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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2003年10月31日(金) 天気:晴れ 最高:15℃ 最低:3℃

 またまたですが、所用のために、今日も遅れます。
 ごめんなさい!



2003年10月30日(木) 天気:曇り時々晴れ 最高:15℃ 最低:6℃

 只今、他の用事にかかっています。
 お待ち下さい。



2003年10月29日(水) 天気:強弱の雨 最高:16℃ 最低:9℃

 明け方、地震があった。かなり長く、布団の上で揺れが大きくなっていくのを、ネコたちとともに、ぼ〜っと感じていた。
 開けてあるドアがカタカタと音を立て、目の前の壁際にある鏡台がゴトゴトとし始めた時に、ようやく立ち上がり、それを押さえに行った。
 その瞬間、建物のあちらこちらから聞こえていた音が鎮まり、屋根を打つ雨音だけが響いた。
 やや強い雨が降っていた。

 朝食を終えると、雨は小降りになった。カラスの啼く声も聞こえてきた。私の天気予報は野鳥や昆虫に頼っている、カラスの声は雨が上がると伝えている筈だった。
 いちおう雨に備える上着で外に出た。サークルの子犬たちが少し濡れた毛で元気に小屋から出て来た。柵の際まで来ると2本立ちになり、懸命に尾を振り、瞳と声で外へ出してと主張していた。

 目を表の舗装道路に続く進入路に転じた。道一面に落ち葉が広がっていた。カシワ、ミズナラの大きな葉が、見事に道を覆い隠していた。

 自然は化粧師だと思う。一夜にして白い世界を作り出し、一夜にしてあふれる水で川を隠し、一夜で道を焦げ茶色に変える。
 日々、わずかずつ変化をしていく手法を取ることもあれば、今日のように、あぜんとする光景を作り出すこともある。

 私は、どちらも好きだ。もっと言うならば、どちらの変化にも気づき、感動する心を持ち続けたいと思う。
 
 犬たちをフリーにした。
 彼らは落ち葉の道を駈けた。濡れた葉がこすれ、ざわざわと音が聞こえた。水溜まりには無数の葉が沈澱して重なり、踏み込んだ犬の足の所だけ水がしみ出た。
 私も中に入ってみた。そこは、まるでクッションのような感触だった。

 出かける用事はあった。しかし、落ち葉の絨毯の道にタイヤの跡を付けるのが不粋に思え、午後まで延ばした。
 
 昼食後、降り続いていた雨が急に強くなった。雷も騒ぎ出し、まさしく驟雨の様だった。
 
 強弱をつけた天候も落ち着き、夕方、雨が上がった。
 朝と同じように、私は犬たちと道を進んだ。
 雨水を含んだ落ち葉は、強い南風にも飛ばされることなく、静かに道に敷き詰められていた。犬たちの、そして私の足元がキュッキュッと鳴った。



2003年10月28日(火) 天気:曇り時々晴れ 最高:15℃ 最低:−1℃

 我が家の庭に2本のハルニレの木がある。このところの寒気と霜で、カシワやミズナラの葉が焦げ茶1色となった中で、しぶとく明るい黄を見せてくれている。
 午後から風が強くなり、枝から離れた葉が舞い落ちた。傾いた西日を逆に受け、鮮やかなキラメキを見せながら落ちて行く葉に、しみじみと晩秋を感じた。

 子犬たちのサークルからは2メートルの所に、ハルニレの1本がある。13年前に家を建てた時には、私の太もも程度の太さだったが、数多くのオス犬たちの小便のおかげか、みるみる生長し、今では一抱えの立派な木になっている。
 ハルニレの特徴は、その枝にもある。明らかに他の樹木よりも横に張り出し、細かい枝を増やし、葉がたくさん繁る。
 それが見事に色づいた様は遠くからも目立ち、私や女房の好きな風景でもある。

 当然の事だが、舞い落ちている葉は、サークルの子犬たちも気づく。まるで弱った小鳥かなにかのように、追い掛け、口でくわえようとする。

 サモエドの子犬は鈍くさい。上を向いて追い掛け、穴に落ちてはフギャっと声を出し、小屋の角に頭をぶつけては転がっている。
 比べて柴っ子は鋭敏な動きができる。駈け、ジャンプし、そして見事に口でキャッチしていた。別に葉を食べるわけではない、ただ獲物を捕まえることが魅力であり、くわえた葉を口から出すと、すぐに次の対象に向かっていた。

 やがて30分、子犬たちは飽きた。サークルのあちらこちらで昼寝を始めた連中の上に、ハルニレの黄葉は静かに落ち重なっていた。

 ハルニレの葉布団の中で夢をみている子犬たちは、今日、混合ワクチンの接種を行った。生後2ヶ月、母からの免疫が弱くなり始める時期を前に、人為的に強化する。
 そしてしばらくの時間を置き、いよいよ旅立ちが可能になる。北国の秋を楽しんだことは、人間のようには、子犬たちの記憶には残らないだろう。
 しかし、色付いた大地、ハルニレの葉を相手に作り上げられた遊び心と丈夫な身体は、いつまでも残り、より強くなっていくと確信している。

 晩秋の1日、私はそんな事を思い、そっとカメラを子犬たちに向けた。



2003年10月27日(月) 天気:曇りのち晴れ、そして雲 最高:14℃ 最低:4℃

 車を運転する時に、何に気をつけるか、随分と地域特性もある。例えばオーストラリア、カンガルーとの衝突に備えて、物凄いバンパーを装着し、スピードは落とさずに走るのがコツらしい。

 北海道東部でも『動物注意!』の看板は多い。ある国道では20キロの間に10本も立っていた。
 看板に描かれているイラストは、ほとんどがエゾシカであり、まれにキタキツネ、そして貴重な絵としてヒグマも見た事がある。
 実際、動物たちとの衝突で、毎年、死者も出ている。エゾシカのオスならば150キロの個体もいるので、人間にぶつかる以上の衝撃もあり、その場所は、誰もがスピードを出している郊外なので、大事故に繋がってしまう。

 今朝、用事で町に行く途中、路肩に落ちた1台の車をレッカー車が引き上げていた。赤い旗を持ち、何度も頭を下げて私の車を停めた青年に聞くと、動物にぶつかったわけでも、居眠りで落ちたのでもなかった。
 
 『吹きだまりですよ、昨日の明け方の風の.....』

 現場の両側にはカラマツの並木が連なっていた。樹齢40年ほどの立派な木だったが、材としては安価なカラマツは、ほとんど手入れをされず、地上1メートルの所にまで枝がある始末だった。
 その多過ぎる枝は見事な黄で染められていた。いや、細い黄葉が秋を主張していたと言うべきだろう。

 私も、実は土曜の深夜(すでに日曜日になっていた)、用事でこの道を通っていた。前線の影響だろうか、猛烈な突風が吹き、カラマツの並木に差し掛かると、まさしくフブキであり、ワイパーを急速にしてもフロントガラスを叩くカラマツの葉は除けなかった。
 そう、雪ではなく落ち葉の吹雪だった。黄色がライトに照らされて白く光り、本当の雪のように渦を巻いて襲い掛かってきていた。上目にしておくと反射で光りの洪水になり視界は2メートル、アクセルから足を離してスピードを緩めるとともに、ライトを下目にした。

 アスファルトの路面は、落ち葉で覆い尽され、それが風の動きにうごめいていた。
 道は直線だった。ハンドルを動かしたわけでもなかった。しかし、私は背と腰に、あの『ざわっ』とする感覚を得ていた。
 急ブレーキを掛けたわけではないのに、後輪が明らかに滑っていた。
 スピードを30キロまで落とし、車と自分の心をなだめなが500メートルほどの並木を通過した。

 その場所でレッカー車が活躍をしていた。
 気温は高い、アイスバーンはありえない。雨も降ってはいない.....。 ほとんどのドライバーは、口笛を吹き、片手でハンドルを握って通過する場所である。カラマツの葉の吹き溜まりも、秋らしさの典型程度だろう。
 でも、松の葉には油分が含まれている。事故の原因の伏兵として、ドライバーは記憶に入れておかなければならない。

 これも、立派な地域特性だろう。

 そして星野監督、残念ながら胴上げとはならなかった......無念。



2003年10月26日(日) 天気:曇りのち晴れ 最高:13℃ 最低:3℃


 道東のある町から1通のメールが届いた。
 10月9日に天寿を全うしたサモエド混じりの1匹の犬について書かれていた。
 
 その子は、何と10年に渡って近所の小学校に通っていた。昨年、飼い主のおじいちゃんが亡くなり、メールを下さった方が、その後の世話をされていた。もちろん通学は続いていた。
 そして1年、最後までサモエドスマルを振りまき、愛らしい表情と穏やかな性格で、学校だけではなく、町でも有名な犬、人々に愛された犬だったと記されていた....。
 
 さらに文章は続いていた。
 1年間の世話をされ、その老犬を見送り、どうしても忘れられず、サモエドの子犬を探している....と結んであった。

 私は、何度もメールを読んだ。
 すると、朝の光景、授業中の光景、下校時間の光景が、目の前に浮かんできた。

 黄色いカバーのついたランドセルの1年生、その横をゆるく尾を振りながら歩調を合わせて歩く白い犬...。

 窓の開けられた教室から見える大平洋、窓枠の下には、心地よく船を漕ぐ白い犬.....。

 グランドでソフトボールをする子供たち、けしてスマートな走りではないが、嬉しそうにボールを追って駈ける白い犬、ピンクの舌が霧をなめている.....。

 薄暗くなりかけた道、立ち止まって子供たちを見送り、やがて、ゆっくりとおじいちゃんの家に向かう白い犬.....。

 以前、長野の松本深志高校のクロの本を読んだことがある(職員会議に出た犬・クロ・郷土出版社)。
 これも素晴らしいドラマである。しかしクロの物語は40年も前のこと、まだ犬が自由でいても許された時代の事だ。
 それに比べてサモエド混じりの老犬は、まさに今の時代、私たちの暮らしのすぐ横で続いていた物語である。
 東京ではあり得ないだろう、いや、この中標津でも無理かも知れない。
 でも、現実に、我が家から車で2時間の小さな町で、人々の温かい心に見守られ、人々に、特に子供たちに温もりを与え続けた白い犬がいた。

 これは寓話ではない、実話である。
 私は、ただただ嬉しく、目の前の箱から数枚のティッシュを取り出していた。
 



2003年10月25日(土) 天気:晴れ 最高:14℃ 最低:0℃

 早朝、犬たちの声で外を見た。1台の車が庭に入ってくるところだった。

 「マコちゃんだ!」

 玄関に、変わらぬ笑顔のマコちゃん、そしてOさんが立っていた。
 もう何年の付き合いになるだろう、初めて会ったのは犬ゾリの全国大会だった。あらためて数えてみた、16〜17年にはなる。
 350キロ離れた街で寿司屋をしているマコちゃんは、出会った頃とそれほど変わらぬ若さを保っている。威勢の良さ、心意気が身上、それが秘訣だろうか。

 お二人は子犬に声をかけ、近況を話し、そして車は浜中に向かった。今夜、王国では食べ放題の寿司パーティとなる。

 神奈川のTさん、名古屋のAさんも午前中に来られた。
 午後の飛行機で帰られる。その前に我が家の連中と別れの挨拶をするのが、いつものスケジュールになっていた。
 穏やかに、そして親密に時間は流れ、再会を約してレンタカーを見送った。

 午後、チベタンスパニエルが3匹、我が家に揃った。ペコーは仲間のだいちゃん1家が連れてきた。とこは、同じ中標津に住んでいるMさん夫妻の愛犬である。
 そして『ラグ』....我が家の庭に登場するのは初めての子だった。車で1時間ほど釧路に向けて走った隣町の湖の近くから来てくれた。
 この子は王国のドリーとコニーの子だった。私は貰われていく前に会ってはいる。しかしそれは4年以上前のこと、どのようなチベタンスパニエルになっているか、今日が楽しみだった。

 ラグは、先ず我が家の親分のマロに会わされた。白くて大きい鼻が近づいて来たのを見て、ラグは腰を退き、顔は迷惑そうだった。でも、声も出さず、じっとマロの匂い確認に耐えていた。
 これができる犬は、我が家のどこでも行くことが可能である。サークル、居間....様々な所で、ラグは初めての体験をした。オスでありながら、同じオスのペコーに乗ろうとして、猛烈な抗議も受けた。
 やはり....と言う言葉が当てはまるのかも知れない。ネコだらけの室内でも、ラグは落ち着いており、ネコたちも平気だった。チベタンを知る人が言うように、ネコにプレッシャーをかけない才能を、この犬種は備えているのかも知れない。

 古い友、新しき仲間.....。
 今日もまた、ゆかいな出会いの多き1日だった。



2003年10月24日(金) 天気:晴れ 最高:12℃ 最低:6℃

 知床に向かう車からは、澄み切った青空と、真っ青な根室海峡を見渡すことができた。
 
 「風もやんできたし、いい天気よね〜、ねえ、オビ!」

 女房が、後ろの座席でサモエドのオビとアラルの大きな親子に挟まれて言った。

 「ほらっ、クナシリがはっきり見えるよ、望遠鏡があると車も判るんだって....」

 「日本の車が走っているんでしょ、聞いたことがある....」

 「うん、今のように交流が盛んになる前、そうソビエトの時代から、なぜか北方領土に日本の車があったって、これ有名な話だよね」

 「誰かが密輸出していたんでしょ、まさか流氷の上を走って行ったはずはないし...」

 「噂はいろいろあるよね、レポ船が運んだとかの....」

 目の前に、本当にすぐそこに島々を見ると、国と国とは、いったい何だろうと考えさせられる。そもそも国境という線引きが、生き物にとってどれほどの物だろうか。鳥も、魚も、時には流氷に乗ってくるキツネたちも、そんな物を意識するはずもない。
 やはり、特殊な形で知恵を伸ばした人類が、わざわざ面倒を作るために余計な物を抱え込んだ気がする。

 知床半島の付け根から少し入った所で、犬たちは車から降りた。アラルの娘、オビの兄弟がいるS(A)さんの家だった。岬まで連なる知床山系の麓、雄大に広がる林と牧草地の中に、特別な形の家があった。

 レヴンが玄関から勢い良く走り出て来た。
 尾が狂ったよう回転している、耳は、後ろに倒され、『嬉しい、嬉しい』が全身から滲み出ている。
 それを見ている人間たちも、挨拶もそこそこに『嬉しい、嬉しい』顔になってしまった。

 国後島を眺めながら、家の周辺で遊び、室内に3匹が闖入して休憩をし、その後、私たちは車で山に向かった。
 ほとんど葉の落ちた木を眺めながら、車は谷に下がり、これぞ知床と言う渓流に着いた。

 ハルニレだけが黄の葉を持ちこたえていた。そこに傾いた秋の陽が尾根越しに差し込み、葉は金色に輝いていた。
 昨日の雨で、水量が多いとSさんが言った。しかし、水に濁りはほとんどなく、大小の丸い石が転がる川を勢い良く流れていた。

 滝があった。聞くのを忘れたが、きっと名も無い滝だろう。白い流れが、黒い崖に際立ちを見せていた。

 アラルもレヴンもオビも夢中だった。
 ヒグマがよく出ると聞いていたが、これだけ賑やかな白い犬がいると、おそらく遠慮をするだろう。私は、河原の砂地や川べりにクマの足跡や糞などの痕跡がないかと、しばらく探し回った。

 我が家から車で1時間も掛からぬ所に、このような宝物(自然)が存在することに、私は、ただただ感謝する。
 と同時に、世界遺産に指定されるかも知れない知床、それを守り抜くのも、私たち近くに住んでいるものの責務だと思う。

 3匹ととも幸せな時間を過ごし、Sさんの家に戻ると、相変わらず、青い空ではオオワシとオジロワシが高く舞っていた。
 数日前に、この秋初めてのオオワシを見たと、Sさんの御主人が教えてくれた。
 国境の観念を持たないオオワシたちに、次の時代の人類を重ね合わせるのは、まだ時期尚早なんだろうか....。



2003年10月23日(木) 天気:雨 最高:15℃ 最低:12℃

 南東の風、強めの雨、気温高し.....。
 そんな朝を迎えた。

 「ほらっ、やっぱり雨になった....」

 女房が私の顔を見るなり、そう言った。こめられた意味はよく分る、今日、クラブハウスの『ゆかいの家』を利用して王国に滞在するために来られる、神奈川のTさんと名古屋のAさんの事を言っているのだ。

 お二人はコンビで数え切れぬほど来られているが、確かに天候が悪くなるという記憶だけは鮮明に残っている。吹雪もあった、滞在中、霧の晴れぬこともあった。つい先日、御主人と3匹の犬とともに来られたTさんの4日間の滞在中で、太陽を見たのは、確か1日だけだった.....。

 でも、私と女房も、そしてTさん、Aさんもくじけはしない。再会を喜び、互いを言葉でいじめあい、ニコニコ顔で出会いを楽しむ。
 
 今回は、アラルの子犬の件でTさんは来られた。
 アラルの生家はTさんの所である。その母親のノールは我が家で生まれている。
 年を重ね、持病もあるノールが元気なうちに、その血を伝える子犬を家族に加えたいと望まれていた。

 心配もされていた。サモエドが2匹(ノールとオスのアレフ)、そしてラブが1匹(我が家のタブの母、センの祖母になるカーラ)の落ち着いた状況の中に、元気の良いサモっ子が加わると、バランスを壊し、ストレスを増やすのではと。

 「その心配はありません。生き物の受けるストレスの9割は、実は生きて行くために、必要で重要なものです。ストレスが生きる力とも言えます。そして、アラルの子犬たちは、御覧のように、もう挨拶もでき、周囲を見る力もありますよ....」

 Tさん、Aさんは、横殴りの雨の中で、都会から来た服装のままで子犬たちの相手をしていた。
 結論がどうなるのか、私は楽しみにしている。
 



2003年10月22日(水) 天気:曇り後雨 最高:17℃ 最低:6℃

 天気、温度だけ先に入れました。
 本文は、少々お待ち下さい。
 昨日のも、まだですね、すみません。
 只今、21日分は終了しました....。



2003年10月21日(火) 天気:曇り時々晴れ間 最高:15℃ 最低:−1℃

 今朝の全体散歩の後、隔離柵から黒ラブのタブを出し、引き綱をつけて庭を1周した。オス犬の反応を確認するためだった。センとオビは啼き叫んだが、他の連中は、目と鼻を動かすだけだった。
 タブの陰部を見ると、肥厚が少なくなり、出血は見られない。
それでは、と言うことで、散歩を終えると、そのまま空いていた庭の小屋に繋いだ。
 
 これで、ようやく我が家のすべてのメス犬の発情が終わった。いったい何匹になるのか、なかなかすんなりとは言えないので、名前を書き出してみよう。
 今回、見事な匂いを発散してくれたのは、ベルク、ダーチャ、ベコ、ミゾレ、カリン、タブの6匹。ラーナは6月出産しているので暮れ頃になるだろう。アラルとシグレは、今、まさに育児中、今度の発情は年を越すかも知れない。
 合わせて9匹、みんな健康な現役のメスである。

 この9匹に反応をして餌代倹約(メスの香りを嗅ぐと食べる事よりも尻追い掛けである)に協力してくれたのが、タマ付きのオス犬たちである。
 
 マロ、カザフ、バルト、タドン、セン、シバレ、そして生後10ヶ月を迎えようとしているオビも、まさにオスになっていた。
 若くして去勢したカボスは、メスの影響を受けることなく、常にばくばくと食べる。しかし、サモエドのチロルはタマがなくとも社会的にオスであり、今回はとうとう、ベルクの隔離柵を囲んで集まっていたマロやタドン、シバレと一戦を交えてしまった。
 まあ、傷はマロの鼻とチロルの耳で済んだが、これからも油断は出来ないと分かった。

 約1ヶ月半に及ぶ恒例の騒動が終わると、犬たちの興味は異性から食欲に変わった。
 朝の散歩の時、センを先頭に犬たちは、ムツさんの家の前にあるリンゴと梨の並木に駈け寄った。
 よく覚えているな....と感心する。そこには熟して落ちたり、風で落下した西洋梨(ひょうたん梨)があった。
 草の中に潜っている梨を探し出し、犬たちは夢中になって齧った。センなどは私が確認しただけで5個は胃に収めていた。

 私も犬たちに負けるわけにはいかない。嬉しそうに食べる山羊のメエスケや兎の顔を思い浮かべながら、拾い集めた梨を上着のポケットに入れた。
 それをじっと見ていた要領の良い犬がオビとカボスだった。2匹は、いつもはそこに入っているジャーキーを貰おうと、ポケットに鼻先を入れる。
 今日は、大きな梨である、取り易い。油断をしていると、あっと言う間にカボスの口に梨が移動していた。

 もちろん、まだ木にしがみついている梨には手を出さない。霜をかぶる度に味が良くなり、越路さんの手によってコンポートやタルトに変身する。それはそれは美味なのである。

 予報では、明日から風が出るらしい。数百個はなっている梨、また落ちるだろう。朝夕、犬たちに負けずに、私は草むらを探す。ポケットでは入りきらないので、明日は、籠でも下げて行こうか。



2003年10月20日(月) 天気:快晴 最高:14℃ 最低:1℃


 どこまでも晴れ渡る秋空の1日、嬉しい事と、呆然とする事があった。

 嬉しい事....

 日本のプロ野球には、と言うよりも野球そのものに、まったく興味を示さなかった女房が、今年はなぜか私に話し掛けてくるようになった。多分、阪神の、というよりも星野監督のせいだろう。ドキュメンタリー等を見て、私と同じように惹かれたようで、時々、中継に顔を向けるようになった。
 
 この変化の原因には、もうひとつ、松井効果もあるようだ。
 朝食や昼食時に、うまく中継が重なり、私が見ている試合に付き合ううちに、女房も松井の実直さのファンになってしまった。
 イチローもいいが、時差の関係でマリナーズの試合は外に出ている時が多いのと、彼は、あまりにも2面性が強過ぎるて、女房に言わせると「試合後のインタビューで何を気取っているの」となってしまう。
 独占取材の時に見せる、あのくだけたイチローが試合でも出現すると、女房も楽しむだろう。

 なんだか前文が長くなってしまった、そう、今日、嬉しいのはもちろん『松井の3ラン』である。ヤンキースも観客も、彼の1打で雰囲気が変わった!!

 もうひとつ嬉しい事を....。
 
 知床からレヴンが来てくれた。自分の弟たち(アラルっ子)に水たまりでの遊び方を教えていた。マロやカザフたちに挨拶をし、ラーナに嫌われ、プレッシャーを受け、腹を見せて転がっていた。
 我が家の玄関を、誰かが出入りすると、隙を狙って中に入ろうとした。兄弟のオビとプロレスごっこをしてくれた。
 実家での夕食を、美味しいと言って食べてくれた。ひたすら私の手からジャーキーが出てくるのを楽しみに、瞳を輝かせて待っていた。
 食後、我が家の連中と夕陽の原野を散歩してくれた。
 すべてが嬉しい光景だった。

 そして、呆然・唖然な事を......

 王国を応援して下さっている皆さんの組織『ムツゴロウゆかいクラブ』の会報誌『ルップ124号』が、郵便局の手違いで、まだ発送になっていない事が判明した。
 毎号、全国で心待ちにして下さっている方々の顔を思い浮かべて編集し、地元の印刷所もスケジュールを変更してまで、先に印刷、製本をしてくれている。
 それなのに....である。
 最後の詰めで、こちらにも油断があった。
 ただただ、頭を下げて会員の皆さんにお詫びをさせていただくしかない...。

 申し訳ありませんでした、
 心よりお詫びしたします。
 



2003年10月19日(日) 天気:快晴のち雲が 最高:15℃ 最低:8℃

 雨は明け方には上がり、太陽が顔を出す頃には見事な青空が広がった。陽光が差し込むとともに、水蒸気が上がるのが見え、大地は陽炎に包まれた。

 曜日の感覚を失ってどれぐらいになるだろう。子供たちが高校に通っている頃までは、送り迎えがあったので、何となく意識はしていた。
 しかし、我が家の住人が夫婦2人だけとなってしまうと、もう月曜も日曜も同じ1日、何の変化もない24時間になってしまった。

 これは生き物と暮している人間の宿命である。特に、牛や馬などの産業動物をたくさん飼育されている方は、1年365日、同じ事をしなければならない。畑作や米作りであれば、農繁期と農閑期が区別され、特に雪の冬のある北国では、その生活リズムは大きく異なっている。
 しかし、命は休んでくれない。従って酪農家は『休みがない』からと、若い女性たちに嫁ぎ先としては敬遠されるようになっていた。

 今日、1人の若い奥さんに会った。関西から道東の酪農家に嫁いだ方だった。

 「なぜ、地元の女性が、特に実家が酪農家の方が、農家に嫁に行くのを避けようとするのか、私は判りません...」

 彼女は、笑顔でそう話していた。

 「だって、旦那が社長、もしくは社長を約束されている経営者なんですよ、自分は社長夫人、こんな凄いことは、他の職業ではそうないと思うな〜」

 「今は、ヘルパー制度なども完備され、月に何度か休日も取れるし、機械化で力仕事も少なくなり、時には昼寝もできる....。おまけに自分達の考えで、どのように経営をしても構わない自由さがある、もちろん結果は全て自分の責任ですが、だからこそ生き甲斐、やり甲斐がる、家はパパが頑張っているから、今年は増収確実、楽しい毎日です」

 彼女が関西から来たのは、実は大好きな犬を飼う、それもたくさん飼う事ができる、と言うのも理由だった。マンションを飛び出て実習に入り、その働き振りと明るさが周囲を魅了し、特に積極的だった男と結ばれた。
 現在は4匹の犬、そして子供が1人、まだまだ、どちらも増えそうだと、大きな声で笑って言っていた。

 この現代の流れに、我が家も追い付かなければならない。何とか曜日を認識し、時には生き物に関わる事ではあるが、人間の休みも作らなければ....。
 そんな事を女房に告げたところ、

 「何言ってるの、毎日が休みのような生活でしょう。だから曜日が判らなくなるのよ....。さあ、散歩に行かなくちゃ!!」

 うん、確かにこれが真実かも知れない。
 納得した私だった。



2003年10月18日(土) 天気:曇り時々雨 最高:13℃ 最低:1℃


 10月17日(金) 天気:晴れ 最高15℃ 最低2℃
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 釧路を過ぎ、白糠の手前で道路をまたぐように設置された電光掲示板に『事故処理中・渋滞』の表示が出ていた。
 空は快晴、爽やかな秋の道東、都会ではラッシュの時間でも、国道38号線は快調に流れている。こんな道で事故とは、と思いながら車を進めた。

 ポカリスエットの大きな工場がある音別を過ぎ、尺別の小さな駅を越えた所だった。次々と、前を進む車のテールランプが灯った。あちらこちらで一斉に行われている過日の地震による道路被害の復旧工事現場ならば、必ず手前に警備の人間が立ち『徐行』の幕を掲げ、鋭く笛を吹いてくれる。
 しかし、そこでは『徐行』の知らせなしに、突然の減速となった。

 ひょっとすると、ここが事故現場と思いながら、ゆっくりと前の車の後を追った。
 右への緩い登りカーブが前方に見え、たくさんの赤いライトが点滅しているのが溜まっている先行車の間から確認できた。

 そして、車は停車した。
 右前方、100メートルほどの所で、警察官や作業服の方が10数人、忙し気に動いていた。国道のアスファルトの上は、そのあたりだけ、雨が降ったわけでもないのに、黒く濡れて見えた。
 ブレーキを緩め、少し車が前に出た。
 見えた....。
 2台の乗用車が、まるでスクラップのようになり、右と左の路肩に転がっていた。特に黒い車は、運転席が完璧になくなっていた。

 私は、それを見たとたん、溜め息とともに、足から力が抜けた。車の姿は、確実に『死』を伝えていた。
 流していた沖縄の歌を止め、ラジオをつけた。現場の手前で処理を待って5分、ニュースが掛かった。
 事故は、8時ちょっと前、私が現場に差し掛かる3時間以上前に起きていた。亡くなった方が1名、重態が2名と伝えていた。

 現場は私のいる帯広に向かっている車線が『譲り合い登はん車線』を含めて2車線、対行車線は下りの1車線となっている、とても広い所だった。
 どちらがはみ出したのかは判らない、しかし、明らかにスピードは出ていたと思う。そうでなければ、もう少し原形を留めているだろう。
 快適な北の秋、どこにでも油断は潜んでいると感じた。

 午後、帯広で講演をさせていただいた。
 聴衆の皆さんの平均年齢を出すと、おそらく70を超えるでしょう、と主催の方が笑った。
 私は、若い女性中心の講演も大好きだが、実は、人生の先輩の皆さんと、大いに笑顔の交流をするのも気にいっている。もう恐いものはない、したたかな実年集団は、心からの表情を、リアクションを示して下さる。
 話をする私は、そこに学ぶことが多い。

 最後に、交通事故だけはムダ死にです、気をつけましょう、と言わせていただき、ゆかいな時間を終えた。
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2003年10月16日(木) 天気:雨 夕方から晴れ間 最高:8℃ 最低:6℃

 町の文化会館でムツさんの『北の夜話』があった。1時間半、ムツさんの熱弁が繰り広げられた。今回は過日行った中国のパンダ生息地での見聞、そして体験話だった。
 いつものように、某TV番組の器具を借りて来て(何でもオモチャとして発売されたとか....)『ヘ〜!』と叩きたくなる充実の内容だった。

 講座、講演は、生ものだと思う。ライブであるからこそ、私はあえて内容を書き記さない。その場を共有した方たちとの素敵な宝物としておこう。そう、私はイジワルである。

 毎度の事になるが、身近にいることで、ムツさんの話を聞く機会はたくさんある。その中で、小さなこと、当たり前のことまで、いかにムツさんが立ち止まり、疑問を置き去りにせずに、様々な角度から答を求めているかが判る。
 そして、その答が発見できた事を語るムツさんは、少年の瞳を輝かせている。世界中での出会いは、ムツさんにとっては、まさに『発見』の旅である。

 もうひとつ重要な事がある。それは絶えず学ぶことだと思う。疑問を抱き、その答を求め、周囲に手がかりを探し、自分でも観察・研究を重ねる。
 そこから見つけ出した真実が、たとへ自分のこれまでを否定していようとも、恐れずに、固まらずに、新しい真実に素直であること....。
 
 実は、これは物凄く難しい事である。ひとつの説に凝り固まり、そこから出ようとせずに、頑固に身体を丸めてしまうことのほうがはるかに多い。でも、科学を志す方、そして実際家は、教条主義こそ否定しなければならない。特に、ここ20年余の生物学は、小さなところから大きな分野まで、特段の発見、発展を遂げている。
 そこにもアンテナを張り巡らし、あらゆる角度から現象を捉えて、今の真実を語っていかなければならない。
 
 生きている事は、学び続けることだと、私は、ムツさんを見ていてそう思う。



2003年10月15日(水) 天気:晴れのち曇り、そして雨も 最高:15℃ 最低:−1℃

 午前中の晴れ間が消え、午後からは低い雲、雨も感じるようになった。時計が3時を回ると、もう表は薄暗い、早めに犬たちの餌をあげようかと腰を浮かせた時に、外から窓ガラスを叩く音がした。

 「おとうさん、おとうさん、来て、来て.....!」

 先に出ていた女房である。
 生き物たちと暮していると、呼ばれる時には、何か事件とまず思う。しかし、それも長い間の(なんせ30年以上の付き合いである....)経験で、女房の言葉、声の調子で、良い事、悪い事、ひっ迫した事、のんびりコーヒーを飲み終えてからで構わない事....等々の判断ができるようになっていた。

 今日の「来て、来て」は、それほど悪い事ではない、何か面白い事とのニュアンスに聞こえた。汚れたガラス越しの女房の顔も、そう語っていた。

 履き慣れた黒い長靴で庭に出た。中に山羊のメエスケの牧草が入っているようで、どうも履きごこちが悪い、玄関の壁につかまり、片方ずつ脱いでさ逆さまにして振る。以前は片足立ちで可能だった事も、このところ危なっかしい、つい周囲につかまるものを探してしまう。

 「早く、ほらっ、台所、行ってごらん....」

 何が起きているのかを、はっきりと言わない。そんな時は絶対に悪い事ではない、私は、あらためてほっとして足を進めた。

 車庫の横に併設されている動物用の台所の中は暗かった。配膳台の上に何かがいるのは分かった。建物の中に入り、数秒で正体が分かった。
 ネコのアブラ2世が、大きな鳥を食べているところだった。手を伸ばして鳥の正体を確かめる、羽の模様、大きさからキジバトと断定した。

 普段はネズミ狩りが専門のアブラ2世にしては珍しい、それもこんなに大きな野鳥を....。
 記録しようと、私は玄関に置いてあるデジタルカメラを取りに走った。

 1分後、戻ってきた時には、アブラ2世は、もう満足という顔で舌をペロペロと出し、口の周りを舐めていた。キジバトの胸筋と心臓、そして胃が消え、台の上にはたくさんの羽と胃からこぼれ落ちた草木の種が散らばっていた。

 そこに、御馳走の気配を嗅ぎ付けたアブラが走ってきた。
 彼女は野鳥ハンターであり、野鳥愛食家であもある。キジバトの死体をみつけるや、声ともならぬ音を出し、すぐに食らい付いた。
 あっと言う間に頭が千切れた、そのすぐ後に2枚の大きな羽が胴から切り離された。

 見事な食べっぷりだった。慣れている、大好きである、とアブラの全身が語っていた。
 私は、カメラにキジバトらしさが分るようにと、手を伸ばして姿を修正しようとした、

 『ウグ〜!!』

 肉と骨をくわえたアブラがくぐもった声で抗議をしてきた。それでも獲物を動かそうとすると、今度は前足でおさえて、取られまいとした。

 「だいじょうぶだよ、誰も持っていかないよ、お前のものだよ...」

 そんな私の声も聞こえていないのだろう、アブラは音をたて、口に付いた小さな羽を振るい落としながらキジバトに牙をたてていた。

 1時間後、台所では、いつものようにアブラたちの餌を用意する女房がいた。
 アブラとアブラ2世は、これまたいつものように、「ニャ〜」と甘えた声を出し、ネコ用の缶詰と、上に振り掛けられるカツオブシを待っていた。
 その瞳には、キジバトに示した、あの鋭さはなかった。



2003年10月14日(火) 天気:晴れのち雲が.... 最高:16℃ 最低:3℃

 「どうして、こんなに子犬は可愛いのだろう......」

 思っていても我が家では口にしない言葉を、つい漏らしてしまった。目ざとく、いや耳ざとく聞き付けた女房が、あきれたように言った。

 「あったりまえでしょう、そんな事...何を言ってるの...」

 はいっ、当たり前、当然の事、真理と、私も思う。

 居間の大ガラスの真正面に常設してある広いサークルには、先日から柴犬のシグレの子が5匹、サモエドのアラルの子が4匹、合わせて9匹の子犬たちがいる。生後1ヶ月半が過ぎ、離乳食をしっかり食べられるようになるとともに、9匹が入り乱れての遊びも活発になって来た。

 これは、5感の発達と、脳からの指令、それに対応した神経系、筋肉系の動きが、正しく機能し、さらにフィードバックもうまくいくようになった証明だ。
 従って、前方50センチの子犬に確実にジャンプで襲い掛かることができるし、45センチのジャガイモ籠をよじ登ることも、飛び下りることも可能になった。

 こうなると彼らの世界は一気に広がる。普段、サークルの中から眺めて認識した空間は、ほとんど無警戒で駈けて行く。しかし、そこで出会った母親以外の犬たちには、いちおう気をつかう。小さな尾を振り、まだ立たない耳を後ろに引き、ヘラヘラ笑顔で『こんにちは〜、よろしく』と挨拶の姿勢になる。
 ヌ〜っ大きな顔が近づくと、時には小便を漏らし、嗅がれるままに身体を動かさずに確認されるのを待つ。すでに仰向けになり恭順の姿勢をできる子もいて、けして虐められたり襲われることはない。

 夕方、餌を食べ終えたシグレが、子犬たちの遊んでいる真ん中に入って行った。
 最近は、子犬たちが乳首目当てに群がるのを嫌がり、そそくさと散歩に出ていくのが、今日は違っていた。

 「お父さん、シグレ、吐いたよ....。今回は、これが初めてかな?!」

 開いていたサークルの出入り口から、わざわざ中に入り、後を追って来た白と茶の子犬たちが集まり、数匹がシグレの口元を舐めた時に、ゲ〜っと出したらしい。
 私が見た時には、争うように吐き出されてフードを食べている子犬たちと、その真ん中で、困ったような顔をしているシグレがいた。

 「つい5分前に食べた物だけど、ずいぶん柔らかく見えるね、ドライも....」

 食器に入っていた時とは、かなり異なる形状、柔らかさになった餌が、暗くなりかけた大地に広がっていた。噛み砕き、そして胃液などでマイルドになった大人の食物は、子犬たちには最高の餌のようで、離乳食の時以上にがっついていた。

 「アラルはどうだっけ、前の出産の時は吐き出したっけ....」

 「たしか数回だったと思う。だから太るのよ、アラルは....。今回も育児中に体重が増えているのよ、もう....」

 アラルは人の言葉、その調子に敏感な子である。すぐ脇で子犬たちを見ていたのだが、私たちの会話の中に自分の名前が聞こえると、尾を下げ、静かに小屋に入ってしまった。上目使いに人間を見る様子が、なんとも可笑しかった。

 「だいじょうぶだよ、アラル、さあ、散歩に行こう!」

 大声で励ますと、アラルはゆっくりと小屋から出て来て、女房や犬たちと牧草地に向かった。

 吐き戻しを食べ尽した子犬たちは、順番に水を飲み、再び庭での運動会を開始した。
 そこで、見事なことに気づいた。9匹は、サークルの中から見える所から先に行かないのである。大人の犬たちが、舗装道路の方角に歩を進めても、皆で立ち止まり、見送り、自分たちはサークルの周辺に戻って行った。

 毎日、庭でフリーになるたびに、これからこの行動範囲が少しづつ広がって行く。あくまでも少しづつであり、けして一気に80メートル離れた牧草地がテリトリーにならないのが、実に見事である。
 
 子犬は子犬なりに、自らを守るルールを備えている、そう思い、やはり可愛いやつらだと、私は目尻を下げている。



2003年10月13日(月) 天気:雨のち曇り 最高:13℃ 最低:8℃


 明け方の雨はすぐにやんだ。しかし、雲は厚く、そのうち風も出て来て気温は上がらず、寒い1日となってしまった。
 夕方から、北からの寒気が近づいて来ている影響で、気温はさらに下がって来ている。峠では積雪との予報が出ている。

 連休最終日、クラブハウスの『ゆかいの家』を利用されていた仙台の御家族が寄ってくれた。6年生のお兄ちゃんと2年生の妹、そしてお母さんだった。
 家ではビションフリーゼを飼っているとの事、驚くほど、犬の扱いが上手な兄妹であり、それを見守るお母さんにも、素晴らしい余裕が感じられた。
 幼い頃から、犬との縁の切れたことのないお母さんは、自分の子供たちだけではなく、その友だちまでも引き連れて、市が運営している犬の保護センターに行くという。そこでは、幼い犬たちの里親を探すために、子犬たちの運動場を公開しているという。もちろん中に入って遊ぶことも可能とのこと。
 なぜ、子供たちを連れていくかと聞くと、

 「驚いたんです、今の子供たちもそうですが、そのお母さんたちも、子犬などにどう接したら良いのか、分らない人が多いのです。私が小さい頃は、近所で子犬や、子ネコが生まれたら、喜んで見に行って、いつの間にか、抱き方などを覚えていました。我が子や、その友だちたちに、少しでも同じ体験ができればと思って...。そして、何より子犬って可愛いでしょう、それを知る機会も大切かと...」

 仕事は病院の助産婦(今では助産師)とのこと、やはり『命』をみつめての仕事をされている方だった。子供たちにも子犬の誕生をと、ビションの出産も計画し、見事に2時間で8匹が生まれるドラマを実現されている。
 
 寒い秋の日、また、私は素晴らしい方と会うことができた。



2003年10月12日(日) 天気:薄曇り 最高:16℃ 最低:12℃

 今日、特売の生筋子を女房が買ってきた。隣の標津産の新鮮なもので、何と100グラムが185円だった。
 今年は、だぶつき気味な上に、今が最盛期、昨年よりも100円近く安い。
 でも、本州の、それも大都会で売られると、軽く2倍以上の値札になるのだろう。今『地産・地消』が叫ばれているが、いくらなんでも地元で食べ切るには人口が少ない。安く都会の方に、お裾分けができないだろうかと、イクラ醤油漬けの大好きな友人たちの顔を思い浮かべながら考えた。



2003年10月11日(土) 天気:晴れ時々薄い雲 最高:21℃ 最低:9℃


 只今、ルップ袋詰め中です、日記は後ほどとなります。
 あっ、2日分、溜まってしまう....お金はたまらないのに....。
 失礼いたしました、せっかく来ていただいた皆さんに...。



2003年10月10日(金) 天気:晴れ 最高:16℃ 最低:6℃

 新しい家族、Rさん一家に迎えに来ていただき、今日、ルーイは2時過ぎの飛行機で中標津を発った。
 家に戻ってしばらくすると上空から音が聞こえてきた。

 「あっ、ルーイの飛行機だよね、東京便.....」

 庭で、ルーイの掘った穴を埋めていた女房が言った。

 「うん、多分ね....」

 私は、気力なしの声で応えた。中標津空港はローカルの最先端である、この時間の音ならば千歳からの到着便、あっ、この音は丘珠への2便だ、少し遅れているな....等々、1日、往復8便しか飛んでいないので、すべてスケジュールが頭に入っている。
 でも、ルーイが咬んで遊んでいた棒切れを片付けていた私は、すりこぎのようになった跡を眺め、少ししんみりとしていた。

 午後9時少し前に、Rさんから電話があった。無事に家に着き、もう走り回っているとの事だった。羽田空港で、手荷物の係員の勘違い(ルーイのケージは私物だったが、ANAの貸し出し用と同じ製品だったために、係員はルーイだけを渡そうとした。不注意ですよ、係員さん)でケージの扉が開けられ、喜んだルーイが駈け出すというハプニングもあったようだが、とにかく元気に着いたことは何よりである。

 しつこいかも知れない、でも、ルーイが旅立った日ということで、再々度、ここに書いておこう。
 それは、子犬や子ネコを新しい家族の皆さんのもとに送り出すということは、私はある種の想いを伝えているつもりだと.....。
 その子の父親、母親、兄弟、人間を含めた周囲の生き物たち、すべてからのメーッセージを抱いて旅立つ.....と。

 特に犬は、その出自によって性格も社会性も嗜好も、そして本来すべての犬が備えている攻撃性(狩り、番犬的)の強弱も、ある程度決まってくる。
 今の時代、この日本という国で、どのような犬が家畜として求められているのか、そこに重きを置き、犬種を超える仕事(家庭犬という仕事)すらも期待して、とても重要な、産声からの2ヶ月と少しの時間を見守ってきたつもりである。
 従って、我が家生まれの犬は、番犬にはあまり向かない。いや、初めての人でも遊んで欲しくて、挨拶がしたくて吠えてくれるかも知れない。それを利用することで番犬的にはなるかも知れない。
 でも、基調は『フレンドリーであること』、これである。人にも他の犬にも、そしてできればネコなどの異種の生き物たちにも尾を振って欲しい。

 以前、ある有名なブリーダーさんの所にお邪魔した事がある。ショーの世界でも大活躍をされている方だった。もちろんチャンピョン犬が両親なので、子犬の値段は驚くほど高い。それでも予約をさばききれないと仰っていた。

 しかし、犬舎に入り、私は驚いた。クーラーやケージ内の絨毯にびっくりした訳ではない、チャンピョン犬の住居、その暮しに驚いたのである。
 出産育児をしている母犬、成長中の子犬以外は、すべて1匹ずつ狭いケージに入れられていた。もちろん大小便や餌の時はケージから出てだが、その場所ですら1匹ずつ隔離されており、畳1枚程度だった。
 
 「いつ、犬たちを遊ばせるのですか?」
 
 と聞いた私は、笑われてしまった。
 
 「あんたんとこみたいな事をしていたら、毛は擦り切れるは、ケガはするは、汚れは付くは、大袈裟な表情はするは、嬉しそうに尾は振るはで、ショーになんか出せないよ、こうやって1匹ずつ小さな所に入れておくのが大切なのさ...。もちろん成犬同士を遊ばせるなんてしないよ..」

 多くのショーに出されている方はそうではないだろう、たまたま行ったのが特別な所だったのかも知れない、でも、その考え方によって育てられた犬がチャンピョンなのはまぎれも無い事実である。犬として生き物として、どんなにせつない日々を送っていようとも、ジャッジには影響がなかったのである。

 以後、あれほど好きだったショーの見学に足が向かなくなってしまった。その時間があれば、家の毛のすり切れた連中と、さらなる枝毛作りの散歩や遊びをするようになった。

 もちろん、犬は家畜である、様々な生きざまがあるのは当然である。だからこそ、私は毛が擦り切れるほど、家族と、そして近所の犬たちと遊んでくれる事を、我が家出身の犬たちに期待する。
 ショーとは無縁でも、これはショーがないということで勘弁してもらおう。
 その代り、怒鳴り声や、あきれた顔や、笑顔は周囲に満ちると思う。
 ルーイもそうあれと、今は静かに祈っている。

 




2003年10月09日(木) 天気:快晴 最高:19℃ 最低:3℃

 昨日の日記に書き忘れがあった。体重の一覧の中にルーイの名前が入っていない。サモエドとラブラドールの間に生まれたハイブリッドのルーイは生後3ヶ月半、体重は15キロとなった。性格も笑顔も、そして身体も問題がなく、順調に育ってきたルーイも、いよいよ明日、群馬に旅立つ。

 今日、新しい家族のRさんと御両親が我が家に来られた。もちろん迎えにである。いただいた予定表では、飛行機が明日の午後なので、当日(10日)正午前にと書かれていた。
 今朝、私は急に思い付き、Rさんのケイタイに電話をしてしまった。もし可能なら、今日の夕方の餌、そして散歩等を見に来られませんか.....と。
 嬉しいことに、Rさんは御両親と道東の秋巡りをされている途中で行程を変更し、我が家に顔を出してくれた。

 実は、Rさんは、先日、ネットで出会った(うん、それまでは、会っている方はいなかったかな)友人たちと王国に来られている。家の新築のためにルーイの家族仲間入りが10月になるとの事で、先に会いに来られたのだった。
 笑顔で、そして優しいながら凛とした声でRさんはルーイに話し掛け、そして抱き締めてくれた。

 その記憶がルーイには鮮明に残っていたのだろう、今日、一目見ただけで尾が振られ、クサリをいっぱいに伸ばして、近づいてくるRさんを待っていた。
 そしてジャンプ、顔を舐め、身体を擦り付けていた。
 この仕草は初めて会うRさんの御両親にも示された。眺めていた私は顔がほころぶとともに、心の中で安心が広がった。何より嬉しかったのは、3人の方が、旅のきれいな服装を気にすることなくルーイを抱き締めてくれた事だ。御家族の皆さんがルーイを大歓迎してくれている、それが何よりのお土産だった。

 餌の時間になった。Rさんたちが見守る中で、私はどのような考え方で与えているかを説明した。基本は『いいカゲンさ』ですと力説した。
 そして、ルーイの目の前に食器を運び、『どんな時に人間が手を出し手も、けして噛まない犬の育て方』を説明した。そう、これは餌の時にこそ可能なトレーニングなのである。

 ルーイは少しシャイというか、周囲をしっかり確認する利発さがある。突然に皆に注目され、食器に口を入れ難い感じのようで、一口ごとに、誰かに尾を振って「食べてもいいでしょうか?」と聞いているのが可愛かった。

 散歩は、今日、乾草として収穫が終わった牧草地に10数匹で行った。もちろんフリーである。
 ルーイは、母親のラーナと追い掛けあい、カボスやオビたちにはターゲットにされて転がされていた。
 でも、ルーイはそれを楽しんでいた。尾を振り、口を大きく開け、笑顔で駈けていた。

 「これは幸せだは、こんな事はできないかな〜群馬では...」

 Rさんの父上が、そう呟くのが聞こえた。

 「その替わり、皆さんがいらっしゃいます。この子は、実によく人を見つめ、聞いてきます。その時に声を返すと、それだけでルーイは嬉しいはずです、良い子になっていきます...」

 私は女房に声を掛け、ルーイをリードに繋いだ。そして、それをRさんに渡した。
 ルーイは昨日、初めてクサリやリードに繋がれたばかりだった。でも、すぐに状況を把握し、けしてパニックにはならず、見事にこなしていた。

 「おいで、ルーイ、こっちだよ...」

 Rさんの声は優しい....。

 「はいっ、ルーイ、おいで!...行くぞ!!」

 横で、私はいつもの大きな声で叫んだ。

 ルーイは、振り向き、真直ぐに私に向かって来た。
 戸外では、犬は周囲のものに気をとられている事も多い、風や車の音もある、短く、鋭く声を掛けてとRさんに言った。
 その後、ルーイはまさしくRさんの愛犬となり、庭に戻るまで、1本のリードで1人と1匹は繋がれていた。

 明日、午後2時過ぎの羽田便でルーイを伴い皆さんは旅立つ。山里の温泉で、今頃は今日のルーイの話をしながら、北の夜空を見ているだろうか。
 私は、一夜、ルーイと居間で過ごす。話し掛け、抱き締め、そしてともに眠ろう。



2003年10月08日(水) 天気:晴れ 最高:18℃ 最低:3℃

 2003年10月7日(火) 晴れ時々曇り 最高14℃最低1℃
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 惜しい、あと少しでこの秋初めてのマイナスの気温を記録するところだった。
 残念ながら起きた時には太陽が元気いっぱいで、大地の草は微かに濡れている状態だった。気温からいけば霜が降りていても不思議ではないのだが、定かではない。
 
 所用があり、どうしてもこの日記に辿りつくのが0時を回ってしまう。以前は、修正で日付けを変えて記入できたのだが、このところ、それができない。従って今日も(7日)、8日の項に間借りの日記となってしまった。お許し願いたい。

 夕方、東京のラジオ局から電話があった。ヤギに関する問い合わせだった。
 なんでも大リーグのシカゴカブスには、長い間『ヤギの呪い』があり、それ故にワールドシリーズに勝つことができないのだとか....。
 確かにヤギは、古来から神の変身した存在とか、魔女などと言われてきた歴史がある。それゆえに、似たような存在ながら神に捧げられるのは『スケープシープ』ではなく『スケープゴート』だった。

 興味深いことに、様々な宗教が特定の動物の肉を口にすることを禁じている中で、ヤギと羊だけはどんな宗教の戒律でも許されている。従ってイスラムやヒンドゥーの世界では、貴重な動物タンパク資源であり、粗食ゆえにどこでも飼育ができ、頼りになる家畜として大切にされている。

 残念なことに日本では馬と同じように急激に数を減らしてしまった。記憶によれば今はピーク時(戦後)の50分の1ぐらいだと思う。
 それでも、ここ10年、ヤギの愛らしさがペットに、ミルクが健康飲料やチーズに、そしてカシミヤやモヘアの毛触りを楽しむ存在としても人気が出て来た。
 もちろん、沖縄などを中心に食用としての文化も根をしっかりと張っている。

 どのような用途でも構わない、より多くの人が利用していくことで、素晴らしい家畜の仲間であるヤギが、日本でも生き延びることができるだろう。

 深夜、電話でのラジオ出演でヤギの話をしながら、明日は我が家の巨大オスヤギ(推定120キロである)メエスケを少しからかってやろうと思った。それがアイツの楽しみであり、時々、私は腕やスネに青いアザを作る。
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 10月 8日(水)
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 王国では、春と秋の2度、必ず犬、ネコ、キツネの駆虫をしている。馬も駆虫があるが、こちらは年に1回だ。
 普通、犬を飼われている方は、まず検便をして、寄生虫の卵などを確認した時だけ薬を処方することが多い。しかし、王国では問答無用で全ての個体に飲ませている(妊娠、育児中の子は時期をずらす)。と言うのも、寄生虫によっては卵を排出する時期に波があり、実際は寄生していても便に印が出ないこともあるからだ。

 さて、駆虫薬を飲ませるためには、その子の体重が分らなければならない。従って、春と秋は、どんなに隠そうと思っても(あっ、これは人間のオスではない方々の話かな)王国の生き物たちの体重が明らかになってしまう時期でもある。

 我が家では、今日、一斉に犬たちの体重計測を行った。その数字を6ヶ月前と比較してみよう。

 名前      前回(4月)  今日      増減
マロ       31.5    29.0    −2.5
カザフ      37.0    35.0    −2.0
ラーナ      22.0    23.0    +1.0
アラル      32.0    33.0    +1.0
ダーチャ     32.0    33.0    +1.0
オビ       15.0    30.5    +15.5
バルト      52.0    55.0    +3.5
ベルク      55.0    50.0    −5.0
カボス      51.0    52.0    +1.0
タブ       31.5    33.0    +1.5
セン       29.0    31.0    +2.0
シバレ      17.0    17.0      0
ミゾレ      11.5    13.0    +1.5
シグレ      16.0    14.0    −2.0
タドン      12.5    13.0    +0.5
カリン      23.0    23.0      0
ベコ       23.5    25.0    +1.5
メロン      12.0    13.0    +1.0

 6ヶ月でいくつかの変化がある。5キロも減ったベルクは、コントロールの結果である。彼女は後肢に化膿箇所が広がり、一時期、体重を支えるのが辛そうだったので、減量をさせた。見事に成果があり、今では、元気に駈けている。
 
 これは我が家の特徴かも知れないが、サモエド種で母親になった子は、みんな体重が増えている。特にアラルは、今まさに育児中であるのにもかかわらず、重くなっている。少し恥ずかしいかな.....。

 ダーチャは、お腹に赤ちゃんがいるので....としておこう(そうあれと祈っている)。

 ラーナは授乳を止めてから毛は抜けたが、見事に肉がついてきている。あれだけルーイと駈け回っていても体重が増えるのは健康な証拠だろう。

 自分の子5匹に加え、時々、アラルの子犬4匹にも乳首を吸われている柴犬のシグレは、見事に体重が落ちている。少し美味しい物を集中的にあげよう、依怙贔屓で。

 マロもダイエットである。年齢もある、そして肩と腰を打った後遺症もある。2キロ以上軽くなったのが良かったのか、今年はよく駈けている。まあスピードは遅いが、昨年のように散歩の途中で帰ることがなくなった。

 オビの成長にも驚いた。生後3ヶ月半の時が15キロ、その後の6ヶ月弱で15キロ以上の増加である。見た目には、それほど太いとは感じないので、もっと重くなりそうである。堂々たる3代目の出現か.....。

 静かにタドンとメロンも体重が増えていた。寒さの前に、しっかりと脂肪を蓄えてほしいものだ。

 計測の時に、はからずも女房のおよその体重を知った。それも並べて書こうかと思ったが、万が一、発表したことが知られた時が恐いので、私の体重だけにとどめよう。
 4月は57.5キロ。今日は58キロだった。きわめて快調である。

 



2003年10月06日(月) 天気:晴れ時々曇り雷雨あり 最高:14℃ 最低:5℃

 長くサーバーに繋がらない事故があった。やはり先日の地震の影響のようで、倒れた機材に問題が生じたとのこと、管理をしている友人は、汗をかいている声で連絡をくれた。ご苦労様....である。

 今日も雷の音が聞こえた。幸いにもあまり近づきはしなかったが、それでも1部の犬たちは怯え、その後の地震で、またまた情けない声を出す始末だった。
 多分、震度2か3程度だろう、地震の時に、我が家の犬たちの予知能力を確認することができた。

・私が感じる5秒〜3秒前に吠えた犬(早い順)
 カボス、カザフ、カリン、ベコ、ラーナ、
・私と同時に何らかの行動を示した犬
 タドン、チロル、アラル、シグレ、ミゾレ、メロン、セン、
・他の犬が吠えているので、何か判らないが動きだした犬
 シバレ、ベルク、ルーイ、オビ
・変わりなく寝ていた犬
 マロ、ダーチャ、

*バルト、タブ、は、隔離柵に入っていたので、確認ができなかった。

 こうしてみると、犬が知らせてくれたとしても、とても人間が逃げ出す時間はない。やはり被害を防ぐためには自分で物の置き方、火の元の確認等の注意をするしかないようだ。
 
 そうそう、山羊のメエスケも確実に地震を感じていた。揺れが始まると同時に、もの凄い勢いで小屋から飛び出てきた。その短い尾は直角に立っており、顔には興奮と不安が感じられた。
 隣の小屋で寝ていたウコッケイとニワトリには、まったく変化がなく、揺れる樹上を寝場所にしがちな連中らしかった。

 天気予報もなかなか当たらない某協会が、ある程度の信頼度の地震予報にまでたどり着けるのは、いつの事になるのだろうか。まあ、大きな地球相手の事だから、難しいとは思うが、毎日、発表される大きな余震確率の数字の変化を見ながら、その判断基準を今ひとつ信頼できない、あまのじゃくな私である。
 



2003年10月05日(日) 天気:晴れ時々曇り 最高:15℃ 最低:3℃

 午後、女房と息子が町に出かけた。風が止まったのを見計らい、子犬たちをサークルから出してやった。いや、正確に書こう、サークルの1角を開放し、子犬たちの自由にしてやった。出て遊ぶも良し、そのまま慣れたサークルの中で昼寝をするも良し、である。

 最初に気づいたのは柴っ子たちだった。1匹、3匹、そして5匹.....兄弟すべてが開放された部分に集まり、そこにサモっ子が1匹加わった。
 彼らが最初にすることは、初めて足を進める大地に鼻を寄せ、匂いを嗅ぐことだった。これは、まだ視覚の完璧でない時期の子犬には、とても重要なことだった。巣穴から遠くまで行かないようにブレーキを掛けるシステムである。
 
 5メートル先には体重50数キロのレオンベルガーのカボスが寝ていた。まだ両方の耳が垂れている我が家に残す予定の柴メスっ子が、カボスに気づき、尾を振りながら近づいた。カボスが嬉しそうな瞳で立ち上がり、クサリを張って待ち受けた。
 メスっ子は、尾を動かしたまま鼻先をカボスの大きな顔に近づけた。よく見ると、可愛いピンクの舌先がチョロチョロと出ていた。
 
 「う〜ん、さすが7代目、臆することなく、素晴らしい挨拶ができる....」

 私は、カメラを手に、ひとりでニコニコとしていた。

 サモっ子が続き、もう1匹の柴っ子もカボスの確認を受けていた。残りの連中は、サークルから出て反対側のタドンの方に向かったもの、何故か玄関に入ってサンダルと遊んでいるものと、それぞれに我が道を進んでいた。

 「お〜い、お前たちは昼寝でいいのか、みんな遊んでいるよ」

 まだ寝ていた2匹のサモっ子に声を掛け、身体を触ってやった。ビクっとして目を覚ました2匹は、大きなアクビと小便を済ますと、ゆっくりとサークルから出て行った。
 そのうちの1匹が、カボスを越えてマロ親分の寝ている所まで進んだ。小屋の陰で自家製の穴の中で寝ていた親分は、身体に子犬が触れて始めて目を覚まし、ガウと怒った。
 やはり耳を先頭に、感覚が衰えてきている。老いてくると急な出来事におびえるようになり、やがては面倒から逃げ出すようになる。マロにはまだまだ元気な親分でいてもらいたい、そのためには、そっとするよりも、嫌がっても刺激、特に若い犬やメス犬の刺激が大切、そう思って、私は玄関の中に入っていた子犬も抱きかかえてきてマロの前に置いた。互いに確認の挨拶ができるようにと.....。

 30分もたつと、子犬たちの行動範囲が、ずいぶんと広がった。しかし、相変わらず、処女地に行く時には、慎重に匂いを嗅いで歩を進めている。なかなかの慎重派とも言えるし、しっかりとテリトリー認識を学習し始めている、その表れでもある。

 そして1時間、風が冷たさを運んで来た頃、すでに5匹はサークルに自ら戻り、慣れた場所で昼寝に戻っていた。残りの連中の中で1匹は、私が愛用している庭の長椅子の下で、もう1匹はカボスの小屋陰で、そして1匹の柴っ子は、庭の周辺でウロウロしていた母親のシグレを見つけ、オッパイを飲んだ後、シグレに添うようにして寝ていた。
 あれっ、1匹足りないぞ、と探してみると、その子は捨てるために置いてあったダンボールの箱の中で眠っていた。

 見事である。9匹すべてが、安全を考えた行動、場所を判っていた。けして広場の中央で昼寝をせずに、それぞれが陰、目立たぬ所を選んでいた。
 このぶんなら、身体、心、すべてが順調に育つ、そう確信した乳父(ウブ)役の私だった。



2003年10月04日(土) 天気:晴れ夜になって雨 最高:16℃ 最低:4℃


 息子が車の免許を取って1年以上になる。しかし、札幌暮しをしているので、交通の便は良く、自家用車を持たない息子は数えるほどしかハンドルを握っていない。
 うん、これは由々しき大問題である。お抱えの運転手付きの暮しでもできるのなら別に構わないが、ここ北海道、それも道東などで将来暮す時が来たならば、運転をできないならば仙人生活をしなければならない。

 息子は、幼い頃から機械、それも動く物に興味を持っていた。まあ、だれでも男の子ならそうだろうが、自転車では物足りなくなり、王国で使っていたトラクターや、バギー、スノーモービルに乗りたがった、同乗ではない、運転をしたがった。
 小学高学年になった時には、根負けした私は、バギーやモービルならばと息子に運転をさせた。私自身、中学生の時にはオートバイを違反とは知りつつ、公道を運転していた。

 しかし、息子となると別である。それに昔とは異なり、公道は通行量も多く、事故で相手に迷惑は掛けられない。
 と言うことで、息子は、もっぱら牧草地やササ原でニコニコとしてバギーを、雪の大地でモービルを走らせていた。
 
 『慣れる事が大切』・・・そのセオリーがもっとも意味を持つのは車の運転だと思う。免許を取得し、その後、いくらテキストを読み、シュミレーションをしたとしても、やはり実際に生きている道での体験がなければ、どんどん退化していくだろう。
「10年間、私はペーパーです、よろしく!」
 などとドライバーに言われたなら、私は降りて歩くかも知れない、たとえ30キロでも。

 従って、私は常に疑問を持っている、この辺の高校に対して....。
 3年生になると(18才になると)、就職にも必要と言うことで、多くの高校生が自動車学校に通い始める。もちろん高校側も公認のことで、放課後になると正門に自動車学校の迎えのバスが停まるところすらある。
 
 それなにのに....である。
 ここからが私の怒りの個所である。

 『取得者は、卒業まで免許証を校長に取り上げられる』のである。

 阿呆じゃないだろうか。
 北国の4月、そう、就職をして会社に通ったり、営業で走り回る時期、まだまだ雪は降り、吹雪にもなり、道はアイスバーンや、それよりもっと恐いブラックアイスバーンになり易いのである。
 毎年、新卒の社会人の交通事故が新聞の紙面を賑わす。初めての給料を貰えぬまま、そのお金で両親や恋人にプレゼントをできぬまま無念の死を......。

 極論だが、私は免許をとっても卒業まで運転をさせない情況を作る学校側には未必の故意が成立するとさえ思っている。いいかげん、事なかれから脱却して欲しい。
 もし、私が校長なら、プロのドライバーや警察官を招き、学校主催で雪のグランドでドライブコンテストやら模範運転、危険運転見本、そして免許取得者の乗り込みをどんどん行うだろう。
 
 もう一度書こう、車の運転は慣れなければだめなのである。それも乗っている車だけではなく、走る道の様々な情況に。

 あれっ、少し熱くなり、長くなってしまった。
 なにはともあれ、今日、私は息子の運転で知床半島を1周してきたのである。
 
 「センターラインに寄り過ぎ」
 「遅い、ブレーキが....!」
 「対向車線に停車している車がある時は、こちらも左に寄って走る...その理由は...」

 等々、口うるさい助手席だったかも知れない。
 私は、始まりかけて黄の見事な知床の紅葉を見られたが、息子はアスファルトの道しか頭に残っていないかも知れない。
 でも、これを繰り返し、何とか私が出先で心置きなく泡の出る麦茶を飲めるようにしたい、タクシーや代行運転は高いのだから。うん、父親は不純な動機を持っている。

 



2003年10月03日(金) 天気:雨時々曇り 最高:14℃ 最低:7℃

 修正に不備があり、古い日付けにできません、従って複式学級ならぬ『複式日記』となります、今日も.....。
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 10月2日(木)雨・雷雨・晴れ間・曇り 最高15℃最低8℃
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 午後になり、庭のサークルから悲鳴のような声が聞こえた。あわてて窓から覗くと、直径7メートルほどのサークルの中を、せわしなくグルグルとラーナが急ぎ足で回っていた。

 「お父さん、雷じゃない?!」

 女房がコーヒーカップを手に窓辺に来て言った。

 「さっきからどんどん暗くなってる。特に西の空が....。風も強くなったようだし....」

 玄関から外に出て、ラーナに声を掛けた。聞こえてはいる、耳が後ろに倒れたから。でも、口を開け、ハアハアと荒い息を吐きながら、ひたすら回っていた。
 よほどそれが面白いのだろう、ある意味で狂った動をしている母親を、まるで遊び相手のように見立てて、いや、実際に遊びだと思っているのだろう、子供のルーイが嬉しそうに後を追い掛け、ラーナの尾をくわえ、背中にしがみついていた。
 普段なら、すぐに振り向き、上手に相手をしたり、時にはウルサイと口を開け、声を出して叱るラーナだが、この時は、ただルーイを引きずりながら動くだけだった。

 ゴロゴロと音が聞こえた。
 ラーナの悲鳴が一際大きくなった。車庫に繋がれているカリンが声を上げ、それにチロルが和した。どの声も通常ヨリモトーンが高く、悲鳴に近い。
 
 他の犬の様子はと、周囲を見回した。
 カボスがウロウロと環境の良くない狭い檻のライオンのような動きをしていた。
 センとシバレ、そしてベコとベルクは小屋に入り、入り口に顔を出していた。眠ってはいない、目を開けて、静かにしていた。
 タドンは、サークルの近くに繋がれている。従って、側にいる私と女房が気になるようで、ひたすら見つめていた。ジャーキーでも出てこないかと思っているようだった。

 マロは、午前中の小降りの雨の時と同じように、小屋の横の穴の中で眠っていた。
 メロンとタブ、そしてミゾレは小屋の中で眠り、育児中の柴犬のシグレは不安そうな顔をしながらも、子犬の入っている箱の奥でおすわりをした。これ幸いと、子犬たちが乳首にすがりついていた。

 もう1匹の育児中の母、サモエドのアラルは、ラーナほどではないにしても、瞳には不安が浮かび、開けっぱなしになっている玄関を出たり入ったりしていた。そのたびに、アラルの子犬が母を呼ぶ声を出して箱の縁に前足をかけ、2本立ちでアラルの動に合わせて顔を振っていた。

 発情が終わったので、いつもの2つの小屋に戻り、繋がれているダーチャは、雷も雨も無関係、ひたすら私の方を見て尾を振り、目が合うと、何も言っていないのに耳を後ろにピタリと倒し、笑顔で首を上げ下げし、目を反らすと、ワウ〜と啼いてせつなさを示していた。

 空はますます黒く色を変え、西北の風に乗って横に落ちて来る雨粒が大きくなってきた。
 稲光りが一瞬の明るさを原野に引き戻し、グレーの我が家の壁を照らし出した。

 「イチ、ニ〜、サン、シ〜、ゴ、ロク....」

 ゴロゴロまでの時間を私は声を出して数えた。

 「8秒、まだ遠い、落ちる心配はないよ...!」

 ラーナを励ますように言った。もちろん、彼女が判るはずもなく、悲痛な表情は極限に達していた。

 「そう言えば、埼玉に行ったラーナの子、雷が苦手だったっけ、遺伝もありそうね....」

 女房が、雨宿りのために玄関の廂に移動しながら言った。ルーイが母親の尾で遊ぶのをやめ、空いている小屋に入った。
 私も、玄関に戻り、周囲を見渡した。
 横には、すがりつく瞳のシグレと、その足元で昼寝を始めた5匹の子犬がいた。

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 10月3日
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 月に1度の通院日だった。今日は何となく新入生のような気持ちで予約時間の30分前に、受付にカードを出した。
 そう、2年前から担当してくれていたS先生が大学病院に戻り、今月からは新しい先生に替わるのだった。もちろん引き継ぎはしていただいている。しかし、急な痛み、発熱等であれば、とにかく誰でもかまわない、そこにいるお医者さんに頼り、ただただ症状を改善して欲しいと願うだろうが、私のような長い付き合いの病(尿から糖が出た〜)の人間には、極端な症状、変化がないために、つい甘えがちになる。
 それを見越して診療をするためには、やはり人と人としての会話や、人格の擦れあいが必要だと思う。カルテだけではなく、相手の言葉がどのような息づかい、どのようなトーン、表情で発せられたのか、それも診たてには重要になってくる。

 ある意味で病院に通い慣れてしまうと、つい新しいお医者さんに対峙するのがおっくうになり、時として探りをいれることもある。
 これは患者を引き継いだ先生にしても同じことだろう。それを意識し、今日の私は珍しくヒゲを剃り、鏡を覗いて家を出た(まあ、実際は何も変わらないのだが....)。

 尿と血液の検体を提出し、2ヶ月前に内科の待ち合いスペースだけに設置された薄型大画面(液晶かプラズマかは確認していない)のテレビで、小泉首相と民主党の岡田幹事長の質疑応答を視て呼ばれるのを待った。ちなみに他の科のテレビはブラウン管方式である、内科は儲かっているのかも知れない、アハハハ。

 ここ数カ月で、かなり数の増えた待ち合いスペースの椅子は、ほぼ満席だった。圧倒的に私よりかなり年上の方が多いのは地方の特色だろう。テレビから聞こえてくるイラクに関する問題に目を向けている方は2〜3人で、皆さん、持病自慢や孫の話など井戸端風の話に夢中である。今の時代、これもまた病院の大切な役割だろうか.....。

 いつもよりも待たずに、そう、腹の空く前に診察室に呼ばれた。
 
 「はじめまして、御世話になります....」

 情けないが、私のあいさつはこんな言葉になってしまう。検査に合わせて処方してもらう薬で、まったく普通の人と同じ暮しができる。それを可能にしてくれているのは、何と言っても先生の言葉であり、薬が生きるようにアドバイスをしてくれているからだ。
 さらに付け足すならば、私の場合は、ニコニコと笑顔で尾を振り、散歩、サンポとせがんでくる犬たちのおかげである。血糖値コントロールを簡単にしてくれているのは、彼らの要求に応えているからであり、1日、15000歩以上の万歩計の数字は犬たちの協力によって可能になっている。
 これは健康な方にも使える手法である、例えば....

 『ケーキをお替わりしたいのなら、犬を飼いましょう!!』

 こんなスローガンも正しいのではないだろうか。健康のためにと始めたランニング、散歩、フイットネス等は、なかなか続けるのが難しい。しかし、笑顔で喜んでくれる愛犬の散歩ならば、わりと心の負担なしに1年、3年、7年となっていく。

 新しい担当のT先生は、ひじょうに穏やかな語り口で、そして厳格な数字論者ではなかった。日常という魔物の中で生きる人間の、望みうるベストの血糖コントロールを示して下さった。そう、最後の責任は私自身にあると.....。

 来月もニコニコと私は病院に行くだろう。

 



2003年10月01日(水) 天気:晴れ時々曇り 最高:17℃ 最低:9℃

 昨日の雨で、外での遊びができなかった神奈川の3匹の犬たちは、すっかり我が家の居間をベースにした生活に慣れた。ネコ用の水おけのありか、ネコ用のフード入れの場所、どれが恐いネコで、どこから人間が登場してくるか。
 さらのは、外に出た時に、どのルートを通ると、あの吠える声のうるさいカボスから離れられ、ウンコの場所に決めた草むらに行くことができるか.....。
 そんな事を認知し、飼い主のTさん御夫妻が留守であっても、穏やかにリズムを刻んでいた。

 そして今日、起きてみると空には久しぶりの青があった。
 アレフ、カーラ、ノールの神奈川3匹組、そして我が家のアラル、オビ、さらにマロ親分を乗せて、私たちは野付の浜を目指して車を走らせた。
 
 マロの子がノールであり、その娘がアラル、そのまた息子がオビ.....。そう、4世代が揃っての初めてのピクニックである。
 日本広しとはいえ、サモエドの4世代が顔を合わせ、のどかに海で遊ぶ光景は、そう見られないだろう。私は、いや女房も、Tさん御夫妻もワクワクとした笑顔で、1ヶ月前に比べると野の花も、対抗する車も少なくなった道を灯台を目指して進行した。

 駐車場に車を停め、犬たちを長いリードに繋いだ。ここからは徒歩で原生の花園の中の砂利道を進む。すでにリンドウも花を落とし、ハマナスは真赤な実が目立っていた。その横に同じような赤だが小粒な実が数多くあった。

 「木イチゴが凄いですね.....」

 カメラマンのだいちゃんの声がした。今日の世代会議をカメラで記録してもらおうと、急きょ頼んでいた。だいちゃんの横には、事の成りゆきを確認、観察しようと、元気なチベタンスパニエルのペコー(隊長を自認している?)と、だいちゃん夫人のアッコ氏がいた。

 「少し黒みのあるのが美味しいね、どれ味見を....」

 私は数個を選んで口に入れた。懐かしい味が舌に広がった。道立公園ということで条例で禁止されてもいるが、このように道端に無数の実があることに、私は野付の豊かさを感じた。

 500メートルほどで海岸に出た。大きな玉石や小石が散在する砂浜である。強い北東の風が吹き付け、押し寄せる波がしぶきとなって陽光に輝いていた。
 我が家の3匹をリードから放した。オビが、アラルが駈け出した。マロは砂浜の際にある草むらの匂いを嗅いでいた。

 「アレフたちも、どうぞ放してみてください、来道記念に海遊びを....」

 そう言って私は、返事を待つ前に、アレフとノールの首輪からリードを外した。少し目の悪いノールだったが、波の音と風、そして水を感じたのだろう、跳ねながら波に向かった。アレフも、年齢と体重を感じさせない動きでノールに続いた。
 御主人の横について離れなかったカーラも、ラブラドールの血が騒いだのだろう、これまたジャンプをするように4本の足を上げ、白い波に向かった。

 潮は満ちているところだった。さらに強い風の影響もあったのだろう、10回に1回は、とてつもなく大きな波が打ち寄せて来た。
 犬たちと跳ねていた私は、見事に後ろからその波頭を受け、長靴に浸水しただけではなく、ズボンもパンツすらも濡らしてしまった。
 こうなれば覚悟は決まる、秋の光りに輝く北の海で、私も犬になり、連中と楽しんだ。

 オビは、波で遊ぶこと以上に面白いゲームを発見をしていた。ペコーの尾や首を狙ってくわえ遊ぶことだった。この『ターゲット遊び』は、兄弟のレヴンや、我が家のカボス、センと行っている闘いごっこだった。
 ペコーは、30キロのオビの突進を、歯をむき、声を上げて全身で拒絶していた。しかし、オビのしつこさは、このところの発情したメス犬への執着でも判るように、懲りずに、これでもか〜というところがある。
 とうとうペコーの身体は、オビのよだれと海水でずぶ濡れになってしまった。

 その間も、ノールたちは波にチャレンジしていた。カーラは、Tさんの投げる棒切れを海の中からくわえて来ていた。マロも名を呼べば、あいよ、と言う感じで水の中に入り、私のポケットから出て来るであろうジャーキーを期待していた。

 たっぷり濡れた後で、マロ、ノール、アラル、オビを揃えて記念写真を撮った。
 背景の国後島がくっきりと見える10月の始まりの日、私には忘れられない良き日となった。

 帰り道、埼玉からの修学旅行の高校生で賑わうレストハウスに寄り、遅い昼食をとった。地元名産のホッカイシマエビと大きなホタテが旨かった。車の中で待っていた犬たちは、ひたすら昼寝をしていた。