブリと出している。

 「臭いは臭いを誘発する」・・これは、確実な現象であり、ひょっとすると「音」もそうかも知れない、私も、その傾向があり、相手が犬でも人間でも、連れションが得意である。

 朝のひと時、子犬たちの用たし騒動が終わると、今度は、「腹減った〜!!」である。
 女房が、平たく大きなバッドに離乳食を入れ、サークルの中に置く。ドライフード、レトルト、牛乳、それに大好きなフリカケがかけられている。
 
 押しくらまんじゅうのように、頭と鼻をぶつけあい、競い合って食べている子犬たちを、羨ましそうに横で眺めているのは、ミゾレとベルクだ。
 この2匹の大人たちは、もし子犬が残せば貰えると分っている、それまでは、けして口を出さない。女房はそんな2匹が可愛くて、どう考えても子犬には多過ぎる量をバッドに入れている。私も分っているがクレームはつけない、自分もそうするのが見えているからだ。

 成長の早さ、順調さは、食事の後にも示される。
 ミゾレのミルクだけの頃、離乳食の食べ始めの頃は、「食後→ウンコ」は決まりになっていた。
 しかし、我慢というか、ウンコにリズムが出て来ている今は、食べた後、すぐにウンコになる事は、まずない。
 それよりも、朝日を浴びて、兄弟どうし、そしてベルクやミゾレと遊ぶことに心が向いている。−4度まで下がり、水おけには厚さ2センチほどの氷が張っていた。それを取り出してやると、子犬たちには最高のオモチャだったようで、くわえ、齧り、そして砕いて遊んでいた。

 1時間の騒動が終わると、今度は「おやすみタイム」である。雪の上に置いた板の上で、暖かい春の日射しを浴び、互いに身体を付け合って、眠りの世界に入っていった。
 10数匹の大人の犬たちが、庭を駈け、発情の緊張と吠え声を出していても、微動だにせず、ただ眠る。

 眠り、遊び、そしてミルクと離乳食....。

 何度かの繰り返しの後、午後5時10分、子犬たちは玄関の箱に戻った。午後10時の夜食まで、またひたすら眠る。

 .....と書いていたら、もう10時を過ぎている。では、4匹に会ってこよう。

 



2003年04月02日(水) 天気:薄曇り 最高:8℃ 最低:−4℃

 『お〜い、元気か〜...いやっ、元気な事は分ってる、飲んでるか〜』

 古い友人のMから電話があった。賀状のやりとりはあるが、声を聞くのは5年振りになるだろう。

 『こっちは、今、飲んでるぞ〜。隣に誰がいると思う?』

 そんな事を言われたって、私の電話はTV機能など備えていない。
 そうそう、もし普及してきたとしても、最後まで抵抗して我が家には導入しないだろう。電話でまで姿を晒すのは罪に近い。

 『誰かな〜?、お前がそう言うのだから、昔の連中の中にいるな、答は....』

 『難しいぞ〜、ヒントをやるよ、ビジン!!』

 嗚呼、悲しいかな、喜ぶべきかな、私の記憶の中での女性は、すべて美しかった。脳裏に浮かんで来る、K、T、S、N、そしてもうひとりのK....みんな可愛く美しく、そして笑顔だった。

 『もう一声、ヒントをくれっ....』

 賑やかな音楽と声が受話器から聞こえている。友人は歌い叫ぶようにして答をくれた。

 『こうこう〜三年生〜.....』

 それで分った、K子だった。
 高校を卒業する数カ月前、数人の仲間と、ある集まりで歌った事があった。それぞれ異なる高校の連中で、心意気だけが先走る、おかしくも楽しい連中たちだった。

 『お久しぶりです、K子です。毎日、楽しく見ているので、私は久しぶりの感じはないのですが....』

 受話器の声は、断わりもなく替わっていた。34年前、舟木一夫の歌を一人で唱った声の名残りがあった。

 『毎日って、あっ、ホームページ?!』

 『そう、Nクンに教えてもらって、毎日、お邪魔していますよ〜』

 『今日は、久しぶりに渋谷で会ってるの、4人来てるわよ、Sクン、Tちゃん、それに私とMクン...みんな変わらないと言うか、変わり過ぎたと言うか....』

 それは想像がついた。たまに会うたびに、見てくれは、特に男たちは大きく変化している、髪薄く、白く、そして腹部の年輪は30数個、増えている。しかし、語る口調と中身には、ほとんど進歩がないのが、仲間たちの自慢だった。

 『みんなと話しているうちに、どうしてもイシカワクンに御礼を言いたくて、それでMクンに掛けてもらったの....』

 聞き取り難くなる電話を耳に押し付けながら、何か御礼を言われる事をしたかと、一瞬、記憶を探った。

 『実は、うちで犬を飼い始めたのよ、3ヶ月前に....。柴犬なんだけれど、可愛いのよ、これが...』

 『そもそもの理由は、お爺ちゃんの事、うちは8年前から同居してるんだけれど、最近、元気がなかったの....。たしかに北海道から東京でしょ、友だちから離れて寂しかったのもあると思うの。そこに、イシカワクンのホームページよ、年寄りには犬...ってね!!』

 『驚き...、本当にお爺ちゃん元気になっちゃった〜。散歩で犬仲間ができて、毎日が楽しくて楽しくて状態よっ、本当にありがとう....』

 ありがとう、と言われても、直接、私がなにかをしたわけではない。でも古い仲間の言葉に、顔がくちゃくちゃに弛み、目が熱くなった。思いがけず、こんな事があるから、やはりTV電話はいらない。

 『どういたしまして、お前さんの役に立って嬉しいよ、いいだろう〜犬は...』

 私が言葉を発すると、無意識におどけた口調になっていた。

 渋谷の連中と代わる代わる話し、大笑いをして受話器を置いた。
 
 会話の間中、目の前では、タバコのヤニが付いて染みになっているモニターが、話しの中に何度も出て来た私のホームページを映し出していた。
 心、想いが、ほんの少しだけれど伝わった.....。私は、濡れた布で、ゆっくりとモニターを拭いた。



2003年04月01日(火) 天気:晴れのち薄い雲 最高:8℃ 最低:−8℃


 4月1日.....何故、松井の全打席が1球ずつ映し出されて野茂が付録のような扱いなのか.....そんな怒りを持ちながらニュースを視ていた。ランディ・ジョンソンと投げ合い、完封した野茂の方が、はるかにビッグニュースだと私は確信している。
 まあ、目くじらを立てるほどの事ではないとは思うが、でも最近の1点集中報道には、もう辟易しているのは事実だ。

 4月1日......今日は、私の暮している「ムツゴロウ動物王国」の誕生日になる。
 31年前の今日、大平洋を見下ろす丘の上に、それまでケンボッキ島で暮していたムツさんが引越した。もちろん、一気にすべてが1日に、と言う事ではまいが、思いを印す日として今日が記念日となった。
 しかし、時期としては雪解け泥沼のタイミングである。その後、雪の消えた5月1日頃に開国記念の餅つきなどを行って祝う事が多くなった。

 でも、ケンボッキ島の時代から加わっていた女房と、王国の1年目に入った私には、やはり4月1日が心に重くしみ込んでいる。
 当時のムツさんの本を棚から取り出し、写真を眺め、さらに気持ちを新たにした。
 
 開国当時を知る生き物はドサンコのユキだけになった。もう36歳にはなる。人間で言えば100歳以上である。リンゴの好きな彼女に、近々、食べさせに浜中に行こう。もう歯は磨耗して、ほとんどない状態だと聞いている、しかし、歯茎で上手に食べると、世話をしている高橋氏は言っていた。

 30余年、王国の中で暮している生き物の姿は変わっても、ムツさんを中心に、取り巻く心、取り巻く生き物たちのいきいきとした動きは同じだと思う。
 生き物たちそれぞれの母から子へ、そしてヒトからヒトへ、連綿と継がれる命のドラマは、多くの方々の応援を受けて、これからも輝きを保っていくだろう。いや、そうすべきだと、心から思う。

 4月1日.....思う事の多い日に、柴犬のミゾレの子犬たちを、庭のサークルに入れた。もちろん中は雪である。そして先住犬のベルクがいる。
 この子犬たちは、まさに王国の命を継いで来ている。ムツさんの家にいた初代の「ピコピコ」、その娘の「ツララ」、3代目が子ギツネにもミルクを与えた「ブー」、4代目は、今、浜中の王国にいる「アラレ」、そして5代目がこの子犬たちの母になる我が家の「ミゾレ」である。

 初めて雪を踏み締めた4匹の「6代目」たちは、雪の匂いを嗅ぎながら恐る恐る足を運んだ。
 それよりもさらに恐る恐るだったのが60キロ近い体重のベルクの存在だった。
 
 先ず、育児箱からの脱走と帰還が得意なオスっ子が近づいた。ベルクを犬だとは理解している。懸命に尾を振り、何とかベルクの顔に自分の口を寄せようとしている。
 でも高さが違い過ぎる、どうなるかと見ていると、やはりベルクはさすがだった。そう、彼女はレオンベルガーである、すべての生き物に優しいのである。ベルクはゆっくりと首を下げ、そして子犬の挨拶を待った。
 口元で子犬のふがふがを受け終わると、今度は尻の匂いを嗅いだ。これで仲間入り確認は終わりである、ベルクは前足をそっと出して腹這いになり、大きな顔を子犬たちに提供した。
 オスに続き、他の3匹の子犬たちも、まるで素晴らしいオモチャを見つけたように、ベルクの顔に、そして肩にまとわりついて遊び始めた。

 サークルの外では散歩から帰った母親のミゾレが、自分も中に入りたいと、盛んに吠えていた。彼女としてみれば、子犬が心配だった。でも、1昨年も去年も、自分の子犬がベルクの世話になっている、その記憶が戻り、5分後には、同じサークルの中でベルクと隣り合わせで子犬のオモチャとなっていた。

 柴犬は、ともするとワンマンドッグ(一人の人にだけ忠実な犬)、他の犬との友好関係を結び難い犬になりがちである。
 これは、長年、マタギ犬、番犬として、その性格が求められてきたことによる。
 しかし、今の時代は、人にも、隣の犬にも友好的な柴犬が多く求められている。そうなるようにと、旅立ちまでの短い時間に、私と女房は、思い付くすべての手法を使い、反柴犬的柴犬を育てようとしている。
 今日のベルクとの和やかな対応を見ていて、今回の4匹も、「王国犬としての王道」を歩み始めていると嬉しくなった。

 4月1日.....ラーナの2度目の交尾もうまくいった。
 
 『2003年4月1日』....ムツゴロウ動物王国の新しい1年が、爽やかな空気の中で始まった。