中標津こどもクリニックブログ

とっておきの音楽祭

6月1日は仙台市内で開催された「とっておきの音楽祭」に参加をしてきました。
とっておきの音楽祭は、「みんなちがって、みんないい」という金子みすゞの一節を基本姿勢として、

障害のある人もない人も一緒に音楽を楽しみ、音楽のチカラで、「心のバリアフリー」を目指す音楽祭

を謳っています。
音楽祭という形式をとっていますが、音楽のイベントというわけではなく音楽を通じての、意識作り、まち作り、社会作り、を目的をしたイベントです。

若い頃から人類遺伝学(染色体異常などの遺伝子レベルの疾患などを研究する分野)の研鑽をする過程で、生まれながらに障害を持つ子ども達と数多く接してきた鹿児島県内で開業をしている同業者の男が、この音楽祭の理念に深く感銘を受けて3年前にとっておきの音楽祭をご自身の町でも開きました。
その時から「出演してくれ」と頼まれて、彼と私と、東日本大震災の後に一緒に三陸沿岸の町で子どもの遊びのキャラバン隊を構成していた岩手県職員の女性とで、彼女が作詞した歌や朗読を中心にしたステージをしています。
私がギターと歌、彼がバイオリン、聴覚に障害を持つ彼女が手話、という構成です。

14年の歴史を持つ本家の仙台には3回目の参加ですが、町のあちこちにに30箇所のステージがあり、街中を少し歩くと音楽が流れてきてビルの谷間に歌声が響きます。
街全体が音楽とあたたかい思いに包まれてとてもいい雰囲気です
人作り地域づくりというものは極めて抽象的であり難しいものです。
そこに一見関係の無いとも思えるような方法論を持つ込むことによって、その営みが具体性を帯び効果を挙げるものだと改めて感じました。


お伊勢参り

先月、期せずして三種の神器の内の二つが祀ってある場所を訪れた勢いで、鹿児島でゴキブリを退治した帰りにお伊勢参りをしてきました。

昨年に式年遷宮を迎えた、日頃世間では「伊勢神宮」と呼ばれている神社の正式名称は、「神宮」です。
それは、神社の中の神社、神社の総本山、NO1神社、唯一無二のThe神社、という意味で、ちょうどゴルフの数あるオープン選手権(プロアマを問わず、全ての人に開かれた大会)の内、一番歴史のある全英オープン選手権の正式名称が「The Open Championship」であるのと同じような意味合いです。

その起こりは、歴代天皇が常にそばに置くようにとされていた三種の神器を第十代崇神天皇が、政治という穢れ(けがれ)を行なう場所に置くことは好ましくないとして皇居より移し、その後ふさわしき場所を探させ垂仁天皇の御世に伊勢の五十鈴川のほとりに天照大御神(あまてらすおおみかみ)が神霊を込めたとされる八咫鏡(やたのかがみ)を御神体としてお祀りしたことに始まっています。
今から2000年も前のことです。
皇室の氏神である天照大御神を祀る神宮はかつては天皇以外はお参りする事ができませんでしたが、その後は日本全体の鎮守として位置づけられ、江戸時代には日本の総人口の1割を超える人々が訪れる年もあり、江戸からだと片道15日かけても「一生に一度はお参りしたい」と誰もが思う信仰の対象でした。
昨年は、新しい本殿を作って御神体を移動させる20年に一度の式年遷宮で注目されましたが、実は遷宮の翌年を「おかげ年」といって特別に御利益がある年とされています。

そんな神宮に前回の式年遷宮依頼20年ぶりにお参りをしてきましたが、神聖な御神体を祀るにふさわしい、水と緑に囲まれた境内は神々しく張り詰めた空気に満たされていて、私たち日本人にとって共通の大切な場所であることを改めて感じました。

これで日頃の穢れが少しは洗い清められたかもしれません。


ゴキブリ

こう見えても湘南育ちの私は、子どものころからゴキブリと戦い続けてきました。
北海道に移住してからは家の中で出くわすことはなくなり、きわめて心安らかに暮らしています。
逆の言い方をすれば彼らが私たちに及ぼす有形無形(姿が見えても、見えなくても)のストレスには計り知れないものがあります。
そんなゴキブリに久しぶりに遭遇しました。

幸いなことに自分と同じように地域密着型の小児科の開業医仲間が全国に沢山いて有難い事にかまってもらっているのですが、そんな中で鹿児島県鹿屋市(桜島の右下側の半島にある)の仲間が市を巻き込んで毎年開催している、「障害のある人も無い人も、みんなでバリアフリーな社会を築きましょう!」みたいな趣旨で10年ちょっと前に宮城県仙台市で始まった「とっておきの音楽祭」の鹿屋市版に今年も呼ばれて出演してきました。
地元のアマチュアミュージシャン、中学のブラスバンド、養護学校のアンサンブルなどに混じってステージに立ち、音楽祭は無事に終了し、会場の親水広場で打ち上げを行い、夜は暮れてゆきました。
その後、実行委員会の屋台骨を支えた方たちと昭和の雰囲気が漂う飲み屋街を歩いてスナックで二次会となりました。
その店にいたのです。
奴は・・・

宴もたけなわとなった頃に、なにやら横に並んでいる女子達が騒がしい。
ふと気がつくと左腕に怪しげな感触が・・・
思わず振り払うと5cm強のゴキブリがイスの上を走っている。
どうやら横にいたお姉さん達のくび元をかすめて、私の左腕に移動してきたようである。
その後の足取りはなぜかスナックにありがちな一本足のテーブルの裏に移動してそこで息を殺して気配を消そうとしている。
しかし、黄色い島ぞうりを手に持った私は果敢にアタック!一撃で仕留めて大喝采を浴びました。

最後にゴキブリと顔を合わせたのは沖縄に行った5年前、B級ホテルに一人で泊まっていた時だったので「別に、食われはしまい」と、そのままやり過ごした
今回はなんとかやっつけないと女子達がおさまらないであろうと対決の必要性を自覚して立ち上がりましたが、この手で仕留めたのは北海道に移住する前の12年前以来、久々の対決に燃えた


三種の神器

この週末は名古屋市にある国際会議場で日本小児科学会年次集会があり、時代の流れから取り残されぬよう勉強をしてきました。
そろそろ帰ろうかと思っていた最終日のお昼前に、大学病院時代同期入社の准教授(昔でいう助教授)の男から、「熱田神宮に行かない?」と誘われました。
彼は全ての大河ドラマをしっかりと観賞し続ける歴史マニアなのですが周囲に同好の志はおらず、学会などで地方を訪れた時には気になる名所旧跡ツアーに古くからのなかよしで断らない私を誘ってきます。
熱田神宮は学会会場から徒歩15分ほどの所にあり、付き合っても大きな負担にはならないと思って同行しました。
熱田神宮を訪れるのは小学校1年生の時に祖父に連れられて生まれて初めて新幹線に乗った時以来45年ぶりです。

熱田神宮の起源は西暦113年にさかのぼり、日本武尊(ヤマトタケル)が東国平定の帰路に尾張で宮簀媛命(ミヤズヒメ)と結婚し、草薙剣(くさなぎのつるぎ)を妃の手許へ留め置いた後にとなりの伊勢の国で亡くなると、宮簀媛命は熱田に社地を定めて剣を奉斎鎮守したのが始まりとされています。
そのために「三種の神器」のうち草薙剣は熱田に置かれているとされていて、昨年式年遷宮の折に伊勢神宮に祀られている八咫鏡(やたのかがみ)の他の神器すなはち八尺瓊曲玉(やさかにのまがたま)と草薙剣(皇居にある形代、レプリカではなくって分身のような存在)、の宝物を携えて新幹線で今上天皇が私的に参拝された伊勢神宮の次に権威ある神社と位置づけられています。

あまり詳しくない方のために、「三種の神器」についてですが、日本における神様中の神様である天照大御神(アマテラスオオミカミ)が、その孫にあたる邇邇藝命(ニニギノミコト)を高天原(たかまがはら・天上界)と黄泉の国(よみのくに・地中にある)の間に位置する葦原中国(あしはらのなかつくに・地上の人間が住む世界)をおさめるために遣わした(天孫降臨)の際に、携えてきたのが三種の神器であり、以後歴代天皇と共に継承されその正統性と権威を象徴するものです。
南北朝時代など三種の神器の継承を伴わない即位があったり、平家滅亡の折に安徳天皇と共に水没し草薙剣だけが回収されなかったり(その後、熱田神宮によって、次の形代が定められたようです)はっきりしない部分もあるようですが、世界中どこを見ても存在しない、諸外国からも尊敬を集める2600年の長きにわたる天皇家の存続を根拠付ける宝物であることには間違いはありません。

神話の世界に出てくるものが、平成の世の中に伝えられて実存しているというのは何だか不思議な感じがしますが、我が国が世界に誇る宝物を身近に感じて、改めて「私達が暮らす日本とは、どんな国であろうか?」という事が気になると共に、いろいろなことに対して「日本人として、どう考えどう振舞うべきか?」という事を問われているように感じます。
近年「外国語をしゃべれても、それだけでは『国際人』たり得ない。自国の文化・歴史に精通して、しっかりとしたその礎の上で諸外国の民と交わるのが真の『国際人』である。」と言われています。
別にみんなが国際人になる必要はありませんが、せめて自国の文化歴史の根幹は押さえておきたいものです。


皇居

先週の土曜日に大学院生時代から世話になっていた教授の退官記念パーティーがあり、横浜に行ってきました。
パーティーは夕方からだったので、前日のニュースで流れていた
皇居の坂下門から乾門までのお濠沿いの桜並木が特別に開放されました。
という情報をつかんで、「パーティーの前に行ってこよう」と、野次馬根性丸出しで電車に乗り込みました。
「天皇陛下に対して失礼があってはならない。」と、いつもの半ズボンではなく革靴、長ズボン、そしてブレザーという「よそ行きフル装備」の「七五三状態」で乗り込みました。
開門予定の午前10時(実際にはあまりの人手に予定を早めて9時半に開門したそうです。)を一時間少々回った午前11時過ぎに東京駅に着いたのですが、駅の中でアナウンスが流れており「おうっ、親切に案内をしているな?」と思ったのですが、よくよく聴くと「今から並ばれても、閉門時間を過ぎると思われます。」と、事実上の満員札止め宣言・・・
自分と同じようにニュースを見て思い立つ輩が多数いることは想定していたのですが、予想以上の人出に見込みの甘かった自分を悔いながらもすぐに気分を取り直して、「行ける所まで行って、皇居を近くから見てみよう!」と、外堀通り、内堀通りを過ぎて、皇居外苑と呼ばれるところまで来ました。
ここから先はパイロンなどで規制がされており、車の上のお立ち台でDJポリスも元気にお仕事してました。
そこまで来て納得して、「あとはお濠沿いに皇居の外側を一周しよう」と思って反時計回りに歩き始めました。
しばらく歩くと大手門の交差点があり「そうだよな、大手門があるから大手町なんだよなぁ」などと思って眺めていると、お堀(正確には桔梗濠・キキョウボリといいます)に架かる橋を渡って多くの人の列が大手門に吸い込まれて行きます。
今日の今日まで「お堀の内側には民間人は入れない」と思い込んでいた私は「今日は特別なのかな?」くらいに思っていたのですが、入ってみるとしっかり公園として整備がしてあり、「あれっ、お堀の中って入れるんだ」という事に気がつき、次の瞬間「どこまで行けるのだろう?」と思って歩き始めました。よくよく考えると、かの日本武道館も北の丸にあるのだから、そうとは知らずにお堀の内側には入っていたのですが、なんだかとっても新鮮な気持ちで歩みを進めました。三の丸から入って、二の丸、さらに本丸まで一気に攻め込み、あっさり天守台(江戸時代の初期以降は天守閣はなかった)を制圧しました。当然のことながら周囲よりも高いところにあるので見晴らしもよく桜の花を遠くから眺めることができました。その後北の丸に抜けて桜の名所千鳥がヶ淵を歩いて戻ってきました。
今まで「皇居=江戸城」だと思っていたのですが、御所などがある「皇居」とは江戸城のうちの一部であり、それも天守閣やかつて大奥や松の廊下などがあった本丸御殿があった場所ではなく、江戸城を作った太田道灌の名前がついた道灌濠の西側にある一番はずれの地域です。
旧江戸城の半分以上は公園として整備されて自由に観光することができます
しかも入場無料です。
ニューヨークのセントラルパークには及びませんが、都会のど真ん中にこんな大きな公園があるというのは驚きに値します。
東京駅からまっすぐ行けばすぐにつきますので、お江戸に行く機会がありましたら是非お立ち寄りください。
日本人なら一度は訪れたい場所であります。


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