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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2003年05月31日(土) 天気:曇りのち雨 最高:19℃ 最低:13℃

 
 ほんの少し横になろうと、TVでスポーツニュースを見ながらソファにクッションを2個、枕の位置に集めたところまでしか記憶がない。
 目が覚めたら、雄鶏たちの声が聞こえ、カラスも鳴き、風呂の追い焚きが活躍していた。

 従って、阪神が9回に11点を入れた顛末は詳しくは知らない(巨人派の皆さん、スミマセン、アハハハ....)。

 何となく肌寒くなり、ネコが身体の上を歩いたので目が覚めた。時計は3時35分を示していた。
 女房は、まあ頷ける、しかし、6ヶ月ぶりに昨夜帰った娘まで、私をほったらかしに寝ているのは、これはこれで嬉しくはない。
 『ほらっ、風邪をひくわよ....』

 と、毛布の1枚も掛けてくれるのは、我が家ではTVの中の世界だけのようである。
 普段、「生き物は、自力で何とかしようという力があり、それを生かす事が重要だ」....などと言っていた酬いかも知れない。

 雨は小降りになっている。庭の水溜りの様子から、20ミリほどは降ってくれたようだ。これで植物たちも、この私も女房もほっとするだろう。「陽光」「温度」は足りていても「水」がない事には命は元気にやっていけない。今回の台風は、北の大地には救いの低気圧となってくれた。

 目覚めた時に、庭をぐるりと眺めた。カボスもベルクも、そして柴犬たちも小屋に入っていた。
 しかし、みてくれからは、ぜひ白さをキープするために小屋を使うべきサモエドたちが、見事に小屋の前やら横で、土の上で寝ていた。毛の濡れ具合から、降り出してからその姿だったらしい。
 まあ、気温が高いので心地よいシャワー程度なのかも知れないが、我が家に来られた方は、よく「可哀想」と言う言葉を漏らす。
 でも、けして私が、そうさせている訳ではない、彼らの心が望んでの事である、まさに「生きる力にまかせている結果」である。

 さて、昨日の事を振り返ってみよう、これは5月の最後の1日の日記なのだから.....。

 「ゆかいクラブ」の会員で、ボスと言う名前の犬と、ネコのムサシを飼われている名古屋のBさんが、甥っ子さんとともに来られた。浜中の王国の中にあるクラブハウスを利用されての旅である。

 赤いレンタカーから降りて来られて、1分後、私は頬が緩み、声が大きくなった。
 Dのマークが入った野球帽をかぶった小5の甥っ子クンは、真っ先に柴犬のシグレの所に行った。シグレは尾を振り、耳を軽く倒し、そして目を細くする笑顔もどきで前足を彼の身体に掛けた。

 この光景を見た事で、私の心は浮き立ち、温かくなったのである。
 実は、我が家でもっともシャイな犬が、このシグレだった。来られたゲストの方が寄ってくると尾が下がり、時には小屋の下や中に入る事も多かった。けして吠えも咬みもしないが、ただ出会いを避けようとする事が多かった。

 そんなシグレだが、30人に1人ぐらいの割り合いで、出会った瞬間から接触を許してしまう、いや、接触を求めてしまう人間がいる。
 Bさんの甥っ子クンは、まさに、その特別な1人だった。

 このような才能を備えた人間は、先ず、我が家のすべての犬やネコに受け入れられる。カボス、セン、ベコ、ダーチャ、そして、これまた結構気難しいところのあるシグレの父親のシバレにまで、盛んに呼ばれていた。

 もちろん、保護者として同行されているBさんも、まさにそのタイプ、生き物にすんなり認められる方である。犬たちが、何となく気にする「身体と心のどこかに余分な力が入っている」人間ではなかった。
 それは、天賦のものであろうし、Bさんが拾い、下半身がマヒした子ながらも、心と手を尽した世話で、今や4キロを超えてワンパクなネコになっているムサシとの付き合いの中で、さらに増した才能だろう。
 
 『1日、3回、おしっこをシボリ出してやります。ウンコも手助けしないと出せないのです...。でも、前足だけで椅子に上がり、得意そうな顔をするのですよ、名前を呼ぶと、しっかり啼いて応えてくれます....』

 命を励ますのは、やはり「命」である。薬などは、あくまでもその手助けだと思う。Bさんの話を聞いていて、ますます、そう思う私だった。

 もうひとつ、甥っ子クンの事を書いてしまおう。
 ネコたちに会ってもらうために、居間に入ってもらった。
 いつものように、10数匹が嬉しそうに集まって来た。私は戸棚の下から2番目の引き出しから「じゃらし棒」を出して、彼に手渡した。これを見ると、ネコたちはさらに陽気になるからだ。

 そして小1時間、せっかくこの季節に来られたのだから、ギョウジャニンニクを名古屋への土産に採りに行こうと、外に出ることになった。

 その時、甥っ子クンは、

 『すみません、ここですよね?』

 何と、ジャラシ棒を戸棚に戻そうとしてくれたのである。
 
 細かい事かも知れないし嫌なオジサンだろうが、いつの間にか、私はそんな事までも観察する癖がついている。戸の開け閉め、テーブルの上のどの位置にコーヒーカップを置くか....ささいな事が、生き物と暮していると実に重要になってくる。そして、生き物の心を読むためには観察こそが近道だからだ。

 1本の安物のネコのおもちゃである。置きっ放しにされたって、その1本がボロボロになるだけである。
 しかし、どこに仕舞われていたかを観察していた彼の心配りが、とにかく嬉しかった。
 このような行動が素直にできるからこそ、シグレが飛びついたのかも知れない。

 『ありがとう、甥っ子クン....!』



2003年05月30日(金) 天気:晴れのち曇り 最高:23℃ 最低:10℃

 10日間、雨が降らない。芽ぶき、一気に葉を開かなければいけない今の植物たちには辛い状況である。しかし、大地は乾き、ネコたちには、上がった気温の中で、心地よく散歩のできる日和である。

 それでは、と言う事で、4、5日前から、我が家の勝手口を午前10時頃から午後2時まで開放している。
 
 戸が開けられると、10数匹(いまだに正確な数を知らない...)は、待ってましたとばかり、一斉に飛び出し、笹の中に姿を消すもの、先ず、犬たちに挨拶に行く心得のしっかりした子(ニャムや小次郎である)、白い毛繋がりなのか、何故かヤギのメエスケの柵に直行するターキッシュバンのルドとレオの兄弟と、思い思いの行動をする。

 やがて、物音に驚いて急ぎ足で帰ったり、外の砂の上ですればとも思うが、わざわざ居間に戻って用を足す子など、勝手口は頻繁に往来が見られるようになる。

 3日前から、居間組の連中の楽しそうな外出ぶりを眺め、それでは、あのキツネ舎暮らしの3兄弟も出してあげようと思い付き、さっそく戸を開放した。

 1日目は、キツネ舎から出ると、先ず砂の上でゴロゴロと転がり、3匹並んで私に向かって啼き、そして沢に消えた。

 オト、アニキ、クロのオス3匹兄弟は、今年で数え13才になる。目が開くかどうかの頃に我が家の取り付け道路の所に捨てられていた。
 最初に発見したのは、今のミゾレの祖母になる柴犬のブーで、ネコを見ると襲う習性を持っていた秋田犬のタムに向かって、唸り、歯をむき出しにして子ネコの固まりを守っていた。タムはヨダレを流しながら、ブーの迫力に負け、立ち尽くしていた。

 それを見つけたのが、スクールバスに乗ろうとしていた娘と息子だった。あわてて駈け戻り、女房に急を告げて学校に向かった。

 ブーに助けられた捨てネコは4匹だった。娘が世話をし、キツネ舎の部屋で大きくなった。1匹は、早くに病気で死んだが、残りの3匹は、アニキ、オトウト、そして黒毛だからクロと、娘の付けた名前で呼ばれ、同じ小屋に住んでいたキツネたちやウサギとも交流をしながら元気に暮してきた。

 キツネ舎には暖房がない。マイナス30℃まで下がる冬は、女房の用意した寝わらたっぷりの箱に入り、3匹で抱き合って寒さに打ち勝ってきた。
 しかし、今度の冬は13才である。そろそろ暖かい部屋で余生をと、つい先日も女房と話したところだった。そう、痩せて来たアブラとともに....と。

 さて、一昨日の1回目の3匹の外出は、1時間後には終わった。もっと楽しんできても問題はないのだが、彼らは自主的にキツネ舎に戻り、ウサギ用に置いてある牧草の固まりの上で昼寝をしていた。

 次いで昨日である。戸が開けられると、クロが我が家に向かって進路を取った。次いでオトがそれに続いた。アニキは、2匹の姿をしばらく眺めていたが、その後、前日と同じように沢に消えた。

 クロとオトは、歩きながら絶えず声を出していた...。

 『ニャ〜、ニャ〜、ニャ〜』

 その声に緊張はなく、『私たち、これからそちらに行きますよ、ゆっつり、ゆっくり行きますよ〜』
 と聞こえた。

 その効果だろうか、勝手口の周辺で遊んでいた居間組のネコはもとより、あまりキツネ舎組とは会った事のない犬たちも、脅すことも、怯えることもなく、動かずに啼き声行列の2匹を眺めていた。
 
 2匹は、しばらくの間、我が家の周辺を歩き回った。犬小屋の匂いを嗅いだり、置いてある箱に飛び乗ったり、さらには車庫の近くに行って鶏のコッケイに追われたりしていた。

 そして2時間、オトとクロは、再び啼きながらキツネ舎を目指し、戸口の前の緑の草の上で寝ていたアニキとともに、部屋に戻り、水を飲んで眠った。

 今日も、10時に居間の勝手口を開けた。15分後、キツネ舎の戸も開放した。

 30分後の10時45分、私は煙草を取りに居間に戻った。玄関からの戸を開けると、目の前で「ニャ〜」と声がした。
 快晴の戸外から室内に急いで入ったので、私の目は暗さに慣れていない、誰が啼いている....と確かめると、階段の手すりの上にオトがおり、私に近づこうとピアノの上に移動してきた。

 えっ、唸りあいの声も、ケンカになった音も私は聞いていなかった。何事もなくここまで入ったという事は、室内のネコは全て外に出ているのかな、と見渡すと、ミンツ、ワイン、エ、小次郎、ハナ、レオなどがいるのが分った。
 先日、アブラを室内に馴染ませる作戦を行った。何とか2週間近くで、同じ空間にいる事を認められたが、それでも、まだ唸り声が出る時がある。
 しかし、目の前に堂々と存在するオトに対しては、先住のどのネコも、肩の毛を立てたり、唸ったり、耳を倒して狙う....そんな素振りを示していなかった。

 オトは、私の足元に飛び下り、食卓の方に向かった。レオがゆっくりと近づいて行った。レオの耳と長いヒゲはオトの方向に向けられている。声はない。

 オトは足を止め、レオの顔が近づくのを待った。ゆっくりとした動きで鼻と鼻が寄った。時計を見て確かめた、それは1分間続き、静かに別れた。平和なままに挨拶が終わっていた。

 その時だった、勝手口から、また新たなネコが入って来た。クロだった。
 クロは啼きながら、ゆっくりと室内を周り始めた。途中で先住のネコに会うと、オトと同じように、静かに鼻対鼻の挨拶を行い、その後、尻を嗅がせることもあった。
 クロにも問題は起きず、静かなうちに存在が認知されていた。

 先日のアブラと今回の2匹の何が違うのか。
 もっとも大きな点は、アブラのように、先に「唸り声」を出さなかった事である。侵入者が出さないから、先住の連中も唸りで応える必要がなかった。

 もう1点、身体の表情の違いがある。
 それは、耳とヒゲの形だった。
 アブラが初めて居間に入れられた時は、耳を完璧に後ろに倒し、ヒゲも頬に密着するほどに後ろ向きだった。
 ところがオトとクロは、迎え撃つレオほど前に耳は向いていなかったが、軽く横を向く程度で、けして倒れてはいなかった。
 ヒゲも同様である、自然な形で横下に向いていた。

 要するに、恐怖で金縛り状態、完全防御形態になる事はなかったのである。
 ある程度の自然体で行動ができれば、単独行動型の社会性の生き物であるが故に、ネコは大人同士でも馴染みが早い、そう実感する出来事だった。

 よほど我が家が気に入ったのだろう、2匹は2時間半、居間を中心にウロウロ点検をし、果ては、床の上で眠り、最後は、私が抱いてキツネ舎に戻した。

 沢から帰っても兄弟のいない時間が長かったのだろう、アニキが嬉しそうに駆け寄り、そして、しつこくクロとオトの身体の匂いを嗅いでいた。
 3兄弟のうち2匹は、今度の冬に大寒波がきても大丈夫になった。さてアニキはどうだろう、明日にでも居間に姿を見せるだろうか.....。


 



2003年05月29日(木) 天気:晴れ 最高:27℃ 最低:7℃

 「北の夜話」.....今夜が25回目だった。ムツさんが中標津町の総合文化会館の名誉館長に就任したのを契機に、この講座が始まった。
 
 スタート時は文章講座だった。そして映像に主題が移り、さらには生命科学、そして世界の民俗学、そして現代の様々な事象、テロリズム、動物行動学と続いてきている。
 そうそう、昨年の夏には、ワールドカップ優勝記念と言う事で『ペレ・そして私とブラジル』と銘うった講座もあった。

 1講座90〜120分は、まさにムツさんワールドである。作家、科学者、そして何より実践者としての「畑 正憲」が、熱い思いを込めて話してくれる。

 2年前に、作家のダニエル・スティールに関して、2回続けての講座があった。その材料になったのが「HIS BRIGHT LIGHT」と言う彼女の1998年の著作だった。
 この本は、世界中で売れている彼女のフィクションではなく、自ら死を選んだ息子「ニック」との壮絶な暮らしが書かれていた。
 それは、老後の余暇に書かれたものではなく、まさに「今」を生きている人間の自叙伝であり、ニックを、そしてダニエルを苦しめた「躁鬱病」を書き記し、一人でも多くの人間を救いたいと言う、彼女の悲鳴に似た希望が込められた本だった。

 ムツさんは、講座の中で私たちに話をしているうちに、より強く、彼女の望みを、身体に、心に感じたと語り、翻訳の名乗りを上げ、驚くべきスピードで仕上げ、先頃、書店に並んだ。
 日本でのタイトルは「輝ける日々」....まさに、母と子の日々は、苦闘の中にありこそすれ、命輝く日々であったと、読み終えて、私はそう思った。

 『この講座がなかったら、ひょっとすると翻訳をしなかったかも知れません。文化の中心と言われている東京から、こんなに離れた町の小さな講座から、こうして1冊の本が生まれた....これは、新しい文化の在り方だと思います....』

 ムツさんは、そう述べた。
 
 25回目の今夜は「出版記念特別講座」の案内が、いつも参加されている皆さんの所にハガキで知らされていた事もあり、会場の椅子が足りなくなり、補助イスをガタガタと室内に並べる音の中で講座が始まった。

 中標津はもちろんの事、近隣の町、そして遠くは釧路から来られた皆さんの手元には、真新しい1冊の単行本があった。
 もちろん「輝ける日々」である、厚い表紙をめくると、そこにはムツさんのサインがあり、それは、講座に参加をしている全員への、ムツさんからのプレゼントだった。

 出版に至るまでの話の後、今日も、ムツさんは世界を語り続けた。
 SARS、DNA、母性、人工哺育、子殺し、脳のシステム、すりこみ、犬のしつけ....。
 
 あっと言う間の1時間40分、27℃まで上がった日中の気温は、かなり下がってはいた。しかし、講座の部屋は熱いままに夜を迎えていた。



2003年05月28日(水) 天気:晴れ 最高:24℃ 最低:7℃

  3時頃(たぶん)7℃
  6時30分   9℃
  7時45分  11℃
  8時45分  14℃
 10時15分  18℃
 11時00分  22℃
 12時00分  24℃
 14時15分  22℃
 16時30分  19℃
 18時00分  18℃
 22時00分   9℃

 今日の気温の変化である。
 砂漠地帯のようにマイナスからプラス40℃への大変化はないが、それでも北国の内陸部では、日較差が大きく、それに備えて衣服をまとわなければならない。今日のように風が止まった日中は、それこそTシャツ1枚でも平気だが、東から北の風の日や、朝夕は上着が必要になる。

 爽やかな春日和に誘われて、そして、犬たちの舌出し姿に同情し、何度も下の川に行った。
 葉の出始めた樹木の間を、先に希望の水場が待っていると、元気に駆け抜けて行く犬たちを見送りつつ、私と女房はのんびりと歩いた。
 テンポを合わせてくれるのはマロ親分だけで、他の連中の姿は、あっと言う間に樹間に消えた。
 まあ、マロが忠実なのではなく、彼は肩と足に古傷があるために、特に下り坂が苦手なのである。本来ならば、マロこそが先陣を切る仕事をしていた。

 マロの様子を目の端に入れながら、人間たちは、植物の話を続けながら進んだ。

 『やっぱりアイヌネギ(キョウジャニンニク)は増えたと思う、この沢の終点には、それほどなかったよ....』

 『お〜、雨が少ないから、今年のオオバナノエンレイソウは背丈も花もミニ版だね。それでも随分咲き始めたな〜』

 『見て、見て、ほらっ、こんなにクロユリが出ている、蕾も大きいから、じきに咲くかも知れない、あっ、マロ、だめよ、そこはユリがあるでしょっ!!』

 『オオウバユリも、元気がないな〜。やっぱり雨不足だね....』

 『今まで、どの木よりも早く、あっ、ヤナギは別としてだけど、ホザキシモツケの葉が、あんなに早く開くとは思わなかった。もう犬が見えないくらいに青々している..』

 『あれは、花も長いよね、8月の末でも咲いているのがある...まるで線香花火のような形なのに、パッとは散らない』

 『ネコノメソウも咲き出したし、水芭蕉も大きくなったし、アマドコロも出始めたし....、やっぱり春だ....』

 『キジカクシは増えたかな〜、あのミズナラの所の群生、15本を超えたら、1本だけグリーンアスパラとして食べたいんだけど...』

 『まだ芽が出てないみたいよ、探したけれど分らなかった。そう、ラーナがあそこにウンコをしたから、今年のは太くなるかも.....』

 『あっ、ここのコゴミは食べごろ...帰りに採っていくから、犬たちはヨロシク!!』

 『胡麻和え?』

 『そう、私は、アレが1番好き....、美味しいから...』

 ・・・・話は順不同である。道すがら、取り留めもなく目についた緑を語って進んだ。
 川に着くと、マロ以外は、すでにどの子も全身を濡らし、瞳を輝かせていた。

 今日もまた、穴の開いている長靴を履いてきてしまったと気づいたのは、川の中州に渡ろうと数歩進んだ時だった。肌に触れた水は冷たく、足元からシロザケの稚魚が上流に向かって泳いだのが見えた。カラスガイがオビの接近を知り、殻を閉じ、単なる石になろうとしていた。

 



2003年05月27日(火) 天気:曇り時々晴れ間 最高:15℃ 最低:7℃

 久しぶりに北海道に戻ったムツさんの顔を見に、母屋に行った。
 ブラジル、イギリス、ドイツ.....世界各地を回った疲れを見せずに、元気な声で現れた。
 
 すぐに、先日のTV番組の内容に関する話から始まり、様々な事についての考察が、ムツさんの口から次々と流れ出てきた。
 驚く事は、私がこの日記に書いた生き物たちの様々な姿をインプットし、過去の事例(観察、考察)とともにフィルターに通し、そこから、実際に現場に出会い、記録した私も気づかぬ理論(真実)を導き出している事だ。
 
 例えば、通常の犬の子育てでは、子犬が生後40日ぐらいになると、母親が授乳を拒否するか、1日に数えるほどしか飲まさなくなる。
 ところが、私の日記では、柴犬のミゾレが、生後60日を超えた子犬たちにも、しっかりと乳首を与えている事が書かれていた。

 『あれを、ミゾレの母性が強い...と考えちゃ、いけないと思うよ。それよりも重要なのは....』

 私は、日記だけではなくTVの取材の時にも、生後70日の子犬が嬉しそうにミゾレの乳首に吸い付いているシーンで、
 
 『この子は、とても母性が強く、まだ嫌がらずに飲ませています....』

 と説明をしていた。
 それをムツさんは、東京のスタジオでナレーションを入れる時に聞いていた。

 今日、ムツさんの書斎で、互いに煙りをブカブカと吹き出しながら、生理学的、そして行動学的、品種学的に真実を見極める時を持つ事ができた。
 そう、キーになるのは、柴犬の子犬の活発さ、どこで遊んでいるか、子犬の数、そして授乳のスタイル等なのである。
 
 同じ日数のラブラドールの子犬と比較をしてみよう。

(1)活発さ
  これは、圧倒的に柴の子犬のほうが、よく動く。
(2)遊ぶ場所
  ラブラドールの子犬は、育児箱の中とその周囲である。布が
  あると、その上を好む。あまり駆けずに、ゆったりと遊ぶ。
  比して柴の子は、庭のあちらこちらに出かけ、土や砂利の上
  でも平気で駆け回る。
(3)産児数
  王国でのラブラドールの平均は<8.7匹>。
  柴犬は<2.5匹>である。
(4)授乳スタイル
  ラブラドールの母親は、基本的に横臥である。柴犬は、ある
  日数がたつと、立って飲ませる事が多い。

 これらから見えてくるものに、私は総合的な判断がついていなかった。

 『ほら、ミゾレの乳首は、傷がなかっただろう....この条件が揃っているから...』

 まさにその通りだった。
 たまに子犬の歯が当り、啼いて怒る事もあった。しかし、ほとんどは我慢できる程度のようで、振り向きはするが、逃げたり、怒ったりする程ではないようだった。

 つまり、砂利の上で駆け回っていれば、細く鋭い爪はすり減り、乳房を揉んでもラブラドールの子の爪ほど痛くないのである。
 ミルクの良く出る乳首6個に、それ以下の数の子犬の柴犬は、ラブラドールのように、子犬同士で競い合って、くわえた乳首を放すまいと、噛んで確保する必要もない。

 さらに、立って飲ませていると、前足にかけられる力も半減し、さらに無理のない位置に乳首がくるので、穏やかに吸う事ができる。

 これらの積み重ねで、柴犬の母親は乳首・乳房の被害(痛み)がラブラドールの何十分の1になる。
 だから、いつまでも授乳をさせる子が多いのだ.....!!

 31年間、私たちはムツさんを中心に、夜が明けるまで、こんな話を繰り広げてきた。
 今夜もまた良き夜だったと、私は笑顔で1本のビールを空けた。

 
 



2003年05月26日(月) 天気:霧のち晴れ間 最高:16℃ 最低:7℃

 夕方の作業を終えて、このPCに向かって間もなく、犬が吠え始めた。うん?と思った途端に緩やかな揺れが始まった。
 何気なく時計を見た、6時25分。
 秒針も眺める、10秒、15秒、まだ変わらずに続く。
 そして25秒、揺れは突然に大きくなり、あわててモニターを左手で押さえた。残念ながら、このところ肩の痛みのために、つい左手が出てしまう。本当はリハビリのためにも右手を使わなければいけないのだが、痛みに弱い私は、かばう癖がついてしまっている。

 部屋中がガタガタと音をたて、外の犬たちの声が大きくなった。
 さあ、電源を切るべきか、書きかけの文章もあるが.....と考えた時に、ようやく揺れは収まった。

 ほっとして掲示板への書き込みを終え、居間のテレビで情報を確認した。三陸沖が震源地で、宮城、岩手では震度6の所もあると、臨時ニュース体制で伝えていた。
 あの阪神・淡路の震災以来、NHKの各放送局では、局内と外のカメラを充実し、24時間の撮影をしている。従って、繰り返し、仙台や盛岡の局内が映し出されるのが、何となくおかしかった。
 
 まあ、そう言えるのも、震度のわりに大きな被害が出ていないようだからだ。
 小さな揺れでも長く続くと、私は、あの北海道東方沖地震を思い出してしまう。夜の10時過ぎ、震度6が中標津だった。
 停電、水道のストップ、食器等は9割破損、1週間、室内に長靴で出入りしていた。
 王国でも負傷したものが数人、幸いなのは動物に被害がなかった事だ。

 以前にも書いたが、せめて犬たちが5分前に、それも普段とは異なる、明らかに地震を示す特別な啼き方で知らせてくれたらと思う。
 それができれば、このインターネット等を使って多くの方に警報を出す事ができるのだが。

 まあ、夢物語かも知れないが、例のナマズやら金魚、スッポンなどで真面目に研究も続いているらしい。やはり地震は、それだけ恐ろしいものだと思う。
 幸いに、その後のニュースでも、それほどの被害は伝わってこない、東北には我が家から旅立った犬も多く、知人もたくさんいるので安心した。

 そうそう、女房に聞いたところ、居間の10数匹のネコたちは、緩やかな揺れの時には、まったく変化を示さず、建物がゴトゴトと軋み始めて、ようやく起きたらしい。
 ネコは目に見えぬ物に、注意が行かない生き物....逆に言うと、目の前の物しか見えない生き物である。じゃらし棒の先端のように。

 

 



2003年05月25日(日) 天気:曇りのち晴れ間 最高:15℃ 最低:6℃

 懐かしい男からメールが来た。肉声ではないが30数年ぶりの音信である。彼との最後の会話がいつだったのか、どんな内容だったのか、まったく記憶はない。

 メールにまず記されていた思い出は、それぞれが違う道を歩み始める1年も前の事だった。それは、私もよく覚えている。同じ高校の何人かの連中、そして近在の連中に声をかけての平和運動を、ただただ夢中になって行った事に関してだから.....。

 そして、それが問題になった。北海道の片隅の高校生が行う事自体が異端視され、思想に問題あり、とされた。
 高校の図書館で見つけて私のよく読んだ本に、三一書房の高校生新書があった。その中の1冊に、高知県の高校生が教師とともに学力テストの反対運動を繰り広げた記録があった。
 この1冊は、私のバイブルのようになり、共同行動の素晴らしさを気づかせてくれた。それは、あくまでも前向きの共同意識であり、けして互いにぬるま湯に浸かって傷を舐めあうものではなかった。
 当時、私もまた、その本から立ち上る熱気と同じ空間にいると思っていた。

 今でも、あの頃の自分を誇りに思う。同級生に、教師に、そして公安の仕事の人間に、決定的な人格否定をされた事もあった。しかし、私には熱く語り合える仲間がいた、将来を良きものと展望するオポチュニズムの塊が揃っていた。
 メールの男も、同じ仲間だった。
 
 やがて高校を終え、それぞれの道を進んだ。彼の音信は数年後に銀座で聞いた。同窓の先輩と同じデモで出会い、そこで聞いた。確か沖縄返還の時だから72年の5月だろう。大学で、以前と同じように熱く生きていると知り、嬉しかった。

 そんな男のメールの後半に、久しぶりの音信の理由が書いてあった。
 高校生の私たちが、問題あり....とされた時に、心からの弁をもって助けてくれたA先生についてだった。
 A先生は、私の高校の教師ではなかった。同じグループに参加をしていた仲間が通う、近隣の市の高校に勤めていた。にもかかわらず、すべての生徒たちのために、身体を張って交渉をしてくれた。
 やがて、その熱意が伝わり、私たちは退学になる事もなく、そして、自分の意見を伝える為には、何が重要かを学んだ。そう、教条主義的なやり方こそが間違いだと。

 これは、今も私のテーマになっている。ムツさんを知り、「具体」の大切さを加えて、「二大信条」となった。

 そのA先生が、病の床に....とメールに書かれていた。
 そして、今は同じ街に住む彼が、週に2回ほど、まとめて私のこの拙い日記を届けていると。

 「お前のへたくそな作文を、嬉しそうに読んでるよ、もう起き上がるのも大変なのに....」

 その一行を読みながら、涙が止まらなかった。
 寒い風の吹きさらしの中で、私たちを身体の後ろに隠すようにして、いわゆる常識と渡り合ってくれた若きA先生のがっしりとした背が、頭の中に蘇った。あの大声が響いた....。

 『先生、ありがとうございます、光栄です。今は、ただ病気との良き付き合いを..。あの時のように、こちらに引き込み、仲間にしてしまいましょう。離れた地から、生意気ですが、今度は私がエールを送らせていただきます』

 今日も、犬たちは静かに寝ている。
 53の男の棲む家は、満腹の子犬たちのように、穏やかな夜を迎えている。

 

 

 
 
 

 



2003年05月24日(土) 天気:曇り 最高:11℃ 最低:6℃

 2002年
  
 8月18日〜9月7日    21日間  16個
 9月8日〜9月21日    13日間  休み
 9月22日〜10月10日  18日間  13個
 10月11日〜11月5日  25日間  休み
 11月6日〜11月21日  15日間  10個
 11月22日〜1月25日  64日間  休み
 
 2003年
 
 1月26日〜2月15日   20日間  16個
 2月16日〜3月7日    19日間  休み
 3月8日〜3月18日    10日間  9個
 3月19日〜4月7日    19日間  休み
 4月8日〜4月27日    19日間  16個
 4月28日〜5月13日   15日間  休み
 5月14日〜              産卵中

 私が、女房に叱られてコツンとされたタンコブの数ではない。犬に転ばされて出来た青アザの数でもない。もちろん、胃に入った果物の数字でもない.....。

 これは、我が家の番犬ならぬ「番鶏」コッケイの正妻であるウッコイ(ウコッケイ種)の産卵数である。

 産卵を始めたのが昨年の8月、その時から女房は密かに記録をしていた。それを眺めているうちに、ひとつのリズムに気づいた。
 見ていただくと分るように、ある時期まとめて産み、そして休憩期間を間に入れて、また産卵をする。見事に、この繰り返しになっている。

 私が読んだ本では、ウコッケイは産卵数が少ない鶏で、その卵は貴重であり、デパートでは1個300円〜500円で売られている。
 普通、1週間で1〜2個、1年で50個までは産まない....と。

 この記憶がこびりつき、ず〜っとそれが正解だと思ってきた。
 落ちついてよく考えれば、これはおかしいと気づく。もっと家禽化されたニワトリだって、シーズンで産卵数が変化する。基本的に、寒い冬に卵を産まなくなるのは当然の事だ。そして羽替わりの時期も....。

 この1年間の記録を見ると、平均して20日前後のリズムを読み取る事ができる。その日数はヒナが孵化するまでに掛かる抱卵の時間にほとんど一致する(21日前後)。
 そうか、個数は、毎日人間が回収しているために、産み足しの形で増えているが、本来ならば、産卵は抱卵の開始を意味している。
 従って、ウッコイに重要なのは、1個目を産んだ日からの3週間なんだろう。

 行動的にも、まさにそれを示している。ある程度の休憩が終わり産卵が始まると、ほとんど餌を食べずに産箱(ウッコイは決められた物を持っていないが)に入り、その卵を人間に取られても、同じ姿勢で過ごし、翌日、また新しい卵を腹の下に抱えている。
 
 とにかく、ヒナを孵すための作業に没頭する。胸から腹部へかけての羽は抜け、膚が見えるような姿で、懸命に母親になろうとしている姿は、実に一途で、卵を奪うのがためらわれる時もある。まあ、私は、大好きな卵掛け御飯のために、ありがとう、と言って回収しているが。

 面白いのは、この作業が雄鶏の行動にも影響を与えている事だ。
 卵抱き期間に入ったメンドリを守り、近づく私や女房に攻撃の姿勢を見せるのは、まあ当然である。
 最近は、その前日が面白いのに気づいた。

 今回の産卵シリーズで言えば、5月13日の午後の事である。女房は、ヤギのメエスケに牧草を与えようと、ブロック型の乾草を積んである車庫に入って行った。
 一抱えを運ぼうとした時に、車庫の前にパラパラと草が落ちた。その様子を見たコッケイが、10メートルほどを全速力で走って来た。
 横で私は、何が始まるかと、静かに眺めていた。
 コッケイは、嘴と脚で、地面に広がる牧草をまとめ始めた。絶えずコッコと音程の高い声で鳴いている。これは、メスのウッコイを呼ぶ時の音調だった。

 メエスケに草を与えた女房が戻って来た。もったいないと落とした草に手を伸ばそうとしたその時、

 『コッコッコッ!!』
 
 一段と高い声で鳴き、コッケイは女房のすねに蹴りをくわえ、嘴で突いた。

 『こら〜、何するのよ、さっき餌をあげたでしょ、私が.....』

 適当にいなしながらも、女房はコッケイの迫力に、草をそのままにした。コッケイは何となく円形に草をまとめてしまった。

 『お父さん、明日あたりから、ウッコイが卵を産むと思うよ....』

 まさに、その通りだった。
 翌日、ウッコイは牧草の隅に産室を作り、その中でうずくまり、1時間後に久しぶりの卵を産み落とし、そのまま抱いていた。
 それを知らせてくれたのも、コッケイだった。明け方の雄叫びとは違い、連続した鳴き声で、激しく叫んだ。
 まるで、自分の子供の誕生を喜ぶ、父親の歓喜の踊りのようだった。

 まだまだ手元のデータは少ない。ウコッケイ全体を示す論とは言えないかもしれない。
 しかし、普通のニワトリとは異なり、祖先の判明していない神秘の家禽「ウコッケイ」の一部分を知り、なんとなく嬉しい私である。
 明日の朝食は、また卵掛け御飯にしよう、感謝とともに.....。



2003年05月23日(金) 天気:薄曇りそして煙り晴れ 最高:16℃ 最低:4℃


 霧と霞みのダブルパンチを受けて、今朝の太陽は姿を見せずに登ってしまった。
 書斎の窓からは、カリンやコッケイたちがいる車庫、その前のシバレの小屋、奥のカザフの小屋、そして、手前のカボスとマロの小屋が見える。
 
 東の方角が明るくなってきても、彼らは大地の上で臥せるかたちで眠っている。
 やがて、カラスがやって来て、車庫の前に落ちている、昨日の鶏たちの餌の残りを探し始めた。目の前30センチの所で動いているのにもかかわらず、柴犬のシバレは微かに目を開けただけで、脅す動きは示さない。今やハシブトガラスのオスは、すっかり顔なじみの黒い鳥となっている。

 何杯目かわからないコーヒーを大きなマグカップに入れ、それを抱えて窓際に立ち、カボスの寝姿を見た。50数キロの大きな身体を仰向けにし、まさにヘソ天の形で眠っている。
 間もなく満2才を迎えるが、いつまでたっても子犬の心と動を備えており、誰からも愛される犬になってくれた。

 カボスは後肢が悪い。股関節と言うよりも、もっと下に問題がある。しかし、重度ではないために、駈けもジャンプもでき、ワンパクなサモエドのオビと対等に渡り合える。
 
 レオンベルガーという、大きくも愛玩犬としての歴史を持つ犬種ゆえに、あまり争いは好まない。このカボスに限っては、いわゆるケンカをした事が、1度もない。
 まあ、母親のベルクもそうだが、とにかく平和を望み、強圧的な犬が来ると、先ず、自分から頭を下げ、手揉みをして争いを避けている。
 
 これは偉大な犬種特性であり、レオンベルガーを飼う人は、心して、これを生かす育て方をしなければならない。
 と、大袈裟に書いたが、実は簡単な事である。要するに、幼い時から人間(あらゆる年齢の)だけではなく、犬、ネコ、鶏、アヒル、どんな生き物にも会わせてやる事である。これによって、彼らの豊かな協調性に磨きがかかる。

 夕方、すべての犬たちを引き連れて散歩に出た時に、カボスの姿だけがなかった。

 『カ〜ボ〜ス〜!!』

 『お〜い、コラ〜、カボス!!』

 私と女房は、原野だからこそ可能な大声で、姿の見えぬカボスを呼んだ。声が大き過ぎたのだろう、数百メートル離れたカラマツ荘の犬たちが吠え始めた。

 しばらくすると、我が家の方向から牧草地にカボスが出て来るのが見えた。何か足元を気にする動きだった。
 緑がようやく見え始めた畑の中央に進むまでに、足元にネコ
がいるのに気づいた、アブラ2世だった。
 2匹は、互いに絡み合うように進み、やがてカボスが草の上に寝ると、今朝、私が見たように仰向けになった。
 そのカボスの顔、首、そして腹に、アブラの口が向き、時には腹の上に乗っていた。

 カボスは起き上がると、少し進んでは立ち止まり、後ろからついて来ているアブラ2世を待った。互いの鼻先が近づき、そしてカボスが大きな舌でアブラ2世の身体を舐めた。
 それを受け終えたアブラ2世は、跳びはねるような動きで10メートルほど進み、振り返ってカボスの接近を待った。

 私と女房は、異様な赤に染まった西日の中で繰り広げられる2匹の光景を見続けていた。周囲の犬たちは、それぞれ勝手に遊び、ムツさんの家を訪問していた。

 犬とネコその競演は、散歩を終え、他の犬たちを繋いでも続いていた。



2003年05月22日(木) 天気:晴れ 最高:15℃ 最低:−1℃

 どうも、シベリアかどこかで大規模な森林火災が起きているらしい。そこで舞い上がっている煙りの影響で、北海道、東北の太陽は、白い霞に覆われている。
 
 中標津は、まさにそんな天気だった。町のシンボルである武佐岳はくっきりと見える、しかし、太陽が出ているのにもかかわらず、空は眠た気な表情で広がっていた。
 探してみても雲はない、まるで黄砂の時のように、霞んでいるだけだった。

 午後、役場に出かけた。
 何故か、もっとも役職に相応しくない人間を自認している私に、教育委員会からの指名で「生涯学習委員(社会教育委員)」なるものに任命されて4〜5年になる。
 まあ、あなたは一生、勉強をしなさい、という役場の親心と考え、何か私でもできるならばと、引き受けている。

 今日は、年度始めの全体会議と、個々のセクションに分かれての分科会が行われた。
 最初に委員会に顔を出してから、随分と雰囲気が変わったな〜と言うのが、最近の感想である。
 その大きな理由は、町の予算である。今や、どこでもそうだろうが、財政がピンチの自治体ばかりである。不景気による税収減に加えて、バブルの頃にどんどん借金をして立派な建物などを作ったツケの支払い、そして、僻地ほどダメージの大きい国の交付金の減額が、トリプルで押し寄せて来ている。

 従って、教育長の挨拶も、先ず、そこに触れ、だからこそ知恵を...と続く。

 しかし、ある意味でこれは大きなチャンスではないだろうか。そう感じるのは私だけではないのが、分科会ですぐに分った。
 そう、皆さん、真剣にアイデアを出し、事務局からの提案、報告を検討し、何とか工夫で処する方法を探るのである。

 まだ、財政状況にひっ迫感を抱いていない時期は、何となくシャンシャン会議になりがちだった。それがハンデを背負う事で、何とか抜け出そう、成果を見つけようとする方向に変化した気がする。

 本当ならば、順調な時にこそ、次ぎへの備えをしておくべきだろう。だが、これを望むのは、なかなか難しい。お祭りがあると、つい参加してしまいがちである。
 それでも、目の前の状況に屈する事なく、次への希望を語り合い、それを実現すべく知恵と時間を費やすことは素晴らしい。
 まだ、具体的な成果は見えていないが、1年後の会議では、一つでも良い、達成感を感じてみたいものである。
 もちろん、そのためには私も責任を持って行動をしなければならない。

 因に、私の加わっている分科会は、学校教育である。
 昨年から給食に関わる事を論議している。そこからは、まさに今の日本の抱えている問題が見える。この北の果ての町でさえ、子供たちの朝食だけをとってみても、東京と同じデータが出て来る。
 
 「何故、朝食を食べてこないか....?」
 
  の答として、
 
 「親が用意をしない」
 「親が寝ている」
 「ダイエット」
 
 などが並ぶのである。

 そこに「食」という、生き物にとって最も重要な問題に食い込んでいく仕事、これはけっこう面白いと私は感じている。



2003年05月21日(水) 天気:快晴、曇ってまた快晴 最高:18℃ 最低:8℃

 事の発端は5月6日だった。

 三毛ネコの「エ」に発情の兆しがあり、どうしても「三毛・短尾、曲尾」のネコが欲しい私と女房は、待ってましたとばかり、エをキツネ舎に移動した。

 ここには、キツネだけではなく、ウサギ3匹、そして「オト」「アニキ」「クロ」の3匹の兄弟オスネコも住んでいた。クロの尾はやや長めだが、オトたちは見事な短尾で、江戸の昔からの日本ネコそのものを示している。

 残念ながら、交尾は確認していないが、徐々にエも馴染み、何度かオスたちが乗る姿勢をとっていたのは見た。
 やがて、エの尾の付け根を刺激しても反応を示さず、オスたちも無関心になった。
 
 5月15日、私たちはエを我が家に戻すことにした。

 女房が、エを抱きかかえて連れて来た。晴れて心地よい日であり、裏の桜が花開いた嬉しい時だった。口笛か鼻歌が出そうな愉快な気持ち......。

 それが油断だった。
 エが、勝手口の周囲で吠え始めた犬たちの声に緊張を示した。抱いている女房の手に後ろ足を突っ張り、もがいた。
 それを見た私は、勝手口まで7〜8メートルであり、そこは開放されていて、仲間のネコたちもフラフラと太陽の下に出ているので、エは必ず我が家に戻るだろう、と思い込んでいた。

 『もういいよ、放して...、自分で帰るよ...』

 そう、確かにエは帰った。それは、10日前までいた我が家ではなく、しばしの時間を過ごしたキツネ舎だった。
 全速力でキツネ舎に戻ったエは、そこのドアが閉じていると気づくと、今度は、まさにパニック的な走りで、我が家の裏を駈け、動物用の台所の床下に入った。
 そこは半分が車庫になっており、ヘアレス犬のカリンやサモエドのラーナが繋がれていた。

 いくらネコに慣れている犬でも、パニックで走るネコには、当然、注意が向き、吠えてしまう。
 恐怖の真只中に落ちたエは、いくら甘い声で呼んでも出て来なかった。

 その夜、女房が、いつもキツネのルックが来るコンポストの横に、エが伏せているのを見つけた。
 声を掛け、近づいた....。
 その時、再び犬たちが吠えた。エの姿は桜の大木の沢に消えた。

 次に姿を見たのは、昨夜の、と言うか、今朝の1時30分頃だった。犬たちの声に外に出てみると、ヤギのメエスケの柵の上で、じっと座ったままのエがいた。
 女房を起こし、挟みうちの形で近づいた。暗闇である、懐中電灯を仕方なく使っていた。
 その光がエの姿を照らし出した時、犬たちの声がよりけたたましくなった。

 エは女房の足元を駈け抜けて闇に消えた。

 そして、今日の夕方、女房は、浜中のタカハシくんが届けてくれた、今年初めてのタラの芽をテンプラにしていた。
 気持ちは、鍋の中と、すぐ横にある窓から見えるコンポスト周辺の風景に半分づつ向いていた。

 『おとうさん、いる、いる、エが帰って来ている....』

 今日の作戦は、エの仲間たち、そう、我が家の室内ネコすべてに頼む事にした。
 
 私は勝手口を開放した。
 
 こんな時間に戸を開けてもらう経験のない連中は、けげんな顔をしながら、あせる私と女房の心も知らずに、のんびりと戸口から外を眺めていた。

 『ほらっ、小次郎、行ってよ、エを連れて来て、何してるの....!!』

 女房の声は、殺気だってきていた。

 5分もたったろうか、小次郎が、続いてパドメがフィラが、それを見たチャーリーが、カールが外に出た。
 私たちの気持ちが通じたと思いたい、小次郎は真直ぐエの近くに行った。
 エは逃げずに、小次郎の動を見ていた。
 そこにカールが追い付き、横にあるミズナラの木に競うように登り始めた。エは、それも動かずに見ていた。

 今、小次郎たちを呼び戻せば、エもついてくるのでは、そんな希望をもって私は勝手口からサンダルで出ると、優しく名前を呼んだ。

 カールたちは戻った。しかし、エは逆に5メートル身をひき、ササの葉に隠れた。

 『だめよ、おとうさん、人間が恐くなってるんだから、待たなきゃ...。小次郎に任せようよ...』

 これが正解だった。

 タカハシくんが摘んできてくれた、せっかくのタラの芽の味もよく分らぬ夕食を済ませ、またまた逆転劇を展開している阪神の試合を目の端に入れ、待つ事1時間30分、カールが勝手口から駈けこんで来た。そして、2秒後にエの姿が居間の床の上にあった。
 
 女房が戸を閉めた。その姿を見たエは、階段を駈け上がり2階に逃げた。
 もう一度、勝手口を開け、外に残っていた小次郎たちを入れ、先ずは作戦が大成功で終わった。

 エの人間不信は、1時間ほど続いた。
 いや、人間と言うべきではないかも知れない。その場所に対する恐怖である。人間はそこに付随した存在のような気がする。
 もちろん、そうではないネコもいる、たとえばアブラや小次郎たちならば、もっと客観的な観察力を備えており、どこで出会っても、私や女房の声だと認めれば、尾を立てて挨拶をし、啼きながら寄って来る。

 しかし、本来のネコは、「慎重さ」「警戒心」「臆病さ」...これらによって生き延びるタイプの生き物である。エの姿はけして異常な事ではない。

 これに関しては、掲示板等に何度も書き、講演では皆さんに注意を呼び掛けてきた、

 『どんなに慣れているネコでも、外出の時、たとえば病院に連れて行く時などは、キャリーバッグに入れて下さい。抱いて来て逃げられ、行方不明になることが、ものすごく多いのです...』

 などと.....。

 ああ、今回の件で、私は自分に対して、もう一度、ネコとは何かを聞かせてやらなければならない。
 
 何となく恥ずかしく、この日記に書く事ができないでいた「エ」の事件、今日、無事に解決した。

 今、女房が嬉しそうに書斎に入って来た。

 『呼んだら、啼いて応えて、そして寄って来た。缶詰をバクバク食べている。ほらっ、コレッ!!』

 女房の手の平には、大きいので7ミリほどの虫が7つ乗っていた。まだ動いているものもある。
 それは、エの身体にしがみつき、血を吸っていたマダニだった。
 



2003年05月20日(火) 天気:曇りのち薄日 最高:20℃ 最低:6℃

 朝一番の仕事は、昨日のアイガモの卵を確認することだった。ついでに犬たちの散歩と思い、女房と二人で第一陣16匹を引き連れてムツさんの家の方に向かった。
 
 左手の沢の斜面に咲いているエゾヤマザクラの大木は、どうやら満開に近くなってきた、しかし、牧草地に面した林の際の桜は、まだ蕾の先にピンクを覗かせている程度、さらに進んで、ムツさんの家から100メートルほど手前の道沿いにある古桜は、ピンクの気配すらなかった。
 いつも思うが、風の当るところの樹木は、林や森のものよりも大きなストレスにさらされており、生き残るためには一層の頑張りが必要なのだろう。

 風に向かって立つ事の難しさと、それが花開いた時の素晴らしさ......。周囲に隠す樹木も、似たような木もない状態での屹立なるがゆえに、たとえ花が遅くとも、独り立ちの樹木は雄々しく見える。

 犬たちは、すべてフリーである。オビとシグレ、そしてカボスは互いをターゲットに絡み合い、マロやセンは臭い嗅ぎと小便に忙しい。
 やがて、ムツさんの家の犬たちが迎えの吠え声を響かせると、16匹は一斉に駈け始めた。
 その中から1匹、シグレがアイガモの卵の場所に向かい、鼻を草に向けて嗅ぎ始めた。

 『シグレ、おいで、だめよ、食べちゃ!!』

 女房が、あわてて声を掛け、シグレを呼び戻した。

 西洋梨とヒメリンゴの木の間に卵があったはずだった。二人で探すと、それは、昨日、確認の後、カラスが隠したように置いた、その位置にあった。

 『見て、見て、ほらっ、きれいに食べている...』

 女房が手にとって示した卵は、料理の上手い人間が割ったように、見事に中央で二つに分かれていた。もちろん中身は空である。

 『この食べ方は、犬やキツネではないね、クチバシで割ったんだろうね』

 どんな宝物と思ったのか、オビが跳び付き、殻をくわえた。本能的に食べられると分ったのだろう、あっと言う間に胃の中にカラスの残り物は消えた。

 夜、「ムツゴロウのゆかいな動物王国」のタイトルでTVの放映があった。
 4月の末に撮影をした我が家の柴犬の子犬たち、オビなどが出ていた。中には、このシリーズの歴史を物語るように、髪の黒いムツさん、そして私が登場するシーンもあった。
 どうも、身体のどこかがくすぐったい気になるが、これも生き物たちと繰り広げてきた会話の証しと思い、別人を見るような気持ちで眺めた。

 番組の中で、中国で撮影されたパンダの出産、育児の記録があった。ムツさんから、これは素晴らしいよ、あらゆる意味で....と聞いていた。

 150グラムの誕生、それも双児の産声から、身体の黒毛の部分がはっきりと黒になり、やんちゃになって母親と別れるまで、映像はたんたんと続いていた。
 
 誰もが知っているように、パンダは希少動物である。それも数が1000頭と言われる絶滅危惧種である。世界中の動物園はもちろんの事、生息地の中国では国家プロジェクトとして保護活動が行われている。
 その試みのひとつとして、撮影された所では、積極的に人工哺育を取り入れていた。それも、100パーセント、人間が行うのではなく、母親との共同作業としてである。

 これは、素晴らしい事である。
 野生の生き物は、遠くで眺め見守るだけでは、どうしても分らぬ事が多い。それを手元に引き寄せ、互いに信頼を築き、心を繋ぎあって共に暮す事で、彼らは真実を緊張なしに見せてくれる。

 そして、もっと凄い事は、異様な消毒環境でプロジェクトを行っていない事である。
 人間の手がどんどん介在し、床はふん尿の跡があり、ミルクの与え方もダイナミックだった。
 普通の生き物は、このような状況でこそ強く生きる力を身につける。これが、隔絶した滅菌環境だったならば、基礎的な免疫力は望めず、一生、清潔空間が必要になり、とても山に還すことなど望めない。
 その意味で、この施設では、まさに命と命が付き合っていた。嬉しかった。

 乳首を包み込む形になったピンクの舌、なんとも言えない手足の爪、そしてクリクリとした瞳、さらに、あの啼き声....。
 何頭か、子グマを育ててきた王国で暮して来た者として、懐かしさでニコニコになってしまった。
 
 そして、中国でのこの試みは、必ず成功する、そんな気持ちで、またまたニコニコになったのだった。
 



2003年05月19日(月) 天気:曇り夜になり小雨 最高:12℃ 最低:7℃


 夕方の犬たちのフリー散歩の時に、先に第一陣を連れて帰ろうとしていた私を、遠くから女房が身ぶりで呼んでいた。
 すでに、帰路につく事を察知し、その気持ちになって我が家の方へ先を争って駈けていた連中が、私のUターンに戸惑い、一瞬の間、動を止めて確認をしてきた。

 しかし、彼らも家路よりは家から離れるほうを好む。どうやらまだ遊ぶことができるらしいぞ、と元気復活、たちまち、私よりも早く、ウンコ拾い用の十能とバケツを下げた女房の所に駈け戻った。

 『おとうさん、ここよ、ここ、見て見て....』

 女房が言葉を繰り返す時は、少し興奮が入っている。
 ジャーキーでも持っているのではと、盛んに指にまとわりつく犬たちを避けながら、女房は、ムツさんの家に続く道沿いに植えられたヒメリンゴの木の根元を指し示していた。

 『何かあるの、そんなとこに、リスの穴?』

 私からは、単なる草しか見えなかった。まだ新しい葉は短く、せいぜい5センチ、ようやく緑がかってきたところだった。

 『ほらっ、これよ、これ...』

 待切れなくなったのだろう、女房が草の中から白い物を取り出した。

 『タマゴ?その大きさだと鶏じゃないね、あっ、アイガモだ!!』

 『先に行ったシグレが、ここで匂いを嗅いでいたの、名前を呼んでも戻らずに、しつこく....。そのうちセンも来て、近寄ろうとしたら、シグレが怒って....。何かと思ったら、草の陰にコレがあったのよ....』

 その場所を見ると、明らかに誰かが作為をもって隠した(草に埋めた)状況だった。そして、その犯人を考えるとカラスしか思いつかない。

 『カラスだね。それにしても、随分遠くまで運んで来たんだ...』

 『でしょう、ヤマちゃんのアイガモたちから直線で500メートルはあるでしょう』

 アイガモたちの小屋は、隠されていた所から馬の放牧されている林を挟んで東の方向にあった。その手近な場所に隠さずに、わざわざムツさんの家への道路脇に運んでくるのは、何か意味があるだろう。

 我が家のハシブト夫婦の場合は、今、卵を温めている巣から100メートル以内の場所にジャーキーなどを隠しに行く。樹木の枝分かれをしている所だったり、笹薮だったり、後は、道路の....そこまで考えて思いだした。そう、彼らは盛り上がった道路のノリ面に餌を隠すのが得意な事を。
 それを電柱や樹木の上から見張っていることが多い。

 鶏のよりは大きく、そしてアヒルのよりは少し小さくて殻の真っ白な卵を手に、女房は独り言のように聞いてきた、

 『どうしようか、コレッ...』

 シグレが自分の見つけた宝物を返せとでも言うように、盛んに女房の卵を持つ手に向かってジャンプを繰り返していた。

 『そこに戻そうよ、大切な保存食だろうから、カラスには.....じゃあ、犬たちを連れて行くから、そっと置いてきて....』

 私は、シグレをリードで繋ぎ、他の10数匹の犬たちに声を掛けて、今度は本当に帰路についた。シグレは何度も後ろを振り返り、そのたびに私にリードを引っ張られた。

 おそらく100グラム以上はあるだろう、その卵をくわえて来て隠すところを一度は見てみたい、そんな気がする事件だった。



2003年05月18日(日) 天気:曇り、まれに晴れ間 最高:13℃ 最低:4℃

 夕方、犬たちの賑やかな散歩を済ませ、食器の後片付けやら、水おけの入れ替え、鶏たちを小屋に入れたりなどと、すべての作業が終わっても、まだ空が明るかった。時計は6時が近いと示している、私は庭の長椅子に腰を下ろし、煙草に火を着けた。
 冬の間は午後3時を過ぎるともう夕方である。その分を取り戻すべく、最近は、何となく戸外にいる私だった。

 一旦、家に入った女房が、果物ナイフと籠を手に出て来た。それを見ただけで、今夜のメニューが浮かぶ、おそらくギョウザにチャーハンである。

 家の裏の沢に向かう女房を確認し、私は生後4ヶ月を超えたサモエドのオビを見た。
 6帖間ほどの囲いの中で、オビもまた私を見ていた。
 私は軽く頷いた、その瞬間に、オビはバネ仕掛けの人形のように跳ね上がり、前足を金網に掛け、鼻を鳴らした。

 オビと1対1のスペシャル散歩を始めて数日後、この反応が出て来た。最初は目が合っただけで、いや、合わなくても私の姿が近づいただけで大騒ぎをして「出せ!!」と啼いていたオビが、出してもらえる時とダメな時を見分けるようになっていた。

 これが、群れの仲間たちの中から、1匹だけを連れ出す依怙贔屓作戦の効果である。1対1の時間の中で、心を読む事を覚えていく。

 私がオビの戸に手を掛けると、一斉に他の犬の視線が集中し、無言で熱い希望を寄せてきた。
 でも、スペシャルである、オビだけをフリーにして女房の消えた沢に向かった。オビは元気に駈けながらも、チラチラと私の進もうとする方向を確認していた。

 『ウッ、ウッ、ウ〜!!』

 中腹でオビが足を止め、耳と目を沢の下に向けて小さな声で唸った。
 腰を屈めてナイフを使う女房の姿が、私にはシルエット気味に見えた。

 『何言ってるの、私でしょ、オビ!!』

 女房のその声を聞けば、オビの心の中の問題は解決である。耳を後ろに倒し、転がるように沢を下って行った。

 籠の中には、すでに、かなりのギョウジャニンニク(アイヌネギ)が入っていた。切り口からの独特の匂いが私の空腹を刺激した。

 『今年は、また株が増えたようよ、ほらっ、そこにもいっぱい....』

 動物王国に加わって、ふたりとも30数年、毎年、春になるとコレを摘み、食べてきた。
 しかし、採取する場所は、私たちが中標津に越してからも、すべて浜中の山だった。
 これには、実は理由があった。

 私たちが暮す中標津の牧場の林や沢にも、この野草はあった。まあ、商売で採取するのではなく、自家用で食べるのなら、10家族で採ってきても大丈夫な群生の数だった。

 しかし、もっと増やして、林や沢を歩く時は、足の踏み場もないほどにする、と宣言し、「しばらくは、採っちゃダメヨ!!」と宣言した女性がいた、「エッチャン」だった。

 私たちは彼女の想いを守り、越して10数年、犬たちと川に散歩に行く時も、目と鼻からヨダレを流しながらも、じっと耐えて、見えぬ振りをして先に足を進めてきた。
 もし、靴ひもがほどけても、そこでは結び直さず、笹原に出てから改めただろう。
 「李下に冠...」に習い、「ネギに靴ひも」の心構えである。

 そうこうするうちに、牧場の林や沢の野草地図が私と女房の頭の中に完成した。その毎年の変化にも敏感になった。

 『そろそろ、いいんじゃない、根まで掘るのではないから,....』
 
 昨年の今頃、女房が言った。私も頷き、もっとも元気の良い群生から3度に渡って、美味しいギョウジャニンニクを採取した。
 
 今日、女房が切り取っている所は、昨年の場所から10メートル離れた群生だった。前回の悪影響などは全く見えず、早く美味しい時期に食べて....と主張しているように思えた。

 人間二人と自分だけが一緒....それに嬉しいオビは、ともすると群生の上を駈けようとする。声を掛けて場所から引き離しながら、私は心の中で、一昨年亡くなったエッチャンの顔を浮かべて呟いた、

 『こんなに増えたから、少し食べるね、いいよね、エッチャン...』

 ようやく日は沈み、風が収まっていた。



2003年05月17日(土) 天気:曇り 最高:11℃ 最低:6℃

 女房は、私のTVの見方を嫌う。カチャカチャとチャンネルを替えるからだ。ビデオで映画を見る時も付き合わない。そう、心象を丁寧に映し出すシーンなどは、早送りにしてしまうからだ。彼女に言わせると、その部分こそ女の好きな所よ....となる。
 
 しかし、私は、一晩で数本の借りてきたビデオを処理しようと、ひたすらストーリーだけを追ってしまう。なんと情緒のない鑑賞法だろうか、反省!!

 今日の夕食は19時30分頃に始まった。室内に完全に馴染んできたアブラを先頭に、食卓の上に並んでいる物を狙うネコたちと闘いながら、私は、巨人・阪神戦とサッカーを交互に見ていた。
 
 やがて20時、衛星放送で映画が始まった。犬が活躍する例の「スポット(See Spot Run)」である。
 これも見逃せないし、緊迫の投手戦になっている野球も重要だ。もちろん私は、女房が2階へ逃げるのを承知でカチャカチャを繰り広げた。いや、サッカーも間に加わるから、カチャカチャカチャ....である。

 野球が阪神の勝利で終わったのを確認すると、私は映画に集中した。アメリカンブルドッグだろうか、主役のスポットが人気になったのも良く分る。この手のつぶれ顔は、真面目になればなるほど愛嬌があり、人間の心にじわっと染み込んでくる。

 すべてがハッピーエンドに終わり、新しいコーヒーをいれ、今、日記を書くために向かっている、この椅子に座った。
 先ず、自分のホームページを開け、掲示板を見た。久しぶりだが、よく見慣れた(聞き慣れた?)名前があった。それは、400メートルほど離れた隣の津山家の風花だった。

 その風花が知らせてくれた事件に関して、ここからは、掲示板と私の時計で確認した時間で追う事にしよう。
__________________________

20:26 フウカ発第一報
  サモエドのダーチャが、津山家の玄関の前に来ていると書か
 れていた。

21:05 フウカ第二報
  まだいます、いーしゃん(私の事である)、気づかないのか
 な、笑顔で玄関にいると書かれていた。

 この頃、私は映画の中で、スポットが脱走するシーンをニコニ
 コしながら見ていた。現実の事には気づいていなかった。

21:42
  映画が終了、新しいコーヒーをいれ、パソコンの電源をON
 記載を読み・・・ただただ、驚いた!!
  すぐに、電話ではなく、掲示板に「迎えに行きます」とフウ
 カに返信を書いた(21:45)。

21:47
  車のエンジンを掛け、ライトを点灯、照らし出された小屋に
 ダーチャの姿はなかった。

21:50
  津山家に着くと、玄関の前にヘラヘラと笑顔、そして尾をけ
 んめいに振るダーチャがいた。
  身柄を拘束、と言うよりも、車のドアを開けると、すぐに運
 転席に乗り込み、ハンドルに挟まれて動けなくなった。
  しょうがないので、抜け始めている冬毛を掴んで引き出し、
 後ろのドアを開けた、今度はすんなり乗り込んだ。

 居間の窓から覗いていた森と飛来に、「お姉ちゃんにありがと
 うと言って」と頼み、車を出した。
  後ろから、「バイバイ」と声が聞こえた。

22:00
  我が家に到着、本犬の小屋に繋ぐ。女房が待っていて、大き
 な声で、脱走の真実を聞かせてくれた。

 『おとうさん、夕方の散歩の時、繋ぎ忘れたでしょっ!!』

 その証拠は、小屋のひさしの板に打ち付けれれている釘に、ク
 サリの先端が掛けれれていた事である。クサリを切ったり、外
 しての逃亡・出張なら、クサリは地面にあるはずだった。

  これは、形勢が危うい、なるべく原因には触れずに、ただ、
 無事に帰った事と、風花の、ユーモアたっぷりのインターネッ
 トお知らせ作戦を話題にした。

  そんな事も知らず、ダーチャの心の中では、自分が普通で
 はない事をした、それは悪い事か知れない....と言う意識が
 生じていた。
  けして私と視線を合わせず、無理矢理に呼ぶと、目を閉じて
 斜め横を向いた。
 その姿が愛おしく、私はジャーキーをいっぱい与えた。

22:22
  ホームページの掲示板に、無事に保護、と書いた。多くの
 皆さんから、安心と笑顔(あのダーチャなら....という)の
 文章をいただいた。

23:05
  掲示板の私の説明は言葉不足、ダーチャが悪ものになっては
 可哀想....。
  という事で、私は、今日の日記に、この事件を取り上げる事
 にした。
____________________________

 
 もう一度書こう、ダーチャは何も悪さをしていない、私が繋ぐことを、確認を忘れただけである。
 
 午後、津山家の子供たちが自転車で遊びに来た。その時、ダーチャは繋がれており、大好きな子供たちと遊ぶ事ができなかった。
 それが、5時間以上にわたって津山家に笑顔でいた理由だろう。



2003年05月16日(金) 天気:薄曇り・冷たい風 最高:8℃ 最低:3℃


 王国3代目のオスとして我が家に残した、サモエドのオビが20キロに近づいた、おそらく来週には米袋2個になるだろう。
 生後140日、順調すぎるほどの成長ぶりだ。おかげで体力は満点、駈けることも、素早いターンも、体つきからは想像できないほどの見事さで、柴のシグレやラブのセンと対等に渡り合っている。

 そうそう、抜群のジャンプ力が脱柵を招いてしまったので、150センチの高さの新しい囲いに引越したのは、3週間ぐらい前の事だろうか。
 その囲いを、今日、移動した。理由は、穴掘りと齧りである。

 囲いの中が単純な土間では退屈だろうと、真ん中にシンボル
ようにハルニレの木を配置してあった。もちろん、根元の太さが直径50センチほどの生きている元気な木である。
 
 『おとうさん、オビ、悪い事を始めたわよ....!!』

 一昨日、女房が怒っていた。
 囲いの中に入ってみると、ハルニレの根元に30センチ四方、深さ20センチの穴が出来ていた。その穴に面した側の幹は、10センチ角に外皮が剥けていた。
 ため息をつきながら被害を確認している私の足に前足を掛け、オビは嬉しそうに尾を振っていた。
 この悪さは夜中の突貫作業である、現場に立ち会っていたわけではないので、怒ることはできない。

 『どうしようか、金網を木に回すか....』

 女房と対策を考えた、そして、結論が出た。
 要は囲いの中に木があるからだと、オビの住居の引越しが決定した。
 
 午後、私はオビの囲いをはじめ、たくさんの犬小屋やサークルの並んでいる庭を一望できる所まで後ずさりをし、落ち着いて見渡した。これは国王のムツさんが得意な手法である。全体から個々の適所が見えてくる。うまい具合に、風はもっとも冷たい北に回っていた。

 ダーチャの小屋の前.....ここは正面からの見通しを悪くする。景観的に失格である。
 
 母親のアラルやベルクがいるサークルの隣....車が通れなくなる。せっかくロータリーになっているので、これを生かさないと、バックで車が出て行く事になる。そうなると犬ネコやコッケイたちの事故が怖い、あくまでも周回できるようにしておきたい。

 思いきってロータリーの真ん中.....女房が、『だめっ、ユリと桜がある』、と拒絶した。

 結局、最後に落ち着いたのは、我が家から見て西の方角、ニワトリ小屋とタブの繋がれている2軒長屋の犬小屋、そして母親のサークルに囲まれた所だった。
 横には、ハンノキとミズナラの木があり、張り出した枝に葉が出ると、ちょうど日陰になるだろうし、北からの風は、タブの小屋で遮られていた。

 夕方の散歩を終えると、オビは新しい場所に置かれた囲いに入ることになった。
 ひょっとすると天才サモエドか、と思うほど利発なオビである(私個人の意見だが....)。私がいつものように左のポケットに手を入れて、

 『オビ、ハウスッ!!』

 と告げると、一瞬、元のハルニレの方に視線を送り、その後、グルッと見回して、移動した囲いに気づくと、なんと、素直に開いていた入り口から入り、赤い屋根の小さな小屋(まだ、1度も中で寝ているのを見ていない)の前で、見事なオスワリをして待っていた。
 もちろん、ジャーキーをつまんだ私の左手がポケットから現れても、ヨシッと言われるまで座ったままだ.....。

 この姿に感動をしないのは、飼い主ではない(まあ、気づくのも飼い主だけかも知れないが....)、私は、出していた左手をポケットに戻し、ジャーキーを3倍にして握り直し、あらためて差し出した。

 『だから重くなるのよ.....!!』

 見ていた女房が、あきれたように真実を語った。
 次の目標は25キロ、そして当幌川のカッパである。



2003年05月15日(木) 天気:晴れ 最高:16℃ 最低:4℃

 我が家から北斗星の方角を見ると、緩やかな下り斜面になり、ミズナラやカシワ、そしてダケカンバなどが、まばらに生えている。風呂場の窓から50メートルほどの所に、ひときわ大きな幹がある。背丈は隣のカシワに負けているが、太さと枝の張り具合では、周辺でナンバー1である。

 直径で80センチはある根元の幹から、主枝だけで7〜8本数えられ、そこから無数の小枝が分かれている。
 
 目覚めたらすぐにその木の所に行こうと決めて、昨夜は床に着いた。雨であろうと、霧が晴れなかろうと、とにかく、其所へ....。

 朝7時、玄関を出た。
 昨夜の濃霧は太陽の光に負け、かすかなもやを残して退散していた。湿った大地から陽炎のように水蒸気が上がり、それに犬たちの吐く息が同調して、逆光の中に、何本も白い煙りが立ち登り、空中に広がり、そして消えていた。

 「ひょっとすると、今日は散歩が早い?」

 そんな表情で、犬たちが起き出し、身体を伸ばすとともに、瞳で訴え、問いかけてきた。

 『違うよ、まだだよ、ちょっとオシッコ....』

 私は、朝1番に、今、太陽に向かって伸びようとしている植物たちに、貴重な肥やしを与えるのが好きだ。
 まあ、言い換えると、狭いトイレよりも、思うままに、方向も自由に放出できる立ちションが心地良いだけである。もちろん、寒い冬も...である。雪がキャンバスとなり、いつも自分の名前を黄色い文字で記す事にチャレンジしている。

 無事に用を足し、再び目的の木に向かって歩き始めた。
 足元に、キツネの新しい糞があった。これは、昨夜のルックのものだろう。あきらかに育児中のようで、乳首が目立つとともに、身体は、ますますみすぼらしくなり、通常の2倍の食欲を示している。糞の落ちていた場所は、ルックの通り道だった。

 棒切れで、1センチの太さの糞を崩し、中身を確かめた。ネズミの毛は見当たらない。きれいに消化された黒い粘土状の糞の中に、いくつかの植物性の物があった。小さな石、と言うよりも大きな砂粒も入っていた。

 糞あらためが終わり、その場から目的の木を眺めた。距離にして30メートル、手前のミズナラの枝が邪魔だが、それでも、昨日とは違う光景が見えた。

 エゾヤマザクラが開花した。

 根元に近い枝は、まだ赤茶色の蕾が主だった。しかし、薄い青空をバックに、高い枝の先端には、明らかに桜の花が咲いていた。
 いつもの事だが、咲き始めはピンクの色も濃い。まるで、ここにいるよ、とでも言うように、微かに私の方に首を下げ、同時に出ようとする葉を押さえて自己主張をしていた。

 それを確認しただけで、もう十分だった、大きな桜の木は、離れて眺めてこそ味わいがある。
 私は煙草を1本吸い終えるとその場から引き返し、女房に報告をした。

 『お〜い、裏の桜.....』

 『知ってるわよ、咲いたでしょ、昨日、そう言ったじゃない、明日だよっ..て。私も、さっき見てきたの....』

 女房は、桜が好きである。
 この場所に越して13年、毎年、林への散歩の時に、大きな桜の木の周囲を探し、小さな苗を見つけては我が家の周囲に移植している。
 最初は、枯れるだろうと思っていた苗木が見事に根付き、今年は新たに7〜10本の木が花を見せてくれそうだ。

 その元気付けには、生き物たちも役立っている。ニワトリやウコッケイ、そしてヤギや犬の糞も、遅効性の形でしみ込むように、工夫をして根元に置いている(女房に、桜の周囲での私の立ちションは禁止されているが)。
 おかげで、生長は極めて順調、私の実家から父が持って来たサクランボも、今年は実がなりそうだ。

 5月15日の開花.....平年より少しだけ早く、我が家にも本当の春の便りが届いた。



2003年05月14日(水) 天気:曇りのち雨、そして濃霧 最高:14℃ 最低:7℃


 予報では午後から晴れて来るはずだった。しかし、現実は雨、それもワイパーを速いほうにする降りになった。

 後部座席に乗せたサモエドのチロルは、10センチほど開けた窓から鼻先を突き出し、新鮮な空気が車内には足りないとばかり、雨粒に打たれて呼吸をしていた。確かにハンドルを握りながら、私はタバコを吸ってはいた。

 同じ中標津の町中にある広い公園に着いたのは、家を出て20分後だった。
 駐車場には8台の車が停まっており、目の前がパークゴルフコースの1番になっていた。周囲に人影はなく、この雨の中でも、熱心な人たちが回っているようだった。まあ、ゴルフの一種なのだから、自然の中で、自然を楽しんで行うスポーツとして当然ではある。

 すぐに2台の車がやって来た。ダイちゃん夫妻とIさん親子が、合羽を着て降りてきた。
 Iさんは、ややクリーム色に近い(1日前は真っ白だったが)、我が家のチロルとは違い、純白のサモエド、華(ハナ)を連れて来ていた。

 チロルとハナは同じ時に生まれた兄弟だった。父はカザフ、母はノエル、2001年の1月にインパクのライブ中継の中で産声を上げている。

 今日は、久しぶりに再会をする約束をしていた。あいにくの雨になったが、人間さえ耐えられれば、サモエドは肩から背にかけて簑のような長い毛を持っており、さらに水が大好きな性格から、雨はいとわない、予定通りのデートとなった。

 女房が、チロルをリードから離した。同時にIさんもハナをフリーにした。
 私たちは、次の展開をわくわくしながら見守った。

 ハナが駈けた、チロルも寄って行った。
 まだ葉の出ていないミズナラの林で、濡れた落ち葉の絨毯の上で、2匹は、ぶつかるようにして顔を寄せた。

 そして5秒後、2匹は、それぞれに5人の人間に尾を振って駈け寄り、耳を後ろに倒して挨拶をすると、あっと言う間に林の中に駈け戻って行った。
 チロルは、あちらこちらの匂いを嗅ぎ、腰をおろしてウンコをした。Iさんのシャベルでアッコ氏が片付けた。
 ハナはオシッコである。目を閉じ気味にして雨中夢想の表情である。その同じ所に、チロルも小便を重ねた。左足の上げ具合が見事である。風が吹くと、そのままひっくり返りそうな角度だった。

 2匹の間に、緊張はまったくなかった。
 互いを無視しているわけではない。1匹がしつこく同じ所を嗅いだり、小便のポーズを示すと、離れていた1匹が必ず駈け寄り、同じ事をする。

 そう、普段、ともに暮している群れの仲間と、ほとんど同じ姿なのである。
 これには、いくつかの理由があると思う。
 *匂いの記憶
 *知らない場所(ともにテリトリー外での出会い)
 *オスとメス(異性関係)
 *サモエドである(クリスマス犬)
 *社交性の完備(十分な経験)
 *雨(興味をひく様々な臭いが、水に融けて満ちている)
 *周囲の人間のおおらかさ(実は、ドッグラン等では、これも
  重要である)
    .......等々。

 Kさんが、自分のHPの日記で書かれていた....

 ・・・リードで繋がれているとガウガウになり易いのに、フリーだとそれが起きない・・・と。

 実は、ここに群れタイプの生き物である「犬」の真実が隠されている、私はそう思う。
 今、本当に雨後のタケノコのごとく全国にドッグランが作られている。それ自体は、大歓迎である。
 しかし、そこで展開される犬たちの「犬語会話」が、正しく人間に伝わるのか、その不安はある。
 ショーに出陳している犬が来ると、皆が緊張し、連れている犬をリードに繋ぐ....などと言うのは、滑稽を通り過ぎ、悲劇だと思う、何のためのドッグランかと.....。

 雨の中の「ミニ勝手にドッグラン」は、ようやく蕾の割れかけたヤマザクラの木の下も運動場に、寒さに負けて引き上げて来たパークゴルフの小父さんたちとともに、終わりとした。
 
 



2003年05月13日(火) 天気:曇りのち雨 最高:12℃ 最低:6℃

 幼い頃から、夢をよく見るほうだったと思う。
 
 93歳で死んだ祖母は、

 「トシアキは、よく悪い夢をみてはウナサレて、裸足で飛び出して行ったもんだよ...」

 と笑って言っていた。

 実は、それを私は覚えている。おそらく3〜4歳の頃だろう。自分の口からは、「怖い、怖い....!!」と言葉が出ている。しかし、頭と目は、私が走って行く先々で、鳴きながら羽をバタバタとさせて、あわてて逃げるニワトリやネコを認めていた。
 あの時、何が怖かったのか、それは今も不明である。

 夢見て駈ける少年は、大人になっても、オジサンになっても、相変わらず夢を見ている。
 もう庭を駈けてマロやコッケイたちを驚かす事はないが、それでも夢から「金縛り」への移行は時々起きる。そう、頭は覚醒しているのだが、身体が動かない....。落ち着けと言い聞かせながら、神経に命令を出す....、

 『右足の指先を動かせ!!』
 『左手を上げてみよう....!!』

 しかし、筋肉に指令は届かず、ひたすら煙草の煙りで茶に変色した天井を見つめながら、冷や汗と絶望と、そして現象への興味を同時に受け止めている。

 そうそう、幼児の時に、夜は外に飛び出さなかったように、このような夢をみるのは、90パーセント、昼寝の時である。
 どこかにシェスタを厭う反ラテンの血でも流れていて、それが昼寝に対する強迫観念にでもなっているのだろうか。

 今日、昼食後に飲んだ風邪薬がよく効き、いつの間にかソファで眠っていた。
 まるで襲い掛かるように、夢が頭の中で湧き出た。それは、30分後に、キツネ小屋の修理を約束していた女房が私を呼び起こすまで続いた。

 これも不思議な事だが、夢は時間を自由に超越し、自由に長いドラマを演出する。
 今日の主役は、ネコのネズミであり、その横に、オオカミ犬のタローや秋田犬のタム、そして幼い頃に実家にいた三毛のミケやらG・シェパードのマリ、さらには、ヒグマのどんべえに馬のゴンベと、まるでオールスター総出演のだしものになっており、目を覚まされても細かく覚えていた。
 内容は、言うならばドタバタ喜劇である。なぜかオス(去勢しているが)のネズミに陣痛が始まり、それを見守りに次々と、前述の連中が駆けつけ、やれ、昼飯がどうの、コーヒーが足りないの、ほら、破水したけれど出て来ない....などと問題が続発し、その処理を私ひとりに預けられて、マイッタ〜...と言うあたりで、女房に起こされた。

 夢の中で、みんな輝いていた。ネズミは襟巻きトカゲではなかった。ゴンベは快速を誇った頃の姿だった。ミケは、甘えを含んだ声で鳴いていた.....。
 
 懐かしい友人から、嬉しい電話が来たような、随分と得をした気分である。
 それを、確実にするために、夕食前に古いアルバムを開き、あらためて姿を確認した。
 忘れていた光景が、次から次へと蘇った。

 正夢と言う言葉を聞くことがある。
 私も1回だけ経験がある。もう20年も前の事だが、JRAの大きなレースの実況を前日に夢で見た。その結果で当日の馬券を購入したところ、それが見事に的中した。
 以後、期待すれども、レースの夢は月曜日にしか見ない......。



2003年05月12日(月) 天気:曇り時々霧雨 最高:11℃ 最低:6℃

 ネズミは今年で6才だった。

 ロシアンブルー....グレーの毛色が好きな女房が、望んで家族にしたネコだった。

 それまでは、何故か、王国でも、病院でも、ロシアンブルーは怖いと言われる事が多かった。
 確かに、10年以上も前にアメリカからやって来たカップルは、やたらと気が強く、他のネコも人間も、なかなか受け入れようとはしなかった。

 その不名誉にネズミは打ち克ち、
 
 『あらっ、ロシアンブルーも可愛いのね,.....」

 と、新しい伝説を作った。

 我が家で大人になった時に、結婚相手としてメスがやって来た。まだ生後5ヶ月だった。
 これまた人間が大好き、ベストカップルと思われた。
 
 しかし、ネズミはアメショーのワインを選んだ。

 2匹のサバトラが生まれた。
 メスのエンジェリーは東京へ、オスの小次郎は我が家に残った。しっかりとした体格、明るい性格は、この結婚の大成功を示していた。

 その後、ネズミは尿路系に問題が起きた。診断の結果、ニューハーフへの道を歩む事になった。
 同じ頃に、許嫁にも問題が起きた。子宮がなくなってしまった.....。

 あれほど楽しみにしていた、グレーの子ネコが見られない....、女房は、落胆していた。

 でも、元気に、大好きな林への散歩、犬小屋の上での日光浴、その姿があれば、私と女房には嬉しい事だった、そう思おうとした。

 そして、今日、ネズミは死んだ。

 『少し早いよ!!』

 箱に入ったネズミに、そう言った。

 先日、死んだラブラドールのチャコの隣に穴を掘った。
 スズメを追った時のように、全身で翔け登れば、まだ、追いつける距離だろう.....。

 気温9度、南東の風が強く、寒かった。

 数日前に、居間であいさつを交わした、外ネコのアブラが啼きながら寄って来て、しばらく穴の中を見つめていた。

 ネズミは、この間のように高めの声で「ニャ〜」と応えることはできなかった。
 動かず、女房の重ねたフキノトウに埋もれ、私の入れたネコ缶を抱いて眠っていた。

 沈まんとする太陽が、その部分だけ薄くなった西の雲を透かして形を示していた。
 
 その色は、私の腕を舐めてくれたネズミの舌、朱だった。
 



2003年05月11日(日) 天気:晴れ時々曇り 最高:14℃ 最低:−3℃

 かなり前に書いたと思う、そう、王国を旅立ったサモエドの飼い主さんたち何人かが、それぞれの想いを書き記した巡回ノートを展開されていると。
 
 主宰をされているのは、マロとウラルの子を飼って下さっているTさんである。同腹の兄弟だけではなく、兄姉弟妹、そして母親違いなど、マロの血を継いでいるサモエドたちの近況などがノートに描かれ、私と女房も、実家からと言う事で、拙文やら、マロの写真などで参加をさせていただいている。

 今は、確かにインターネットの時代である。このようにキーボードを打ち、写真を取り入れ、ポンと押せば、その数秒後には、世界中の方が見ることが可能になる。
 サモエドノートの皆さんの中にも、この私のHPに顔を出して下さったり、メールで写真を届けて下さる方がいらっしゃる。

 でも、皆さんが、自分のペンで、手書きの文字で、様々な報告、意見、質問を記されているあのノートは、私と女房には宝である。
 巡回してきたノートを、何日か手元に留めて何度も開く。
 その中に書かれた文章は、ネットの瞬時性とは異なり、熟し、発酵した形で輝いている。

 もちろん、インターネットをはじめとするITにクレームをつけているわけではない、その証拠に、私もこのHPを、とても大切にしている。
 集まって来て下さる皆さんは宝であり、誇りであり、感謝をしている。
 
 ある方が私に忠告を下さった.....
 
 『メールにしても、掲示板にしても、丸1日が限度ですよ。それ以上リアクションがないと、相手の中には、反感を抱く人も多いですよ....、忙しい方は、十分、気をつけて下さい....』

 そうなんだろうな〜と思いつつ、ハイッと返事はした。しかし、私は、これを守る事はできていない。おそらく多くの方に不満と不審を抱かせる結果を招いていることだろう。それに関しては、ただ頭を下げるだけである....。

 これが、瞬時性、即興性、いわゆるリアルタイムコミュニケーションだろう。そこでは、打たれたならば、すぐに響かなければならない。皮を張り替えたり、どの音を出そうかと研究する時間は十分にはなく、今、持っているもので勝負をするしか方法がない。
 
 ある意味で、これの対極にあるのが「サモエドノート」だと思う。
 前の方の文章を読んだ時には、すでにそこに記載された事柄からは、ある程度の時間の経過があり、それを読み、さらに噛み締める時間の後に、次の文章を紡いでいく....。
 これが6年以上に渡って続けられている。

 時代には合わないと言う方も、中にはいるかも知れないが、けしてこのスタイルは消えないと思う。
 いや、より重要な文章、たとえば恋文などでは、これこそ心打つ手法になっていくのではないだろうか。
 まあ、恋文は古かったかも知れないが、年賀状にしても、プリントアウトされた物の中に、一言の手書きの言葉があるだけで、何か、ほっとする....この感情は、これからより強くなるだろうし、ひとつのクリエイティブの形として、どんなに文明が発達し、瞬時性が大手を振っても永遠であるに違いない。

 さて、今日、そのノートの関東の仲間たちが埼玉に集まった。
 マロの子がいた、そのまた子がいた、カザフの子がいた、孫もいた....。
 暑さも控えめだったと言う。きっと、素晴らしいノート仲間のために、その方たちのサモエドのために、天も味方してくれたのだろう。

 昨年の12月初旬、このHPのオフ会と言う事で、同じ会場に私は立っていた。
 その土の上を、旅立ってから、まだ再会を果たしていない連中が駈けたと思うと、何か心が浮き立ち、祝いの酒を飲んでしまった。
 



2003年05月10日(土) 天気:晴れ時々曇り 最高:12℃ 最低:−2℃


 寒い朝が続いている。今朝も氷が張っていた。それでも太陽が顔を出していれば、何とか春の感じはしてくる。犬たちも小屋の陰に入り、穴を掘って備えている。

 順調に室内同居の訓練が進んでいる、外ネコのアブラを、今日は初めて夕食の時間にも入れておいた。アブラ2世は、夕方から何処かへネズミ捕りに出かけてしまったので、お姉ちゃんのアブラだけである。

 今日の人間のメニューは、ヒレカツだった。他に、サラダやら煮豆、煮染め(例によって昨日の残りである)、漬け物のたぐいが並んでいた。
 さて、アブラはどうするかな.....と観察をする以前に、私が書斎で本を読んでいる時から、女房の大声が聞こえてきた。

 『オネエチャン、ダメッ!!こら〜!!』

 『ハナも何やってるの....だめっ!!』

 拾ってから今まで、私も女房もアブラを叱った事がなかった。外で暮していたので、叱るチャンスがなかったのである。
 そのアブラは、実は強烈にいやしい事が良く分った。女房がヒレ肉を冷蔵庫から出した時から、いや、台所に立った時から、キッチンの上、レンジの横、女房の足もと.....等々、独特の甘え声を出しながらウロウロしていたのである。
 もちろん、その声と態度は、何か美味しいものをおくれ、と言っていた。

 『油を使っているし、危ないから見ていて....』

 私は、アブラ使用中につきアブラを監視しなければいけなくなった。
 
 いよいよ、食卓に並べる段階になると、アブラは先回りをし、テーブルの上で啼きながら皿が出てくるのを待っていた。先住の室内組のネコたちは、いちおう計算をし、私たちが食べ始めるまでは大人しくしている。
 しかし、素直に生きて来たアブラに、その心得を求めるのは無理だった。ハクサイの漬け物に鼻を寄せ、キムチはすぐに顔をそむけ、サラダのキャベツは軽く齧り、そして、本命のヒレカツが出てくると、一際高い声で啼き、何のためらいもなく口を付けた。

 『こらっ、ダメだよ、アブラっ!!』

 私の大きな声を聞くと、叱られ文化を持っている先住ネコはビクリとしてテーブルから降りる。
 しかし、アブラはまったく反応を示さず、私の手を乗り越えて、ひたすらヒレカツを目指していた。仕方がないので、強制的に足元に降ろしたが、そんな事に負けるアブラではなかった。すぐに、空いている椅子を台にして復活し、他のネコたちが呆然とする中で、とうとう直径5センチ、厚さ1.5センチの肉片衣付きを手に入れてしまった。

 このパワーを見て、私はアブラの生きる力を感じた。嬉しかった。
 「食べる意欲」.....これこそが命の基本と考えている私は、執念を持って食らい付く姿が大好きである。くわえて逃げ、近づくと唸り声をあげるネコなどを見ると、嬉しくて応援をしてしまう。
 そんな印がアブラの姿に重なり、一切れ少なくなったオカズで、私は美味しい夕食を食べたのだった。



2003年05月09日(金) 天気:雪舞いのち曇り時々晴れ 最高:10℃ 最低:−1℃

 書斎の窓から、我が家への取り付け道路を静かに入ってくる4輪駆動車が見えた。
 いつもの事だが、この車は庭には侵入せず、必ず30メートル手前の直角に曲る所に停車する.......そう思って眺めていると、やはり今日も気を使っていただき、ミズナラとカシワに囲まれた、少し開けたスペースに停まった。

 助手席と運転席からAさん夫妻が降りた、そして真っ白な犬が元気に登場した。我が家出身のサモエド、生後4ヶ月を過ぎたばかりのレヴンだった。

 我が家の犬たちは、朝の散歩が終わり、すべて庭先に繋がれるか、サークルに入れられている。
 30メートル隔てた所での犬の出現は、最高に怪しい事件である。すべての犬が吠え、クサリをストッパーにして立ち上がっている子もいた。
 
 「さあ、レヴン、どうする?!」

 私は、心の中でそう呟き、ニコニコとして硝子越しの光景を注視した。

 オビは尾を下げていた。耳を後ろに倒し、まるで我が家のダーチャになっていた。
 でも、ともに歩いてくるAさん夫妻に心はまったく向いていなかった。それは、1ヶ月前に来た時とは、違う姿だった。あの時は、尻込みし、奥さんの足の後ろに姿を隠そうとしていた。

 今日のレヴンは、先ず、一番近い所に繋がれていたカザフに寄って行った。肩を下げ、腰を落とし、「どうも、どうも、よろしくお願いします....」の姿勢を保持していた。
 カザフが鼻を寄せ、レヴンの身体を嗅いだ。レヴンは動かずに尾を足元で左右に振って挨拶確認を受けていた。
 見事に、父親との挨拶が終わると、今度は、その後ろに繋がれている、柴犬のシバレ、そしてラーナ、カリン、次にセン、そして祖父であり曾祖父のマロへと、順に挨拶を受けに回って行った。

 これだけ見れば、もう、私の心は弾み、顔は皺を増やして緩み、嬉しい時の煙草を手に、外に飛び出した。

 Aさん夫妻との挨拶もそこそこにレヴンを見ると、大きなカボスに盛んに尾を振っているところだった。
 我が家の居間の前側では、まだ臭い嗅ぎ挨拶の済んでいない連中が、これでもかと吠えていた。中央のサークルには、レオンベルガーのベルク、柴のミゾレ、そしてサモエドのチロル、アラル、さらに、レヴンにとっては仲良し兄弟であり、バトル相手のオビが入っていた。

 すでに、動き等で、母のアラルとオビは、侵入者がレヴンと気づいていた。

  『あっ、出た〜!!』

 待ちきれなくなったオビが、いつもの技を使ってサークルから飛び出てきた。レヴンも気づき、あっと言う間に2匹は重なり、転げ回り、枯れ葉と泥を身体中に付け始めた。
 2匹のバトルは無言で続いていた。

 その後の楽しい展開は、もう、どうでも良い。川や、居間の中で、レヴンは嬉しそうに、愉快に、そして心配りをもって実家訪問を過ごしていた。

 それよりも、普段は1匹だけの暮らしの中で、きちんと「犬語」をつかう事を忘れていなかった点に、私はニコニコを貰った。
 いや、違う、Aさん夫妻との生活の中で、より「犬語」使いが上達した事が嬉しかった。
 これは、いかに様々なニュアンスの言葉を掛けてもらっているかの証明であり、順調に心も成長していることである。

 犬は、初対面であっても、再会であっても、相手の犬に全神経を向けて挨拶を試みる。それは同じ仲間(生き物種)としての避けられない決まりである。
 その時に必要なのは、いかにケガをしないか、させないか...である。だから、ドンファン的要素の強いオス犬同士などは、大声でガウガウとサインを示して、お前とは一緒にいたくない,...と示す。これも、犬としての挨拶の中の、大切な表現のひとつである。

 今日のレヴンは、実に見事に相手によっての使い分けを行っていた。自分から先に相手の口を舐める、相手の行動に任せる、尻や腹を向ける...等々、犬語の手練手管を示してくれた。

 おそらく、レヴンは何処のドッグランに行っても、初回から楽しい犬になれるだろう。
 
 それが確認できた佳き日、早朝は雪がチラチラと舞っていた。



2003年05月08日(木) 天気:雨のち曇り 最高:9℃ 最低:4℃

 ネズミが再入院をした。ロシアンブルーのオスネコであり、小次郎の父親である。この子を命ある芽とした直後に、頑固な尿路結石と膀胱炎、その他で、チンポコを失ったので、小次郎と東京に行ったエンジェリーは大切な子孫である。
 ちなみにネズミが言い寄った相手はアメショーのワイン、ロシアとアメリカの結婚なので、間をとって子ネコたちは「アリューシャン種、もしくはカムチャッカ種」としている。

 手術後も、なかなかスッツキリとは行かず、何どか診てもらっていたが、とうとう一昨日から具合が悪くなり、入院となった。
 獣医さんにかかっても、処置が済めば、なるべく自宅療養をするようにしているが、今回のネズミの場合は、導尿だけではなく、洗浄、消毒など手数が掛かるので、お願いをする事とした。

 ネコは基本的に入院に向かない(まあ、犬もそうだが..)。臆病であり、場所をしっかり確認していないとストレスがかかる動物だからだ。
 ところが、このネズミは、飼い主に似たのか、実にのんびりとした性格で、どんな事をされても、けしてパニックにはならず、しっかりとした瞳で「もう、やめてよ...」と訴えはするが、それが終われば、心に平穏を取り戻してくれる。

 だから余計に私も女房も、ネズミが可愛い。
 何とか、症状が回復して、早く家に戻り、エリマキネコ(舐めぬようにカーラーを付けている)として目の前にいて欲しい。

 昨夜から今朝にかけて、かなり強い雨が降り続いた。この春になって、初めての降りだろう。メエスケの餌おけでみる限り、80ミリほどの降雨量にはなっている。

 その雨音を聞きながら、私と女房は、もう一つの音に耐えていた。家から30メートルほど離れた所にある隔離柵の一角に入れてある、新入りサモエドのチロルの声だった。

 彼は、これまでの犬生で、外で雨の夜を過ごした事がないはずである。そして、犬小屋という物も使った事がない。
 柵のなかだから、繋いでいるわけでもなく、動きは自由にでき、そこに頑丈で大きな小屋が置いてある。
 しかし、チロルは、小屋に入ろうとすぜに、ひたすら人間が助けに来てくれるのを求めて、すがって啼いていた。

 『ウワン、ウワン、ウオ〜〜....』

 短い声の後に、必ず長くせつない遠吠えのような音が続く。夜中に窓から聞こえてくる、そのチロルの声は、鬼ではない私たちの心に響いた。

 でも、私と女房は鬼になった。
 強い降りではあるが、幸い風はなく、サモエドならば何とかしのげる気温だった。これを機会に、チロルに自分の身体を保護する「小屋」と言う物に気づいて欲しかった。
 3時、4時、6時.....。
 ウトウトとしては何度も目を覚まし、夜明けが来ると、寝室の窓から柵を見た。
 チロルは、もっとも我が家に近い角にいた。ひたすらこちらを見つめ、そして啼いていた。

 雨は10時過ぎに上がった。
 その前に、犬たちの散歩を開始していた。柵に近づく私を見つけたチロルは、それこそ身体を破裂させんばかりに啼いて喜んだ。
 その勢いは、他の犬たちにも向けられ、昨日までとは、また違う明るい動作で遊びを誘っていた。

 11時、庭先のサークルに、ベルク、アラル、ミゾレなどと一緒に入れると、穏やかに丸くなり、昨夜分の睡眠を取り戻すかのように、のんびりと眠っていた。

 いつチロルが犬小屋を認め、使うのか、これも私のひとつの楽しみである。



2003年05月07日(水) 天気:こぬか雨から本降りへ 最高:10℃ 最低:6℃

 静かに雨の落ちる1日だった。気温は上がらなかったが、朝の気温が高かったので、なんとなく暖かい感じがした。

 しかし、体調の芳しくない生き物には、身体にしみ込む雨なのだろう、体重が大きく減っている外飼いネコのアブラは、やや吊り上がった細い目で、私の後を追い、やがて玄関で座った。
 
 これは、中に入れてくれ、との信号である。先日からの「居間同居作戦」が功を奏し、あれほど警戒していた居間を認め始めていた。
 ドアを開けると、アブラは小さく「ニャア」と啼き、戸口から中を見回し、13匹のネコの様子をうかがった。誰も、特別な注意を払っていないと分ると、ゆっくりと中に入り、耳と瞳、そして肩に緊張を示しながら、勝手口の前に置いてあるケージに向かった。

 当初、顔合わせ、互いの存在を認知するために、このケージにアブラを入れていた。そこは、いつの間にかアブラの安心の場となってしまい、唸られて時、眠くなった時には必ず入るようになっていた。

 アブラが、ケージの中に置いてある餌を食べ始めたので、ほっとして私も昼食を口にした。
 すると、アブラはケージから出て食卓に登り、啼きながら私の蕎麦の入った丼を覗き込んだ。
 これには、私は勝つ事ができない。一切れの鶏肉を歯で千切り、アブラの前に置いてやった。

 イチローと松井の対決を視るために、TVに目をやると、その延長上にある居間の大きな窓ガラスの向こうに、アブラ2世の姿が見えた。
 鼻をガラスにつけるようして、中を覗き込んでいた。背は雨に濡れ、黒く変色していた。

 これにも、私は耐えられない。
 女房に言って、彼も中に入れてしまった。

 アブラ2世は、1キロ四方の行動圏を持ち、多い時には1日で4.5匹のネズミを捕まえてくるハンターであり、車や犬を避ける術を知っている逞しいネコである。
 しかし、先輩(捨てられた状況から、おそらく姉弟だと思われる)のアブラに対する親密度は異常に高く、必ず行方を探すところがあった。
 やはり、真冬のマイナス30度を、アブラと抱き合う形で乗り越えてきた密度たるや、私の想像以上のものがあるのかも知れない。

 居間に入れてもらえたアブラ2世は、堂々と居間、ボイラー、洗濯機などのある洗面所、そしてキッチンと臭いを嗅ぎながら巡回し、最後には2階にまで上がり、階段の手すりで爪を研いで降りてきた。

 その様子を、ケージの開いた入り口から、アブラがじっと見つけていた。
 
 『ニャ〜』

 まるで、姉がこっちだよ、と言ったかのように、一声を聞いたアブラ2世は、7キロ近い身体をジャンプさせ、アブラの横に入り、優しく姉の身体を舐め始めた。

 その間、13匹の室内先住ネコたちは、視線だけで動きを追い、けしてちょっかいも攻撃も行わなかった。

 ニコニコしながら、私は2003年5月7日を、『アブラ・アブラ2世・居間ネコ宣言』の日と認定した。



2003年05月06日(火) 天気:薄曇りのち本曇り 最高:16℃ 最低:0℃

 たまには、我が家の人間の食べ物の事も書いておこう。いつか読みかえした時に、懐かしく感じるかも知れない。
 だが、今は子供たちも出て、夫婦二人の生活である、おまけに全て女房任せ、後で叱られるかも知れないが、まあ、記録として並べてみよう。ちなみに、私の食べた物である。

 <朝食>
 バターロール 2個、 イチゴジャム、チーズ、新漬けハクサイ、牛乳300CC、コヒー

 朝、女房は米の飯に、韓国海苔、納豆などである。私は、なぜかパン食が多い。
 一夜のネコたちの騒動の跡を片付け、浅草のTVの頃に食卓につく。牛乳が大好きな「ハナ」「カール」「ニャムニャム」たちと闘いながら食べることになる。

 <昼食>
 ニンジン、鶏肉、シイタケ、大根、ハクサイ、そして先日の開国記念日についた餅(丸餅)が入った雑炊。お新香、お茶。
 
 上に、刻んだギョウジャニンニクの醤油漬けをたっぷりと乗せてかっこむ。
 今度のネコたちの狙いは、鶏肉だった。テーブルの上に5匹は乗っており、油断ができない。

 <夕食>
 焼き魚(塩サバ)、若竹煮、厚揚げとゼンマイの煮物、名前の分らぬタケノコ料理、クギ煮、ギョウジャニンニクの醤油漬け、実家のラッキョウ漬け、お新香、シイタケとハクサイの味噌汁、御飯。お茶。

 品数が多いように見えるが、サバとゼンマイ以外は、たしか昨日の残りである。夫婦二人の影響はこのように表れる。従って、それを見越して(まあ、二人とも好きな事もあるが....)、翌日も味がしみ込んで美味しい煮物系が多くなる。

 サバが匂いをまき散らしているので、当然、これもネコたちのターゲットになった。

 『怒ってみたり、あげたり....方針がコロコロ変わるからいけないのよ...』
 
 と、女房は言うが、「ダメッ」と叱った後、足元から、せつない瞳で見つめられると、私は一切れの塩サバを与えてしまう。
 すると、周囲で見ていた連中が、
 
 「なんだ、もらえるんだ〜」

 とばかり、テーブルの上だけではなく、私の座っている椅子にまで、何とか登ろうとする。

 これまた、至福の時であり、飼育方針の一貫性なるものは、私にとっては永遠の課題であり、天上の夢である。

 食べるスピードに関して言えば、私は誰にも負けない自信がある。ネコ舌ゆえに熱い物の時は若干、吹いてさます時間が必要だが(女房も苦手なので、二人でフーフである....失礼)、それでも、私よりも早い人に、めったに出会わない。
 今夜の夕食も、わずか10分で食べ終わり、ネコと闘いつつ、気まぐれにネコにサバの残りを与えながら、巨人と阪神の、それぞれの中継をカチャカチャと切り替えて視ていた。

 高校生になる頃までは、けっこう好き嫌いが激しかった。肉と言えば、鶏しか食べられなかった。刺身も魚卵も苦手、ソースがだめだった。他にも数多く口にできない物があり、母が将来を心配するほどだった。
 
 その過去を、どこで紛失したのか、今は何でも平気である。大人になって食べられるようになった物の中には、その本当の味を知って、と言う物も多いが、頭で食べようと決心したケースも数多くある。
 
 「あの人が食べているのだから、きっと大丈夫...」
 
 そんな気持ちでチャレンジをした。
 その結果、
 
 「ああ、なんと損をしていたのだろうか...」

 となった。

 ただし、これは栄養があるから....そう思って食べようとは今も思わない。美味しいと思えば、必ず栄養がついて来ると信じているからだ。
 さあ、明日も、美味しいと心の中で呟きながら、5分で食事を済ませよう、ネコたちをはべらせて.......。



2003年05月05日(月) 天気:曇り時々陽光 最高:15℃ 最低:2℃

 端午の節句である。
 すでに子供二人ともに二十歳を過ぎ、しかも同居をしているわけではないので、これと言って特別な家庭内行事はない。
 でも、50を超える命がウロウロとしているので、昨日とは違う今日ではある。それを書き並べてみよう。「オヤジギャグラー」を名乗る手前、せっかくだから15項目の本日の出来事である。
 KさんのBBSでも使ってしまったが、そう、「タンゴ15」である。

(1)昨日の午後、勢いのままに群れに入れてしまったサモエドのチロル、一夜、明けての反応がこれからの予測に繋がる。
 全ての犬をフリーにして様子をみた。チロルはゆっくりと歩き出し、カザフに鼻を寄せて挨拶をした。
 私は、安心して、大きな声で、

 『お〜い、行くぞ〜!!』 と、叫んだ。

(2)アイヌネギ(ギョウジャニンニク)を食べた。旨かった。

(3)ラーナの腹を毎日探っている。今日、初めて乳首が少し立った気がした。

(4)オビのおすわりが完璧になり、マテッも10秒できた。

(5)夕食のカレーが、少し「ショッパイ」と文句を言った。女房は「そう〜」と一言だけ言い、この件に関する質疑応答は終わった。

(6)アブラの食欲が少し増した。庭のベンチに腰を下ろしていると、尾を立て、鳴きながら寄って来て、膝に乗って甘えた。

(7)散歩の時に、カザフにおすわりと言ったら、すぐ横でオビとチロルが座って見上げてきた。至福の時だった。

(8)勝手に行動するのが大好きなシグレにリードをつけた。嫌がり、無視し、首吊りが何度も起きた。
 そこで、今、流行の「無言、無視、天罰」方式ではなく、絶えず話し掛け、目を見つめる手法で5分、シグレは素直に、そしていきいきと(自分が何を求められているかを理解の上で..)リード散歩をしてくれた。

(9)我が家をエリアに棲みついているハイブトガラスのカップルが抱卵を始めた。オスが1羽で私の動きにそって木に止まり、鳴いているので、ジャーキーを与えた。全てをくわえて、巣の方向に飛んで行った。

(10)散歩道の横にある湿地で、エゾアカガエルの大合唱が続いている。

(11)昼飯はウドンだった。最近、これに凝っている。

(12)ムツさんの家で遊んでいた隣の津山家の子供の帰宅と、我が家の犬たちの散歩がぶつかった。
 舞花は、自転車を降りて押していた。パンクなどではないようだ、と思っていると、彼女はこう言った...
 『早く走ると、犬たちがびっくりして駈けたりするから...』
 舞花は、命の対処の仕方を知っている。

(13)『カリン、着る?』
 夕方、散歩の後に女房が聞いた。カリンは尾を振って車庫から出ると、右の前足を上げ、じっとしていた。
 こんな夜は冷える.....。
 女房は、マロの毛で編んだセーターを着せた。ひと冬使ったセーターには、何ケ所かほころびがある、それは普段着のほうだった。

(14)あまりにも赤い夕陽に、思わずカメラを出してきて撮影をした。オビが付き合ってくれた。

(15)メエスケの爪が伸びているのに気づいた。削蹄をしてやらないと、食欲が落ちる。

 2003年、端午の節句は、こんな日だった。



2003年05月04日(日) 天気:高曇り 最高:17℃ 最低:4℃

 昨夜の霧ははれたのだが、なにやら全てが霞んだ、すっきりとしない天候になった。気温は、昨日ほどは上がらなかった。それでも、風が弱かったので、同じような暑さに感じた。

 今日、1匹のオス犬が我が家に加わった。
 「チロル」.....2001年1月10日に浜中の王国で生まれたサモエドである。母親はノエル、父親は我が家のカザフであり、マロ親分の孫になる。
 
 チロルは昨年の春、王国を退国したM子クンとともに本州に行った。従って今回は里帰りのようなものである。
 しかし、生後1年半までを暮していたのは、浜中の王国の中であり、1度も我が家には来ていなかった。S

 と、言う事は、石川家の18匹の犬たちには、初めての出会いである。チロルは去勢をしてある。しかし、オスである。身体も大きい。
 どのようにして、マロ親分を頂点とする群れに認知させるか.....加える事を決めてから、そればかりを考えていた。

 私が使う馴致作戦は、大きく分けて二つある。
 相手が見えるが、間に金網の柵を置き、時間を掛けて見慣れた存在にし、それから同じ空間に出して、挨拶から始めるやり方.....これは、番犬性質やオスっ気の強い犬、臆病な犬にたいして使う。

 もう一つのやり方は、「一気呵成方式」である。
 相手の存在に気づいたその瞬間に、互いを引き合わせ、確認行動をさせる方法だ。

 釧路の空港でチロルを引き取り、2時間をかけて我が家に着くまで、私はどちらの手法を使うか迷っていた。
 車が、アスファルトの道から、我が家に続く取り付けの砂利道に入った時、庭の周囲に繋がれたり、サークルに入れられている18匹が一斉に吠え出した。これは明らかに見知らぬ犬の存在を嗅ぎ付けた反応である。

 その声を聞いても、後部座席のチロルは、震えもせず、啼きもせず、ただ、15センチほど下げられた窓ガラスから、吠える犬たちの様子を見ていた。

 その姿を見て、私は決めた、このまますぐに会わせようと。

 先ず、群れの親分である、サモエドのマロである。女房にチロルのリードを持たせ、私は、少し離れて様子を見ながら、声を掛け、そしてカメラを構えた。
 チロルは尾を下げたまま、マロに近づいた。耳は軽く後ろに倒されている。

 マロが鼻をチロルの鼻、そして肩から腰、尻に擦り付けるように這わせて行った。
 チロルは腰を下ろして「オスワリ」の体勢になり、無言でマロの行為を受けていた。
 ゆっくりと尾を振りながら、マロの丹念な臭い嗅ぎ確認は続いた。
 周囲の犬たちは、いぜんとして吠え続けていた。

 やがてマロは鼻をチロルの身体から離し、女房の顔を見た。その表情には緊張感はなく、ジャーキーをねだる姿と同じだった。

 次に、チロルをカザフに会わせた。
 実の父ではあるが、交配だけの仕事であり、カザフは1度も息子に会っていなかった。マロよりも、他のオスにきついところがあり、ガウガウとケンカ腰でオスを追い払うのが常だった。

 しかし、チロルに対するカザフの行動は、ほとんどマロと同じだった。実にジェントルに接し、それをオスワリの姿勢でチロルが受けていた。
 2匹に優しく語りかけて仲人をしていた私と女房は、ほっとしてチロルを庭の中央に戻した。

 さて、次ぎは、自分の順番を待ちかねていた残りの犬たちである。
 太い声で吠えていたカボスが、声の出し過ぎでヒーヒーと咽の鳴っているセンが、そして皆がチロルを囲み、あらゆる所に鼻を寄せた。

 これにもチロルは耐えた。耐えた事によって、石川家犬群団のメンバー証を貰うことができた。
 早い結論、それも嬉しい結果に顔がほころぶ人間たちは、すぐに餌を与えた。チロルは夢中になって食器に顔を埋めた。

 薄い雲と大地の霞で、真っ赤に染まった太陽が林の梢の陰になりそうな頃、チロルだけはリードで繋ぎ、他はフリーにして牧草地へ散歩に出た。
 時々、チロルの尻やチンポコの臭いを嗅ぎにくる犬もいたが、それは次第に間遠になり、やがて、10年前からの仲間ですよ...とでも言うような、チロルの落ち着いた動きに、誰も特別な関心を示さなくなっていた。

 5月4日。
 かつてボクボクと呼ばれ、今はチロルと呼ばれるオス犬は、石川家の普通の存在になってしまった。




2003年05月03日(土) 天気:快晴 最高:21℃ 最低:5℃


 犬を飼っていなくても、生きていく事はできる。
 膝の上でゴロゴロと咽を鳴らすネコがいなくても暮しんは困らない。
 まったく馬に乗れなくても馬券は買う事ができるし、命に問題はない。

 『でもっ!!』
 
 と、私は大きな声で言ってしまう。
 この3種の身近な生き物たちを知り、そして仲間にするチャンスを得た人は、より多くの幸せをもらい、心と身体を励ましてもらっていると...。
 さらに、思わぬ友だちが周囲に集まり、互いに素晴らしい笑顔をやりとりしていると.....。

 そして、そして、もっと凄い事は、犬や馬を見て笑顔になる人は、世界共通語をマスターしている事だ。

 私は、チベットでドサンコよりも小柄な馬に乗った。シルクロードを辿った時には、ウイグル族の人たちと、そしてカザフスタン、キルギスタン、タシケントでも様々な姿の馬に乗った。
 もちろん、ほとんど現地の言葉は理解できなかった。
 しかし、馬上でニコニコとしていると、誰もが笑顔で、身ぶりで思いを伝えてくれた。私たちは、何キロも馬首を揃えて駈け、友だちになった。

 これが可能なのは、実は「乗馬」が古い時代に完成した文化だからだと思う。スキタイの人々と、今、私たちが使う馬具に、ほとんど変化はなく、そして、馬が感じる人間の指令は乗り手の勢いで済んでしまう。高等な技術進化も地域特性も、無視しても構わないほど、古い時代から主たる部分は変化していない。
 
 鞍、手綱、鐙、そして『ハイッ』『ド〜ウ』....これだけで、世界中どこでも馬という家畜と会話ができ、その周囲の人々と笑顔の交流が始まる。
 そう、チベットの馬でも、「ド〜ウ」と、のんびり言って手綱を引けば馬は止まってくれるのである。

 そんな乗馬文化を身につけていると、旅も楽しくなる。ある程度の危険もあるが故に、ともに乗った人と人、人と馬の間には達成感、同志意識が生まれ、心は良き高ぶりを示す。
 そして、大きな生き物と付き合う事のできた自信が、心を大きく広げてくれる。

 今日、私はYさんと馬に乗った。
 彼女は、都会に住みながらも、大好きな馬に乗るために乗馬クラブに通っている。
 冬毛がゴミのように身体に浮いている馬体にブラシを掛ける時から、Yさんの顔はニコニコだった。その思いは馬に通じている、ジュリはじっと動かずに、目を細めてブラシの刺激を受けていた。

 王国の乗馬教室に通われてマスターしたMさん夫妻と、馬場でしばらく乗った後、私はYさんを誘って2頭で原野に出た。
 ヒバリが高くさえずり、風が優しかった。

 知床へ連なる山々が、まだ白い頂を輝かせていた。それを遠方に眺め、広い牧草地に馬を進めた。
 『ハイッ!!』
 一声で十分だった。
 月子にジュリ、2頭の馬は、春を喜ぶように駈けた。

 馬場に戻った時、白く大きなヘルメットの下で、笑顔のYさんの頬が赤みを帯び、そして瞳が輝いていた。
 世界中の誰もが、声をかけたくなる、そんな笑顔だった。



2003年05月02日(金) 天気:晴れ 最高:21℃ 最低:0℃

 犬と言う家畜を考える時に、私が特に重要と思うのは、その犬種が辿って来た生存への道である。
 今の日本のように(いや、綱吉公の時もそうだったのかも知れないが)、「犬である」ことだけで餌を貰え、可愛いと言われる幸運はあり得ない。
 200年前のアイルランドの家族の記録を読むと、厳しい気候が続き、家族6人の食料が、1日、小さなジャガイモ3個と記されている。他は、野の草や海草で飢えをしのいでいた。
 
 そんな時に、きちんと餌を貰える家庭犬などと言う存在は考えられない。少なくとも、人間には無理な仕事に従事しているか、人間が行う5倍の仕事をこなす犬だけが、命を繋ぐ事ができたと思われる。

 その厳しく、犬種としての仕事がピュアに磨かれた時代を考慮せずに、今、私たちが目にする多種多様な犬たちの理解はできない。
 そんな犬種としての歴史、生存し続けるための変遷を知る手立ては、様々な書籍や写真、絵画に残されている。
 
 そして、もうひとつ、私が頼りにするのは、実は映画とTVである。素晴らしい事に、欧米で作られる落ち着いた映画やドキュメンタリードラマは、実時代考証が実にしっかりと行われている。
 まあ、その作品にかけるお金の額も、日本とはケタが違うので、当然と言えばそれまでだが、けして家康や秀吉がサラブレッドに乗って登場することはない。

 昨日、そして今夜、BSでシャクルトンのドラマが放映された。
 サモエドの本を読んでいると、ナンセンやアムンゼン、スコットなどと並んで必ず登場してくるイギリスの極地探検家である。

 ドラマは、南極点の初到達を為し得なかった彼が、名誉を賭けて初の南極横断の旅に出ての途上、氷に閉じ込められ、船を失い、そして見事に全員が生還するまでの長い時間を描いていた。

 その中で、1匹のネコが可愛がっていた人間によって死を、そして、活躍したソリ犬たちが殺され、隊員たちの胃袋に収まる場面も登場した。
 
 この事実の審判うんぬんは、私にはまったく興味がない、と言うか、その場に身を置いた時に、自分がシャクルトンのような判断ができるか整理がつかない事と、なにより、今の時代に浸って生きている人間として、1915年の彼らを、非難も、賛同の拍手も送る立場にない。

 ただ、かつて読んだ本に書かれていた、何故、サモエドが好んで当時の探検家(特に北極遠征隊)に使われたのか、その理由の中に、万が一の時の「非常食」として優秀.....その1行を思い出し、ドラマの画像を見ながら、頭の中で反芻していた。

 ジャック・ロンドンの物語の映画だけではなく、特に西欧の画像には、必ず犬たちが登場してくる。それは、単なる通りすがりの役だけの時もある。しかし、そこには、100パーセント正確とは言わないが、その時代の雰囲気、文化、文明の典型を示すものとして、演出家の作戦のもとに犬が使われている。

 叙情と叙事の両面から、その時代の犬の立場を知る手がかりとして、これからも私は画像、映像を見続けていくだろう。

 

 



2003年05月01日(木) 天気:晴れ時々曇り 最高:11℃ 最低:−2℃


 5月1日は、夜半の雪で明けた。寒暖計を見ると、最低気温はマイナス2度まで下がっており、夜明けとともに雲が切れ、朝日が出てはいても北西の風が冷たかった。

 今日は、嬉しい知らせが寄せられた1日だった。
 
 先ず、何と言ってもサモエドの子犬の誕生だろう。
 母になったのは、我が家の若大将(本人も私と女房も、まだそのつもりだが、実は今年の10月で7才になる)のカザフと同腹の兄妹である「ぽろん」が、4月末に、見事に3匹の子サモを産んでいた。
 飼い主のTさんのメールの文面には、高齢出産への危惧、その前の病気への心配等々が書かれており、随分と心を悩まされてのお産だった事がうかがえた。
 しかし、これが最後のチャンスと心を決め、交配、そして出産の日を迎えられた。

 ・・・リビングに産箱を置いているので、その前を通ると子犬の匂いがして、何とも言えず嬉しいです・・・(引用させていただきました)

 この文章を読んだだけで、Tさんのお宅の様子が目に浮かび、こちらもニコニコとなってしまった。

 重ねての言葉になるが、初めて体験する犬の出産、その不安も大きかったと思う。しかし、勇気をもってチャレンジをされたからこそ、素晴らしい喜びが訪れたのだと思う。
 
 時々、家庭犬として飼っている人は繁殖をさせてはいけない、これはプロに任せるべきだ、と書いてある本や、そう断言する人に出会うことがある。
 私は、これには大いなる疑問を持っている。
 確かに、犬を飼うきっかけが、
 『この犬種は人気があるから、子犬を産ませれば元を取れるだけではなく、儲かるぞ....』
 という人間は言語道断である(犬を求めてきた人に、そう勧めるショップもあるから驚く)。
 
 しかし、長年、愛犬として、ともに暮してきた犬の血を継いだ子が欲しいというのは、ごく当たり前の想いであり、犬という家畜は、そこからスタートしている筈である。
 ましてや、良き家庭犬は、狭い檻が並ぶ繁殖場ではなく、我が家やTさんのお宅のように、リビングや食堂、玄関などで誕生し、笑顔の人間の声を数多く聞いて育った子から生まれてくるだろう。

 私は、まだTさんに祝いのメールを書いていない。おそらく文章は1行で十分かもしれない....『やった〜ぽろん、おめでとう!!』..それだけで...。

 仕事に関わる仲間でもあり、我が家生まれのネコのオーナーでもあり、実家では王国生まれのチベタンスパニエルを家族にされており、さらに草競馬では先着を競うジョッキー同士でもあり、なんと言っても命にたいする思いを同じくする仲間である、そのKさんからも便りが届いた。
 
 ネコと犬、2匹が対面をしたと書いてあった。その時、犬はネコに挨拶をしたがったという。ネコは、久しぶりの犬という生き物に、近距離になると警戒の声を上げたが、それでも興味津々、ある距離をとって眺めていたと書かれていた。

 これも、私にはとても嬉しい知らせだった。
 おそらく、わりと短い時間で、この2匹は挨拶を交わし、そしてともに遊ぶ事が可能になるだろう。それは、王国での社会的な基礎があるからである。
 Kさんの家にいたもう1匹のネコは、幼児期に犬と遊んだ履歴がないために、犬を見るなり逃げ出して姿を隠したらしい。
 明らかに、幼い頃の体験が、その後の生き方をある程度決めてしまう、そんな証左とも言えよう。
 この秋、Kさんと私は馬の背の上で、そんな話をするだろう。

 今日、東京に旅立った柴のミゾレの子、愛称「ソックス」の新しい飼い主であるOさんからも連絡をいただいた。
 羽田のカーゴに2時間前に着き、中標津からの飛行機を待って下さった。
 
 出発まであれほど騒がしかったソックスが、実におとなしく、家に向かう車の中で、落ち着いて窓から外を眺めていると言う。
 それを女房から聞き、私は思わず「エッ」と言ってしまった。あいつは、空港までの車の中で、それこそ狂ったように啼き叫んでいた。その子がおとなしい.....。
 まあ、寂しさの時間を体験し、そこに現れた笑顔の人々に自分の安心の心を寄せていくのは、当然のことだろう。その意味で、航空輸送もけしてマイナスではない。
 
 『メスらしく、優しい顔ですね、可愛い〜』
 
 そう言ってもらえた事を、私も女房も喜んでいる。
 初めて母親から離れての夜、ソックスは啼きながら新しい環境を認知していくだろう。

 夕方、すべての犬をフリーにして散歩に出た。しかし、4匹、すべての子犬の姿を失ったミゾレは、我が家の玄関の前から動こうとはせず、私や女房が通りかかると、
 
 『ワン!!』
 
 と、短く吠え、ドアを開けてとせがんだ。
 
 朝、シャワーのためにソックスが家の中に消えたのをミゾレは見ていた。しかし、旅立ちの時は、ミゾレから見えない形でソックスを車に乗せた。
 まだ、中に自分の子がいる、早く会わせて....ミゾレの吠え声は、そう言っていた。

 2003年5月1日、嬉しいニュースの最後に、ムツゴロウ動物王国のHPのオープンを記さなければならない。インパクが終わって1年と4ヶ月、再び王国のHPは呼吸を始めた。
 多くの皆さんに立ち寄っていただけたなら、こんな嬉しいことはない。よろしくお願いいたします。