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何気ない日々の暮らし......積み重なって大きな変化が!

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2003年12月31日(水) 天気:曇り時々晴れ間 最高:−2℃ 最低:−17℃


 2003年の締めくくり、よく冷えました。

 昨日の日記を含め、後ほど記述します、申し訳ありません。



2003年12月30日(火) 天気:晴れのち時々大雪 最高:2℃ 最低:-5℃

打ち合わせ中


2003年12月29日(月) 天気:晴れのち曇り時々雨 最高:4℃ 最低:−14℃


 「オビ、だめだよ、降りて....。こらっ、オビ!!」

 私の声である。

 「レブン、おいで....帰るよ、レヴン、あっ、戻った....レヴ〜ン!!」

 Aさんの声である。

 場所は、我が家の庭から40メートルほど所にある車が2台停められる程度の広場、Aさんの愛車には真っ先に我が家のオビが乗り、続いてグワイが乗った。
 本来、乗って知床に帰らなければいけないレヴンは、一旦は車の近くまで行ったが、そろそろと庭の方に戻り、Aさんの声に、何度か逡巡を見せた後、一気に母親のアラルなどの入っているサークルの前に駈け戻った。

 私たちは大いに笑い、何となく嬉しくなった。

 柴犬のシグレの子犬たちが、兄弟のようにして育ち、今は知床で姉のレヴンと暮すグワイとプロレスごっこを楽しんでいた。やがてヒートアップ、1匹の柴っ子とグワイが庭のニワトコの木の所でガウガウとなった。

 「こら〜、もうヤメッ!!」
 
 私の声を聞く耳を持たず、鼻に強烈なシワを作り、ジャブのように口を相手の首や前足に当てていた。
 この声を聞いて、他の柴っ子も集まり、出血対決になるか....と思った瞬間だった、グワイの母であるアラルが登場、2匹の間に割って入り...、いや、明らかに柴っ子の首筋の上に口を置き、諌める行動を示した。グワイではなく、柴っ子にプレッシャーを掛けていた。

 騒動は終わり、再び子犬たちは仲良く遊び始めた。

 私たちは大いに笑い、何となく嬉しかった。

 オビ、レブン、アラレ、アレン、プラム、誕生して1年の日の出来事だった。



2003年12月28日(日) 天気:晴れ 最高:1℃ 最低:−14℃

 最近の事だが、浜中の動物王国では、夜になると母屋の前から犬の姿が消える。先日、加納さんが来られた時の会話で初めて知ったのだが、なんと全ての犬が、それぞれの可愛がっている人の部屋に入れられていた。
 少ない人間で4匹、多い仲間だと7〜9匹、子犬を入れるともっと数の増える人間もいる。それが広くても8畳の部屋で夜を過ごしている、ネコも同居しているとなると、これはもう、ある種の驚きである。

 30数年前に、この建物ができた頃、犬が中に入るのは、老いた子、ケガや病気の子、そして、私が酔った勢いで呼び込む程度だった。
 いつの間にか、新しい人間が加わるたびに、その数が増えて行き、とうとう元気いっぱいの子まで中に入れてもらえるようになっていた。
 それはそれで構わない。しかし、1年を通して足元がドロドロの時が多い王国である。犬の足が運んでくる汚れはすごい事になる。
 
 そんな事を気づかっていたが、仲間たちは面倒がらずに犬たちの足を洗い、せっせと居間に、そして個室に入れて、のんびりとくつろぐ犬たちを愛でている。
 従って、3.40匹の犬が暮す大きな犬小屋のような母屋だが、年月を経てのくたびれ感はあるが、破壊された様子は感じられない。何より、室内に入れてもらえた事での犬たちの穏やかな様子は、すべての人をほっとさせている。

 比して、我が家は、伝統を守り、ほとんどの犬が外の小屋を中心に暮している。これまた伝統的に、中に入れてもらえるのは、重い病気、それの経過観察、治療の時、もしくは私の酔った時だった。
 そうそう、もうひとつのケースがあった。玄関の育児箱が使われており、空いた場所がない時に、同時に出産を迎えた母子は、居間で過ごすことになる。

 今回は、サモエドのダーチャが玄関で、そしてレオンベルガーのベルクが、大きな身体で居間で育児をしている。
 これまでにも、何度かベルクは室内に入っている。最初は兵庫から生後3ヶ月でやって来た時、その後も、事あるごとに中にいたが、いずれも数時間の事であり、中で夜を越したことはない。

 出産をするために居間に入れられたベルク、最初は、14匹のネコたちの動きを気にしていた。しかし、これまでの生活でネコの何たるかは理解しており、自分にも子犬にも無害と判ると、当たり前の存在として認め始めた。
 人間の暮らしにも抵抗なく順応した。TVの音が大きかろうと、掃除機の奇妙なうなり声が聞こえようとも、慌てることなく子犬たちを腹に集め、穏やかな茶の瞳で様子を眺めている。

 そのベルクが、少し変わってきた。そう、室内のしくみ、環境の理解が進み、その中で甘えることを覚えた。
 先ず、人間の食事の時に、育児箱からいそいそと出て、お座りをして人を見つめる事を始めた。子犬にミルクを飲ませている身体である、おまけに子宮の修復に時間が掛かり、調子を崩していたこともある。
 私と女房は、つい美味しい肉や厚揚げ等をベルクに与えてしまう。3度も続くと、ベルクには当然の事となり、今では、必ず無言で見上げ、床によだれの海を作っている姿がある。

 これは、実は視力をほとんど失い、食欲が落ちていた老犬のメロンにも良い効果を与えた。ベルクの旨そうに食べる音、そして匂いに誘われ、同じ物を口にするようになった。
 今日も、夕食に出た、キングサーモンのステーキを、2匹は争うように口にした。そこにネコたちが加わり、人間5人と犬ネコたちのバトルのようになってしまった。
 
 このドタバタこそが、メロンの食欲中枢を刺激し、大きな口を開けさせたと思う。やはり、老いたるものは、手元に置き、絶えず刺激を与えてやることが大切だと、再認識している。



2003年12月27日(土) 天気:晴れ時々曇り 最高:2℃ 最低:−16℃


 冷えた朝の、犬たちの白く凍ったヒゲが好きだ。
 嗚呼、お前は外で、雪の上で寝ていたんだな〜と、その逞しさ、自然の仲間らしい姿に、ただただ笑顔である。

 残念ながらサモエドたちは、その白い姿ゆえに、ヒゲの氷は目立たない。比べて、黒い毛が顔に多いミックスのベコ、濃い茶毛のレオンベルガーたちは、見事なほどにヒゲの形が際立つ。

 今朝のベコは、ヒゲだけではなく、もちろん眉毛も口の周囲の短い感覚毛も、霧氷状態だった。私を見つけて喜び、クサリをいっぱいに伸ばして待ち受けるその足元に、少し茶に変色し、丸くへこんだ雪の穴があった。
 これは、ベコが寝ていた所である。10センチほどの数本の黒い毛、白い毛が張り付き、いくらかアイスバーンのようになっている。

 マイナス15度を超えて冷え込んだ長い夜、丸くした身体の腹部に鼻先を添える形で寝ていたのだろう。もし、キツネたちのように腹部の毛の中に鼻先を埋めていたなら、けしてヒゲが凍ることはない。
 これは、ベコの特徴かも知れない。彼女は我が家で1.2の見張り犬である。外界からの不審な音などを、いち早く察知するために、屋根の上に登り、大地の上で眠る。そのためにも鼻や耳などを隠すわけにはいかないのだろう。

 「ベコ、オハヨウ!いいこだね〜」

 声を掛け、ゆっくりと近づくと、ベコはワンと一声、そしてフサフサの尾を回転させて歓迎してくれた。
 私は軍手を外してベコを小屋につなぎ止めているクサリを外した。ナスカンを握った右手が金具に張り付き、ベコが駆け出し、振り返って私を誘っても、温もりで皮膚と金具が離れるまで、少しの時間が必要だった。

 昔、本当の昔、まだ中学生だった頃、マイナス30度に近い日、早朝練習でユーフォニウムのマウスピースに唇が張り付き、無理に剥がしたために皮膚が持って行かれ、出血をした事を思い出してしまった。



2003年12月26日(金) 天気:曇り時々晴れ間、そして雪も 最高:2℃ 最低:−5℃


 メロンの異常に気づいたのは、いつだったろう。たしか東京へ出張に出る前だったから、少なくとも1週間以上はたっている。
 
 最初は、やけにすり寄ってくるな....だった。
 私がソファに横になったり、床の上でヒラキになっていると、いつの間にかメロンが来て、腰を押すようにして私の身体に付け、時には全身を頭にかぶせてきた。

 「もう、わかったよ、メロン、はいっ、可愛いよ...」

 何とかメロンの身体を横にずらし、TV画面が見えるようにしていた。
 
 次に、『あれっ?』と思ったのは、女房の言葉だった。

 「メロン、なんでそんな所を行くの、ほらっ、滑るよ、あっ、落ちた....!」

 メロンはソファの上で丸くなって寝るのが、いつもの事だった。そこに私が来て言葉を出すと、目を覚まし、あわてて寄って来ようとした。これまでは、一旦床に降り、それから私の足元に来て尾を振っていた。
 それが、猪突猛進、何があろうとも一直線に、私の声の方に向って来たのである。ソファの隣に置いてあったテーブルの上を歩こうとして、足元が滑り、大きな音をたてて転がることが何度か続き、前述のような女房の言葉となった。

 東京から戻り、私がメロンの様子を聞こうとした時に、先に女房が言った。

 「メロン、目がよく見えていないと思う....」

 『やはり』という気持が私にはあった。嬉しそうに腰を押し付けているメロンの前に立ち、静かに手を左右に動かした。
 耳が動いた。しかし、瞳は、私の方を向いたまま、何の反応も示さなかった。

 「おい、見えないのか、メロン」

 大きな声とともに、メロンの頭に右手を置こうとした。その瞬間、メロンは、耳を後ろに退き、首を大きくすくめた。
 それは、殴られることを察知した時の犬の行動だった。

 「あっ、ごめん、ごめん、びっくりしたね....」

 もう一度、今度は穏やかに手を頭上に持って行った。メロンはゆっくりとその動きを目で追った。瞳がライトの直射光に向き、まるで穴のような瞳孔が確認できた。奥のほうは白くなっていた。

 「完全に見えないわけではないと思うけれど、急に悪くなったようね。だから不安で、人間の気配がすると、後を追って、何とかくっついていようとするみたい。ほらっ、今もそうでしょう」

 私が留守の間、女房は自分で観察していたことを説明してくれた。
 メロンは、私たちのやりとりに対して、盛んに耳を動かして反応していた。腰と尻は私の右足にピタリと付けられ、体重を掛けてきていた。

 今日、しばらく庭に出して、行動を観察した。
 先日までは、餌を食べた後、先ず舗装道路に出てから母屋への直線道路を進み、往復500メートルは散歩をしてくるのが常だった。
 しかし、目の異常が進んだ今は、絶えず人間の後を追い、声をかけられるのを待つ様子がうかがえた。試しに名前を呼ぶと、安心したかのように尾を振り、匂いを嗅いで小便をした。
 メロンは、小屋の周囲はもちろん、庭先にも大便はしない。まるで柴犬などの日本犬のように、ウンコは遠くでと矜持を守ってきた。
 この性格は、目が不自由になっても変えられないようで、そのうち、いつものように舗装道路を目指して進み始めた。
 もちろん、以前のようにスイスイとはいかない。絶えず足元の匂いを嗅ぎ、進む進路は左右にぶれていた。
 そのまま行くと、交通事故が怖かった。
 様子を見ていたキョウタくんが叫んだ。

 「メロ〜ン、メロン、おいで、こっちだよ!!」

 すぐにメロンは尾を立て、嬉しそうに駈け戻ってきた。昨夜の雪に足をとられていたが、それでも知っている人間の声は安心を与えてくれるのだろう、ひたすら駈けていた。

 1ヶ月前から、何度か発作も起こしている。しかし、まだ身体つきは元気そうである。老いがもたらす様々な変化を、しっかりと見つめ、工夫をしてメロンとともに暮していくつもりだ。



2003年12月25日(木) 天気:曇りのち雪 最高:0℃ 最低:−9℃

 
 犬たちの記憶についてよく考える。特別に記憶システムを進化させた人類は別として、生き物たちは、先ず『恐怖』を優先的に記憶することは解明されている。いわゆる天敵反応もこの分野に含まれており、一度、怖い目にあったものには、近づかないでおこう、もしくは先制攻撃を、という行動に結びついている。

 確認の実験をした事がある。我が家の犬にしては珍しく動物病院の苦手な子に、心拍計を取り付けて数値の変化を追ってみた。
 庭で車のドアを開け、おいでと誘うと、おそらく私と一緒のドライブ、そして楽しい遊びがあるだろうと、心拍は嬉しさで1分間に160に達した。
 車が動きだすと気分は落ち着き、100前後と、穏やかな数が示された。

 私は、その犬が2度ほど行ったことのある、そして注射をされた病院に向けた。1キロ手前、犬はキョロキョロし始めた。でも心拍に大きな変化はない。
 やがて車のフロントガラスを通して病院の建物が見えた。アクセルを緩め、スピードを落とした。
 その瞬間だった、デジタルで表示されている数値が一気に170に変わった。舌が出て、耳を倒し、後部座席でせわしなく動き、突然、動きを止めては窓越しに前方を凝視していた。
 病院の駐車場に車を停め、ドアを開放しても降りようとはせず、心拍はさらに増して180となっていた。

 今日、サモエドのアラル母さんを連れて、私は知床のAさん宅に向った。今年の春にレヴンと名付けられたメスの子犬が、そして、先日は、その弟でグワイが加わり、2匹の白い犬が国後島を目の前に見る丘の上で暮している。
 その様子をAさんのHPなどで見聞きするにつれ、母親とともに早く行きたいと願っていた。

 我が家から40分、いよいよ近づき、車は国道を離れてAさんの家に向う枝道に入った。
 その時である。アラルは座席の上に立ち上がり、前方を見据えて鳴いた。
 
 「ウ〜、ワンッ、ワンッ!!」

 心拍計は付けていなかったが、おそらく150は超えていただろう。そして、アラルの表情は、恐怖ではなく、明らかに喜びだった。

 これまでに2度ほど、アラルはAさんの家を訪れている。娘のレヴンと原野の散歩をともにしていた。でも、このような喜びの動作は見せなかった。

 訪問を2度重ねることにより、アラルの記憶中枢の中に、Aさんの家、そして人、犬、環境、出来事が焼き付いたのだろうか、これから1キロ先で起きる幸せを知っている動きだった。

 思いもかけぬ楽しい観察ができた私は、その後の親子3匹の再会、そして真っ白な雪原での遊びも、とても愉快で嬉しいものになった。
 レヴンは、絶えず弟の動きを確認しながら遊ぶ、まさに姉であり、弟のグワイは、久しぶりの母に甘え、そして、姉を頼っていた。



2003年12月24日(水) 天気:晴れのち薄い雲 最高:3℃ 最低:−9℃

 けして予感があったわけではないが、羽田からの飛行機で、今日は居眠りをしなかった。最近は離陸をする前に新聞を広げ、読み終わるとそのまま着陸の音がするまで目が醒めないことが多い。
 しかし、良く晴れたクリスマスイブの日の帰路、新聞も備え付けの雑誌を読んでも、なぜか瞼は閉じなかった。

 『あれっ?』と思ったのは、襟裳岬を左下に眺めながら進むのに気づいた時だった。
 そう、何十回と飛んでいる羽田と中標津を結ぶ航路、それがいつものコースではないのである。
 やがて十勝平野を海岸線から遠望する形で飛行機は進み、釧路の町までもが、私の座っている10Aの席から見下ろす形、進行方向に対して左側の眼下に見事に広がっていた。
 通常ならば町を右手に見て、釧路空港の真上を通過するはずだった。おかしいな、でも、このコースのほうが眺めは良い....などと考えながら白い大地と枯れた林を見ているうちに、飛行機は大平洋に別れを告げて内陸に向った。
 ここでも驚きがあった。なんと日本でもっとも広いと言われている自衛隊の演習場の真上を飛んで行ったのである。起伏のある広大な原野には戦車や装甲車が走り回っているであろう道が、縦横に印されていた。周囲の国有林と異なり、ある程度、樹木が切られているので、鳥瞰図として見ると際立ちが感じられた。

 そうこうしているうちに、中標津空港が近づいた。シートベルト着用のランプがつき、トイレは我慢しなさい(実際は、席を立ってはいけません...だが)とのアナウンスがあった。
 飛行機は知床へと続く山の方へ向い、空港を行き過ぎたところで右へ旋回した。ああ、今日は西か南の風なんだろう、それで根室海峡側からの進入になるのだろう、と思っていたところ、何とそのまま野付半島に向ってしまった。

 『あれっ?あれっ?』と思いながらも、雪のシーズンに初めて見る大地の光景に、私は目を奪われていた。
 ようやく尾岱沼(野付半島)の付け根の手前で、飛行機は右へ旋回し、ゆっくりと中標津の滑走路に滑り込んだ。
 随分と回り道をしたのだから時間が掛かったのではと、私は腕時計を確かめてみた、到着時刻は定時だった。

 これが機長のホスピタリティなのか、何かの都合なのか、その理由は判らない。でも、乗り合わせた客は、皆が喜び、眼下の光景に目を奪われていた。
 定員の3割程度の乗客だったので、機が軽過ぎて、いつものコースで飛ぶと、冬の追い風と相まって、あまりに早く着き過ぎる、とのことでの機転かも知れない.....。
 そんなことを考えながらも、私は心の中で、今日の便の機長に感謝をしていた。

 <今日の出会い>
 さすがに新宿である。西口発9時40分のリムジンバスに乗るまで、1匹の犬、ネコにも会えなかった。



2003年12月23日(火) 天気:快晴 最高:6℃ 最低:-6℃

出張中


2003年12月22日(月) 天気:曇り時々晴れ、雨、雪 最高:0℃ 最低:-12℃

出張中
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 葛西の駅から東西線に乗ったのは、もう11時を過ぎていた。幸いなことに都心へ向うコースである。向いのホームに停まった下り電車の窓から見える、押し合い状態の混雑はなく、乗客は、それぞれがひとり分のスペースを空けて長椅子に座っていた。

 私の向いには青年がいた。顔が少し赤い。大きなリュックを膝の上に置き、それに両手を持たれかけるようにして祈りのポーズを続けていた。
 いや、これは冗談である、祈りではない、合わされた両手が支えているのは、もちろん携帯電話である。かなり太い指だが、実に器用に、そして素早くメールを打ち込んでいる。

 その左隣(ひとり分を空けてである)には、白髪が目立つ男性がいた。新調して間もないと思われる薄手のビジネスバッグを、青年と同じように膝の上に置いてテーブルとし、これまた携帯電話を相手にしていた。男性は打ち込んでいる様子はない、どうやら着信メールを読んでいるか、それともネットに繋いで情報を得ているようだった。

 私の1メートル横には、明らかに勤め帰りの30代と思われる女性が座っていた。彼女は紀伊国屋のカバーがかかった単行本を開いていた。東陽町まで来た時に、開いた本の間には、まるで栞のように携帯電話が挟まれた。2個の指輪をした指が、しなやかに文字を打ち出しているようだった。

 その女性の斜向いには、私より前に乗車していたカップルがいた。年齢は10代の後半から20代の前半だろう。女の子は流行のブーツ、そしてこれもハヤリなのか、ブーツよりも3センチほど長いロングソックス(・・・でよいのだろうか?)で決めている。
 男はダボダボずぼんにボサボサ頭、どうみても私には『だらしない』としか思えない姿であり、洗濯を失敗して伸びたか、闘いを控えた曙に貸してしまったようなV襟のセーターを羽織っていた。
 この二人は、常にぴったりとくっ付き、仲は良さそうであり、『周囲は関係ない』....と肩を張っている雰囲気がありありとみてとれた。
 そして....である。
 二人は、ほとんど言葉を交わさなかった。代わりに、互いに携帯電話を膝の上であやつり、メールを送信している様子がうかがえた。それも、時々、肩をぶつけあったり、顔を見つめる様子から、隣同士での送受信らしかった。

 私の座った車内には、途中での乗り降りはあったものの、書き記した人以外に、常時7〜8人が乗っていた。その中で、高田馬場に着くまでに、1度も携帯電話を取り出さなかった客は3人だけだった。

 今回、宿泊している新宿のビジネスホテルには、それぞれの部屋にパソコンが設置されている。私は初めてブロードバンドのスピードを体験し、その心地よい速さに感激し、降参した。
 家にあるパソコンの環境は、光ファイバーどころかADSLもまだ届かない、静かにISDNに頼っている状態である。従って、画像の多いページはタバコに火をつけて待つ余裕があり、動画のダウンロードに至っては飯を食う時間ができる。
 大好きな写真のあるAさんのサイトをホテルで繋ぎ、すぐに現れる白い犬の姿に驚愕し、過去のものまで一気に見てしまった。それは温かい思いの連続した流れとなり、あらためて時間と命と心の紡ぎあいを感じた。

 IT革命と叫ばれたのは、2001年のことだったと思う。それが今、確実に普通の暮らしの中にしみ込んできている。下手をすると電車で短い時間を共有した人たちのように、自分の周囲は無機質的な存在であり、より『個』の中に埋没する怖さがある。
 一方で、Aさんの画像と文章のように、私たちの心を励まし、ほっとさせてくれると同時に、物を見て感じる心を育ててくれる糧になる可能性もある。
 
 『何を、どう利用していくのか』、文明の発達は、絶えず人間に問いかけを続けている気がしてならない。
 



2003年12月21日(日) 天気:快晴 最高:1℃ 最低:-10℃

出張中


2003年12月20日(土) 天気:吹雪のち雪、そして曇り 最高:0℃ 最低:−3℃


 居間の一角の大きな育児箱の中のベルク親子は、ずいぶんと落ち着いてきた。母親のベルクの体調も回復し、たっぷりミルクも出るのだろう、子犬もバラバラになって寝ていることが多くなった。
 それでも心配はある、特に、ベルクが寝返りや、水を飲みに箱の外に出て戻った時に、体重50キロの身体に子犬が下敷きになる可能性が....。

 夜の0時からは、私が見張り役をしている。いつもならば、TVを視たり、本を読んだり、PCに向ったり、まれに仕事をしたりと、『いつでも出動できます』体勢で待機している。
 昨夜も、気持ちは同じだった。しかし、懐かしい加納さんとの話にエネルギーを使ったのと、吹雪模様の中の運転、さらに、帰宅してから、1日の余韻を楽しみながらビールを飲んだのが効いたのか、いつの間にか居間の床の上でヒラキになっていた。

 「おとうさん、替わるから上で寝て、ほらっ....!」

 子犬の声に目を覚ました女房に起こされたのは4時頃だった。私は、寝ぼけた顔でカーテンの隙間から庭を眺めた。外灯に北風に舞う雪が映った。

 「吹雪だね、30分早く出るから7時に起こして....」

 王国に着いたのは9時20分だった。
 加納さんも到着し、外でのTV撮影が始まった。雪は強く弱く降り続き、北風が強くなっていた。
 その悪条件の中で、加納さんは、やはり熱いオトコだった。特に馬(乗馬)を語る時、瞳にはムツさんに通じる少年の輝きがあった。
 
 この情熱を秘めた瞳の多くの持ち主に(それは幼さの残る子から90を超えた方まで様々な年齢だが....)、何度となく出会う機会を持ってきた私は、実に幸運だと思う。
 そして同時に、何かを語る時には、何かを行う時には、自分も同じ輝きを、おおいに示したいと願っている。



2003年12月19日(金) 天気:雪 最高:1℃ 最低:-1℃

 「本当に、何年振りになるかしら〜」

 と言う、純子夫人を助手席に、その後ろの座席には女房を乗せて浜中に向った。
 
 「ずいぶんと平均年齢の高い車になりましたね〜、今日は....」

 「3人合わせると、160を超えているのよ、もう何ということでしょう....」

 「ヒロ子ちゃんが来た時は19だったのよね〜。いしかわクンはいくつだったっけ...?」

 「22です、女房の1年半後、ムツさんと純子おばちゃん、そしてアミちゃん、うちの女房がケンボッキ(島)から出て、王国を作った年の冬に加わりました」

 「もう30年以上も前になるんだ、ふたりとも...長い、いや、早いわね〜」

 「カノウさんが来たのは....?」

 「最初の取材で来られたのは49年です、昭和.....。その後、すぐに一家で引越してきて....」

 今日、この160ウン歳の車が、浜中の王国を目指していたのは理由があった。写真家の加納典明さんが、テレビの取材のために来国されるからだった。
 4年近い月日を、王国の仲間として過ごされた加納さんと、懐かしい話を繰り広げるには、古い人間が行く必要があった。

 昨夜からの雪は、北東の風を加え、横殴りになっていた。気温が高い為に地吹雪はないが、それでもタイヤが足を取られ、視界も悪く、思っていたよりも王国への到着が遅れた。
 しかし、もっと状況の悪かったのは加納さんだった。東京からの飛行機が遅れ、浜中に着いた時には、もう薄暗くなっていた。
 急きょ、ロケのスケジュールを変更し、外での撮影は明日に回し、加納さんは、かつて住んでいた家に向った。そこでは、現在、高橋一家が20を超える犬たちとともに暮している。昔と変わらない物、変わった物を前に、思い出話は尽きなかった。

 夕食は、本当に久しぶりの主賓を迎えての鍋パーティだった。『石狩鍋』『キムチ鍋』『タラちり』、そして、地元の海産物が刺身になり、テーブルの上は賑やかだった。
 もちろん、鍋の中身も地元である。カキ、ホッカイシマエビ(ケンボッキ島の前でとれた)、ホタテ、ホッキ、ホッケ、シャケ、スケトウダラが皆の胃に収まった。

 地元の友人氏も駆け付け、宴は賑やかに続いた。皆の口から、つい昨日のことのように、30年に近い昔の出来事が絶えることなく流れ出ていた。
 明日の再会を確認して加納さんを見送った後、雪は、その大きさを増し、しんしんと降って来た。160うん歳の車は、ライトを下げ、慎重に中標津への道を辿った。



2003年12月18日(木) 天気:雪時々曇り 最高:2℃ 最低:−3℃


 只今、打ち合わせから戻りました(11時50分)、日記は後ほどです!!



2003年12月17日(水) 天気:曇り 最高:−1℃ 最低:−12℃


 今日は月に1回の通院の日だった。
 午前9時40分、受け付け機にカードを入れた。
 午前10時45分、採血、採尿が終わり、検体は検査室に送られた。

 12時5分前、待ち合いスペースに置いてあるフラットTVは、中標津方面は夕方から雪になるかも知れないと伝えた。
 12時、ニュースは円が少し高くなり、平均株価は下がっていると伝えた。私の日常とは無縁....ではないだろうが切迫感はない、でも、何故か気になりいつも数字を確かめる癖がついていた。

 いつの間にか眠っていた。内科の受け付け嬢の大きな声で目が覚めた。時計は午後2時35分を示していた。無性にタバコを吸いたくなり、診察室の入り口に張り出されている、現在の受診者番号を確認し、1階の奥にある喫煙室に降りて行った。

 2本をゆっくりと煙にし、2階に戻り、再びTVの正面に腰を下ろした。番組は、北海道ローカルの内容に変わっていた。以前は全国放送の夜のニュース番組で、スポーツ、そして天気予報を伝えていた男女のアナウサーが、すっかり北海道の雰囲気になっていた。さすがにプロと感心しながら、片耳を受け付けに、残りをTVの音声に向けていた。

 午後3時25分、『イシカワトシアキさま〜!』との声が聞こえた。何度通っても、この『さま〜!』には慣れない、それどころか病院上層部(事務方)の品性を疑ってしまう。
 なぜ『さん』ではいけないのだろうか。横にならえ方式で広がるマニュアル方式の対応に、いつも吐き気がする。まあ、患者でなりたっているのだから『様』なのか知れないが、私はクソっと思う。

 そして午後4時20分、診察室の奥から『石川利昭さん』と呼ぶ先生の声が診察室前の第二待ち合いソファに届いた。
 
 お金を払い、薬を受け取って外に出ると、もうあたりは真っ暗になっていた。
 1日が終わった気持ちになり、脱力感で身体が重かった。



2003年12月16日(火) 天気:雪のち曇り 最高:3℃ 最低:−2℃

 浜中の王国に行った。
 長い点滴だけの栄養摂取の日々を乗り越え、今では普通食も口にすることができるようになった老犬のステは、私の姿を認めると、静かに横に立っていた。
 盛んに尾を振り、耳を倒しで自己主張をしているザッシーのように派手なことは一切しない。でも、なぜか強い視線を感じ、つい振り向いてしまう力がステにはあった。
 食欲を復活させるきっかけとなったジャーキーを、静かに待つステの口先に差し出した。棒状のもの、クッキー型のもの、キシメン状のもの....。ステは鼻を寄せて嗅いだ。しかし、口は開けず、視線を私に向けるだけだった。

 「最近は、波があって、同じ物を続けると食べないんです。何を口にするか、あげてみないと判りません...」
 
 横で見ていた上辻さんがそう言った。

 「おい、ステ、何でもいいから食べるんだぞ、元気が出ないぞ〜!」

 そう言い聞かせて、私は手をステの背に乗せた。3ヶ月前に比べると、少し骨のゴツゴツとした感触が薄らいでいた。嬉しい肉の復活だった。

 上辻さんに案内されて彼女の部屋に行った。奥の壁際に『ラ・フランセ』と大きく書かれたダンボールの箱があった。中から濃い茶の顔が覗いた。チベタンスパニエルのバニーだった。

 初めての出産から1日と少し、バニーはベテランの母犬の雰囲気さえ感じさせた。それほど5匹の子犬をしっかり腹に収めていた。

 「一人前に守ろうとするんですよ、私が子犬を抱くと、心配でくわえて戻そうとします....」

 実際に上辻さんは、2匹の子犬を手にとって示してくれた。涙を浮かべたバニーが、躊躇しながらも子犬に口を寄せて行った。

 「えらいな〜バニー、いい母親だ。どれ、おじさんにも見せてね」

 私は5匹を交互に掌に乗せ、色、身体の張りなどを調べた。2匹はバニーにそっくりな濃い茶になるだろう。2匹は明るい茶、そして残りの1匹は、その中間というところだろうか。いずれにしても腹はミルクでふくらみ、どの子も健康だった。

 「お母ちゃんは小さいけれど、子犬は平均で160グラム、王国の中では大きく生まれたほうです....」

 愛おし気に子犬を手にした上辻さんは、嬉しそうに言った。バニーを溺愛し、出産において事故があるのが恐いと、なかなか交配に踏み切れなかった彼女である。安産、そして順調な育児のスタートにほっとしている雰囲気が感じられた。

 ボーダーコリーのティアラの子犬たちは生後2ヶ月の元気盛りだった。4畳半の部屋が育児に使われており、そのドアは開けられ、廊下を歩く人を見るたびに脱出防止の柵に前足をかけて遊びの催促をしていた。
 驚いたことに、白と黒のバランスが5匹ともに素晴らしく、実に可愛いことだった。そして、1匹1匹の身体を触って確かめて、骨と肉つきも最高と感じた。

 「この子たちは、私の見て来たボーダーの子犬の中でも2重丸、最高だよ!」

 それを聞いたシンドウくんの顔が崩れ、目が細くなった。
 子犬たちは廊下に出され、たまたま通りかかったオスネコのピンクの尻を嗅いでいた。パグのタラコの子犬も出て来て、これまた互いに確認の仕草をしていた。
 ボーダーである、犬とともに楽しくスポーツを行うのなら、この5匹は期待を裏切らないだろう。

 朝まで降っていた細かな雪は止んでいたが、低い雲と北西の風で寒い日だった。日中から母屋の居間には、6、7匹の犬が入れられていた。
 彼らは大きな食器棚の前に敷かれた布団の上に集まり、犬には珍しいことだが、セントバーナードのボスを中心に犬ダンゴとなっていた。そう、互いの身体をつけて寝ていたのである。

 私はボスに声をかけた。反応はなかった。そこで右手の甲をボスの鼻先に静かに近づけた。
 甲が接触する寸前で、ボスの鼻が動いた。そして目を開け、私を確認すると、前に出していた足を抱え、上半身を起こした。

 「ボス、元気か〜!」

 ポケットから出した牛タンのジャーキーを、ボスはゆっくりと食べた。
 後ろに気配を感じて振り向くと、大勢のジャーキー欲しい犬に混ざって、静かにステが立っていた。ボスに与えたものと同じジャーキーを手で揉み、柔らかくしてステの口元に差し出した。
 ステはゆっくり噛み、そして飲み込んだ。老いて白に近づいた喉の毛の盛り上がり移動し、ジャーキーの行方を示していた。



2003年12月15日(月) 天気:晴れ時々雲 最高:8℃ 最低:−8℃


 おばんです。今日も打ち合わせでした。
 先に掲示板に行ってきます。



2003年12月14日(日) 天気:快晴 最高:7℃ 最低:−9℃


 2匹の子犬が旅立った。
 母親はアラル、父親はカザフ、両親ともに(これが普通だが.....)サモエドの白い子犬である。
 嬉しいことに、この2匹の新しい家族の皆さんは、生後100日を超える時まで、生家に子犬を置かせて下さった。地球上を見渡せば、特にペット文化の先進国では当たり前のことかも知れない。でも日本では極めて稀だと思う。

 生まれて3ヶ月半、母親をはじめとする大人の犬たちとの交流、学習。そして兄弟や、同じ頃に生まれていた柴の子犬たちとの転げ回り、抱き合って過ごした過程での、心と身体の成長....。
 私の目には、どれも楽しく、そしてなるほどと思わされた。
 
 「神奈川のTさん、知床のAさん、本当にありがとうございます。
 おかげさまで、生後2ヶ月以上で、胸を張って送り出している我が家生まれの子犬たちが、その後の1ヶ月で、どのような『心』を備えるのかが、よく判りました」
 
 そして、ともに先輩の犬がいる所への仲間入りである2匹が、群れ関係の構築に、我が家での経験を生かしていく過程が楽しみである。

 2匹の去った庭のサークルには、4匹の柴犬の子が残された。車が来るたびに、いつも以上に注目し、誰が降りてくるか、ひょっとすると白い仲間が....と思っているのがよくわかる。
 もちろん、母親のアラルは、車の窓に手をかけて中を確かめていた。

 「おまえのおかげで、また勉強になったよ、ありがとう....」

 私は、ポケットに忍ばせていたチーズを、そっと彼女の口元に差し出した。



2003年12月13日(土) 天気:曇り時々晴れ 最高:6℃ 最低:−4℃

 賑やかな1日だった。
 それは、明日への序曲、サークルで育ってきた、2匹のアラルの子犬が旅立つ前触れだった。
 今回のアラルの子犬は4匹。すでに先月、愛知県と千葉県に2匹が行っている。ともに元気だと連絡をいただき、私も女房もほっとしている。

 そして、生後3ヶ月、体重も15キロとなったオスっ子が、明日、神奈川県と知床に巣立って行く。
 すでに名前も決まっている。ブランは神奈川のTさんの家であり、実は母親のアラルの生家である。祖母になるノールをはじめ、3匹の犬たちに迎え入れてもらう。

 すでに40センチの積雪のある知床に行く子は、グワイと名が付いている。島の名前とピンと来た方もいるだろう。
 飼い主となるAさんは、

 「グワイのグアイが悪い...」

 と言われる事を、すでに覚悟していると告白されていた。それでもこだわって命名するところに、夫妻の人生に対する想いが存在する。
 
 Aさんの家には、1歳年上の、完璧に姉(両親が同じ)になるレヴンがいる。距離的に近いために、すでに何度も会い、そして遊び、一方的にグワイが転がされている今の関係が、犬が2匹だけの状況の中で、そして成長とともにどのように変化していくのか、とても興味深い。
 それは、ブランにも言えることだ。祖母、そして大きなオスのサモエドのアレフ、ラブのカーラたちと繰り広げる暮らしが、互いに何をもたらすのか、詳しく聞き続けていきたい。

 今日、午後から夜の9時過ぎまで、我が家の庭や居間では、明日からの2匹の抱き締め役となる2家族の皆さんが、付き添いの方とともに大きな声で前日祭りを繰り広げた。
 ともに駈け、大きな声で呼び、美味しい物を与え、そして群れの中での2匹の動きを目に焼き付けた。日中は気温が上がり、凍っていた地面が解けて泥だらけになり、けして白くはない子サモが、日暮れと競い合うように跳ねていた。
 それを笑顔で見つめ、私と女房は、無事に明日を迎えられる事に、これまたほっとしている。



2003年12月12日(金) 天気:晴れ 最高:4℃ 最低:マイナス13℃

 取急ぎ、今日の気象状況まで.......。
 これから、子犬たち.....え〜っと、大きい連中(アラルっ子、シグレっ子・・4組もいますので念のために)の餌、そして、ダーチャ、ベルクの育児中の2匹のトイレタイムです。
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 昨日から、我が家にひとりの青年が加わった。
 彼は、26歳という年齢のわりに、ムツさんの本をかなり読んでいる男で、突然に私も忘れている事柄が口から出て来て驚かされる。
 大学を出て、コンピューター関連の会社に勤めていた彼が、いかにムツさんの強烈な読者とはいえ、畑違いの分野に転身を希望し、このように研修に来る決断をするまでには、かなり悩み、考えたことだろう。

 しかし、私は、それを聞くつもりはまったくない。
 将来、それも、ごく近い時期の仲間として、いや、もうすでに仲間となっているのだが....、世代は異なれど、同じ熱い想いを抱く人間同士として、語り、生き物たちを見つめ、そして手を動かしていくだけだ。

 3年前のインパクの時から、彼は王国へのツアーやら仲間たちとの『クラブハウス』利用の旅で、何度も来てくれている。
 従って、我が家の犬たちの世話をしていても、

 「これがマロ、向こうはカザフ、似ているけど間違えないで....」

 などと、繰り返して教える必要がない。そう、完璧に頭に入っているので、つい、女房に頼むように指示をしてしまう。
 研修生の中には、1ヶ月滞在しても犬の名前を間違える子がいた。逆に、わずか3時間で覚えてしまった20歳の女性もいた。その子は私が話す時に、素早くメモをとり、空いた時間に犬たちを相手に名を呼んで確認していた。
 私が採用する側にいたなら、どちらを選ぶかは多くの方と同じだろう。もちろん名前を言える子である。

 この些細な事は、実は、生き物たちにはとても大切である。人間との絆を考える上で、私は『先ず名前ありき』と思っている。犬たちに心拍計を装着して調べたところ、自分の名前を呼ばれた瞬間に、その数値は跳ね上がり、尾は振られていた。犬たちは人間に認められる事を、最高の生き甲斐としている動物である。

 今、青年は居間でベルク親子を見守っている。ベルクは水を飲みに立ち上がり、再び腰を下ろした時などに、子犬が下敷きにならぬよう、確認をしなければならない。5時頃には、まだ暗く寒さ厳しい原野に、育児中のベルクとダーチャを散歩に出す仕事がある。
 
 友人との飲み会や麻雀以外での徹夜は、多分、久しぶりだろう。
 明日の朝、彼がどのような話をしてくれるか、密かに楽しみにしている。

 あっ、青年の名は『ノムラ キョウタ』....私のHPの掲示板では馴染みの名前である。



2003年12月11日(木) 天気:快晴 最高:2℃ 最低:-8℃

今、打ち合わせ中


2003年12月10日(水) 天気:晴れ時々雪 最高:-2℃ 最低:-9℃

出張中


2003年12月09日(火) 天気:曇りのち快晴 最高:-3℃ 最低:-8℃

出張中


2003年12月08日(月) 天気:快晴 最高:2℃ 最低:-11℃

出張中


2003年12月07日(日) 天気:晴れのち曇り時々雪 最高:3℃ 最低:-3℃

出張中


2003年12月06日(土) 天気:曇りのち雪のち雨 最高:3℃ 最低:−13℃

 待望の雪.....と思っているうちに、ああ、雨に変わってしまった。最悪のコンデション、車は40キロで慎重に流れている。
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 すみません、昨日、一昨日の詳しい日記がまだなうえに、今日(7日)から出張で留守となります。
 水曜日には戻ります(ベルク、それまで産まないでくれ〜!)、後日、必ず記載します。御容赦を〜!
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2003年12月05日(金) 天気:曇り時々晴れ 最高:−1℃ 最低:−11℃

 
 いよいよである。そう、今日は真冬日だった。湯を入れた犬たちの水おけも、1時間もすると表面に氷ができていた。
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 この後、打ち合わせがあります。出没は明け方でしょうか.....。



2003年12月04日(木) 天気:晴れ 最高:2℃ 最低:−6℃

 夜から明け方にかけては風が停まり、冷え込みがきつくなる。しかし、太陽の光りに呼び起こされたように北西の風が名乗りを上げ、上着の首から身体を締め付けてきた。
 日本海側のような吹雪ではないが、それでも寒い1日だった。

 『ゆかいの家』に滞在されているIさんが、我が家に来られた。一昨日、浜中での会っている。静かな雰囲気、そして絶えず笑顔の方で、ウイークディでもOKということは、大学生かな〜と思っていた。
 
 「えっ、違います、もっと歳です、結婚もしているんです....」
 
 Iさんは、やはり笑顔で否定され、この旅は会社の10年勤続の御褒美だと説明してくれた。確か20日間だったと思うが、好きなように使って良いリラックウ休暇だと....。

 その大切な時を、このような北の地に、それも御主人を留守番にして来て下さったことに、感謝をさせていただいた。笑顔で迎えた犬やネコたち、そして寒さの中での乗馬などが、Iさんの次へのエネルギーになってほしいと思った。

 母方の実家には牛や馬がいるというIさん、大都会の横浜で暮していても、生き物に対する思いと扱い方は実に見事だった。けして相手に負担やプレッシャーを掛けず、自然に受け入れられていた。これは天性の素質もあるが、やはり積極的な心があっての開花である。私は、ただただニコニコとして眺めていた。

 鳥が好きだというIさんに、女房はコッケイを居間に入れて紹介していた。ネコたちも自然な行動で受け入れているのにIさんは喜んでいた。最近では珍しい事になっつているかも知れない、このような光景は。でも、つい30年前までは、少し田舎に出たならば、けっこう目にすることができたと思う。
 そんなさりげない雑居を、今の子供たちに見せて、そして、その空間で遊ばせてやりたい....。
 Iさんと話をしながら、そんな事を考えていた。

 アブラを埋葬した。
 一緒にアラルとダーチャの死産の子犬も......。
 アブラ、死んでも忙しいかな。



2003年12月03日(水) 天気:曇り時々晴れ間 最高:3℃ 最低:−3℃

 Yさんの頬に一筋の涙があった。
 それに気づいた私は、2日間抑えていた熱いものが、胸にいっきにこみ上げ、それを気づかれまいと、目を合わせずに、いつも以上に大きな声で話しをした。
 
 同時に女房が、バスタオルの包みを両手で抱えて、動物用の台所から出て来た。

 「おとうさん.....これっ、いただいたの...」

 包みの上に花束が置かれていた。タオルの中の動かぬアブラにと、Yさんがわざわざ持ってきてくれた可愛いピンクのカーネーションだった。

 布をめくり、アブラの顔を見た。変わらぬ穏やかな表情をしていた。
 女房は、花束を一緒にくるみ、動かぬアブラを、長い間、アブラが自分の本拠地としてきた台所の、ベッドの色褪せた毛布の上に置いた。
 思い出のたくさん詰まった場所に2日間....そして、明日、アブラは土に還る。

 
 女房とYさんの会話で、思い出したことがあった。
 息を引き取る2日前、すでに歩くこともままならぬ状態だったアブラが、よろよろと勝手口まで進み、窪んだ瞳で女房を見上げたと言う。「外に行きたいの?」と女房が応え、抱えて庭に下ろしてやったところ、アブラは玄関の方向、そう、動物用の台所の方角を目指したらしい。
 そこで、女房は、さらに手助けをし、ヘアレス犬のカリンとアブラ2世が日なたぼっこをしている車庫に連れて行った。

 そこからは私も見ていた。
 牧草の上で、アブラは静かに自分で丸くなり、その横にアブラ2世が寄り添い、耳の後ろを舐めてやり、そして太陽の方向に並んで顔を向け、眠り始めた。

 風が出て来て寒く感じられるまで、アブラはそこに同じ姿勢で寝ていた。そしてアブラ2世も。

 アブラの体調が酷くなってからその日まで、勝手口で『出せ』と催促をした事はなかった。
 まるで、もう会えぬ事を知っていたかのように、慣れ親しんだ場所と、長くともに暮してきた弟分のアブラ2世に、挨拶に行ったように思えてくる。

 けして論理的ではない、でも、生き物と暮していると、このような説明不能の出来事にまま直面する。
 そしてそれは、『あの時、そう言えば...』と言うように、結果から見えてくることが多い。
 この素晴らしき不可思議は、どんなに文明が進化しようとも、それ以上に、とてつもなく大きな『命』の営みそのものの中から発現するのかも知れない。



2003年12月02日(火) 天気:曇り 最高:4℃ 最低:−3℃


 少し疲れました、一眠りをします。
 日記、遅れます、スミマセン!!



2003年12月01日(月) 天気:晴れ時々曇り 最高:6℃ 最低:−5℃

 今年も最後の月が始まりました。皆さん、お忙しいことと思います。健康には御留意のほどを......。
 
 本文は後ほどとなります。
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 上の文章を記してから6時間が過ぎた。
 手元に4缶のビールが空になっている。日が替わったあたりから、無性に飲みたくなり、少しも酔いが来ないのにも関わらず、胃袋に収めている。
 いつもならば、冷蔵庫から取り出すたびに、「それ2本目でしょう、もうやめたら...」....「病院が近いのに大丈夫...」などとの声が聞こえてくるのが我が家である。しかし、今夜は、女房も無言で見逃してくれている。

 0時2分、書斎に入っていた私の耳に、女房の声が聞こえた。

 「おとうさん.....〇〇〇〇〇....!」

 最初のオトウサンで私は判った、あとの言葉は覚えられなかった。
 アブラの死に顔は、実に穏やかだった。まだ身体は生きている時と変わらぬ温もりであり、痩せた胸部が動かぬ事だけが異なっていた。

 「痙攣も何もなく、深い呼吸の後、静かに......」

 ぱさつく毛を左手の指で撫でながら、女房の言葉は続いていた。私も同じようにアブラの全身を確かめた。女房の手がぶつかっても譲るものかと、ひたすら頭から腰へ手を動かした。

 『ゆかいの家(王国のクラブ組織の施設)』に宿泊し、王国生活を楽しまれるために来られた関西のTさんとMさんが、夕方、レンタカーで我が家に寄られた時、なぜか私は二人にアブラを見てもらいたくなった。
 
 おそらく、このホームページやメールを通して、アブラにエールを送って下さる全国の皆さんの顔が浮かんだのだろう。その代表として、病と闘っているアブラを励ましてもらいたかったことと、数多くの生き物と暮してきた経験から、アブラの一生が間もなく終わろうとしていることを心の奥で認識し、二人の優しい声と温もりをアブラにあげたかった、それも理由のような気がしている。

 そして、その温もりを励みにしてくれたかのように、アブラは最後まで見事に、ネコとしての矜持を持ち続けてくれた。
 足腰が不自由になり、這って移動する状態になっても、彼女はネコ用の砂タライを目指した。気づいた私や女房が手助けをしてやると、満足そうに点滴液の臭いのする小便をした。
 水が欲しくなった時も、必ず水おけに向って移動していた。今朝からは、途中で疲れ、しばらく伏せて休んだ後、再び這っていた。

 死因は重篤な肺炎である。
 素晴らしい人間(私にとっては...である。捨ててくれたのだから、こんな素晴らしいネコを!!)の手によって、アブラは捨てネコとなり、縁あって我が家に来た。
 弟分のアブラ2世とともに、150匹を超える我が家生まれの子犬たちを見守り、さらに積極的に教育係を担当し、ネコの何たるかを子犬たちに教えてくれた。
 これだけでも表彰ものである。さらに、外の建物を中心に、いわゆるネコの行動学を、私に教えてくれた。
 彼女の動き、姿によって、私は何枚も目からウロコを剥ぎ落とした。

 キーボードとモニターを交互に見ながら、こうして日記を書いていても、様々なアブラの姿が目の前に浮かんでくる。ひょっとすると4缶の効果が出ているのかも知れない。
 そうならば、もっと多くを望み、さらに1缶、開けることにしよう。

 『ありがとう、アブラ!!』